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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第7章 新しい信者によって理解されるべき最低限の真理のいくつかの他の側面

今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、神に愛されておらず、将来は暗いと考えている。一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難く、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬され、神を満足させることができないと感じるであろう。神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあると感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。誘惑を受けたら、「私の心は神のものであり、神は既に私を得た。私はあなたを満足させることはできない──私のすべてをもって神が満足されるようにしなければならない」と言うべきである。神を満足させるほど、神はあなたに祝福を与え、神へのあなたの愛は強くなる。そして、信仰と決意を持ち、神を愛して生きることほど価値や意義があるものはないと思うであろう。神を愛すれば、悲しみがなくなるとも言える。肉が弱く、多くの深刻な問題に悩む時があっても、その間あなたは真に神に頼り、霊の内に慰めを得、確信を持ち、頼るものがあると感じるであろう。このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ、降りかかる苦しみのために神に対し不平を言うことはないであろう。あなたは歌い、踊り、祈り、集って交わり、神のことを考えたいと思うであろう。そして、あなたの周囲にある、神によって整えられたすべての人々や物事はふさわしいものと感じるであろう。もしあなたが神を愛さないならば、見るものすべては退屈で、何も目を楽しませるものはない。霊にあっては自由がなく虐げられており、心では常に神に不平を言い、また、あまりにも悩みが大きく、あまりにも不当だと常に感じるであろう。幸福のために追求するのではなく、神を満足させ、サタンにそしられないために追求するのであれば、そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる。人は神によって語られたすべてを為すことができ、人が為すすべての事は神を満足させることができる──これが現実性を持つということである。神を満足させることを追求するのは、神への愛をもって神の言葉を実践することである。いかなる時も──他者に力がない時でも──あなたの内にはまだ神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心がある。これが現実の霊的身丈である。霊的身丈は、神への愛がいかに強いか、試練を受けたときにいかに堅固に立ち続けられるか、ある状況に陥った時に弱いかどうか、兄弟姉妹に受け入れられない時にも自分の立場を守れるかどうかにより決まる。現れる事実により、あなたの神への愛が実際どういうものであるかがわかるであろう。神の働きの多くから、神が本当に人を愛していることが理解できるが、人の霊の目は未だ完全には開いておらず、神の働きの多く、神の旨、そして神についての多くの素晴らしい事が見えないのである。神に対する人の真の愛はあまりにも小さい。あなたはずっと神を信じてきて、今日神は逃れる手段をすべて取り除いてしまった。現実的に言うと、あなたには正しい道を進むしか選択肢はない。その正しい道とは、神の厳しい裁きと最高の救いによりあなたが導かれてきた道である。苦難と精錬を経験して初めて、人は神の素晴らしさを知るのである。今日までの経験により、人は神の素晴らしさの一部を知るようになったと言える──しかし、人はあまりに不完全であるため、それでもまだ不十分である。神の素晴らしい働きと神がもたらすあらゆる苦しみの精錬を、人はさらに経験しなければならない。そうして初めて、人のいのちの性質を変えることができるのである。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

