神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

目次

第7章 新しい信者によって理解されるべき最低限の真理のいくつかの他の側面

4.神への信仰は平和と祝福を求めるためだけであるべきではない

今日、実際の神を信じるので、正しい軌道に乗らなければならない。神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが本来の目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、無感動である。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで解明していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。従業員は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろう。どれほどの人が、こうした関係がいかに絶望的なものになっているかを、ほんとうに理解できるのだろう。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずだ。

人間の神に対する信仰の最も悲しい点は、神が働きをしている最中に自分なりの経営をしていて、神の経営そのものには無関心なことだ。人間の最大の欠点は、神に服従することを求め礼拝していると同時に、自分なりの理想の終着点を建て上げ、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。

『言葉は肉において現れる』の「信者はどんな見解を持つべきか」より