日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 9

2021年11月29日

神は様々な試練を使い、人間が神を畏れ悪を避けているか否かを試す

どの時代においても、神は人間のもとで働くときには、人間に言葉を伝え、なんらかの真理を知らせます。こうした真理は、人間が守るべき道、歩くべき道、神を畏れ悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路において実践し遵守すべき道として機能します。これが神が言葉を与える理由です。神に由来する言葉を人間は守るべきであり、それを守ることはいのちを授かることです。神の言葉を守らず、実行せず、生活において神の言葉を生きなければ、その人は真理を実行していません。そして、真理を実行していなければ、人間は神を畏れ悪を避けておらず、神を満足させることもできません。神を満足させることのできない人は、神の賞賛を得られず、そのような人には良い結末がありません。それでは、神はその働きにおいて、どのように人間の結末を決めるのですか。人間の結末を決めるのに神はどのような方法を使いますか。おそらくあなたがたは、今この問題について明確に理解していないでしょうが、その過程についてわたしが話すと、かなりはっきりします。それは、あなたがたのうち多くの人が既にそれを自ら経験しているからです。

始まりから現在に至るまでの神の働きの過程を通して、神は各人(つまり、神に付き従う一人ひとりと言うことができますが)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々です。自分の家族から拒否される試練を経験した人もいれば、逆境の試練を経験した人、逮捕されて拷問される試練を経験した人、選択を迫られる試練を経験した人、金銭や地位の試練に直面した人もいます。概して、あなたがたそれぞれが、様々な試練を受けたことがあります。神はなぜこのように働くのですか。神はなぜ各人をこのように扱うのですか。神はどのような結果を望んでいるのですか。わたしの話の要点はこれです。すなわち、神はある人が神を畏れ、悪を避けるような人間であるか否かを知りたいのです。これは、神があなたに試練を与え、ある状況にあなたを直面させているとき、神の意図はあなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるか否かを試すことだということを意味します。もし誰かが捧げ物を守るという本分を与えられ、そのため神への捧げ物に接することになった場合、あなたはこれは神の采配であると思いますか。疑いなく、その通りです。あなたが直面するあらゆる物事は神の采配です。あなたがこのようなことに直面しているとき、神はあなたを隠れて観察し、あなたがどのような選択をするか、どのように実践するか、あなたにどのような思いがあるかを見ています。神が最も関心を持つのは、最終的な結果です。なぜなら、その結果により、神はあなたがその試練において神の基準に達したかどうかを評価できるからです。しかし、何かの問題に直面しても、人はなぜその問題に直面しているのか、神は人にどのような基準に達することを求めているのか、人の何を評価したいのか、人から何を得たいのかを考えません。人はただ、「これが現在直面していることだ。不注意にならず、注意しなければ。とにかく、これは神への捧げ物だから、触れてはならない」と考えるだけです。そうした安易な考えで、自分の責任を果たしたと考えているのです。この試練の結果に神は満足するでしょうか。しないでしょうか。意見を述べなさい。(人が神様を心から畏れているなら、神様への捧げ物に触れることのできる本分に直面したとき、神様の性質を侵害するのがどれほど簡単かを考えるので、それで間違いなく注意して取り組むことになります。)その発言は正しい方向にありますが、正解には達していません。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではありません。それは、問題に直面したとき、何よりもまず先に、それを神の采配による状況、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた任務であるとみなすことです。問題に直面したときは、それを神があなたに下した試練であるとすら捉える必要があります。問題に遭遇したとき、あなたの心には基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考えなくてはなりません。神に忠実でありながら、自分の責任を果たせる形でその問題をどう扱うか、また神の怒りを買ったり神の性質を侵害したりせずにそうする方法を考慮する必要があります。つい先ほど、捧げ物を守ることについて話しました。この問題には捧げ物が関係しており、また本分と責任が関係します。あなたには、その責任について任務が課せられています。しかし、この問題に直面したとき、何らかの誘惑がありますか。あります。その誘惑は何に起因しますか。それはサタンに起因しますが、人間の邪悪で堕落した性質にも起因します。誘惑があるので、このことは人が立てるべき証しに立つことが関与します。このこともまた、あなたの責任であり、本分です。「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言う人がいますが、その必要はあります。というのは、神の道を歩むためには、自分の身に起こることや周囲で起こることは、小さいことでもすべてないがしろにはできないからです。何かに注意するべきであると考えるか否かにかかわらず、問題に直面している限り、それを無視するべきではありません。起こることはすべて神からわたしたちに与えられた試練とみなすべきです。こうしたものの見方をどう思いますか。このような態度をとっているなら、それである事実が確認できます。すなわち、心の奥ではあなたは神を畏れていて、悪を避けることを望んでいるということです。あなたに神を満足させたいという願望があるなら、あなたが実行することは神を畏れ、悪を避ける基準からかけ離れていることはありません。

