5. 神の働きの三段階を知ることが神を知る道と言われるのはなぜか

神の三階の働きを認識することは、神を認識する道である

(神の言葉の一篇より)

人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味する。これら三つの段階に創世の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代という三段階の働きである。創世の働きは、人類全体を造る働きだった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う働きとは関係がなかった。なぜなら、創世の際、人類はまだサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そのため人類を経営する働きも、人類が堕落させられた後にようやく始まった。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、創世の働きから生じたものではないのである。人類が堕落した性質を持つようになって初めて、経営の働きが存在するようになった。ゆえに人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代ではなく、三つの部分を含むものである。これこそが、人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終焉を迎えている。経営の働きの終結は、人類全体を救う働きが完全に終了し、それ以降、人類にとってその段階が完結したことを意味する。人類全体を救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在せず、三段階の働きもないだろう。ヤーウェが創世の働きを終わらせ、律法の時代の働きを始めたのはまさに、人類の堕落のため、また人類が救いをただちに必要としていたためである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり、人類を救う働きもそのとき初めて開始されたことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の地上における生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが「人類を経営する」ことの真意である。人類を救う働きに創世の働きは含まれないので、人類を経営する働きにも創世の働きは含まれず、創世とは別の三段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三段階の働きの歴史を知ることが必要であり、それこそが救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。神の被造物たる者、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。神に気に入られようと教義に従って行動することだけは知っているが、神がいかに人類を救うか、あるいは人類の堕落の源を一切知らないのであれば、あなたがたには神の被造物としてその部分が欠けている。あなたは、神による経営の働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、実践可能なそれらの真理を理解するだけで満足してはならない。そうであれば、あなたは教条的過ぎるということになる。三段階の働きは、神による人の経営の内幕であり、全世界の福音の到来であり、人類全体における最大の奥義であり、また福音伝道の基盤でもある。自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関して一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

人が実践することだけに集中し、神の働きと、人が認識すべき物事を二次的なものと見るならば、それは木を見て森を見ないことではないか。あなたは、認識すべきことを認識し、実践すべきことを実践しなければならない。そうして初めて、真理をどのように追い求めるべきかを知る人になる。あなたが福音を述べ伝える日が来たとき、「神は偉大な義の神、至高の神であり、いかなる偉人も比べものにならず、それ以上に高い者もいない神である……」としか言えず、こうした見当違いで上辺だけの言葉しか発することができず、非常に重要で中身のある言葉を話すことが一切できず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、さらには真理を説明することも、人間に欠けているものを提供することもできないのであれば、あなたのような人は、自身の本分を立派に尽くすことができない。神を証しし、神の国の福音を述べ伝えるのは、決して簡単なことではない。まずは真理を身につけ、理解すべきビジョンを備えなければならない。神の働きの様々な側面に関するビジョンと真理を明確に知り、心の中で神の働きを認識するようになり、神が何をするかにかかわらず、例えばそれが義の裁きであれ人を精練することであれ、自身の基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えていれば、あなたは最後まで神に付き従うことができるようになる。神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心も変化せず、そして人に対する神の旨も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど過酷でも、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらない。それが人の終わり、あるいは人の終着点を明らかにする働きではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営計画全体を終わらせる働きでもないならば、また神が人に対して働きを行っているさなかのことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまり、それは常に人類の救いなのである。これこそが、あなたがたの神への信仰の基盤であるべきだ。三段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三段階の働きには、それぞれ異なる目標と意義があり、一つひとつが人類を救う働きの一部であって、人類の必要に応じて実行される、異なる救いの働きなのだ。ひとたびこの三段階の働きの目的を知れば、働きの各段階の意義を正しく認識するにはどうすればよいかが分かり、神の旨を満たすにはどのように行動すればよいかが理解できる。この点に到達することができれば、この最大のビジョンが神に対するあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは楽な実践の方法や奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせなければならない。そうすれば、実践できる真理と、ビジョンに基づく知識の両方が存在することになる。そうして初めて、あなたは真理を徹底的に追求する者になれるのである。

