4. 神の信者がもつべき聖徒らしい品格

関連する神の言葉

正常な人間性にはどのような側面が含まれているのか。識見、理知、良心、品格である。これらの側面それぞれについて正常性を達成できるならば、人間性は基準に達する。あなたは正常な人間の姿を備え、神を信仰する者らしく見えるべきである。過度な達成をしなくてもよく、外交に関わる必要はなく、ただ正常な人間の理知を備え、物事を見通すことのできる正常な人間であるべきであり、少なくとも正常な人間のように見えなければならない。それで十分である。現在あなたに要求されていることはすべてあなたの能力の範囲内である。これはアヒルを止まり木に登らせようとしているのではない。あなたに無駄な言葉や働きが述べられ、行われることはない。あなたの生活において表され明らかにされる醜悪さはすべて排除しなければならない。あなたがたはサタンに堕落させられ、サタンに毒に満ちている。あなたに求められているのは、その堕落したサタン的性質を捨て去ることだけである。高地位にある人物や有名人や偉人になることは求められていない。それは役に立たない。あなたがたに行われる働きは、あなたがたが生来備えているものを考慮している。わたしが人に要求することには限度がある。現在の人が全員、政府の官僚のように振る舞うことを要求され、政府の官僚のような口調で語る練習をしたり、政府高官のような話し方をする訓練をしたり、随筆家や小説家のような口調や身振りで自己表現する訓練をしたりするように要求されたとしたら、それもまたうまくは行かない。それは不可能である。あなたがたの素質を考慮すれば、少なくとも知恵を用い、機転を利かせて話し、物事を明瞭にわかりやすく説明できるべきである。要件を満たすにはそれだけで十分である。少なくとも、識見と理知を身に付ける必要がある。現時点で特に重要なことは、堕落したサタンのような性質を捨て去ることである。あなたは自分に表れる醜悪さを捨て去らなければならない。それを捨てずに、どうして至高の理知や至高の識見について語れるというのか。多くの人は時代が変わったことを知って、慎ましさや忍耐を実践しない。また、愛や聖徒のような品位を備えていないこともありえる。このような人はなんと愚かなことか。彼らには正常な人間性がほんの少しでもあるのか。語るべき証しがあるのか。彼らには識見や理知が一切ない。もちろん、人の実践のうち逸脱していたり誤っている側面は修正する必要がある。たとえば、彼らの過去における硬直した霊的生活や、麻痺した愚かな様相はすべて変わらなくてはならない。変えるということは、あなたを自堕落にさせたり、肉に耽溺したり、言いたいことを何でも言うことではない。だらしなく話してはならない。正常な人間として話し行動するということは、筋の通った話し方をし、「是」なら「是」とだけ、「否」なら「否」とだけ言うことである。事実にそって適切に話しなさい。ズルをしたり、嘘をついてはならない。性質の変化に関し普通の人が達することのできる限界を理解しなければならない。そうしないで現実性に入っていくことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「素質の向上は神の救いを授かるためである」より引用

正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十六章」より引用

わたしには多くの望みがある。あなたがたが適切かつ行儀良く振る舞い、忠実に自分の本分を尽くし、真理と人間性を備え、自分がもつすべてのもの、および自分の命さえも神に捧げられる人になることなどを、わたしは望んでいる。これらの望みはどれも、あなたがたに欠けている物事、そしてあなたがたの堕落と反抗から生じたものである。

