質問:主イエスは「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネによる福音書 10:27)とおっしゃいました。主はお戻りになり、御言葉を発して羊を呼び集めていらっしゃいます。私たちが主の到来をお迎えする上で大事なのは、主の御声を聞こうと探求することです。しかし一番の問題は、主の御声をどうやって聴くのか知らないことです。神様の御声と人の声との区別もできないので、間違いなく主の御声だとわかるにはどうしたら良いのですか。

回答:神様の声をどうやって聴くのか? 人としての資質の高さや経験の長さは関係ありません。主イエスの信仰で御言葉を聴いたときどう感じますか? 主の御言葉について経験も知識もないのに、それを聴いた瞬間それは真理で権威と力があることがわかるでしょう。その感覚というのは経験からくるものでしょうか? 霊感と直感から来るのです。心と魂の気高い人が神様の言葉が持つ力と権威を感じることができるという証明で、これこそが神様の声を聴くということなのです。さらに、神様と人間の声の最大の違いは神様の御声には真理と力と権威があり、耳にした途端にわかり、それを言葉として表現しても明らかに違うのです。人間の声を聞いても簡単過ぎてすぐ手に届く事がわかり、力も権威も何もなく真理があるとも思えません。これが神様と人間の言葉の大きな違いです。例えば、主イエスの御言葉には力と権威があり、それを聴いた瞬間真理であることがわかり、奥深く謎に満ちて人間の計り知れない意味があるのは聖書の預言についてはそのほとんどは聖霊の啓示を受けていますが、権威も力もありません。正しい事を言い人の役に立つというだけなのです。主イエスのような言葉を話すことができる人間がいますか? 誰も話すことはできません。つまり主イエスの言葉は神様の御声だという証拠なのです。このように比較すれば、神様と人間の声を聞き分けることができるでしょう?

全能神の御言葉を読んで、それが真理を語り神様の声であるかどうか確認しましょう。全能神は言われます。「わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにするつもりだ。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは選ばれた者たちと向き合って、もっと彼らに話しかけたいと願っている。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。すべての人々は生まれたての赤児のように喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の『オリーブ山』にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい」(「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」『言葉は肉において現れる』)

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる――空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

……わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第二十六章」)

全能神の御言葉を読むと、神様が人類に語られているという事がわかります。神様以外に誰が人類に語ってくれるのです? 人類を救うという神様の御意向を誰が示し、終わりの日の働きの計画を全部明かし、人類の果てと終着点を明確に示すことができますか? 誰が神様の行政を世界中に厳そかに宣言できますか? 神様以外に誰もできません。全能神は全人類に向けて神様の言葉の持つ力と権威をお見せになり、全能神の言葉は神様の表現であり御声なのです! 全能神が発言する言葉はまるで神様が第三の天にお立ちになり全人類に語られているように、人の創造主として正義の性情と威厳を人類に明らかにされています。神様の羊が真理をまだ知らず経験が無くても、全能神の言葉を聴くとそれにはすべて力と権威があり、神様の御声に間違いなく神様の霊が直に発したものだということがはっきりわかるのです。神様に選ばれた人は神様の言葉を聴くだけで、それが神様の御声だとわかるのに、なぜ教会の牧師や長老は全能神を非難するのでしょう? 神様の受肉がわからない反キリスト者は神様が真理を示すことを認めず、それが真理である事が認識できて、御言葉の持つ力と権威を感じるのに、神様が肉体から言葉を発することが信じられず、神様が語られた事は全て真理であるということも認めません。なぜだかわかりますか? 終わりの日に受肉した全能神が全人類に向けて語られていますが、どれくらいの人が神様の御声に気づくでしょう? 全能神が語られても宗教界の多くの人が未だに神様の声だとわからずに、まるで人が語った言葉のように扱い、自分の観念だけで全能神を決め付け中傷して非難しますが、神を畏れる心があるのでしょうか? 真理を嫌い神様を非難した昔のパリサイ人と同じでは? 神様の御言葉には偉大な権威と力があるのに、それが神様の声だと判らないのです。それで神様の羊と言えますか? 言葉を耳にしても心は空虚で、目に映っても判らず結局理解できないから天国に引き上げられる価値はないでしょう? 終わりの日に受肉した神様は真理を示し、宗教界の人々の本性を曝露し、真の信者と偽者、真理を愛する者と嫌う者、賢いおとめと愚かなおとめとして全て振り分けられ、それぞれ分類されるのです。全能神がおしゃった通り、「悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福され……」(「千年神の国は訪れた」『言葉は肉において現れる』)。神様の声を聴く者は主の再臨を知り、神様の玉座に引き上げられ、子羊の婚宴に招かれます。それは賢いおとめで最高に恵まれた人類なのです。