三段階の働きは、神の経営全体の核心であり、その三段階の中に、神の性質と、神であるものが表されている。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにして自身の性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの知恵も知らずにいる。また、神が人類を救う様々な方法や、人類全体に対する神の旨についても知らないままでいる。三段階の働きは、人類を救う働きの完全なる表現である。三段階の働きを知らない者たちは、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままである。また、ある特定の段階の働きから残された教義にあくまでこだわる者たちは、神を教義に限定する人であり、神に対する彼らの信仰は漠然としていて不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質全体を余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができる。これは、神がサタンを打ち負かし、人類を取り戻したことの証拠、神の勝利の証拠であり、神の性質全体の表れでもある。神の働きの三段階のうち、一つの段階しか理解しない者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、この一段階の働きがいともたやすく教義になり、人は神に関する規則を定め、神の性質のこの一部分を神の性質全体の表れとして使いがちになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、そして知恵を、限られた範囲内に固く制限し、神がかつてこのようであったなら、永遠にそれと同じままであり、絶対に変わることはないと信じ込む。三段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全に、そして正確に神を知ることができる。少なくとも、神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人間のためにいつまでも十字架にかけられる神とは見ない。神の働きの一段階だけから神を認識するようになってしまえば、その人の認識はあまりに少なく、大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家たちは神を生きたまま十字架にかけたのか。それは、人間が神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが多岐にわたる様々な神の働きを認識せず、さらに、ごくわずかな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちの経験は表面的なものなのに、本性が傲慢かつ放縦であり、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」しようとする。また彼らはもったいぶって、自分の知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑され、拒絶されるのではないか。そして、新しい時代に淘汰されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人たちは、無知で物事をよく知らない卑劣な人間で、自分がいかに聡明かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についてのわずかな知識だけで俗世の「学術界」にはびこり、人に教えを説く上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に回らせようと試みている。目先のことしか見えないのに、六千年にわたる神の働きを一目で見極めようとするのである。この人たちには、言及する価値のある理知など一切ない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを判断するのに時間をかける。さらに、そのような人たちは、今日の神の働きについて知っていることをわずかしか語らないが、あわてて判断することはしない。神に対して認識がない人ほど、傲慢かつ自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人たちには少しも価値がない。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会っても慎重でなく、ベラベラ言いふらして早まった判断を下し、気分にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそうした無礼な人たちは、聖霊の働きに対して無知ではないのか。さらに、そのような人たちは、極めて傲慢で、生まれつき高慢で、手に負えない人間ではなかろうか。このような人たちが聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。彼らは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜する。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがなく、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼で放縦な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、神の行政命令に背きがちになる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しく決して古くならない神に、来る日も来る日も反抗しているのではないか。今日あなたがたは、神の三段階の働きが持つ重要性をなぜ知らなければならないのかを理解すべきである。わたしが述べる言葉はあなたがたの益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなたがたが、あたかも馬に乗って疾走しながら花を鑑賞するかのように、ただそれらを読むだけなら、わたしの大変な努力はすべて水の泡になるのではないか。あなたがたの一人ひとりが自身の本性を知るべきである。あなたがたのほとんどは、議論が得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質を伴う問題になると何も言うことができない。今日でさえ、あなたがたはいまだ浅はかな会話にふけり、自分の古い性質を変えることができずにいる。またあなたがたのほとんどは、より高い真理へと至るべく、追求する方法を変えるつもりが一切なく、いいかげんに人生を送るだけである。このような人がどうして最後まで神に付き従うことができようか。たとえ身が入らないまま、道の最後まで辿り着けたとしても、あなたがたにとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に考えを改め、真剣に追求するか、あるいは早く撤退したほうがいい。時間が経つにつれ、あなたがたは人にたかる寄生虫になる。それほどまでに低くて卑しい役を、あなたがたは演じるつもりなのか。

