日々の神の御言葉: 人類の堕落を暴く | 抜粋 305

2020年8月14日

あなたがたは常にキリストの姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの姿を見ることができるが、キリストの姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。兄弟(または姉妹)とのあなたのつながりは、あなたについて多くを示すことはないかもしれないが、キリストとつながる時には、そういう単純な話ではない。あなたの観念はいつなんどき根付き、あなたの傲慢は芽を出し、あなたの反抗はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性を持ったあなたがいかにしてキリストとつながるにふさわしいと言えるだろうか。あなたは本当に毎日、一日中、キリストを神として見ることができるだろうか。あなたは本当に神に従うことができるだろうか。あなたがたは心の中で非常に大きくて立派な神をヤーウェとして崇めるが、目に見えるキリストは人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに低劣で、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを永遠に神とみなすことはできない。あなたがたはただ好きな時にキリストを呼び、神として礼拝するのだ。それゆえ、あなたがたは神を信じる者ではなく、キリストと戦う者たちの共犯者だ、とわたしは言うのだ。他者に対して親切心を示す者でさえ報われるが、あなたがたの中でそのような働きをするキリストは、人に愛されることも報われることもなく、人間からの従順を受けることもない。これは最も悲しいことではないのか。

あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと手入れを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの普通の人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。気まぐれな幻想にふけ、キリストの姿を見たいなどと考えるのはやめるのだ。というのも、あなたがたは背丈があまりにも小さく、キリストの姿を見るには値しないからだ。あなたが完全に反抗心を拭い去り、キリストと平和な関係を持てるようになった時に、神が自然とあなたの前に現れるだろう。あなたが手入れ、または裁きを経験せずに神の姿を見にいったとしたら、あなたは確実に神の敵になり、破滅する運命にある。全ての人はサタンによって徹底的に堕落しているので、人間の本性は本質的に神に敵対する。堕落した人間が神とつながっても、良いものはひとつとして生まれてこない。人間のあらゆる行いと言葉は、その堕落ぶりを確実に露わにするだろう。人間が神とつながる時、その反抗心があらゆる面で明らかになるだろう。そうなると、人間は知らず知らずのうちにキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。そうすると、人間はますます危険な状態になるだろう。その状態が続けば、人間は懲罰を受けることになるだろう。

神とのつながりがそんなに危険というならば、神に近寄らないのが賢明ではないかと考える者もいるかもしれない。それならそのような人は何を得るのだろうか。そのような人は神に忠実になることができるだろうか。実際、神とのつながりはたいへん難しいが、それは、人間が堕落しているからであり、神が人間とつながることができないからではない。あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。あなたがたは神をもてなすことで富や贈り物、称賛を得ようとする。あなたがたは硬貨を一枚か二枚与えると、心が痛む。あなたがたは硬貨を十枚与えると、恩恵を欲しがり、他者と区別されたいと思う。あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。本分を尽くす者とそうでない者、導く者と従う者、神をもてなす者とそうでない者、与える者とそうでない者、伝道する者と言葉を受け取る者など、このような者たちは皆、自分を褒める。これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)より

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