『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ導く」より引用

神に用いられる人は、外面的に見ると不合理で、他の人たちと正常な関係をもっていないように見えるが、礼儀正しく話し、軽率に語ることがなく、神の前で常に心を静めておくことができる。そのような人こそ、聖霊によって用いられるにふさわしい。神が語るところのこうした「不合理な」者は、他の人たちと正常な関係をもっていないように見え、外面的な愛や実践にしかるべき配慮を払っていないように見えるが、霊的なことを伝えるときは心を開き、神の前での実経験から得た啓きと照らしを私心なく他の者たちに分け与えることができる。彼らはこのようにして神への愛を表わし、神の旨を満たすのだ。他の人たちがみな彼らを中傷して嘲るときも、彼らは外部の人々や出来事、物事によって支配されずにいることができ、なおも神の前で静まっていられる。そのような人は独自の洞察を有しているように見え、他の人たちが何をしようと、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに面白おかしく喋っているときも、彼らの心は依然として神の前にあり、心の中で神の言葉について熟考したり、黙して祈ったりしながら、神の意図を求めている。彼らは他の人たちとの正常な人間関係を維持することを決して重視しない。このような人は処世哲学をまったくもたないように見受けられる。表面的には陽気で愛想よく無邪気だが、同時に冷静さも備えている。これが、神が用いる人の人間像である。処世哲学や「正常な理知」といったものは、このような人の中でまったく働かない。これが自分の心をすべて神の言葉に捧げ、心に神しかないように見える人である。そのような人が神の言うところの「理知のない」人間であり、神が用いるのはまさにそのような人である。神に用いられている人の印は次の通りである。つまり、いついかなる場所でも心がいつも神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、どれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は決して神を離れず、その人が群衆に付き従うことはない、ということだ。そのような人だけが神に用いられるのに適しており、聖霊によって完全にされる。こうしたことを成し遂げられなければ、あなたには神のものとされ、聖霊によって完全にされる資格はない。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」より引用

真理を持つ人々は、実体験において証しに堅く立つことができ、自分の立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する人々と正常な関係を持つことができ、自分たちに物事が起こった時は完全に神に従うことができ、そして死に至るまで神に従うことができる。実生活におけるあなたの実践と表現は神への証しである。それらは人の生きる道であるとともに神への証しなのであり、これこそが真に神の愛を享受しているということなのだ。この段階まで経験を重ねてくると、しかるべき成果が生み出されている。あなたは実際に生きることができ、そのあらゆる行いに対して他の人々から称賛の目が向けられる。服装や外見が平凡であっても、この上なく敬虔に生きており、神の言葉を伝えるときは神によって導かれ、啓かれる。自分の言葉で神の旨を語ることができ、現実を伝えることができ、霊において奉仕することを深く理解している。話し方は率直で、礼儀正しく高潔で、対立的になることがなく気品があり、物事が降りかかったときは神の采配に従うとともに証しに堅く立つことができ、また、どのような事を取り扱う場合にも穏やかで落ち着いていられる。このような人は真に神の愛を見てきている。その中にはまだ若い人々もいるが、彼らは壮年者のように振る舞う。彼らは成熟しており、真理を自分のものにしていて、他の人々から感心される。彼らは証しをもち、神を明示する人々である。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」より引用

説教と交わりの参考箇所

神を本当に信じる人は、少なくとも次に挙げる霊的生活の五つの側面を毎日実行します。神の御言葉を読むこと、神に祈ること、真理について交わること、聖歌と賛美歌を歌うこと、そして、すべてのことにおいて真理を求めることです。また、あなたが教会生活を送っているなら、より大きな喜びがあることでしょう。人に物事を受け入れる一般的な能力があれば、つまり、自分で神の御言葉を読んだあと神の意図を把握することができるなら、その人は真理を理解でき、どうすれば真理に従って行動できるのかを知るでしょう。そして、このような人が信仰において成功を遂げると言ってよいでしょう。そのような霊的生活をしていない場合、あるいは極めて不適切な霊的生活を送り、霊的生活が断続的にしか存在しない場合、その人は混乱した信者になります。混乱した信者は、本分を尽くす際、良い成果をあげることができません。霊的生活を送ることなく神を信じるということは、ただ口先だけで信仰することです。そのような人々の心の中には神はなく、まして神への恐れなどありません。このような人々がどうして正常な人間の似姿を持つことができるでしょうか。

(中略)

正常な人間のふるまい方に関しては、実践と霊的成長のために留意すべき十の要点があります。

1. 礼儀を守り、規律を知り、老人を尊敬し、若者の面倒を見なさい。

2. 自分自身と他の人たちにとって有益な正しい生活の仕方を心がけなさい。

3. 気品のある端正な服装をしなさい。奇妙な服や派手な服装は禁じられています。

4. どんな理由であれ、兄弟姉妹に頼んでお金を借りてはなりません。また他人の持ち物を気軽に使ってはなりません。

5. 異性に接するときは、節度をわきまえなければなりません。品位と公正をもって行動しなければなりません。

6. 人と口論してはなりません。他の人に辛抱強く耳を傾けることを学びなさい。

7. 衛生状態を良好に保ちなさい。ただし、現実的条件に照らし合わせてそうしなさい。

8. 他者との正しい交わりと関係を築きなさい。人々を尊重し、思いやり、互いに愛し合うことを学びなさい。

9. 困っている人を助けるためにできる限りのことをしなさい。他の人から品物を求めたり受け取ったりしてはなりません。

10. 他の人をあなたのために奉仕させてはなりません。自分が為すべき仕事を他人にやらせてはなりません。

すべての信者は自分の生活の中で最低限この十の規律に従うべきです。これらの規律を破る者は誰でも性格が貧弱です。これらは神の家の規律と呼ぶこともできます。そして、これらの規律を頻繁に破る者は必ず見捨てられます。