人がそれほど気にかけないこと、通常は話題とならないことは取るに足らない些細なことで、真理を実践することとは無関係であると考える人がよくいます。そうした人がこのような問題に直面すると、あまり考えず放置します。しかし、実際にはそれは学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓なのです。さらに、それ以上に懸念すべきことは、その問題が発生して自分が直面しているとき、神は何をしているかを知ることです。神はあなたのすぐ側にいて、あなたの言動のひとつひとつを観察し、あなたのすることすべて、あなたの思いにどのような変化が起きるかを観察しています。これが神の働きです。「それが本当なら、わたしがそれを感じないのはなぜだろうか」と言う人がいます。あなたが感じたことがないのは、神を畏れ悪を避ける道をあなたにとって第一の道として守っていないからです。そのため、人の様々な思いや行動に従って現れる、神の人間における微妙な働きを感じることができないのです。あなたは注意力散漫です。大きな問題とは何ですか。小さな問題とは何ですか。神の道を歩むことに関与する問題には、大小の区別はありませんが、このことを受け入れられますか。(受け入れられます。)日常の問題に関しては、人間が重大であると捉えることと、些細であるとみなすことがあります。人間はこうした大きな問題を極めて重要と考え、それが神に与えられたと考えます。しかし、こうした大問題が発生するにつれて、未熟な霊的背丈と貧弱な力量のせいで、人はしばしば神の心意に従うことができず、神の啓示や、価値のある実質的な認識がまったく得られないことが往々にしてあります。些細な問題については、人間に無視され、放置されて徐々に意識からなくなります。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃しています。神があなたのために采配したこのような人、出来事、物や状況にいつも気づかないとしたら、それは何を意味しますか。それは、毎日、それどころか瞬間瞬間に、神により完全にされることと神の指揮を放棄していることを意味します。神があなたのために一つの状況を手配するたびに、神はあなたの心、思いや考え、どのように考えるかを密かに観察し、あなたがどのように行動するかを見届けようとしています。あなたが不注意な人、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことがない人であれば、その状況をあなたのために手配したときに神が完全にしたいこと、あなたに要求していることに注意することも、配慮することもありません。また、あなたが遭遇する人、出来事、物が真理や神の心意にどのように関連するかを知ることもありません。このように繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなければ、神は次にどうしますか。何度試練に遭遇しても、あなたの心は神を崇めず、神があなたのために采配した状況を、神からの試練であり試験としてそのまま受け入れていません。その代わり、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃がしています。それは人間の極端なまでの反抗ではありませんか。(その通りです。)神はこれで傷つきませんか。(お傷つきになります。)神は傷つきません。わたしがこう言うのを聞いて、あなたがたは再び驚きました。あなたがたは「神はいつも傷ついていると前に言われたのではなかったか。だから、神は傷つくのではないのか。それでは神はいつ傷つくのか」と考えているかもしれません。いずれにせよ、神はこの状況で傷つくことはありません。それでは、上記のようなふるまいに対して神はどのような態度を取りますか。神が人間に与える試練や試験を人間が拒否するときや、人間がそれらを回避するとき、神が彼らに見せる態度はただ一つです。それは何ですか。神は彼らを心の底から拒絶します。ここでは「拒絶」という言葉には二層の意味があります。わたしの観点から、それをどのように説明するべきでしょうか。この言葉の深層には、嫌悪と憎しみの含意があります。もう一つの層についてはどうでしょうか。もう一つには、何かを諦めることがほのめかされています。あなたがたはみな「諦める」の意味を知っていますね。つまり、「拒絶」とは、そのようなふるまいをする人間に対する神の最終的な反応と態度を意味する言葉です。それは、彼らへの極端な憎しみと嫌悪であり、それゆえに彼らを見捨てるという決断へとつながります。これが、神の道を歩んだことがなく、神を畏れ悪を避けたことがない人に対する神の最終的な判断です。これで、先にわたしが説明した格言の重要性が理解できますか。

これで、人間の結末を決めるのに神が用いる方法を理解できましたか。(神様は毎日、様々な状況を手配なさいます。)「毎日、様々な状況を手配する」というのは、人が感じ、触れることです。では、そのようなことをする神の動機は何ですか。それは、各人にそれぞれ異なる時間と場所で様々な試練を与えることです。試練では、人間のどの側面が試されますか。試練は、遭遇し、聞き、見、個人的に経験するあらゆる問題において、あなたが神を畏れ悪を避けるような人であるかどうかを決めます。誰もがこうした試練を経験します。なぜなら、神は万人に対して平等だからです。「わたしは長年にわたって神を信仰しているが、なぜ試練に一度も遭遇していないのだろうか」と言う人がいます。あなたが試練に遭遇したことがないと感じるのは、あなたのために神が状況を手配するたびに、あなたはそれを真剣に捉えず、神の道を歩きたくなかったからです。そうしたわけで、あなたが神の試練に気付かなかっただけです。また、「数回の試練に遭遇したが、どのように適切に実践するべきかわからない。実践しても、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、いまだにわからない」と言う人もいます。こうした状況にある人は少なくありません。それでは、神が人間を評価する基準は何ですか。それは先ほど述べた通りです。すなわち、すること、考えること、表現することすべてにおいて、神を畏れ悪を避けるか否かです。これが、あなたが神を畏れ悪を避ける人間であるか否かを判断する方法です。この概念は簡素ですか。簡素ではありませんか。言うのは簡単ですが、実践するのは簡単ですか。(あまり簡単ではありません。)それはなぜですか。(人間は神様を知らず、神様が人間を完全にしてくださる方法を知らないので、物事に対処するときに、問題解決のために真理を求める方法を知らないからです。人間が神様を畏れることの現実性を自分のものにできるまでには、様々な試練、精錬、刑罰、裁きを経験しなければなりません。)あなたがたはそういう言い方をするかもしれませんが、あなたがたに関する限り、神を畏れ悪を避けることはとても簡単で今すぐできそうです。わたしはなぜこう言うのですか。それは、あなたがたは多くの説教を聞き、真理現実からの水やりをかなり受け取っているからです。これにより、あなたがたは、神を畏れ悪を避ける方法を理論的、知的には理解することができているからです。神を畏れ、悪を避けることを実践することに関しては、この知識は極めて効果的であり、このようなことは容易に実行可能だとあなたがたに感じさせます。それでは、なぜ人は実際にはできないのですか。それは、人間の本性実質が神を畏れず、悪を好むからです。それが本当の理由です。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)より

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