三段階の働きは、神の働き全体の記録であり、神による人類の救いの記録であって、架空のものではない。神の性質全体を認識しようと真剣に追い求めるのであれば、あなたがたは神によってなされた三段階の働きを知らなければならず、さらに、どの段階も省略してはならない。これは神を知ることを求める人たちが達成しなければならない最低限のことである。神を真に認識しているかのように装うことなど、人にはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が一人の人間に特別な恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験して初めて訪れる、神についての認識なのである。そのような認識は容易に得られるものではないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な経験に関係することなのだ。これらの三段階の働きの核心には、神による人類の救いがあるものの、この救いの働きの中には働きを行ういくつかの方法と、神の性質を表すいくつかの手段が含まれている。人がそれを識別するのは極めて難しく、理解するのも困難である。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化など、これらすべてが三段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化などはどれも、三段階の働きの一部である。働きの一段階は一部しか表すことができず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化と関連がなく、他の側面とはさらに関連していない。これは明白な事実である。三段階の働きが人類を救う神の働きのすべてなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働きと神の性質を認識しなければならない。この事実がなければ、神に関するあなたの認識は空虚な言葉でしかなく、机上の空論に過ぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、現実にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ豊富で、聞こえのよいものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容赦しない。神はあなたの認識を称えないだけでなく、神を冒涜した罪人としてあなたに報復する。神を認識することに関する言葉は、軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、言葉が優れているために、黒を白、白を黒と言いくるめることができるとしても、神についての認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが性急に判断を下したり、気軽に称えたり、無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも称えるが、それでもなお、神の至高の恵みを描写する適切な言葉を見つけるのに悪戦苦闘している。そしてこれが、あらゆる敗者が気づくようになることなのである。神を描写できる言語の達人は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属する人々や、限られた語彙しかなくても豊かな経験を備えた人々によって語られる真理の百分の一に過ぎない。よって神への認識は、巧みな言葉遣いや豊富な語彙によるのではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識はまったく無関係であることが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める極めて少数の人間にしか達成できない学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなたがたは、神を認識することと真理を追い求めることを、ほんの子供でも達成できるものだという見方をしてはならない。あなたはおそらく、家庭生活、職業、あるいは結婚生活において完全に成功を収めているかもしれないが、真理について、また神を認識する学びについて言えば、自分で見せられるものは何もないし、何一つ成し遂げていない。真理を実践するのはあなたがたにとって非常に難しいことであり、神を認識するのはさらに困難な問題であると言ってよい。これはあなたがたにとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかのことを成し遂げた人たちの中で、基準に達している人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、どうして神を認識する必要があるのか、あるいは、神を認識するにはどの程度まで達成しなければならないのかを知らずにいる。これは人類を大いに混乱させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であって、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしない。なぜなら、今日まで人類のうち誰一人として、この働きの研究に成功したことがないからである。おそらく、三段階の働きの謎が人類に明らかにされるとき、神を認識する才能豊かな人々の集団が次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらに言えば、わたしはこの働きを実行している最中であって、近い将来そうした才能豊かな人々がもっとたくさん現れることを願う。彼らは、三段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三段階の働きを証しする最初の者となるだろう。しかし、神の働きが終わる日になって、そのような才能ある人々が現れなかったならば、あるいは、受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れた人々が一人か二人しかいなかったならば、これ以上悲しく、また残念なことはないだろう。しかし、これは最悪のシナリオに過ぎない。いずれにせよ、真剣に追い求める者たちがこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時以来、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった取り組みである。神を認識する最初の者たちの一人になることが本当にできるならば、あらゆる被造物の中で最も名誉なことではないだろうか。神によってこれ以上に称えられる人が、人類の中にいるだろうか。このような働きを成し遂げるのはたやすいことではないが、それでも最終的には成果を上げる。性別や国籍に関係なく、神の旨を認識できる人はみな、最後に神から最高の名誉を受け、神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の働きであり、また未来の働きでもある。つまり、六千年にわたる働きの中で最後に達成される最高の働きであり、人間の各区分を明らかにする働きの方法である。人に神を認識させるという働きを通して、人の様々な階層が明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格がある一方、神を知らない者は神の祝福を受ける資格も、神の約束を受け取る資格もないことになる。神を知る者は神の知己であり、神を知らない者は神の知己とは呼ばれない。神の知己は、神のあらゆる祝福を受けられるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。患難であれ、精錬であれ、あるいは裁きであれ、それらはどれも人が最終的に神についての認識を得られるようにするためであり、それによって人は神に服従する。これが最終的に達成される唯一の成果である。三段階の働きはどれも隠されていないが、このことは、人が神を認識するのに役立ち、人が神についてより完全かつ徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きはすべて人に益をもたらすのだ。

