日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 513

2020年10月7日

人が試練を受けている際に弱くなったり、自分の中で消極性が生じたり、神の旨や自分の実践の道が明らかでなくなったりするのは普通のことである。だがいずれにせよ、あなたはヨブのように神の働きを信じなければならず、神を否定してはならない。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生におけるすべての物事がヤーウェによって授けられること、そしてそのすべてを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。あなたが自分の経験の中で、神の言葉を通じてどのような精錬を受けようとも、神が人類に求めるのは、要するに神への信仰と愛である。神がこのようにして働きを行なうことで完全にするのは、人々の信仰と愛、そして志である。神は人々を完全にする働きを行なうが、人はそれを見ることも、それに触れることもできない。こうした状況において、あなたの信仰が必要とされるのである。肉眼で見えない何かがあるときに、人々の信仰が必要とされる。また、あなたが自分の観念を捨てられないとき、あなたの信仰が必要とされる。神の働きについてよく理解できないとき、あなたに求められるのは信仰をもつこと、そして揺るぎなく立って証しをすることである。ヨブがこのような状態に達したとき、神がヨブの前に現われ、ヨブに対して語った。つまり、あなたが神を見られるのは自分の信仰の中からだけであり、あなたに信仰があるとき、神はあなたを完全にするのである。信仰がなければ、神はそれを行なうことができない。あなたが何を得たいと望もうと、神はそれを授ける。あなたに信仰がなければ、あなたは完全にされることができず、神の業を見ることもできないし、ましてや神の全能を見ることなどできない。自分の実際の経験の中で神の業を見るという信仰があれば、神はあなたの前に現われ、あなたを中から啓いて導く。この信仰がなければ、神がそれを行なうのは不可能である。あなたが神への望みを失ったとしたら、どうして神の働きを経験できるだろうか。したがって、あなたに信仰があり、神に対して疑いを抱かず、神が何をしようと神に対する真の信仰をもっているときにだけ、神はあなたの経験を通じてあなたを啓いて照らし、そのとき初めてあなたは神の業を見ることができる。これらはすべて信仰を通じて成し遂げられる。信仰は精錬を通じてのみ生じるのであって、精錬なくして信仰が育まれることはあり得ない。「信仰」というこの言葉は何を指すのか。信仰とは、見ることも触れることもできないものがあるとき、神の働きが人間の観念にそぐわないとき、また、それが人間の手に届かないときに、人間がもつべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。苦難や精錬のとき、人は信仰を必要とする。そして信仰の後には精錬が続く。精錬と信仰は切り離せないのである。神がどのように働きを行なおうと、また自分の環境がどのようなものであろうと、あなたはいのちと真理を追い求め、神の働きに関する認識を求め、神の業を理解し、真理にしたがって行動することができる。そうすることが真の信仰をもつということであり、あなたが神への信仰を失っていないことを示している。あなたが精錬を通じて真理を追求することにしがみつき、神を真に愛し、神への疑念を募らせない場合にのみ、そして神が何をしようとも真理を実践して神を満足させ、神の旨を深く求め、神の旨に気を配ることができる場合にのみ、あなたは神に対する真の信仰をもつことができる。以前、あなたが王として治めるだろうと神が語ったとき、あなたは神を愛した。また、神があなたに自身を公然と示した際、あなたは神を追い求めた。だが現在、神は隠され、あなたは神を見ることができない。そして、あなたは多くの問題にぶつかっている。ならば今、あなたは神への望みを失うのか。ゆえに、あなたはいかなる時もいのちを追い求め、神の旨を満たすことを求めなければならない。これが真の信仰というものであり、最も美しい真実の愛である。

かつて、人々はみな神の前に出て決意を固め、「たとえ他の誰も神を愛さなくても、私は神を愛さなければならない」と言ったものだ。しかし今、精錬があなたに降りかかり、それが自分の観念にそぐわないせいで、あなたは神への信仰を失っている。これが真の愛なのか。あなたはヨブの行ないについて何度も読んでいるが、それらを忘れてしまったのか。真の愛は、信仰の中からのみ形を成すことができる。あなたは自分が受ける精錬を通じて神への真の愛を育む。また、あなたが実際の経験の中で神の旨に気を配れるのは信仰を通じてであり、自分の肉を捨てていのちを追い求められるのも信仰を通じてである。これこそが人の為すべきことである。あなたがそれを行なえば、神の業を見られるだろう。しかし、あなたに信仰が欠けているなら、神の業を見ることも、神の働きを経験することもできない。もしも神によって用いられ、完全にされたいと望むのであれば、次に挙げるものをすべて備えていなければならない。すなわち、苦しむ意志、信仰、忍耐、服従、そして神の働きを経験し、神の旨を把握し、神の悲しみを思いやれる能力などである。一人の人間を完全にするのは容易なことでなく、あなたが経験する一つひとつの精錬において、あなたの信仰と愛が必要とされる。神によって完全にされたいのであれば、ただ道へと駆け出したり、神のために自分を費やしたりするだけでは十分ではない。神によって完全にされる者となり得るには、多くのものを備えていなければならない。苦難に直面したときは肉への不安を脇にのけ、神に不満をぶつけずにいられる必要がある。神があなたから隠れているときは、神に付き従う信仰をもち、以前の愛が揺らいだり、消え去ったりすることがないよう維持できなければならない。神が何を行なおうと、あなたは神の意図に従わなければならず、また神に不満をぶつけるのではなく、自らの肉を呪う覚悟をしなければならない。試練に直面した際は、たとえ苦い涙を流したり、愛するものとの訣別が嫌だったりしても、神を満足させなければならない。それだけが真の愛、真の信仰なのである。あなたの実際の霊的背丈がどの程度であろうと、まずは苦難を受ける意志と真の信仰をともに備え、肉を捨てる意志も備えていなければならない。神の旨を満足させるべく、自ら進んで自分の苦難に耐え、個人の利益を失うことを惜しんではならない。また、自分に後悔することもできなければならない。過去、あなたは神を満足させることができなかったが、今では悔いることができる。これらのどの点においても欠けがあってはならない。神はこれらのことを通じてあなたを完全にするのである。これらの基準を満たせなければ、あなたが完全にされることはない。

『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)より

さらに表示

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

コメントを残す

シェアする

キャンセル