日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 153

2021年11月17日

以前の時代に比べると、神の国の時代における神の働きはより実践的であり、ますます人間の実質や人間の性質の変化に向けられており、神に従う全員のために、より一層神自身を証しすることができる。言い換えれば、神の国の時代において、神は働きを行なう際、過去のいかなる時点にも増して自身に関することを示しているが、そのことは、人間の知るべきビジョンがそれ以前のどの時代よりも高度になっていることを意味する。人間のあいだにおける神の働きが前例のない領域に入ったので、神の国の時代に人間によって知られていたビジョンは、すべての経営の働きを通じて最高のものである。神の働きが前例のない領域に入ったので、人間が知るべきビジョンは、すべてのビジョンの中でも最高のものとなり、その結果として生じる人間の実践もまた、以前のどの時代よりもさらに高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完成とは、人間に対する要求の完成のしるしでもあるからである。神のすべての経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まる。そして神の働きがなければ、人は過去の教義に固執するより他になく、それ以外に頼るべきものは何もない。新たなビジョンがなければ、人間による新たな実践はなく、完全なビジョンがなければ、人間による完全な実践もない。さらに高いビジョンがなければ、人間によるいっそう高度な実践もない。人間の実践は、神の歩みと共に変化し、同様に人間の認識と経験もまた神の働きと共に変化する。どれほど有能であるかにかかわらず、人間はやはり神から離れることができず、仮に神が一瞬でも働きを止めたなら、人間は神の怒りによってすぐさま死ぬだろう。人間には誇るべきことが何もない。なぜなら、現在における人間の認識がいかに高度であっても、また人間の経験がいかに深くても、人間を神の働きから切り離すことはできないからである。つまり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき事柄は、そのビジョンから切り離すことができないからである。神の働きの一つひとつには、人間が知るべきビジョンがあり、それらに続いて、人間にふさわしい要求がなされるのである。これらのビジョンが基礎としてなければ、人間が実践することはまったく不可能となり、揺るぎなく神に従うこともできないだろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の旨を理解していない場合、人間が行なうことはどれも虚しく、神に認められることができない。人間の賜物がいかに豊富であっても、人間はなおも神の働きと導きから切り離すことができない。人間の行動がいかに優れていようと、あるいは人間がどれほど多くの行動をとろうと、それらの行動が神の働きに取って代わることはやはりできない。ゆえに、いかなる状況においても、人間の実践をビジョンから切り離すことはできないのである。新たなビジョンを受け入れない者には、新たな実践がない。彼らの実践は真理とまったく無関係である。なぜなら、彼らは教義を守り、死んだ律法に固執しているからである。彼らには新たなビジョンがまったくなく、その結果、新たな時代の事柄を何一つ実践しない。彼らはビジョンを失っており、そのせいで聖霊の働きも失い、また真理も失ってしまった。真理のない者たちは愚かさの子孫であり、サタンの化身である。どのような種類の人間であれ、神の働きのビジョンを持たずにいることも、聖霊の臨在を持たずにいることもできない。つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへ落ち、闇の中で暮らすのである。ビジョンのない人は、神に愚かに従う者であり、聖霊の働きを欠いている者であって、地獄で生きている。このような人は真理を追い求めず、それどころか神の名を看板のように掲げる。聖霊の働きを知らず、受肉した神を知らず、神の経営全体における三段階の働きを知らない者たちは、ビジョンを知らないので、彼らには真理が欠けている。そして、真理を自分のものにしていない者たちはみな、悪を行なう者ではなかろうか。進んで真理を実践し、神についての認識を求め、神と真に協力する者は、ビジョンがその基礎として機能している人々である。彼らは神によって認められる。なぜなら、彼らは神と協力するからであり、この協力こそ人間が実践すべきことなのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)より

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