2. 真の道を探し求めるには、理知を持たなければならない

関連する神の言葉

神と人を同列に語ることはできない。神の実質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世で自ら働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の旨を理解することはできない。一生を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を受けることはできないだろう。神が働きに乗り出さなければ、人がどれほど立派に行動しようと無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人の理解を超えているからである。そのため、神と神の働きを「完全に理解している」と主張する人たちは無能な輩で、皆自惚れていて無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には、人は蟻と同じくらい取るに足らないのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」などと好んでまくし立てる人々――彼らは皆傲慢に話しているのではないだろうか。わたしたちは皆、肉なる存在である人間はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するというのがまさに人の本性である。人が神と同等になることはできず、ましてや神の働きに助言しようと望むことなどできない。神が人をいかに導くかについて言えば、これは神自身の働きである。人はあれこれ見解を言わず、服従するのがふさわしい。人はちり芥にすぎないのだから。神を探求するのがわたしたちの意図なのだから、神が考慮するべき神の働きの上に自分の観念を重ね合わせるべきではないし、ましてや神の働きに故意に反対するために自分の堕落した性質を最大限用いるなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。そのような人々がどうして神を信じていようか。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動にいったい何の益があるだろう。

今日、神は新しい働きを行ってきた。あなたはこれらの言葉を受け入れることができず、奇妙な言葉に思えるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓かれ、導かれることができるからである。口論や対立ではなく、地道に心を静めて真理を探求することで、結果を得られる。わたしが「今日、神は新しい働きを行ってきた」と言う時、神が再び肉へと戻ることに言及している。おそらく、これらの言葉があなたを悩ませることはない。あなたはこれらの言葉を軽蔑するか、あなたにとって極めて興味深い言葉ですらあるかもしれない。いずれにせよ、わたしは、神が出現するのを本当に切望するすべての人々が、結論に飛びつくのではなく、この事実を直視し、慎重に検討することを希望する。これが賢い人の行うべきことである。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知を備え、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど祝福されている人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自分をもてあそんではならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかを、自分に問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

アメリカ人であれ、イギリス人であれ、国籍がどこであれ、自分の国籍の枠を乗り越え、自分自身を超越し、被造物としての立場から神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはない。それは、現在は特定の国や民族に神が現れることは不可能だと多くの人が考えているからである。神の働きはなんと意義深く、神の現れはなんと重要なことか。どうして人の観念や考えで測ることができようか。そのため、神の現れを探し求めるためには、国籍や民族性という観念を突き抜けるべきである、とわたしは言うのである。そうして初めて、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを迎えるにふさわしくなる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)

神は全人類の神である。神は自らを一つの国や民族の所有物とみなさない。神が自ら計画したとおりに働きを行い、いかなる形式や国、民族にも限定されることはない。これまであなたはこのような形式を想像したこともなかったかもしれないし、そのような形式を否定するかもしれない。神が現れる国や民族はたまたま誰からも差別されている地上で一番遅れている国や民族かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神はその偉大な力とその真理と性質により、神と心を一つとする人々の一群を本当に得ている。それは神が完成させたいと願う人々の一群で、神に征服され、あらゆる試練と困難、あらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる一群である。いかなる形式や国にも限定されない、神の出現の目的は、その計画どおりに働きを完成させることである。それはちょうど神がユダヤの地で肉となったときと同じである。神の目的は全人類をあがなうことで十字架の働きを完成させることであった。しかし、ユダヤ人は神がそれを行うのは不可能だと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとるのは不可能だと考えたのである。この「不可能」が、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対する根拠となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れると強く主張しながら、同時に神の現れを断罪している。その「不可能」が再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めているのである。神の言葉に出会うと、多くの人が騒々しく大笑いするのをわたしは見てきた。しかし、その笑いはユダヤ人による神への断罪と冒涜とどこか違うであろうか。あなたがたは真理を目の前にしても敬虔さがなく、ましてや真理を慕い求める態度もない。ただ手あたり次第に研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。神から直に導きを受け取ることができると思っているのか。神の発言を聞き分けることができないなら、どうして神の現れをその目で見る資格があるというのか。神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。それはちょうど主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもあり、さらに、全宇宙で唯一無二の神であるのと同じである。だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。あなたがたがこれらの言葉に神の現れを見てとり、新しい時代に向かって進みながら、神の足跡をたどり始め、神の現れを待ち望む人のために用意された美しく新しい天地に入れることを望む。

『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)

前へ: 1. 神への信仰において神の新しい働きへの人々の反対の根源を知ること

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