日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 421

2020年9月23日

神の前に来て神の言葉を自分のいのちとして受け入れるには、まず神の前で静まらなければならない。神の前で静まっている時にのみ、神はあなたを啓いて理解させる。神の前で静まれば静まるほど、人は神の啓きと照らしをより一層得ることができる。これらのことには、敬虔さと信仰をもつことが要求される。このようにしてのみ人間は完全になることができる。霊的生活に入るための基本的な訓練は、神の前で静まることである。あなたの霊的訓練はどれも、あなたが神の前で静まっている時にのみ効果的なものとなるだろう。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊の働きを受けることはできない。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前で静まっているなら、あなたは神の前で生きる者である。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前で静まり、神に近づいているなら、それはあなたが神の前で静まる者だという証拠である。他人と話をしているとき、また歩いているときに「私の心は神に近づいており、外部の物事にとらわれてない。そして私は神の前で静まっていることができる」と言うことができる。それが神の前で静まっている者である。あなたの心を外に引きつける物事と接触してはならない。また、あなたの心を神から引き離し得る人たちと接してはならない。あなたの心が神に近づくのを邪魔し得る物事は、それが何であれすべて捨てるか近づかないようにしなさい。そのほうがあなたのいのちにとってより有益である。今は聖霊による大いなる働きの時である。神が自ら人々を完全にしている時である。今この瞬間に神の前で静まることができなければ、あなたは神の玉座の前に立ち返る者ではない。神以外の物事を追求するのであれば、神によって完全にされる可能性は一切ない。今日、神の発するこのような言葉を聞くことができながら、神の前で静まることができない者たちは、真理を愛さない人、神を愛さない人である。今自分を神に捧げないのであれば、いったいいつ捧げるのか。自分を神に捧げることは、神の前で心を静めることである。これが真の捧げ物である。今本当に神に心を捧げる者は誰であれ、神によって完全にされることが間違いなく可能である。何であれ、あなたを煩わせる物事は一切ない。あなたに対する刈り込みであれ、取り扱いであれ、またあなたが挫折や失敗に直面しようとも、あなたの心は常に神の前で静まっているべきである。人が自分をどう扱おうと、あなたの心は神の前で静まっているべきである。逆境、苦難、迫害など、どのような状況に直面しようと、また様々な試練があなたに降りかかろうと、あなたの心は常に神の前で静まっているべきである。これが完全にされる道である。あなたが本当に神の前で静まっている時にのみ、あなたにとって神の現在の言葉が明瞭になる。そうして聖霊の啓きと照らしを逸脱せずに一層正しく実践でき、神の意図をますます明確に把握し、自分の奉仕において一層明瞭な方向性をもち、聖霊による感動と導きをもっと正確に把握でき、聖霊の導きの下で生きることが保証される。これらが神の前で真に静まることで達成される成果である。人々が神の言葉を明瞭に理解しておらず、実践する道をもたず、神の意図を把握できなければ、あるいは実践における原則を欠いているのであれば、それはその人の心が神の前で静まっていないからである。神の前で静まることの目的は、真剣かつ実践的になり、神の言葉の正確さと明瞭さを探求し、最終的に真理の理解と神の認識に至ることである。

自分の心が神の前で絶えず静まっていないのであれば、神はあなたを完全にすることができない。ある人に意志がなければ、それは心がないことと同じであり、心のない人は神の前で静まることができない。そのような人は、神がどれほど多くの働きを行なうのかも、どれほど多くのことを語るのかも知らず、またそれらを実践する方法も知らない。こうした者は心のない人間ではなかろうか。心のない人間が神の前で静まれるだろうか。神は心のない人間を完全にすることができない。そのような者は獣に属する。神は極めて明確かつ徹底して言葉を語ったが、あなたの心は依然として感動せず、あなたは神の前で静まることができない。これでは動物と同じではないか。神の前で静まることを実践する中で、迷ってしまう人もいる。彼らは料理すべき時に料理せず、働くべき時に働かず、ひたすら祈り、瞑想する。神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのではなく、あらゆる正常な状態において神の前で自分の心を静められること、および心の中に神の居場所をもてることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか賛美歌を歌うかしなさい。どのような環境に置かれようと、あなたには実践の道がある。あらゆる手を尽くして神に近づき、神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近づきなさい。神の言葉を飲み食いすることができる時は、神の言葉を飲み食いしなさい。祈ることができる時は祈りなさい。神について黙想することができる時は、神について黙想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして入りの訓練をしなさい。何もない時には神の前で静まれるが、何かが起きるとすぐさま心がそれを追いかける人もいる。それは神の前で静まることではない。経験すべき正しい方法とは、いかなる場合も自分の心が神から離れず、外部の人や出来事、物事に煩わされないことである。神の前で静まっている人とは、このような人のことである。集会で祈っている時は、自分の心を神の前で静めることができるものの、交わりの時になると、神の前で心を静められず、考えが乱れる人もいる。それは神の前で静まるということではない。ほとんどの人が現在こうした状態にあり、彼らの心は神の前で常に静まることができない。したがって、あなたがたは、この分野の訓練に一層努め、いのちの経験の正しい軌道に一歩一歩入り、神によって完全にされる道を歩む必要がある。

『神の出現と働き』「神の前で心を静めることについて」(『言葉』第1巻)より

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