神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。と言うのも、神の働きは人には達成できないし、人に備わっていないものだからである。三段階の働きが神の経営のすべてであり、人が認識すべき最大のビジョンである。この最大のビジョンを知らないとすれば、人が神を認識するのは容易ではないし、神の旨を理解するのも難しく、さらには、人が歩む道もますます険しいものになる。ビジョンがなければ、人がここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのもビジョンである。将来、あなたがたの認識は必ずや深まり、あなたがたは神の旨のすべてと、三段階の働きにおける神の賢明な働きの実質を認識する。これこそがあなたがたの真の霊的背丈である。働きの最終段階は独立したものではなく、それ以前の二段階と一緒に形成された全体の一部である。つまり、三段階の働きのうち一つだけを行っても、救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、この一段階さえ実行すればそれでいいという意味にはならないし、人をサタンの影響から救うにあたり、その前の二段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三段階の働きであって、その中の一段階ではないので、三段階の働きのうちどれか一つを、全人類が認識すべき唯一のビジョンとして取り上げることはできない。救いの働きが成し遂げられていない限り、神の経営が完全に終わることはできない。神の存在、神の性質、そして神の知恵が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階は神の性質と神の存在を部分的に表しているが、どの一段階も神の存在全体を直接かつ完全に表すことはできない。つまり、救いの働きは三段階の働きが完結して初めて完全に終わるのだから、神の全体に関する人の認識を神による三段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、神の働きの一部分で表される神の性質に過ぎず、前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐに終わるものではなく、様々な時期や場所における人類の発展状況によって次第に深まるものだからである。それは複数の段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。そのため、神の知恵の全体は、個別の一段階というよりむしろ、三つの段階において具体化される。神の存在全体、神の知恵全体が、これらの三段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、各段階に神の働きの知恵が記されている。人は、これら三段階の中に表現されている神の性質全体を認識しなければならない。この神の存在のすべてが全人類にとって極めて重要であり、神を礼拝するときに、人がこの認識を持たないのであれば、彼らは仏陀を崇拝する人々と何ら変わらない。人のあいだで行われる神の働きは人から隠されておらず、神を崇拝するすべての人が認識すべきである。神は救いの働きの三段階を人のあいだで行ったのだから、人は、これら三段階の働きの中で表現されている、神が持つものと神そのものを認識すべきである。これこそが、人がすべきことである。神が人から隠すのは、人には成し遂げられないこと、または人が知るべきでないことであり、一方、神が人に示すのは、人が知るべきこと、そして人が自分のものにすべきことである。三段階の働きのそれぞれは、前の段階を基に行われるのであって、救いの働きから切り離される形で、単独で行われることはない。それぞれの時代と、行われる働きには大きな違いがあるものの、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階よりも深くなる。各段階の働きは、その一つ前の段階を基礎として続くものであり、無効になることはない。このようにして、常に新しく決して古くない神の働きにおいて、神は以前に表したことのない自身の性質の側面を人に対して絶えず表現し、自身の新しい働きと存在を常に明かし、たとえ古くからの宗教家たちが全力で反抗し、公然と反対しても、神は意図する新しい働きを常に実行する。神の働きは常に変化しており、そのためいつも人の反対にあう。ゆえに、神の性質、そして神が働きを行う時代と対象も常に変化している。その上、神はこれまでしたことのない働きを常に行っており、人から見て以前の働きと矛盾する、あるいは相反する働きさえも行う。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法しか受け入れることができず、自分と相反する、あるいは自分よりも高尚な働きや実践方法を受け入れるのは難しい。しかし聖霊は新しい働きを常に行っていて、そのせいで神の新しい働きに反対する宗教専門家の集団が次から次へと出現する。そうした者たちが専門家になったのはまさに、神がどうして常に新しく決して古くないのかを人が知らず、神の働きの原則を認識せず、そしてさらに、神が人を救う様々な方法を認識していないからである。このように、それが聖霊に由来する働きなのか、神自身による働きなのかを、人は見分けることがまったくできない。多くの人は、以前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度に固執している。今日、あなたがたはみなそのような原則に従っているのではないか。救いの働きの三段階は、あなたがたに対してあまり効果を上げておらず、また中には、前の二段階の働きは知る必要のない負担だと信じる者もいる。彼らは、三段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないよう、これらの段階を大衆に発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。大半の人は、前の二段階の働きを知らしめるのは余計なことであり、神を認識する上でまったく役に立たないと思っている。これがあなたがたの考えである。今日、あなたがたはみな、そのように行動するのは正しいことだと考えているが、いつかわたしの働きの重要性に気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きなど行わないのだと知りなさい。わたしがあなたがたに三段階の働きを示している以上、それらはきっとあなたがたのためになる。また、これら三段階の働きが神の経営全体の核心である以上、きっと全宇宙ですべての人の注目の的となる。いつの日か、あなたがたはみな、この働きの重要性に気づくだろう。自分は神の働きに逆らっている、あるいは自分の観念を基に今日の働きを判断しているのだと知りなさい。なぜなら、あなたがたは神の働きの原則を知らないからであり、また聖霊の働きを軽率に扱っているからである。あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがたの観念と生まれ持った傲慢さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりに反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後、人がどこから来たのかさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きの正誤について演説を行う者もいる。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。人間性が非常に低俗で、理知のかけらもない。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識せず、それどころか神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図もする。このように理不尽な人たちがどうして神を認識できようか。人は、神を求めて経験する過程で、神についての認識を得るようになる。つまり、気まぐれに批判する中で聖霊の啓きを受け、それを通して神を認識するのではない。神についての認識が正しくなるほど、人は神に反抗しなくなる。逆に、神についての認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格、そして道徳観は、あなたが神に逆らう資本であり、あなたの良心が堕落し、あなたの性質が醜悪であり、あなたの人間性が下劣であればあるほど、あなたはますます神の敵になる。強力な観念の持ち主や独善的な性質の者は、受肉した神とさらに敵対するが、そのような者たちは反キリストである。あなたの観念が正されなければ、常に神と敵対することになり、神と相容れることが決してできず、いつも神から離れていることになる。

