5. 神への信仰は平和と祝福を求めるためだけであるべきではない

関連する神の言葉

初めて神を信じたあと、人が得てきたものは何か。あなたは神について何を知るようになったのか。神への信仰により、あなたはどれほど変わったのか。今日、あなたがたはみな、人による神への信仰は単に魂の救いと肉の幸福のためではなく、神の愛を通して自分の人生を豊かにさせるためなどでもないことを知っている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的な快楽のために神を愛するなら、たとえ最後に神に対するあなたの愛が頂点に達し、あなたがそれ以上何も求めないとしても、あなたが求めるこの愛は依然として不純な愛であり、神には喜ばれない。自分のつまらない存在を豊かにし、心の空虚さを埋めるために神を愛する人は、楽な生き方に貪欲な人であって、神を真に愛することを求める人ではない。このような愛は強いられたものであり、精神的満足を追求するものであって、神はそれを必要としない。では、あなたの愛はどのようなものか。あなたは何のために神を愛するのか。まさにいま、あなたの中には神に対する真の愛がどれほどあるのか。あなたがたの圧倒的多数が抱いている愛は先に述べた通りのものである。このような愛は現状を維持することしかできず、不変性を得ることも、人に根づくこともできない。この種の愛は、花が咲いても実をつけず、そのまましおれてしまう花のようでしかない。言い換えると、そのような形で神を愛しても、誰かがその道を導いてくれなければ、あなたは崩れ落ちてしまう。神を愛する時代に神を愛せるだけで、その後もいのちの性質が変わらないままなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、そこから逃れることができず、サタンの束縛とたくらみから自由になることもできないままである。そのような人が完全に神のものとなることはできない。最終的に、その人の霊、魂、体は依然としてサタンに属している。このことに疑いの余地はない。完全に神のものとされることができない人は、残らず自分の本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神による次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄の池に落ちるのである。神のものとされる人は、サタンを捨て去ってその支配下から逃れる人のことである。そのような人は正式に神の国の民として数えられる。神の国の民はこのようになるのである。

『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」(『言葉』第1巻)

今日、実際的な神を信じるには、正しい道を歩まなければならない。神を信じるなら、祝福を求めるだけでなく、神を愛し、神を知るべきである。神の啓きを通して、自己による追求を通して、神の言葉を飲み食いし、神についての真の認識を育て、心の底から真に神を愛することができる。言い換えれば、神への愛がまことに真実なもので、神への愛を誰も破壊したり邪魔したりすることができないとき、あなたは神を信じる正しい道を進んでいる。これは、あなたが神に属していることを証明する。なぜならあなたの心はすでに神が所有し、それ以外はあなたを所有できないからである。経験を通して、払った代償を通して、神の働きを通して、あなたは神への不断の愛を育てることができる。そうすれば、あなたはサタンの影響から解放され、神の言葉の光の中に生きるようになる。闇の影響から自由になって初めて、あなたは神を得たと言うことができる。あなたは、神の信仰において、この目標を追求しなければならない。これは、あなたがた一人一人の本分である。あなたがたは一人として現状に満足するべきではない。あなたは神の働きに対して迷うことはできないし、それを軽視することもできない。あらゆる点において、常に神を思い、何をするにも神のために行わなければならない。そして、話したり行動したりするときはいつでも、神の家の利益を優先すべきである。そうしてはじめて、神の心に叶うことができる。

『神の出現と働き』「神を信じるなら真理のために生きるべきである」(『言葉』第1巻)

