日々の神の御言葉「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」抜粋540

日々の神の御言葉「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」抜粋540

182 |2020年10月7日

いのちへの入りに対する人々の追求は神の言葉に基づいている。以前は、すべては神の言葉ゆえに成し遂げられると言われていたが、その事実を見た者は誰もいない。もしも現在の歩みを経験することへと入るなら、あなたにとってすべてが明瞭になり、あなたは将来の試練に向けて素晴らしい基盤を築いていることになる。神が何を語ろうと、神の言葉への入りにだけ集中しなさい。これから人々を罰し始めると神が言うのであれば、神の刑罰を受け入れなさい。神が人々に死ぬことを求めるのであれば、その試練を受け入れなさい。あなたが神の発する最新の言葉の中で常に生きているなら、神の言葉は最後にあなたを完全にする。神の言葉に入れば入るほど、あなたはすぐさま完全にされる。わたしが交わりに次ぐ交わりの中で、神の言葉を知ってそこに入るよう、あなたがたに求めるのはなぜか。神の言葉を追い求めて経験し、その言葉の現実に入って初めて、聖霊はあなたの中で働く機会を得る。したがって、あなたがたはみな、神が働きを行なうあらゆる手段への参加者であり、あなたの苦しみがどの程度であろうと、最後に全員「記念品」を受け取ることになる。あなたがたが最終的に完全になることを遂げるには、神のすべての言葉に入らなければならない。聖霊が人々を完全にするのは、一方的なことではない。聖霊は人々の協力を求め、誰もが意識的に聖霊と協力することを必要とする。神が何を語ろうと、神の言葉への入りにだけ集中しなさい。それがあなたがたのいのちにとってより有益なものになる。すべてはあなたがたが性質の変化を遂げるためである。あなたが神の言葉に入るとき、あなたの心は神によって感動し、働きのこの段階において神が達成しようと望むすべてのことを知ることができ、それを成し遂げる決意をもつ。刑罰の時において、それは働きの手段だと考え、神の言葉を信じなかった人がいる。その結果、彼らは精錬を経験せず、何一つ得ることも理解することもないまま刑罰の時から抜け出した。疑いの片鱗も抱かず、それらの言葉へ真に入った上で、神の言葉は誤りのない真理であり、人類は罰せられるべきだと言った人もいた。彼らはその中で一定期間苦闘し、自分の将来と運命を捨て去った。そしてそこから抜け出すと、彼らの性質はいくらか変化を遂げ、神についてのより深い理解を得ていた。刑罰から抜け出た人はみな神の素晴らしさを感じ、働きのその段階が自分に下る神の大いなる愛を体現していること、そしてそれが神の愛による征服と救いであることに気づいた。彼らはまた、神の思いは常に善であり、神が人において行なうすべてのことは憎しみでなく愛から生じると言った。神の言葉を信じなかった者、神の言葉に目を向けなかった者は、刑罰の時に精錬を受けておらず、その結果、聖霊は彼らと共におらず、彼らは何も得なかった。刑罰の時に入った者は精錬を受けたものの、聖霊は彼らの中に隠れて働きを行なっていた。そしてその結果、彼らのいのちの性質は変わったのである。外面的にはたいへん積極的で、一日中朗らかさで一杯のように見える人もいたが、彼らは神の言葉による精錬の状態に入っておらず、ゆえにまったく変わらなかった。それは神の言葉を信じなかった結果である。あなたが神の言葉を信じないのであれば、聖霊はあなたの中で働きを行なわない。神は自身の言葉を信じるすべての人の前に現われ、神の言葉を信じて受け入れる人は神の愛を得ることができる。

神の言葉の現実へと入るには、実践の道を見つけ、神の言葉をどう実践すべきかを知らなければならない。そうすることでのみ、あなたのいのちの性質に変化が生じる。またその道を通じてでなければ、神によって完全にされることができず、そのようにして神によって完全にされた人だけが、神の旨にかなうことができる。新たな光を受けるには、神の言葉の中で生きなければならない。聖霊によって感動しても、それが一度だけならまったく役に立たない。もっと深くに進まなければならないのである。一度しか感動していなければ、その人の中で熱情が生じ、探求することを望むものの、それは決して長続きしない。そのような人は、聖霊によって絶えず感動しなければならない。わたしは過去何度も自分の望みを口にした。それはつまり、神の霊が人々の霊を感動させることで、彼らがいのちの性質の変化を追い求めるようになること、また彼らが神によって感動することを求めつつ、自分の欠点を認識し、神の言葉を経験する過程で自分の中の不純物(独善、傲慢、観念など)を捨てることである。新たな光を積極的に受ければそれでいいと考えてはならない。あなたは否定的な物事をも一切捨てなければならないのである。あなたがたは積極的な側面から入らなければならない一方で、否定的な側面から見れば、すべての不純物を自分から取り除く必要がある。絶えず自分を検証し、自分の中にどの不純物がまだ残っているのかを確かめなさい。人類の宗教的な観念、意図、希望、独善、傲慢といったものは、どれも不潔なものである。自分の内側に目を向け、あらゆるものを神によるすべての暴きの言葉と一緒に並べ、自分がどの宗教的観念をもっているかを確かめなさい。本当に認識して初めて、あなたはそれらを捨て去れる。中には、「今は聖霊の現在の働きによる光に従うだけで十分だ。他のことで悩む必要はない」と言う人がいる。そうであれば、宗教的観念が生じたとき、あなたはそれらをどう取り除くのか。今日の神の言葉に従うのは簡単なことだと思っているのか。もしもあなたが宗教の人であれば、あなたの宗教的観念や、あなたの心にある伝統的な神学理論に妨害されることがあり得る。そしてそうした物事が生じるとき、それはあなたが新しい物事を受け入れるのを妨げる。それらはどれも本当の問題である。聖霊の現在の言葉を追求するだけであれば、あなたに神の旨を満たすことはできない。聖霊の現在の光を追い求めると同時に、自分がどの観念や意図を抱いているのか、自分にどのような人間の独善があるのか、どの振る舞いが神への反抗なのかを認識すべきである。そしてそうした物事をすべて認識した後、それらを捨て去らなければならない。以前の行動や振る舞いを捨てさせるというのはひとえに、聖霊が今日語る言葉に従えるようにさせるためである。性質の変化が神の言葉を通じて成し遂げられる一方、それは人間の協力を必要とする。神の働きがあれば人間の実践もあり、両者はともに不可欠である。

『言葉は肉において現れる』より引用

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