自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識が古い観念と同じだとは限らない。「観念」とは、現実にそぐわない、人が想像した物事を指す。古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、人が新しい働きに入るのを阻んだなら、そのような認識も観念である。人がそのような認識に正しく対処でき、神をいくつかの異なる側面から認識し、古いものと新しいものを組み合わせることができれば、古い認識も人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識する道へと入るのか、神を認識するにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの采配にすべて従うようになるのかなど、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るため、これらの原則を基盤として用いれば、あなたの認識はますます深くなる。あなたが三段階の働き、つまり神の経営計画全体についてはっきりした認識を持ち、前の二段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きだと捉えることができれば、あなたは比類なき強固さの基盤を持つことになる。三段階の働きは一つの神によってなされた。これは最も偉大なビジョンであり、神を認識する唯一の道である。三段階の働きは、神自身によってしかなされ得なかったことであり、神に代わってそのような働きを行えた人はいない。要するに、初めから今日まで、神の働きは神自身にしかできなかったのである。神の三段階の働きは、異なる時代の異なる場所で実行され、内容もそれぞれ異なるが、それらはすべて一つの神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、人がこれを完全に理解するなら、その人は揺るぎなく立つことができる。現在、様々な宗教や教派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識しておらず、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できないことである。そのため彼らは、先の二段階の働きと同様に、この段階の働きもヤーウェ神によるものかどうかわからずにいる。神に従ってはいても、ほとんどの人が、それが正しい道なのかどうかをいまだ区別できない。人は、神自身がこの道を自ら導いているのかどうか、神の受肉が事実なのかどうかと気に病んでいるが、大半の人が、このような事柄をどう識別すべきかについて、一切手掛かりがないままである。神に従う者たちは、道を決めることができずにいるので、このような人たちのあいだにおいて、発せられる言葉は部分的な効果しか持っておらず、また完全に効果を発揮できないために、そのような人たちのいのちの入りに影響を及ぼしている。三段階の働きにおいて、それらが違う時代に、違う場所で、違う人々に対して、神に自身によってなされたことだと見きわめることができ、またたとえ働きが違っていても、それらはすべて一つの神によってなされたことであり、一つの神によってなされる働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念にそぐわなくても、一つの神の働きなのは否定できないということを理解できれば――もしも人が、それは一つの神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細なこととなり果て、言及する価値もなくなるだろう。人のビジョンが明確でないために、また、ヤーウェが神でありイエスが主であることしか人は知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念したままで、今日の働きについての観念に悩まされており、ほとんどの人が常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていない。人は、見ることができなかった先の二段階の働きに関して、何の観念も持っていない。それは、人が先の二段階の働きの現実を理解せず、それらを自ら目撃しなかったからである。これらの段階の働きが見えないからこそ、人は好きなように想像するが、何を思いついてもそうした想像の証拠となる事実はないし、それらを正す者もいない。人は気分に任せて警戒心を捨て、自由に想像を働かせているが、その想像を立証する事実がないので、証拠があるかどうかにかかわらず、人の想像したことが「事実」となっている。したがって、人は頭の中で想像した神を信じているのであって、実際の神を求めてはいない。