現在、殆どの者が神を信じているが、正しい道に未達である。こうした者は、依然として空虚感と倦怠感を強く覚えており、生きてゆくこと全てが苦難であり、空虚であると感じ、死を望むことさえある。心に将来の展望を得る前の人間は、このような状態である。そうした者は未だに真理を得て居らず、神を知らないので、そうした者は内面的な喜びをそれほど感じない。特に、あなたがたは皆、迫害を受けて帰宅するのが困難であり、そうした苦難を受けるとともに、自殺念慮があり、生きることを望まない。これが肉の弱さである。神を信じるならば、自分の中に喜びを感じるはずだと考える者さえ居る。恵みの時代には、聖霊が依然として平和と喜びを人々に与えられていた。現在は、平和と喜びが過度に少なく、喜びは恵みの時代ほど多くない。現在、神を信じることは苦しすぎる。あなたがたは、ただ肉の喜びが何よりも優れていると認識しているだけである。あなたがたは、神が現在どのような御業を行われているかを知らない。神は、あなたがたの性情を変化させるため、あなたがたの肉に苦難を受けさせられている。あなたがたの肉は苦しむものの、あなたがたには神の御言葉と祝福がある。あなたがたは、死にたくても死ねないであろう。あなたがたは自分自身を辞退させ、神を知る事も真理を得る事も無いままで居られるであろうか。現在においては、おもに、あなたがたが真理を未だに得ておらず、あなたがたにはいのちが無いということだけである。現在、あなたがたは救いを求める過程の途中にあるので、その間あなたがたは、ある程度苦しまねばならない。現在、世界各地の人々全員が試されている。神は依然として苦しまれている。あなたがたは苦しまなくてもよいであろうか。大災害によりもたらされる精錬無くして、真の信仰はあり得ず、真理といのちを得られないであろう。試練と精錬を受けずに居ることは出来ないであろう。…あなたがたが現在直面している苦難は、神が受けている苦難と同一のものではないだろうか。あなたがたは神と共に苦難を受け、神は苦難を受ける人々と共にあられるではないか。現在、あなたがたは皆、キリストの艱難、御国、そして忍耐に関与しているが、それならば、あなたがたは最後に栄光を得るであろう。このような苦難は有意義ではなかろうか。決意しなければ駄目である。今日の苦難の重要性と、あなたがたが苦難を受ける理由を理解する必要がある。その苦難から多少の真理と神のご意向を求めれば、苦難を受ける決心を固められるであろう。神のご意向を理解せず、自分の苦難について沈思するだけであれば、その苦難について考えれば考えるほど、それを受けるのは困難になってゆく。それは面倒であり、死の苦悩が始まる。…ゆえに、こうした物事を明瞭に理解し、そうした物事から真理を理解する必要がある。人間に真理がある時、人間には強さがある。人間に真理がある時、人間の身体は無尽蔵の活力がみなぎる。人間に真理がある時、人間には意志がある。真理が無ければ、人間は脆い豆腐のかすのようである。真理があれば、人間は堅牢で勇気を与えられ、どれほどの苦難を受けていても、苦難を苦難と感じない。あなたがたが受けている苦難は、どれほどのものであろうか。受肉された神は未だに苦難を受けられている。あなたがたは、サタンにより腐敗させられ、神に反抗する本性を持つ人間である。あなたがたは、無意識のうちに神に反抗し、反逆する物事を、数多く行ってきた。あなたがたは裁かれ、罰を受ける必要がある。病を患っている者は、治療を受けている時、苦難を恐れてはならない。しかるに、自分の腐敗した性情を変化させていのちを得る事を望むあなたがたが、少しも苦難を受けないというのは、正しいだろうか。あなたがたは、苦難を受ける必要がある。苦難を受けなければならない。こうした苦難が降りかかるのは、潔白ではなく、またその苦難は、あなたがたに強いられているものでも無い。現在あなたがたが受けている苦難は、頻繁な旅行と、労働による多少の疲労程度である。あなたがたは、時々神の御言葉による精錬を受ける。あなたがたは、時々自分の腐敗に気付き、自分が全く変わって居ないと感じ、自分が自分の本性にある程度苛まれる。時々、あなたがたには、神の御言葉の中に、どうしても自分が理解できない部分があったり、神の御言葉を読んでいる時に自分の心が深く傷つけられ、痛みを感じたりすることがある。あるいは、あなたがたは自分の業を十分に行えず、常に多数の間違いを犯し、自分を責め、それを攻略できないこと、自分がその業を行えないことに嫌悪する。あなたがたは皆、こうして苦難を受け、他人が進歩しているのを見て、自分の進歩が遅すぎると感じ、自分は神の御言葉を受けるのが遅い、光がごくたまにしか無いと感じる。あなたがたは、こうしてある程度の苦難を受ける。こうした苦難以外に、どのような苦難があるだろうか。あなたがたは重労働をさせられているのでなく、目上の者ないし上司が自分を打ったり罵ったりしているのでもなく、誰かの奴隷とされてもいない。あなたがたは、そうした苦難を全く受けていないであろう。あなたがたが受けている苦難は、実は本当の苦難ではない。そのことについて、少し考えて欲しい。私が述べた通りではなかろうか。あなたがたは、時々状況により脅迫され、不安を感じさせられて落ち着くことが出来ず、多少の恐怖の中で生活することが時々ある。自分の家族を捨て、神のために費やすことの意味と、自分がそうしなければならない理由を理解する必要がある。その理由が真理といのちを求めること、多少自分の本分を尽くして神の愛に報いることであれば、それは完全に義であり、好ましいことであり、正しく適切なことである。そうした場合、あなたがたは、決して後悔せず、状況を問わず自分の家族を捨て去ることが出来るであろう。そうではないだろうか。あなたがたは、このことの重要性を明瞭に理解していれば、後悔せず、否定的にならないであろう。しかし、あなたがたが来て自分を神に費やさないのであれば、それは無意味であり、すぐに戻るべきである。そしてひとたび問題を明瞭に理解した後は、問題が解決され、懸念はなくなるであろう。全ては神の御手の中にある。