真理を追求する者たちは皆、昔の聖徒たちの十の肯定的な品格を模範にして自らを形成する必要があります。これらを定期的に実践し保持する人は、必ず自分の大きな報いを刈り取るでしょう。これらは人類にとって極めて有益です。

聖徒の品格に倣うための十の原則:

1. 毎朝約三十分間、神の言葉を祈りながら読んで霊的デボ-ションを行いなさい。

2. より正確に真理を実践できるように、あらゆることにおいて日々神の意図を求めなさい。

3. あなたが接するすべての人と交わり、互いの長所から学び、互いの短所を補い合いながら、双方が進歩できるようにしなさい。

4. 楽観的な態度で生活し、絶えず聖歌や讃美歌を歌い、神の恵みに感謝しなさい。

5. 俗世間にとらわれてはなりません。常に心の中で神に近づくようにしなさい。また、他人のことに干渉しないようにしなさい。

6. 心の中に知恵を保ち、邪悪な場所や危険な場所から離れなさい。

7. 人と口論してはなりません。真理について交わり、他の人と仲良くしなさい。

8. 全てを尽くして喜んで他人を助け、彼らの悩みを軽減し、神への信仰に入る際、彼らが困難を解決できるよう助けなさい。

9. どのように他の人に従うべきか学びなさい。人々を支配したり、彼らに強制したりしてはなりません。あらゆることにおいて人々が恩恵をこうむるようにしなさい。

10. 心の中で絶えず神を礼拝し、すべてのことにおいて神が主権を握るようにはからい、あらゆることにおいて神を満足させなさい。

上に挙げた生活のための十の原則と聖徒の品格に倣うための十の方法は、すべて人々が実行できることです。それらを理解する限り、人々は実践することができ、たまに犯す過ちを解決するのは難しいことではありません。もちろん、非常に貧弱な人性を持つ特定の人々は例外です。

兄弟の交わりより引用

正常な人性とは、主に良心、理性、品性、そして尊厳を持つことを指します。良心と理性には、寛容さを示すこと、忍耐をもって他人に接すること、誠実であること、他の人との交わりにおいて知恵を持つこと、兄弟姉妹への真の愛を持つことなどが含まれます。これらが正常な人性の中に含まれるべき五つの条件です。

第一の条件は、寛容な心を持つことです。兄弟姉妹にどのような欠点が見られても、私たちは寛容と理解を示して、彼らを正しく扱うべきです。私たちは彼らを排除したり、厳しく非難したりしてはなりません。他の人々の欠点や堕落が露わになった時は、今は神の救いの働きの期間であることを心に留めるべきです。ですから、神の選びの民の堕落が明らかにされるのは当然であり、私たちはそれを理解してあげるべきです。それはさておき、私たちは自分自身の堕落に目を留める必要があります。私たち自身に明らかにされる堕落は、必ずしも他の人よりも少ないわけではありません。私たちは他の人に明らかにされた堕落を、私たち自身の堕落とまったく同様に扱うべきです。そうすれば私たちは他の人にも寛容を示すことができます。他の人に寛容になることができないなら、あなたの理性に問題があることになります。それはまた、あなたが真理を理解しておらず、神の働きを知っていないということを示しています。神の働きを知らないということはどういう意味でしょうか。それは、神の働きがまだ終わっておらず、人間がまだ神の救いの働きの期間に生きているということを認識しないことです――私たちはまだ完全にされていません。したがって、必然的にすべての人の堕落が明らかにされるのです。今、誰もが真理を正しく追求し、自分自身の堕落を理解し、神の言葉を体験しています。誰もが真理に入る過程の中にあり、まだ真理を完全には得ていません。人々が真理を得た時、初めて命の性質が変わり始めるのです。人々がこの点を把握する時、彼らは正常な人間の理性を持つようになり、他の人を理性的に扱うようにもなります。人々に理性が欠けているなら、彼らは誰をも理性的に扱わないでしょう。