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人がいれば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きの現実を見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取り憑かれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。ゆえに、信者になってわずか一年の人も、自身の観念を通して神を信じるようになっているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神についての観念がある信仰から抜け出すことができない。人は自身の古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や風聞以外の何物でもないことを、人は知らないのか。人はみな、自分の観念が正確で間違いないと思い込み、そうした観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を解き放つ。過去の想像と思考がこの段階の働きの障害になってしまい、人がそのような観念を手放し、そのような思考に反論するのが困難になっている。今日まで神に付き従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は、以前にも増して深刻になっており、これらの人たちは、受肉した神に対する頑固な敵意を徐々に形成している。この憎しみの根源こそ、人の観念と想像なのである。人間の観念と想像が今日の働き、すなわち人間の観念と一致しない働きの敵になってしまったのだ。そうなったのはまさに、事実のせいで人が自由に想像を働かせることができず、それ以上に、人が事実に反論するのは容易なことではないから、また人の観念と想像は事実の存在を許さず、さらに人は事実の正確さと信憑性を考慮せず、ただひたすら自分の観念を解き放ち、自分自身の想像力をたくましくするからである。これは人の観念の誤りとしか言えず、神の働きの誤りとは言えない。人が何を想像しても、それはその人の自由だが、神の働きのどの段階も、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えてはならない。神の働きの事実は、人には侵せないものなのだ。あなたは自由に想像してかまわないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても結構だが、ヤーウェとイエスによる働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなたがたはこれらの問題の重要性を理解しなければならない。人は、この段階の働きは人間の観念と合致しないが、以前の二段階の働きはその限りではないと信じている。人は自身の想像の中で、以前の二段階の働きは今日の働きと同じではないと確信している。だが、神の働きの原則はすべて同じであり、神の働きは常に実践的であること、そして時代に関係なく、神の働きの事実に逆らい、反対する人がいつも大量に現れることを考えたことがあるのか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく神に逆らっていただろう。そのような者は常に神の敵なのだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てる。このような人が神を知る者、真に神に付き従う者である。神の経営の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、神は最後に、人を自身の支配下に戻さなければならない。これが三段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける以前の二つの段階は、全宇宙における神の経営計画である。これは誰にも否定できないし、神の働きの事実である。人々はまだ、この働きの大半を経験も目撃もしていないが、事実は事実であり、人は誰もこれを否定できない。神を信じる宇宙の各地の人々はみな、必ずやこの三段階の働きを受け入れる。特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず、過去の時代における神の働きも理解しないなら、あなたは神の経営計画全体の真相を残らず語ることができず、神に関するあなたの認識は一方的である。神への信仰において、あなたは神を知らず、理解していないので、あなたには神を証しする資格がないからである。これらの事柄について、あなたの現在の認識が深かろうと浅かろうと、最後には、認識を得て完全に納得するはずであり、あらゆる人が神の働きを余すところなく目にして、神の支配の下に服従するようになる。この働きの終わりには、すべての宗教が一つになり、すべての被造物が創造主の支配の下に戻る。彼らは唯一の真の神を礼拝するが、邪悪な宗教はすべて無に帰し、二度と現れることはない。