神に仕える者は、神のためにどう苦しむべきかを知るだけでなく、それ以上に、神を信じる目的は神への愛を追い求めることだと理解しなければならない。神があなたを用いるのは、単にあなたを精錬したり、苦しませたりするためでなく、むしろあなたが神の業を知り、人生の真の意義、とりわけ、神に仕えることが容易な業ではないことを知るようにするためである。神の働きを体験することは、恵みを享受することでなく、むしろ神に対する自分の愛のために苦しむことに関係している。あなたは神の恵みを享受しているのだから、神の刑罰も享受しなければならない。そのすべてを経験しなければならないのである。あなたは自分の中における神の啓きを経験できるが、自分に対する神の取り扱いと裁きも経験できる。このように、あなたの経験は包括的なのである。神はあなたに裁きと刑罰の働きを行なった。神の言葉はあなたを取り扱ったが、それだけでなく、あなたを啓いて照らしもした。あなたが否定的かつ弱くなったとき、神はあなたのことを心配している。この働きはどれも、人間に関するすべてのことが神の指揮下にあることをあなたが知るようにするためである。あなたは、神を信じるとは苦難を受けること、または神のためにありとあらゆることを行なうことだと考えているかもしれないし、神を信じる目的は自分の肉が平和であるため、人生において万事が順調に進むため、あるいは自分があらゆることにおいて快適かつ気楽でいられるためだと思っているだろう。しかし、これらの目的はどれも、神への信仰に付随させるべきではないものである。あなたがそうした目的のために信じているのであれば、あなたの見方は誤りであり、あなたが完全にされることは不可能である。神の業、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の不思議さと計り知れなさは、どれも人々が認識すべきことである。そうした認識をもち、またそれを使うことで、自分の個人的な要求、希望、および観念を心の中から残らず取り除きなさい。これらのことを排除して初めて、あなたは神から求められる条件を満たすことができる。そうすることでのみ、あなたはいのちを得、神を満足させられるのである。神を信じる目的は、神を満足させ、神が求める性質を生きることで、神の業と栄光がこの無価値な人々の集団を通じて示されるようにすることである。これが神を信じる正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは神を信じることについて正しい観点をもち、神の言葉を得ることを求めなければならない。神の言葉を飲み食いし、真理を生きられるようにならなければならず、とりわけ神の実際の業、全宇宙を通じて為される神の素晴らしい業、そして、神が肉において行なう実践的な働きを見られるようになる必要がある。人は実際の経験を通じ、神が自分にどう働きを行なうのか、自分に対する神の旨が何かを理解することができる。それはどれも、人々の堕落したサタン的性質を排除するのが目的である。自分の中にある汚れと不義を一掃し、誤った意図を取り除き、神に対する真の信仰を育んだ後、真の信仰をもつことでのみ、あなたは神を真に愛することができる。神への信仰を基礎としなければ、あなたは本当に神を愛することができない。神を信じることなく、神への愛を実現できるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについて混乱してはならない。中には、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを知るやいなや、活力に満ち溢れるものの、精錬を受けなければならないことを知ったとたん、すべての精力を失う人がいる。それが神を信じることなのか。最終的に、あなたは自分の信仰において、神の前で完全無欠の服従を成し遂げなければならない。あなたは神を信じているが、依然として神に要求を行ない、捨てきれない宗教的観念、諦めきれない個人的な利益が数多くあり、いまだに肉の祝福を求め、神が自分の肉を助け出し、自分の魂を救うことを望んでいる。これらはみな誤った観点をもつ人々の振る舞いである。宗教的な信念をもつ人々は、神を信仰してはいるものの、自分の性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益しか求めない。あなたがたの多くは、宗教的信念の範疇に属する信仰をもっている。それは神に対する真の信仰ではない。神を信じるには、神のために苦しむ覚悟がある心と、自分を捧げる意志をもっていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、神に対するその人の信仰は無効であり、性質の変化を成し遂げることはできない。心から真理を追い求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人だけが、真に神を信じる者である。

『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)

今やあなたがたは、神への信仰とは何かを理解したであろうか。神への信仰は、しるしや不思議を見ることを意味するであろうか。それは天国に昇ることを意味するであろうか。神を信じることは簡単なことでは絶対にない。あのような宗教的慣行は、一掃されるべきである。病人の癒しや悪魔の追放を求めること、しるしや不思議を重視すること、神の恵みや平和や喜びをさらに欲しがること、明るい未来や肉の快楽を求めること、これらは宗教的慣行であり、そのような宗教的慣行は、漠然とした信仰の種類である。今日の実際の神への信仰とは何なのか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのち現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確に言うならば、すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、神への信仰における最低必要事項である。神への信仰はおもに、肉の生活から神を愛する生活への転換、堕落の中の生活から神の言葉のいのちにおける生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰はおもに、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためのものである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見たいという願望を中心とせず、個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死ぬまで神に従うことを追求することでなければならない。これが、神への信仰の主要な目的である。神の言葉を飲み食いするのは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲み食いすることは、神についてのより大きな認識をもたらす。そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。神についての認識があってはじめて、あなたは神を愛することができ、そしてそれが、人が神への信仰において持つべき目標である。もし、神への信仰において、いつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、おもに、いのち現実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を実行することでのみ、神の目的は達成される。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされるように、神に服従することができるように、神に完全に従順でいられるように努力すべきである。もし不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するのである。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

神に対する自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいはわずかな苦難も招かないことを、あなたは望む。そうした無価値なものを常に追い求め、いのちの価値を一切認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値もない。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚や犬とのあいだに、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちはみな、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちはみな、生ける屍ではなかろうか。あなたがたのあいだでどれほど多くの言葉が語られたのか。あなたがたのあいだで行われた働きは、ほんの少しなのか。あなたがたのあいだで、わたしはどれくらい与えたか。それなのに、あなたがそれを得ていないのはなぜなのか。あなたは何が不満なのか。肉を愛し過ぎているので、何も得られなかったということではないのか。そしてその原因は、あなたの考えが突飛過ぎるからではないのか。また、あなたが愚か過ぎるからではないのか。これらの祝福を得られなければ、自分が救われなかったことを神のせいにできるのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか。豚は人生も、清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは依然それを得ていない。つまり手ぶらである。このような生活、つまり豚の生活を続けることを、あなたは望んでいるのか。このような人々が生きていることの意味は何か。あなたの生活は軽蔑すべきもの、恥ずべきものであり、あなたは汚れと放蕩の中で暮らし、何の目標も目指していない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのか。このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求によって決まる。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