現在、あなたがたは皆、試練の苦難を受けている。あなたがたのうちには多少の真理を備えているものも、全く備えていない者も居る。それを受ける方法は、各人により異なる。自分がそれをどう受けるかによらず、自分が真理を備え、その試練を正しく受ければ、自分の苦難に意義と価値が生まれ、あなたがたは決意を固めて、最後まで苦難対処出来るであろう。自分が真理を受けず、人間の観念や想像のみを受けるのであれば、あなたがたの苦難は無価値となるであろう。なぜなら、自分が真理を得ていないからである。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

あなたが困難に耐えなければならない何かが生じたら、その時、あなたは神の心が何であるか、どのように神の心を大切にするかを理解するべきである。自分自身を満足させてはならない。まず自分自身のことは脇へどけておきなさい。肉体ほど卑しむべきものはない。あなたは神に満足してもらおうとしなければならないし、あなたの本分を果たさなければならない。そのように考えていれば、神はこの件に関してあなたに特別な啓発を与え、あなたの心も安心するだろう。大きくても小さくても、あなたに何かが起きた時、あなたはまず自分自身は脇にどけて、肉体はすべての物事の中で最も卑しいものとみなさなければならない。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体はますます勝手な行動をとる。今回肉体を満足させると、次回はさらに欲望が大きくなり、このまま続くと、あなたは肉体をさらに愛するようになる。肉体はいつも途方もない欲望を持っており、いつもあなたに肉体を満足させることを要求する。それが食べ物や着る物に関することだろうと、自制心を失わせ、自身の弱さや怠惰に付け込むことであろうと、あなたが心の中でそれを満足させることを要求する。あなたが肉体を満足させればさせるほど、その欲望は大きくなり、肉体はますます堕落して、ついには人々の肉体は一層深い概念を心に抱き、神に背き、得意になり、神の働きに疑いを持つようになる。…昔、路上で凍って硬直している蛇を見た一人の農夫の話しがある。農夫は蛇を拾い上げ、抱きしめたが、蛇は息を吹き返すと農夫をかみ殺してしまった。人の肉体はこの蛇に似ており、本質は人のいのちに害を与えることである――肉体が好き放題になれば、あなたのいのちは取り上げられてしまう。肉体はサタンに属している。肉体の中には途方もない願望があり、肉体は己のことだけを考え、快適さを享受し、余暇を大いに楽しむことを望み、怠慢と無為にふけるので、ある程度まで肉体を満足させると、あなたは最後には肉体に食べ尽くされてしまう。つまり、あなたが今回肉体を満足させるなら、次回はもっと要求するだろう。肉体はいつも途方もない欲望と新しい要求を持っており、あなたが肉体に迎合するのを利用し、あなたが肉体を一層大事にし、肉体の快適さの中で生きるように仕向ける――あなたが 肉体に打ち勝たなければ、あなたは最後には自分自身を失うだろう。あなたが神の前でいのちを得られるかどうか、あなたの最終的結末はどうなるか、それはあなたが肉体にどのように反抗するかにかかっている。神はあなたを救い、選び、運命づけたが、その一方で、あなたが神に満足してもらうことを嫌がり、真理を実践することを嫌がり、神を本当に愛する心を持ってあなた自身の肉体に反抗することを嫌がるならば、最後にはあなたは身を滅ぼし、従って極度の痛みに耐えることになるだろう。あなたがいつも肉体に迎合していると、サタンが次第にあなたを内側から食べ尽くし、あなたを完全にいのちのない、あるいは霊との接触のない状態のままにしてしまい、ついにはあなたの心の中が完全に暗黒になる日が来る。あなたが暗黒の中で生きていると、サタンのとりこになり、もはや神を持たなくなり、その時あなたは神の存在を否定し、神を離れる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや概念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人々の中の動機付けは、その多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人々の概念と食い違っているので、人々が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、最後に神を満足させる決心をする前に、舞台裏で人々は悲しみの涙を数えきれないほど流すだろう。人々が苦しみや純化に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、あなたが本当に神の側に立つことができれば、あなたは神に満足してもらうことができる。真理を実践する過程で苦しむことは避けられない。人々が真理を実践する時、彼らの心の中のすべてが正しかったら、彼らは神によって全き者にされる必要はなく、戦いもなく、彼らは苦しまないだろう。人々の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人々は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これは神が受難と呼ぶもので、神と共に経験することを神は人に要求した。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