このように連続して三段階の働きに言及するのはなぜか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみな、この三段階の働きが移り変わるにつれて変化する。人類は神の働きに合わせて随時変化するのであって、単独で発展しているのではない。神による三段階の働きに触れるのは、すべての被造物、そしてあらゆる宗教、あらゆる教派のすべての人を、唯一の神の支配下に導くためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的には誰もが神の支配の下に服従するのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表者にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、それぞれが代表者や指導者を擁しており、信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、ほぼすべての国にいくつかの異なる宗教が存在する。しかし、世界中にどれほど多くの宗教が存在していようと、宇宙のあらゆる人々は、究極のところ唯一の神による導きの下で生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表者や指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表者や指導者に導かれているのではなく、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているのであって、これは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるものの、その大きさに関係なく、すべて創造主の支配の下に存在しており、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の盛衰、そして自然科学の発達はどれも、創造主の采配から切り離すことができないし、この働きは特定の宗教の代表者にできるものではない。宗教の代表者というのは、特定の宗教組織の指導者に過ぎず、神を代表することも、天地と万物の創造主を代表することもできない。宗教の代表者は、その宗教全体の内部にいる者たちを率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表者は指導者に過ぎず、神(創造主)と対等の立場に立つことはできない。万物は創造主の手中にあり、最後はみな創造主の手中に戻る。人類は神によって造られ、宗教に関係なく、すべての人が神の支配下に帰するのであって、これは必然である。神だけが万物のあいだにおける至高の存在であり、すべての被造物の中で最高の支配者であっても、神の支配下に戻らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、万物をその種類に応じて分類できる者も誰一人存在しない。ヤーウェ自身が人類を造り、種類に応じて一人ひとり分類したのだから、終わりの時が来ても、神はやはり自身でその働きを行い、万物を種類に応じて分類するが、その働きは神にしかできないことである。初めのときから今まで、三段階の働きはすべて神自身によって、唯一の神によって行われた。三段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分類され、神の支配の下に帰る。と言うのも、宇宙全体にはこの唯一の神しか存在せず、他の宗教は存在しないからである。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ずやそれを終わらせることができる。だから、一つの時代を終わらせることができず、単に人が心を養うのを手助けできるだけなら、その者は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にそうした偉大な働きは無理であり、このような働きを行える者は一人しかいない。そして、この働きができない者はみな、必ずや敵であり、神ではない。すべての邪悪な宗教は神と相容れず、神と相容れない以上、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真なる神がなすものであり、全宇宙がこの真なる神の支配下にある。それがイスラエルにおける働きであろうと、あるいは中国における働きであろうと、またその働きが聖霊によるものであろうと、あるいは肉体によるものであろうと、すべては神自身によって行われ、他の誰かがそれを行うことはできない。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働きを行う――これがすべてのビジョンの中で最も偉大なものである。神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の旨を理解したいのであれば、神の働きを理解し、被造物に対する神の旨を理解しなければならない。また、神の経営計画、そして神が行う働きの意義をすべて理解しなければならない。これらを理解できない者は、神の被造物の資格がない。神の被造物として、自分がどこから来たかを知らず、人類の歴史や神が行ったすべての働きを理解せず、そしてさらに、人類がいかにして今日まで発展してきたか、また全人類を指揮するのは誰なのかを理解していなければ、自身の本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そしてこの地上で人類を造って以来、神は一度も人のもとから離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、ひたすら人類を導き、一度も人のもとから離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、まして神を知らない。神のすべての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあるだろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物でいながら、自分たちの歴史も知らず、自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気づいていない。それゆえ、神を認識することができずにいる。今なお知らないのであれば、神を証しする資格は決してない。今日、創造主はあらゆる人をまたも自ら導き、あらゆる人に神の知恵、全能、救い、そして不思議さを目の当たりにさせている。それでもあなたはまだ気づかず、理解せずにいる。ゆえにあなたは、救いを得られない者ではないのか。サタンに属する者は神の言葉を理解できず、神に属する者は神の声を聞くことができる。わたしが語る言葉に気づいて理解する者はみな、救われる者、神を証しする者である。わたしが語る言葉を理解しない者はみな、神を証しすることができず、淘汰される者である。神の旨を理解せず、神の働きに気づかない者たちは、神を認識することができず、そのような人は神を証しできない。神を証ししたいと願うなら、神を知らなければならないし、神についての認識は、神の働きを通して成し遂げられる。結局のところ、神を知りたいと望むなら、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが何より重要なのである。三段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの集団、つまり神を知る者たちの集団が作られる。この人たちはみな神についての認識があり、真理を実践することができる。人間性と理知を備え、全員が三段階の救いの働きを知っている。これが最後になし遂げられる働きであり、彼らは六千年にわたる経営の働きの結晶であって、最後にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しできる者は、神の約束と祝福を受けることができ、最後の時に残る集団、神の権威を持ち、神を証しする集団になる。もしかすると、あなたがたの全員がこの集団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か、わずか数人だけがそうなれるかもしれない。それはあなたがたの意志と追求にかかっている。