今日、あなたはどれほど神を愛しているのか。また、神があなたに行なったすべてのことのうち、あなたはどのくらいを知っているのか。これらがあなたの学ばなければならないことである。神が地上に来るとき、人に行なったすべてのこと、そして人に理解させたすべてのことは、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛のおかげであり、別の意味では神の救いのおかげ、さらには神が人に行なった裁き、そして刑罰の働きのおかげである。神の裁き、刑罰、試練がなく、神があなたがたを苦しめていなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人に為された神の働きが偉大であればあるほど、そして人の苦しみが大きければ大きいほど、神の働きがどれほど意義深いかが明らかになり、その人の心は真に神を愛することができる。あなたはどうすれば神の愛し方を学べるのか。苦痛や精錬、つらい試練がなければ、さらに、神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけだったなら、神を真に愛するところまで達せるだろうか。神による試練の中、人は自分の欠点を知り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、同じく神による試練の中、神は人間のために様々な環境を創り、人が神の素晴らしさをより良く経験できるようにする。苦痛は大きく、時として乗り越えられないこともあり、打ち砕くような悲しみに達することさえある。しかし、人はそれを経験することで、自分における神の働きがいかに素晴らしいかを知り、またそれを基礎とすることでのみ、自分の中に神への真の愛が生まれるのである。今日、神の恵みと愛と慈悲だけでは真に自己認識することができず、ましてや人の本質を知るなど不可能であることを、人は理解している。神の精錬と裁きによってのみ、また、精錬それ自体の過程においてのみ、人は自分の欠点を知り、自分に何もないことを知る。このように、神に対する人の愛は神の精錬そして裁きという礎の上に築かれる。もしもあなたが神の恵みだけを享受し、平和な家庭生活や物質的な祝福があるのであれば、あなたは神を得ておらず、神への信仰が成功したとは考えられない。神はすでに肉における恵みの働きの一段階を行なっており、人に物質的な恵みを授けてきたが、人は恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は自分の経験の中で神の愛の一部と出会い、神の愛と慈悲を知っているが、一定期間経験すると、神の恵みと愛と慈悲が人を完全にすることはできず、人の中にある堕落を明らかにすることも、その人の堕落した性質を取り除くことも、その人の愛と信仰を完全にすることもできないのだと理解する。神による恵みの働きは一時の働きであり、人は神を知るにあたり、神の恵みを享受することには頼れないのである。

『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)

神に付き従う者の多くは、どのようにして祝福を受けるかや、いかにして災いを避けるかということだけに気を揉んでいる。神の働きや神の経営と聞くと、彼らはとたんに口を閉ざし、興味を失う。そうした退屈な問題を理解したところで、いのちに成長に役立つわけでも、何らかの益をもたらすわけでもないと思い込んでいるので、神の経営について聞いてはいても、ほとんど注意を払わない。受け入れるべき大切なことだとは見ておらず、まして、自分のいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの単純な目的しか持っていない。その目的とは祝福を受けることである。このような者たちは、その目的に直接関係しないその他一切のことに、わざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じて祝福を受け取ること以上に正当な目標はなく、それがまさに彼らの信仰の価値なのである。その目的に貢献しなければ、彼らはそれにまったく心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。そのような者たちの目的や意図は、もっともらしく見える。神を信じ、また神のために費やし、神に身を捧げ、本分を尽くすからである。青春を犠牲にし、家族と職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目標のために自分の関心のありどころを変え、人生観を変え、求める方向までも変える。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分自身の理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に遭おうとも、頑張り抜いて死をも恐れない。彼らはどんな力に突き動かされて、そのような形で献身を続けるのか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しするという信念だろうか。神の旨を実現させるためならすべてを喜んで捨てるという忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを理解していない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただただ奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げてきたかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの振る舞いは分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人がそれほどまでに神のために捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題が見つかる。つまり、人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある。物事がこういう状態に至った今、誰がこの趨勢を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになったかを、どれほどの人が本当に理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

人類による神への信仰の最も悲しい点は、神の働きのただ中で人間が自分自身の経営を行い、神の経営に注意を払わないことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を崇めることを追求するのと同時に、自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎まれて当然の哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分のことだけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、神の経営を完成させる者を神は必要としている。神の経営の働きに全身全霊を傾け、それによって神に服従する人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者を必要としない。まして、わずかなものを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者など無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる冷血な人を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人を、神は嫌悪する。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようと望んでいることに関心を持ったことがないからである。そのような人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気を揉んでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分の前途と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神が人類を救う方法や、神の旨についてまるで関心がない人は、神の経営の働きとは無関係な形で好き勝手なことをするばかりである。彼らの行動は、神によって記憶されず、認められず、まして神から好意的に見てもらえることなどない。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