神の働きは人間が想像するほど簡単か

あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画の中にあるすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙のすべての神の働きは、この一団の人々に焦点を当てている。神はすべての努力をし、あなたがたの犠牲となった。全宇宙のすべての聖霊の働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。だから私は言う。あなたがたは幸運なのだと。それに加えて神は、自分が選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。ゆえにあなたがたは神の嗣業を受け、更に神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」誰でもこの言葉を耳にしたことがあるだろうが、その言葉の真意を理解した者はいない。今日あなたがたは、この言葉の真の意味をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものだ。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害を受けている。ゆえにこれらの言葉は、あなたがた一団の身に実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、すべての神の働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。ゆえに、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。神にとって赤い大きな竜の地で自分の働きを実行することは非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を実行し、自分の知恵と素晴らしい業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一団の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこの汚された地における人々のすべてのサタン的な性質がゆえに、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、その業の証人となる人々を手にするのだ。これが、神がこの一団の人々に行った全ての犠牲に関する完全な意義だ。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることでのみ、神の力が現わされるのだ。言い換えれば、汚された地にいる者たちのみが神の栄光の継承者に相応しく、これが唯一、神の力を際立たせることができるのだ。それだから、神の栄光は汚された地とそこに住む者たちから得られると言おう。これが神の心だ。これはイエスの段階の働きと同じだ。イエスは、彼自身を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各段階のどこで働いても、どこで肉の働きをしても、神はそこで栄光を受け、自分が得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年に亘る神の計画の中にある肉による働きは二つの部分から成る。ひとつは十字架に付けられることであり、これにより神が栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と完全にするための働きであり、それによっても神が栄光を受ける。これが神の経営である。ゆえに神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは、あなたがたが思うものをはるかに超越した、神の、永遠で重大な栄光の継承者であり、神がそう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたが継承する。これは神が引き上げたのであり、はるか昔に定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだっただろう。イエスによる段階の働きが前例となっているからだ。だから、神は自身が栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でもなしえないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光を得ることができないのだ。そしてこのような事実にこそ、この段階の働きがこの地でなされることの重要な意味がある。あなたがたの中には、誰一人として法の保護を受けているものはおらず、むしろ法により罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。親戚や両親も、友人も、仲間も、誰一人としてあなたがたを理解しない。神があなたがたを「拒絶」するなら、あなたがたが地上に生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これが神の人々への征服の意味であり、神の栄光なのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちのそれに優るものであり、モーセやペテロのそれにも優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない―それは多くの犠牲を伴って初めて受け取れるものだ。つまり、精錬された愛や大きな信心、そして神があなたがたに求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義を追い求める姿勢を崩さず、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わらぬ愛をいだいていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。堕落した部分を改善し、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にまでも従順でなくてはならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の最終目的であり、この一団に神が求める要求である。神はあなたがたに施したが、彼はあなたがたが彼の要求を満たして報いることを要求する。それだから、神はむやみに働くのではない。なぜ神が何度も高い基準の働きをし、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神に対する信心で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神がすべての働きをあなたがたのためにしたのだ。これは神自身の栄光のためというよりあなたがたの救いのため、そして汚された地で深く苦しんでいるこの一団の人々を完全にするためである。あなたがたは神の心を理解しなくてはならない。だからこそ私は見識や理知のない多くの愚かな人々に、こう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならないと。神は人が経験したことのないような苦しみすべてを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたは他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の心以上に大切なもの何があるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。この汚された地において神がその働きをするのは倍の困難を伴うというのに、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長期化せざるを得ない。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。自分の働きと栄光が優先される。ゆえにどれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関してはいかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。神はその働きを成し遂げるまで休むことはない。神が自分の二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きが終わりを迎える。その栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において成就できなければ、自分の日は永遠に来ることはなく、神の手を選民たちから離すこともできず、その栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないだろう。神の心と働きは、天地や万物創造のように簡単なものでないことを理解しなくてはならない。なぜなら今日その働きとは、堕落した人たちや極端に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに影響を受けてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる植物や動物を創造したりすることではない。神の働きは今やサタンによって堕落したすべてのものを清めて取り戻し、自分のものとし、自分の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地や万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪いながら底なしの淵へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることだ。これがこの段階での神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どの普通の働きとも異なるものだ。そのすばらしさは人間の頭では考えることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神は自分の創造物を変え、サタンによって汚されたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始める。そして、これが神による働きの意義の全てである。以上を読み終えたあなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。

『言葉は肉において現れる』より

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