第二の条件は、他人に対して忍耐を実践することです。単に寛容であるだけでは不十分です。あなたはまた忍耐強くなければなりません。時には寛容と理解を示すだけでよいですが、必ずある兄弟または姉妹があなたを傷つけたり憤慨させたりするようなことをするでしょう。このような状況では、人間の堕落した性質が突発し易いです。なぜなら、私たちはみな争って自分の誇りを守るのを好み、自己中心で虚栄心があるからです。だから誰かがあなたを傷つけることを言ったり、あなたを憤慨させるようなことをするなら、忍耐強くなければなりません。忍耐も理性の範疇に含まれています。理性がなければ、人々が忍耐を養うことはありません。しかし私たちは、どうすれば忍耐強くなれるでしょうか。他人に対して忍耐強くなりたいのであれば、まず彼らを理解する必要があります。つまり、あなたを傷つけるようなことを言う者が誰であれ、まず次のように認識すべきです。「彼の言葉は私を傷つけた。彼の言ったことは私の欠点を露わにし、私に向けられているようだった。彼の言葉が私に向けられているなら、彼は何を言いたいのだろうか。私に危害を加えようとしているのだろうか。彼は私を敵と見なしているのだろうか。私を憎んでいるのだろうか。私に復讐しようとしているのだろうか。私は彼を憤慨させたことはないので、その答えが『然り』であることはあり得ない。」そういう場合は、この兄弟または姉妹が何を言ったとしても、あなたを傷つけたり、あなたを敵として扱う意図はなかったことになります。それは確かです。それらの言葉を言った時、彼らは単に正常な人間が考えることを表現していただけなのです。彼らは真理について交わり、認識について議論し、人々の堕落を暴露し、あるいは彼ら自身の堕落した状態を認めていたのです。意図的に特定の個人を対象にしてはいなかったはずです。まず理解を示してあげると、あなたの怒りは消え去り、忍耐を得ることができます。「誰かが私をわざと攻撃して標的にし、何らかの目的を達成するために意図的にそのようなことを言うなら、どうして忍耐などできるだろうか」と尋ねる人もいるでしょう。あなたは次のように忍耐すべきです。「たとえ誰かが意図的に私を攻撃しても、私はなおも忍耐すべきだ。なぜなら彼らは私の兄弟姉妹であり、私の敵ではなく、決して悪魔であるサタンなどではないからだ。兄弟姉妹が何らかの堕落を露わにし、心に何か意図を抱くことは避けられない。これはあたりまえなのだ。私は理解を示し、同情し、忍耐しなければならない。」あなたはこのように考え、次のように神に祈るべきます。「神よ、誰かが今私の誇りを傷つけました。私は面目を失うのを受け入れることができません。私はいつも腹が立って我慢できなくなり、彼らに言い返さずにはおられません。これはまことに堕落の現れです。私には他の人への愛があるといつも思っていましたが、今ある人の言葉が心に突き刺さり、私は耐えられません。私は言い返して、復讐したいのです。私の愛はどこに行ってしまったのでしょうか。これはすべてただの憎しみではないでしょうか。私の心の中にはまだ憎しみがあるのです。神よ、あなたが私たちを憐れみ、私たちの罪過を赦してくださるように、私たちも他の人たちを憐れむべきです。他の人に恨みを抱くべきではありません。神よ、私を守ってください。私の本性が悪化しないようにしてください。私はあなたに従い、あなたの愛の中に生きたいと思っています。私たちは何をやっても、キリストと神に背き抵抗してばかりいますが、キリストはそれでも私たちに忍耐してくださいます。神は多大な忍耐と愛をもって、この段階の働きを実行しておられます。キリストはどれほど多くの苦しみ、屈辱、罵りに耐えなければならなかったことでしょう。もしキリストが忍耐できたのであれば、私たちに要求されるほんの少しの忍耐などは何でもありません。キリストの忍耐に比べると、私たちは信じられないほど忍耐に欠けています……」このように祈るなら、あなたは自分があまりにも堕落し、あまりにも取るに足りない者であり、あなたの霊的背丈はあまりにも足りないと感じるでしょう。そしてその時、あなたの怒りは消えるでしょう。このようにして、あなたは忍耐をやしなうことができるのです。