神の出現と働き(『言葉』I)

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質問:主イエスは「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネによる福音書 10:27)とおっしゃいました。主はお戻りになり、御言葉を発して羊を呼び集めていらっしゃいます。私たちが主の到来をお迎えする上で大事なのは、主の御声を聞こうと探求することです。しかし一番の問題は、主の御声をどうやって聴くのか知らないことです。神様の御声と人の声との区別もできないので、間違いなく主の御声だとわかるにはどうしたら良いのですか。

回答:神様の声をどうやって聴くのか? 人としての資質の高さや経験の長さは関係ありません。主イエスの信仰で御言葉を聴いたときどう感じますか? 主の御言葉について経験も知識もないのに、それを聴いた瞬間それは真理で権威と力があることがわかるでしょう。その感覚というのは経験からくるもので…

質問 2:私は神を見たことがないし、神のどのように働いたり世界を支配しているのかも見たことがない。私には神を認識して受け入れるのは難しい。私の長年の宗教研究からは宗教的信仰は精神的な栄養に過ぎないと思います。人類の精神的空洞を埋めるものです神を信じる人たちも最終的には皆死にますね。そして死んだ人のうちだれが天国に行って誰が地獄に落ちたのかなんて誰も知らないのです。全ての宗教的信仰は非常に曖昧で非現実的です。科学が発達し人類が進歩するにつれ、宗教的信仰なんてものは捨てられ消えていくでしょう。我々はまだ科学は信じなければなりません。科学こそが真理であり現実です。これはだれも否定できません。科学はまだ神を否定していませんが、神の存在を証明もしていません。もし科学が神の存在を証明し、神がすべてを支配していることも証明出来たら神を信じることはできます。我々共産主義者は科学を信じるのです。科学を信じ発展させることによってのみ人間社会は進歩するのです。科学は人間社会の問題を沢山解決することが出来ます。神を信じることによって人は何を得られますか? 一時的な精神的な安心以外に何の役に立つのですか。実際的な問題には何の役にも立ちませんよね。従って科学を信じたほうが神を信じるよりずっと現実的です。私たちは科学を信じなくてはなりません。

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質問 1:主イエスの御名と道に忠実であり、偽キリストたちや偽預言者を相手にせず、目を覚まして待てば、主は来られる時にかならず啓示をくださる。主の御声を聴かなくても引き上げていただける。主イエスはこう言われた「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。あなたたちは偽キリストたちや偽預言者たちの欺きを認めないのか? だから我々は、主の到来を証しする者は全て、間違いなく偽者だと信じているのだ。吟味するまでもない。主は来られるときには、啓示をくださるし、私たちを見捨てるはずはない。これが正しい信仰実践だと思う皆はどう思うかな?

回答:主イエスは確かに、終わりの日の偽キリストと偽預言者のことを預言されました。これは事実です。しかし、ご自身の再臨も何度か明確に預言されました。私たちはそう信じてますね? 多くの人は主イエスの再臨の預言に関しては偽キリストや偽預言者を警戒することに集中し花婿の到来を迎えることや…

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