日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 439

2020年9月27日

揺るぎなく証しするということは何を意味するのか。中には今のように付き従っていくだけで、いのちを得られるかどうかは考えていないと言う者もいる。彼らはいのちを追い求めていないが、後戻りすることもなく、この段階の働きが神によって行なわれていることだけを認めている。これは証しに失敗したということではないだろうか。こうした人々は征服されたことすら証ししない。征服された者は、他人がどうするかとは無関係に付き従い、いのちを追求することができる。そうした人は実際の神を信じているだけでなく、神による采配のすべてに従うことも知っている。それが証しをする人というものだ。証しをしない者はまったくいのちを追求したことがなく、いまだでたらめに付き従っている。あなたは付き従っているかもしれないが、それは征服されたことを意味しない。神の現在の働きについて何も理解していないからである。征服されるには一定の条件を満たす必要があり、付き従うすべての者が征服されるわけではない。なぜならあなたは心の中で、なぜ現在の神に付き従わねばならないのかをまったく理解しておらず、また自分が現在までどのようにやってきたのか、現在まで自分を支えてきたのは誰なのかも知らないからだ。中には神への信仰の実践において、常にでたらめで混乱している人がいる。ゆえに、付き従うことは必ずしも証しができるという意味ではない。真の証しとはいったい何か。ここで言う証しには二つの部分があり、一つは征服されたことの証しで、もう一つは完全にされたことの証し(それは必然的に、将来のより大きな試練と苦難の後に行なわれる証しとなる)である。つまり苦難や試練の時に揺るぎなく立つことができれば、それで第二段階の証しをしたことになるのだ。現在重要なのは証しの第一段階であり、すなわち刑罰と裁きの試練の一つひとつにおいて揺るぎなく立てるということだ。それが、征服されたことの証しである。なぜなら今は征服の時だからだ(今は神の地上における働きの時であることを知らねばならない。受肉した神の地上におけるおもな働きは、裁きと刑罰を通じて、神に付き従う地上のこの集団を征服することなのだ)。征服されたことを証しできるかどうかは、あなたが最後まで付き従えるかどうかだけでなく、より重要な条件として、神の働きの各段階を経験する中で神の刑罰と裁きを真に理解できるかどうか、そしてこの働きのすべてを真に把握しているかどうかにかかっている。ただ最後まで付き従えば、すり抜けてしまえるというわけではない。あらゆる刑罰と裁きに自ら進んで身を委ね、経験した働きの各段階を真に理解し、神の性質に関する認識を得て、それに服従することができなければならないのだ。それが征服されたことの究極の証しであり、あなたに要求されていることである。征服されたことの証しというのは、おもに神の受肉に関する認識を意味する。重要なのは、証しのこの段階は神の受肉に対するものだということである。あなたがこの世の人々や権力者の前で何をするか、何を言うかは問題ではない。何よりも問題なのは、神の口から出た言葉と神の働きのすべてに従うことができるかどうかである。したがって証しのこの段階は、サタンと神の敵すべてを対象としている。つまり、神が二度目の受肉を行なって一層偉大な働きを行なうために到来することを信じず、さらに神の再受肉という事実を信じない、すべての悪魔と敵たちのことである。言い換えれば、それはすべての反キリスト、すなわち神の受肉を信じないすべての敵を対象としているのだ。

神を思い待ち望んでいるということが、神に征服されたことの証明にはならない。征服されたかどうかは、神が肉となった言葉であることを信じるかどうか、言葉が受肉したことを信じるかどうか、そして霊が言葉となり、言葉が肉において現われたことを信じるかどうかによって決まる。これがもっとも重要な証しである。どのように付き従うか、どのように自分を費やすかは問題ではない。不可欠なのは、言葉が受肉したこと、真理の御霊が肉において具現化したこと、すなわちすべての真理と道といのちが肉において到来し、神の霊が真に地上に現われ、霊が肉において到来したことを、この普通の人間性から見出せるかどうかである。表面的に見れば、それは聖霊による受胎とは異なるように思われるが、この働きから、霊がすでに肉において具現化したこと、さらに言葉が受肉し、言葉が肉において現われたことをより明確に見てとれる。ここから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言葉の真意を理解できる。さらにあなたは、今日の言葉が神であることを理解し、言葉が受肉するのを目の当たりにしなければならない。それがあなたになし得る最高の証しである。それは受肉した神についてあなたが真の認識を有していることの証明であり、あなたは神を知ることができるだけでなく、今日自分が歩んでいる道がいのちの道であり、真理の道であることを認識しているのだ。イエスが行なった働きの段階は、「言は神と共にあった」という言葉の内容を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である。この段階の働きはまさに「言葉が受肉した」という表現の内なる意味を実現し、「言は神と共にあった。言は神であった」という表現に一層深い意味を添えたのであり、「初めに言があった」という言葉を堅く信じさせるものである。つまり、神は創造の時に言葉をもっており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分だった。そして最後の時代、神は自身の言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにする。すなわち、神のすべての言葉を聞けるようにするのだ。それが最後の時代の働きである。あなたはこうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知るという問題ではなく、肉と言葉をいかに理解するかという問題なのだ。これがあなたの行なわねばならない証しであり、すべての人が知らなければいけないことである。それは二度目の受肉の働きであり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、神の肉におけるすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ。それゆえ、あなたは受肉の意味を理解しなくてはならない。問題はあなたがどのくらい奔走するか、他の外的な物事をどのくらいうまく行なうかではなく、受肉した神に真に服従して自分の存在のすべてを神に捧げ、神の口から発せられる言葉のすべてに従うことができるかどうかである。これがあなたのすべきことであり、守るべきことなのだ。

証しの最終段階は、あなたが完全にされることができるかどうかの証しである。つまり、受肉した神が語った言葉をすべて理解したうえで、神に関する認識を備えて神について確信をもち、神が語ったすべての言葉を生き、神が要求する条件を満たすことだ。その条件とはペテロの生き方とヨブの信仰を身につけることであり、死に至るまで神に従い、自分のすべてを神に捧げ、最終的には基準を満たす人間像、つまり神の刑罰と裁きを経験した後、征服され完全にされた者の人間像に到達するということなのだ。これが最終的な証しであり、最終的に完全にされた人間が行なうべき証しである。これらはあなたが行なうべき証しの二つの段階であり、この二つの段階は相互に関連していて、いずれも不可欠なものだ。しかし知っておかなければならないことが一つある。それは、現在わたしがあなたに要求している証しは、この世の人々や特定の個人に向けられるのではなく、わたしがあなたに求めるものに向けられるということだ。それはあなたがわたしを満足させられるかどうか、わたしがあなたがた各人に要求する基準を完全に満たせるかどうかによって測られる。このことを、あなたがたは理解しなければならない。

『神の出現と働き』「実践(4)」(『言葉』第1巻)より

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