神様の声は心と魂で聴く必要があります。心を同じくする者はすぐに判り合えます。神様の言葉は真理であり、力と権威を持っていますから、心と魂の気高い人は間違いなく判るのです。多くの人が全能神の言葉を少し読んだだけで、それが神様の声であり、発言であると確信します。神様は受肉されるたびに、その段階の働きをされ、神様の指示で特定の言葉を少し伝える預言者とは異なり、沢山の言葉を語り真理を多く伝え秘密を紐解いて預言しますが、何十年も必要な場合があります。例えば、贖いの働きでは主はまずこう言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書 4:17)。どのように悔い改め赦し耐え、苦しみ苦難に耐えるかを諭し、恵みの時代に従うべき道を開かれ、神様の愛と御慈悲の性情を御見せになり、天国の神秘と入る条件についても明らかにされました。主の贖いの働きが完了したのは主が磔にされ復活し天国へ昇天された時です。主イエスが語られた言葉は全て真理で、贖いの働きで人類が神様から与えられた賜り物です。終わりの日に全能神が見え人類を清め救う真理を全て示し、神の家から始まる裁きの働きをされ、特有の性情をおもに正義をもって明らかにされました。6千年の経営計画にまつわる謎を明かし、神の国の時代を開き、恵みの時代を終わらせました。全能神の言葉は神様の性情を現し、その命の本質が自然に湧き出たもので、今この時は人類を徹底的に清め救うために、神様が終わりの日に働いておられる段階なのです。全能神の御言葉を読んで、それが真理を語り、神様の声であるかどうか確認しましょう。

全能神は言われます。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである」(「序文」『言葉は肉において現れる』)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」『言葉は肉において現れる』)

終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである」(「神の働きのビジョン(3)」『言葉は肉において現れる』)

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない」(「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」『言葉は肉において現れる』)

終わりの日に全能神は真理を示し、裁きの働きをされ、御言葉で人類の深い堕落の本質と状態を明らかにし、神様に抗う人間の意思を示して悪の性情による人の堕落を完全に暴露され、聖なるものと正義の捨てられない性情が人類に示されました。人は神様のお姿と働きを見て次々と神様に向かい、救いを受け入れました。全能神は人を裁くために真理を示し、神様を信仰する者全てに御言葉で裁き刑罰を与え、神様を信仰していると自称しながら逆らう教会の人々の本質と真実を明らかにします。全能神がどう言われているか見てみましょう。全能神は言われます。「人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々――どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか」(「キリストと融和する道を探せ」『言葉は肉において現れる』)

あなたがたの心は悪、裏切り、偽りに満ちている。そうであるなら、あなたがたの愛はどれほど汚れているのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動はなぜいつも反抗的で不正直なのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを疑っている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け容れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、事あるごとに物事がわたしにとって困難になるようにしてしまう。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしを騙し欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。こうしたすべてを愛とみなすのか。あなたがたが非常に多くを捧げてきたのは確かであるが、わたしがあなたがたに要求することをあなたがたは一度として実践したことがない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く考えると、あなたがたの中にはわたしへのかすかな愛も感じられない。これほど長年働きを行い、あれだけ多くの言葉を与えてきた後に、あなたがたは実際にどれほどのことを得ているのか。このことは注意深く振り返るに値しないか」(「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」『言葉は肉において現れる』)

あなたがたが神を信じる目的は、自分の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなたがたは天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、わたしはあなたがたの見方を認めない。わたしは地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰するわたしの手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる」(「どのように地上の神を知るか」『言葉は肉において現れる』)

堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである」(「キリストと融和する道を探せ」『言葉は肉において現れる』)

