日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 576

2020年10月14日

本分を尽くしているときにどのような問題に直面しようと、真理を探し求めず、いつも自分の考え、観念、想像、そして願望に従って行動する人がいます。そうした人は常に自分の自己中心的な願望を満足させており、自らの堕落した性質が絶えずその人の行動を支配しています。割り当てられた本分を完了するかもしれませんが、何らかの真理を得ることはありません。では、そうした人は本分を尽くすときに何に頼っていますか。彼らは真理にも神にも頼っていません。理解している真理の欠片が心を支配したことはありません。彼らは本分を尽くすにあたり、自らの天分と能力、自分が得たすべての知識、才能、そして自分自身の意志の力や善意に頼ってそれらの本分を完了させます。これは異なる種類の性質です。違いますか。本分を尽くすにあたって自分の自然性や想像、観念、知識、学びに頼ることもときにはあるでしょうが、行なう一部の物事において原則の問題が生じることはありません。表面上は誤った道を進んだわけではないように見えるものの、見逃せないことが一つあります。本分を尽くす過程全体において、観念や想像や個人的な願望が決して変わらず、真理に取って代わられることがなければ、また行ないや振る舞いが真理の原則と一致する形でなされなければ、最後の結末はどうなりますか。あなたは効力者となります。それはまさに聖書にこう記されている通りです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:22-23)神はなぜ、努力をし奉仕を行なう人々を、「不法を働く者どもよ」と呼ぶのでしょうか。一つ確実に言えることは、その人たちがどんな本分や働きを行なっていようと、その動機、意志力、意図、そして思考は完全に自己中心的な願望から出ていて、すべて自分自身の考えや個人的利益に基づいており、その思いや計画はひたすら自分の評判、地位、虚栄、将来の可能性などを中心に巡らされているということです。彼らは心の奥底に何も真理を持っておらず、真理の原則に従って行動することもありません。では、あなたがたは今何を求めなければならないのでしょうか。(真理を求め、神の御旨と要求に従って本分を尽くさなければなりません。)では神の要求に従って本分を尽くすとき、特にどんなことをしなければならないでしょうか。何かをするときの意図や考えについては、それが真理に適っているか否か、さらに自分の意図や考えが自分の利己的な願望を満たすことを目的としているのか、それとも神の家を益することを目的としているのかを、見分ける方法を学ばねばなりません。あなたの意図や考えが真理に適っているなら、自分の考えに沿って本分を尽くすことができます。しかしそれが真理に適っていないなら、すぐに方向を変えて、その道を断念しなければなりません。その道は正しくないため実践してはならず、その道を歩み続けるなら、悪を行なうことになってしまいます。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)より

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