第三の条件は、誠実に人を扱うことです。人々に対して誠実であるということは、それが他の人を助けることであれ、兄弟姉妹に奉仕することであれ、真理について交わりを持つことであれ、私たちは、何をしているかに関わらず、本心を話すべきです。さらに、あなたがそうしていないのなら、そうすることについて説教してはなりません。兄弟姉妹たちが私たちの助けを必要とする時は、いつでも助けるべきです。私たちが尽くすべき本分が何であれ、それを尽くすべきです。真実を尽くしなさい。偽ったり装ったりしてはなりません。……もちろん、誠実な人間であるためには、ある人たちを取り扱う時、多少の知恵が必要です。彼らの堕落が深すぎて彼らを信用することができず、彼らを見とおすことができず、彼らが何をするのか分からないなら、その時は知恵を使って、彼らに何もかも話すのは控える必要があります。誠実な人であるには原則が必要とされます。話すべきではないことをむやみに話してはいけません。さらには、誠実な人であるには、理性と礼儀をもって話すことが必要とされます。ある人たちは、どんなに忙しくても、誠実を実践し、誰かに心を開くことを主張します。どうしてそれが誠実な人間であることの実践になるでしょうか。それは愚かではありませんか。誠実な人間であることとは愚か者になることではありません。それは聡明で、単純かつ心を開き、欺瞞がないことです。あなたは正しく理性的でなければなりません。誠実さとは理性という基礎の上に築き上げられます。これこそが、人々を扱う時に誠実を尽くし、誠実な人間であるということの意味です。もちろん、誠実な人間である上で最も重要なことは、神に対して誠実であることです。もしあなたが他人の前だけで誠実で、神の前では誠実でなく、神を欺くのであれば、それは大きな問題ではないでしょうか。神の前で誠実な人になろうとするならば、あなたは自然に他人の前でも誠実になるでしょう。神の前で誠実になれないなら、他人の前で誠実になることはとうていできません。真理のどのような側面、あるいはどのような肯定的な事柄に入るかに関わらず、まず神の前でそれをしなければなりません。いったん神の前で成果を遂げたなら、あなたは自然に他の人の前でもそれを生かすことができるでしょう。他の人の前で、これをしようあれをしようと無理するのではなく、あなたが神の前でしたいことは何でも自由にやりさい。無理してもどうにもなりません。最も重要なことは、人間を試し彼らの心を探る神の前でそれを為すことです。あなたが神の前でこの試験に合格することができれば、あなたは本当に現実を持ちあわせていることになります。神の前でこの試験に合格できなければ、あなたは現実を持ちあわせていません――これこそが真理を実践するための原則です。