全能神の言葉の裁きによって、思いあがりや自己中心さや偽りに気が付きあらゆる面で自分の悪魔的な性情が暴かれました。身を投じ苦難に耐え神様のために代価を払っても、神様に本当に服従するどころか本物の愛さえ持ち合わせていません。試練や苦難に直面すると、神様に不平を言い疑い否定さえしますが、これはサタンの性質を持つ深く堕落させられた人間だということを認識させてくれるのです。私達の悪の性質や悪の性情が清められなければ、神様へ本当に服従し本当に愛することはできません。今まで私達は何年も神様を信じて何かを犠牲にして身を投じ熱心に働いてきたので、良い人間になったと神様を愛する神様に服従する人間になったと思っていました。表向きは主のために大変な労力を費やしていても、神様に嘘をつき欺き、口先だけで自説に固執し、自分だけに注意を向けて誇示しますが、全能神の裁きと刑罰を経験してこそ理解できるのです。私達の努力と犠牲は実は祝福を受けて天国へ招かれるための神様との取引であることに気が付きました。これは神様に真から服従していることになりますか? 神様を愛しているなんてもってのほかでしょう! それなのに私達は恥知らずにも誰よりも神様を愛し従順であるとうぬぼれ本当に無意味な神様を全く知らない者なのです。神様の言葉にある黙示と裁きから神様はすべてを見通され、偉大なる神聖さと正義から神様の性情は汚すことができないとわかった時、神様を畏れおののくのです。自分は悪魔のようであり、神様を見ることさえ恥ずかしく御前で生きる価値もないと感じ、打ちひしがれ後悔して嘆き叫び、自分を呪いののしるのです。私達は悪の性情にて毎日を生きており、人間らしく生きておらず、人間と呼ばれるにはふさわしく無い事に気が付くのです。裁きや刑罰試練と切磋琢磨を経て、刈込みや繕いを多く経験したときだけ徐々に真理を理解し始め、自分の堕落に潜む真実をしっかり見つめ、神様について偽りのない知識を身につけ、神様への崇拝の念を抱き心からの服従を始めます。それこそ神様を正しく信仰するということで、神様の裁きと刑罰を受けたからこそできるのです。神様の言葉による裁きと刑罰を受けなかったらサタンに深く堕落させられたという実体が見えず、なぜ神様に反して逆らうのかわからないまま、罪の絆や規則から解放され真に神様に服従することはできなかったでしょう。神様の言葉による厳しい裁きがなければ、神様の正義と威厳と傷つかない性情を知るどころか、神様を畏れる心も育たないし、邪悪から離れて神様を畏れる者になることもできません。神様が受肉されなかったら、誰が終わりの日の裁きの働きをするのです? 誰が神様の神聖さや正義や傷つかない性情を示すことができますか? 神様が受肉されなかったら、あまりにも堕落した私達を裁き清めて救うという力や権威を誰が持ち合わせているのですか? 全能神は言葉とその働きで神としての地位と正体を明らかにされ、創造主でありまことの神としてのお姿をお見せになりました。全能神のお話しに神様の声を聴き、そのお姿を見つけました。なぜ今こんなに多くの人が全能神の言葉を広め証しするために全てを捨げうつのでしょう? なぜこんなに多くの人が中国共産党政府に逮捕され迫害や殺害される危険があるにもかかわらず、全能神の働きを広め証しする努力を惜しまないのでしょう? なぜこんなに多くの人が教会から見捨てられ、辱めを受け追放され非難されても、一軒一軒に福音を伝えるため耐え忍ぶ事ができるのですか? それは神様の声を聴いたから神様の出現を見たから神様の求める物を知っているからです「さあ、花婿だ、迎えに出なさい(マタイによる福音書 25:6)と呼ぶ声がした。これこそ主が扉を叩いておられるのでは? 主が扉を叩いておられます扉を開き主を迎かえ入れますか? 主が人を遣わして扉を叩いたら真の道を求め学び主の声を聴くべきでは?

映画『戸をたたく』より引用

前へ: 質問 2:主イエスが言われたのですが、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書 14:2-3)。主イエスは復活し天に戻り、私達のための場所を用意するとつまり天にあるということでしょう。もし主が戻られたのなら、私達を天に引き上げ空に持ち上げ主にお目見えできるということで、あなた方の証しは主イエスは戻り受肉して地にあり話し働いているというから、どうやって私達を天国に連れて行くのです? 天国は地上にあるのですかそれとも天に?

次へ: 質問 1:私達は長年主を信仰してきました。私達は説教して主のために働き苦労も多いのですが、相も変わらず嘘をつき欺きだまそうとします。毎日自己弁護に追われているし、よく横柄になり我を通し見栄を張り、人に恩着せがましくしたりします。私達は罪を犯し懺悔を繰り、返し肉の束縛から逃れることができません。主の言葉を経験するとか実行することはありません。私達は主の言葉にある現実に生きていません。こんな私達が天の国に招かれますか? どんなに罪を犯し肉に束縛されても主は私達を罪のない者と見てくださると言う人もいます。パウロの言葉にそうあるからです。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)。主が見えたとき瞬時に私達の姿を変え天の国に連れて行ってくださると思ってます。信仰があり救われていてもしょっちゅう罪を犯す者は天の国に入る資格はないと信じています。これは主イエスの言葉にあるからです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。「……わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。

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質問2.神の御国は地上にあるのか天にあるのかわかりません。主イエスは何度も「天の国は近づき!」「来る」と。この「天の国」とは天にある国のことで、地上には有り得ないでしょう?

「天」とは常に神を意味し、「天の国」とは神の御国のことです。ヨハネの黙示録にあります。「神の幕屋が人と共にあり」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」つまり神の御国は地に造られ、この地上の国は、最後に神の御国になるのです。

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