日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 461

2020年9月2日

今日、多くの人は、他の人々と協調していくにあたり学ぶべき教訓は何であるかということに注意を払っていない。わたしはあなたがたの多くが、他の人々と協調していく上で何の教訓も学ぶことができず、大半の人は自分の意見に固執していることに気づいた。教会で働くとき、あなたは自分の意見を言い、他の人はその人の意見を言い、それぞれが他人と何の関わりも持たず、実際には何の協力も行われていない。あなたがたは皆、ただ自分の見識を伝えたり、自分の内に抱えている「負担」を解消したりすることにあまりにも夢中で、いのちを追求することは少しも行っていない。ただおざなりに仕事をし、他の誰が何を言おうと何をしようと、自分は自分の道を歩まねばならないと常に信じているようだ。他の人々の状況がどうであろうと、自分はただ聖霊の導かれるままに人と交わるべきだと考えている。他の人々の長所を見つけることはできず、自分自身をよく観察することもできない。あなたがたは物事を受け容れるということにおいて、実に常軌を逸しており、誤っている。あなたがたはいまだに多くの独善性を示していると言える。まるで、あの昔の病に逆戻りしたかのように。あなたがたは完全に心を開けるようなやり方で互いに話し合わない。たとえば特定の教会での仕事においてどのような成果が得られたかや、自分の最近の内的状態、その他諸々の事柄について、とにかく一切話し合おうとしない。自分自身の観念を手放したり、自分自身を放棄したりといった行為に、あなたがたがいそしむことは一切ない。リーダーや働き手たちは、如何にして兄弟姉妹たちが消極的にならないようにするか、如何にして彼らを積極的に従わせるかということしか考えていない。しかし、あなたがたは皆、ただ積極的に従うだけで十分だと考えており、自分自身を知り、自分自身を捨てるということが何を意味しているのかを根本的に理解しておらず、ましてや他人と協調して奉仕することの意味など知るよしもない。ただ自分自身が神の愛に報いる意志を持ち、自分自身がペテロのように生きる意志を持つことだけを考えている。それら以外には何も考えていない。あなたは、他の人々が何をしていようとも自分は盲目的にそれに従うことはしないし、他の人々がどのようであろうとも自分自身は神によって完全にされることを求める、そしてそれで十分だ、とさえ言う。しかし実際には、あなたの意志が現実において、どのような形であれ具体的に表されたことはない。あなたがたが現在示している態度は、こういったものではないか。あなたがたはそれぞれ自分自身の見識に固守しており、皆が完全にされることを望んでいる。あなたがたはこれほどの長い間、大した進歩もなく神に仕えてきている。特に、この調和してともに働くという学びについては、何一つ成し遂げていない!教会に入ると、あなたは自分のやり方で他者と交わり、他の人々は彼らのやり方で交わっている。調和のとれた協調はめったに行われず、目下の信者に至ってはさらにその傾向が顕著である。これはつまり、あなたがたの中で、神に仕えるということはどういうことか、あるいはどのように神に仕えるべきなのかを、理解している者は非常にまれだということだ。あなたがたは混乱しており、この類の学びをつまらないものと考えている。真理をこういう角度から実践していないばかりでなく、分かっていながら間違ったことをしている者さえ多い。長年神に仕えている者たちでさえ、喧嘩し、互いに陰謀をめぐらし、嫉妬し、競争している。皆一様に自分自身のためであり、協力ということを一切していない。こうしたことすべてが、あなたがたの実際の霊的背丈を表しているのではなかろうか。日々ともに奉仕するあなたがたは、神殿で毎日神自身に直接仕えていたイスラエル人に似ている。神に奉仕するあなたがたが、如何にして協調していくか、如何にして神に奉仕するかを知らないとはどうしたことか。

『神の出現と働き』「イスラエルの民のように神に仕える」(『言葉』第1巻)より

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