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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

目次
  • 新しい信者が最初に身につけるべきビジョンの真理

    4.神の信者が保持すべき気高い品位

    サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがってその性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神の任務に堪えない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々──理知が異常な人々──は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。

    『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

    正常な人間性には、識見、理知、良心、そして性格が含まれる。こうした側面それぞれについて、あなたがたが正常性を実現出来るならば、あなたがたの人間性は基準に達している。あなたがたは、正常な人間の像を備え、神を信仰する者らしく行動すべきである。あなたがたは、極めて高度な水準に達することや外交手腕を要求されているのではない。あなたがたは、単に正常な人間の理知を備え、物事を洞察できる、正常な人間である必要があり、少なくとも正常な人間のように見える必要があるのみである。それで十分であろう。……多くの者が、時代が変わったことを知っているので、慎ましさや忍耐を実践しないので、そうした者は愛や聖人のような品位を備えて居ないのも、もっともである。そうした人々は過度に不合理である。そうした者には、正常な人間性がほんの少しでも有るであろうか。そうした者には語るべき証があるだろうか。そうした者には識見や理知が一切無い。無論、人間の実践に関する一部の側面のうち、逸脱したものや誤っているものについては修正する必要がある。人間の堅実な霊的生活や、従前の愚鈍さなどは、全て変える必要がある。変化とは、あなたがたを自堕落にさせたり、肉に耽溺させるということでも、言いたいことを言うことでも無い。不注意な発言をしてはならない。正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをする必要がある。ずるをしたり、嘘をついてはならない。

    『言葉は肉において現れる』の「器量を向上させることは、神の救いを授かるためである」より

    神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。……正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。

    『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

    あなたがたの人間性は過度に欠如し、あなたがたの生活様式は過度に下等で、悪化し続けており、あなたがたには人間性が無く、あなたがたには識見が欠如している。あなたがたが、人間性のある物事を身に付ける必要があるのは、そのためである。良心と理性、そして識見を身に付け、話し方や物の見方を知り、清潔さに配慮し、正常な人間らしく行動することは、全て正常な人間性の実践的知識である。こうした物事を適切に行うならば、あなたがたの人間性は標準的なものとなるであろう。もうひとつの側面は、霊的生活に備えることである。あなたがたは、地における神の御業全体を知り、神の御言葉を経験する必要がある。あなたがたは、神の采配に従う方法と、創造物の本分を尽くす方法を知るべきである。これらは、現在あなたがたが真摯に取り組むべき2つの側面である。

    『言葉は肉において現れる』の「実践 (7)」より

    神は、教会生活だけではなく日常生活においても、人間が正常な人間性や真理を行動で示すこと、そして自分の役割を果たすことを要求している。人間が現実に対して真摯に取り組むには、全てを日常生活に方向付ける必要がある。神を信じる者が日常生活に対して真摯に取り組むこと、自分を知ること、日常生活において正常な人間性を行動で示すことが出来ないならば、その者は落伍者となるであろう。神に従わない者は皆、日常生活に対して真摯に取り組むことが出来ない者である。そうした者は皆、人間性について語るが、行動では悪魔の本性を示すものである。そうした者は皆、真理について語るが、行動では教義を示す者である。日常生活において行動で真理を示すことが出来ない者は、神を信じるが、神に嫌い捨てられる者である。あなたがたは日常生活に対する真摯な取り組みを実践し、自らの欠点と反抗、無知、そして異常な人間性と弱さを知る必要がある。そうすることで、あなたがたの知識は、全て自分の実際の状況や困難と統合される。こうした知識のみが本物であり、あなたがたが自分の状態の把握や性情の変化を実現することを可能とし得るものである。

    『言葉は肉において現れる』の「教会生活と日常生活を話し合うこと」より

    神が用いられる人間は、外見上は不合理であり、他の人々と正常な関係が無いように思われるが、礼儀正しく話をし、無思慮に話をすることは無く、神の御前で常に心を静めておくことが出来る。こうした者は、聖霊により用いられるに十分である。こうした、神の言われるところの不合理な者は、正常な人間関係が無いように思われ、また表面的な愛や実践が無いが、霊的な物事に関する交わりを行っている時、こうした者は心を開き、神の御前での実経験から得た啓示や光を無私になって他者に与えることが出来る。それが、こうした者が神への愛を示し、神の御旨を満たす方法である。他の者全員がこうした者を中傷し、嘲笑すると、こうした者は外部の者や事件、物事により支配されるのを回避することが可能であり、神の御前で静まっていることが出来る。こうした者には独自の洞察があるように思われる。他者とは関係なく、こうした者の心は決して神を離れない。他の者が明るく円満に会話している時、この者の心は依然として神の御前にあり、神の御言葉について考え、黙して心の中で神に祈り、神の御旨を求めている。こうした者は、決して正常な人間関係を維持することを主眼とすることが無い。こうした者には全く人生哲学が無いように思われる。こうした者は、外見上は生き生きとし、愛らしく無邪気であるが、落ち着いた雰囲気もある。これが、神が用いられる人間像である。

    『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

    真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。

    『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より