第四の条件は、知恵を持って人と接することです。「兄弟姉妹と接するのに知恵など必要だろうか。」と言う人たちもいます。そうです。知恵を使うことは、兄弟姉妹にとってはなおさら有益であるため、必要です。「兄弟姉妹に対して知恵を用いることは狡猾であることではないだろうか。」と尋ねる者もいます。知恵は狡猾さではありません。むしろ、それは狡猾とは正反対のものです。知恵を使うということは、兄弟姉妹の霊的背丈が低い時に、彼らがあなたの言うことを受け入れられない場合を考慮して、彼らとの話し方に注意を払うことを意味します。また、霊的背丈が低い者、特に真理を持っていない者、いく分堕落を露わにし、いく分堕落した性質を持っている者たちに対して、あなたが単純に心を開きすぎて何もかも話すなら、彼らは簡単にあなたの足元に付け込むか、あなたを利用するかもしれません。だから、あなたは多かれ少なかれ事前に注意を払って、話す時にはある程度の技量を身につけていなければなりません。しかしながら、人々に対して慎重であるということは、彼らを助けないという意味でも、彼らへの愛がないという意味でもありません――ただそれは、神の家に関する幾つか重要なことはすぐには伝えないで、単に真理を伝えることを意味します。彼らが命において霊的な助けを必要とし、真理の糧を必要とするならば、私たちはこの点においては、能力の限りを尽くして彼らを満足させねばなりません。しかし彼らが神の家のことについて、あるいは指導者や働き人のことについてあれこれ尋ねるなら、それを教える必要はありません。彼らにそれを教えるなら、この情報を漏らす可能性があり、これは神の家の働きに影響を与えます。言い換えれば、もしそれが彼らの知るべきでないこと、または知る必要のないことであれば、彼らに知らせてはなりません。もしそれが彼らの知るべきことであれば、何もためらうことなく具体的に、全力を尽くして伝えなさい。それでは、彼らが知るべきこととは何でしょうか。人々が知るべきこととは真理の追求です――どのような真理を彼らは身につけているべきか、真理のどのような側面を理解すべきなのか、どのような本分を尽くすべきなのか、彼らにはどのような本分が尽くすに適しているのか、それらの本分をどのように尽くすべきか、どのようにして正常な人性を生きたらよいのか、どのようにして教会生活を送ればよいのか――これら全部が人々の知るべきことなのです。一方、神の家の規律や原則、教会の働き、兄弟姉妹の状態などは、外部の者やあなたの家族の未信者たちに軽々しく打ち明けてはなりません。これは私たちが知恵を用いる際守らなければならない原則です。たとえば、あなたの指導者の名前や、彼らがどこに住んでいるかなどについては決して話すべきでありません。これらのことについて話すなら、その情報がいつ未信者の耳に入るのか決して分かったものではないし、それが悪質なスパイや秘密諜報員などの手に渡れば、大きな問題になる可能性があります。これは知恵を要します。そしてこれこそが、知恵を持つことが極めて重要だと私が言う理由です。さらに、あなたが単純で心を開いていても、誰にも話せないプライベートなこともあります。あなたは、兄弟姉妹に話した後、彼らが不信仰であるかどうか、また、あなたが語ったことについて冗談を言い、それを言いふらしてあなたに問題を引き起こし、あなたの品位に傷を付けるようなことにならないかどうかを見極めるために、彼らの霊的背丈を見定めなければなりません。これが単純で心を開くことにおいても知恵が必要とされる理由です。これが正常な人性のために絶対に持っていなければならない第四の条件です――すなわち、あなたが人と接する際に知恵を持つことです。

第五の条件は、本当に神を信じる兄弟姉妹たちへの真の愛を持つことです。これには多少の思慮と実際の援助と奉仕の精神が必要とされます。私たちは真理を追求する兄弟姉妹たちと特に交わりを深め、彼らにより多くの糧を与えなければなりません。彼らが信じて間もないか、信じて何年にもなるのかは問題ではありません。教会生活にはある特定の原則があります。つまり、真理を追求する者たちに特に心を配ること、また彼らとの交わりを深め、より多くの糧と水を与えて、なるべく早く彼らに手を差しのべて、彼らが命においてできるだけ早く成長できるようにすることです。真理を追求しない者たちに関しては、しばらく水をやった後に彼らが真理を愛していないことが明白になるなら、彼らにあまり多くの労力を費やす必要はありません。すでにあなたは人間的に可能なことはすべてやったのだから、それは必要ありません。あなたが自分の責任を果たしたなら、それで十分です。……あなたは自分の働きを誰に集中させるべきかを見極めなければなりません。神は真理を追求しない者を完全にされるでしょうか。もし聖霊が人々を完全にしないのなら、彼らは何故やみくもに続ける必要があるでしょうか。あなたは聖霊の働きを理解していないのに、いつも自信ありげです――それは人間の愚かさと無知ではありませんか。とにかく、真理を本当に追求している兄弟姉妹たちをさらに援助しなさい。なぜなら彼らは神の救いの対象であり、神が予め定めた者たちだからです。私たちがこれらの人々と心と思いを一つにして、もっと頻繁に真理について交わり、お互いに支え合い糧を与えるなら、最終的に私たちはみな救いを得るでしょう。もしこれらの人々と一緒に歩まないのなら、あなたは神の旨を裏切ることになります。……教会内の正常な人性を持っている人たちは、真理を追求する者たちの間に身を置き、調和しながら彼らと交わり、真理を追求することを通して、心と思いを一つにして徐々に自らを神のために費やすべきです。こうして真理を追求する者たちは救われ、あなたもまた救われるでしょう。なぜなら、聖霊は真理を追求する者たちの間で働かれるからです。……

私たちは今、正常な人性の中に備え持っていなければならない五つの側面について交わったところです。あなたがこれら五つの特性をすべて備え持っているなら、あなたは兄弟姉妹たちと調和して交わり、教会内での自分の位置を見つけ、あなたの能力を最大限に発揮して本分を尽くすことができます。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

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