5. 終わりの日における神の裁きと刑罰だけが人類を救うための神の重要で決定的な働きである

参考聖書箇所

大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」(ヨハネの黙示録 14:7)

さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)

彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる」(イザヤ書 2:4)

たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

関連する神の言葉

イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

もちろん、神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。神の国の時代をとおして神は言葉を使って働きを行ない、働きの成果を達成する。神は不思議や奇跡は行なわない。神はただ言葉をとおして働きを行なうにすぎない。言葉ゆえに人間は養われ、施しを受ける。言葉ゆえに人間は認識と真の経験を得る。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

実際、今なされている働きは人々にサタンを捨てさせ、先祖を捨てさせることである。言葉による裁きのすべては人間の堕落した性質を暴露し、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きは全て、人々の心を刺し通す。ひとつひとつの裁きは人々の運命に直接影響を与え、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らがこれらすべてのものを手離し、それによって、人生を知り、この汚れた世界を知り、また神の知恵と全能を知り、このサタンが堕落させた人類を知ることができるからである。この種の刑罰や裁きがあればあるほど、人の心は傷つき、人の霊はもっと目覚めることができる。これらの極端に堕落し、その欺きが最も深い人々の霊を目覚めさせることが、この種のさばきの目標である。人には霊がなく、つまり人の霊はとうの昔に死んでしまっている。そして、人は天が存在し、神が存在するということを知らないし、確かに人は死の奥底で葛藤していることも知らない。人は地球上でこの邪悪な地獄に生きているということをどのようにして知ることが可能だろうか。彼は自分の腐った死体が、サタンの堕落を通して、死のハデスに落ちたのをどのように知ることができるだろうか。彼は地上にあるものはすべて人類によって修復ができないほど長い間堕落されてしまったことをどのように知ることができるだろうか。そして今日、創造主が地に来て堕落した人々の集まりを救おうと探していることを、どのように知ることができるだろうか。人はあり得る限りの精錬と裁きを体験した後でさえ、彼の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上反応しない。人間は本当に堕落している!この種の裁きは空から降って来る残酷なひょうのようだけれど、それは人にとって多大な利益がある。もしこのように人々をさばかないなら、何の結果もなく、苦悩の地獄から人々を救うのは全く不可能であろう。もしこの働きのためでないなら、人々がハデスから出てくるのは非常に難しいだろう。なぜなら、彼らの心はずいぶん前に死んでおり、彼らの霊はずいぶん前にサタンによって踏みにじられたからである。堕落の深淵に沈んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたを呼んだり、裁いたりすることが必要で、その時初めて氷のように冷たいあなたがたの心が呼び起こされるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入りらせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを悪霊がはびこる場所に引き渡し、それらの悪霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。そして彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽勤労者の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残りるが、大半は奉仕をする資格さえない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの精粋となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、非信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

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