今、あなたは何を追い求めるべきか。あなたが神の働きを証しできるかどうか、神の証しと顕示になれるかどうか、神によって用いられるのにふさわしいかどうかが、あなたの求めるべきことである。神はあなたの中で、実際にどれほどの働きを行なってきたのか。あなたはどれほど見て、どれほど触れたのか。どれほど経験して味わったのか。神があなたを試したかどうか、取り扱ったかどうか、あるいは懲らしめたかどうかにかかわらず、神の業と働きがあなたに対してなされてきたのである。しかし、神を信じる者として、そして神によって完全にされることを進んで追い求める者として、あなたは自分の実際の経験を基に、神の働きを証しできるのか。自分の実際の経験を通じ、神の言葉を生きることができるのか。自分の実際の経験を通じ、他の人々に糧を施し、自分の生涯を捧げて神の働きを証しすることができるのか。神の働きを証しするには、自分の経験、認識、そして支払った代価に頼らなければならない。そうすることでのみ、あなたは神の旨を満たすことができる。あなたは神の働きを証しする者なのか。あなたにそうした志があるのか。神の名、さらには神の働きを証しすることができ、神が自身の民に求める姿を生きることができるなら、あなたは神の証しをする人である。あなたは実際に神をどう証しするのか。それには、神の言葉を求め、それを生きることを切望し、また自分の言葉で証しを行ない、人々が神の働きを知り、神の業を見られるようにしなさい。そのすべてを心から求めるなら、神はあなたを完全にする。神によって完全にされ、最後に祝福されることしか求めないのであれば、あなたの神への信仰に対する見方は純粋ではない。あなたは実生活において神の業をどう見るべきか、神の旨が示されたときに神をどう満足させるべきかを追い求め、神の不思議と知恵をどう証しするべきか、神が自分を懲らしめ取り扱うことをどう証しすべきかを探し求めるべきである。これらはすべて、今あなたが熟考しているべきことである。神に対するあなたの愛の目的が、神によって完全にされた後、神の栄光に預かれるようになることだけであれば、それはまだ不十分であり、神の要求を満たせない。実践的な形で神の働きを証しし、神の要求を満たし、神が人々に行なう働きを経験できなければならないのである。苦痛であれ、涙であれ、あるいは悲しみであれ、あなたはそのすべてを実践の中で経験しなければならない。それらの目的は、神の証しをする一人としてあなたを完全にすることである。今、あなたはいったい何のために苦しみ、完全にされることを求めるよう強いられているのか。あなたの現在の苦しみは本当に神を愛して神の証しをするためなのか。あるいは肉の祝福のため、自分の将来的な見込みと運命のためなのか。あなたの意図、動機、そして追い求める目標はすべて正される必要があり、それらを自分の意志で導くことはできない。

『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)

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神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をそ…

質問 2:私は神を見たことがないし、神のどのように働いたり世界を支配しているのかも見たことがない。私には神を認識して受け入れるのは難しい。私の長年の宗教研究からは宗教的信仰は精神的な栄養に過ぎないと思います。人類の精神的空洞を埋めるものです神を信じる人たちも最終的には皆死にますね。そして死んだ人のうちだれが天国に行って誰が地獄に落ちたのかなんて誰も知らないのです。全ての宗教的信仰は非常に曖昧で非現実的です。科学が発達し人類が進歩するにつれ、宗教的信仰なんてものは捨てられ消えていくでしょう。我々はまだ科学は信じなければなりません。科学こそが真理であり現実です。これはだれも否定できません。科学はまだ神を否定していませんが、神の存在を証明もしていません。もし科学が神の存在を証明し、神がすべてを支配していることも証明出来たら神を信じることはできます。我々共産主義者は科学を信じるのです。科学を信じ発展させることによってのみ人間社会は進歩するのです。科学は人間社会の問題を沢山解決することが出来ます。神を信じることによって人は何を得られますか? 一時的な精神的な安心以外に何の役に立つのですか。実際的な問題には何の役にも立ちませんよね。従って科学を信じたほうが神を信じるよりずっと現実的です。私たちは科学を信じなくてはなりません。

回答:無神論は何よりも科学を重んじます。科学を真理や信仰のように扱うほどです。科学がもし真理ならば何故多くの科学的理論が確立されても、すぐにまた反論され無効にされるのですか? これは科学が真理などではないことの裏付けではありませんか。科学は人間社会の最も現実的な問題を解決できます…

質問 2:全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

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