質問 9:聖書こそが主の証しであり、信仰の土台なのです。この二千年というもの、信者達は聖書を基盤に信仰してきました。つまり聖書は主を代弁するものだということなのです。主を信じることは、つまり聖書を信じるということで、聖書を信じるからこそ主を信じることになるのです。何があろうとも聖書から逸脱してはいけません。聖書なしにどうやって信仰を実行するのです? 主を信じていることにもならないでしょう? この方法で信仰することのどこが間違っているのですか?

回答:多くの人が、聖書は主や神を代弁し、主を信じることは聖書を信じるということで、聖書を信じるからこそ、主を信じることになると思っています。聖書を神として扱ってさえいます。神様を認めず聖書を認める人すら多くいる。彼らは聖書を、至高のものと位置づけ、聖書を神様に取って代わらせようとさえしています。キリストを認めないのに、聖書を受け入れている宗教指導者もいるくらいです。彼らは主の再臨を説く者を異端者とみなしています。何が問題なのでしょう? 明らかに宗教界は聖書を説くことしかできず、主の再臨を信じないほど廃退してしまい、救いようがないということです。宗教界は神様に逆らい敵とみなす反キリストのグループになってしまいました。多くの宗教指導者が偽善的なパリサイ人であることは否定できません。特に、「主の再臨を説く者は異端者である」と主張する者は、反キリストであり不信心者です。多くの人が主を信じることの意味を知らないようです。あいまいな神への信仰を純正な信仰と呼び、神に代わって聖書を信じているくらいです。終わりの日にキリストが肉となることを否定し、非難さえするのです。キリストが表す真理を無視し、疎かにしています。何が問題なのでしょう? 意味深い質問ですよ。イエス様が御働きをされていた時代、ユダヤ教は同じことをしませんでしたか? 御働きをされるためにキリストが出現する前は神への信仰はすべて聖書が基本になっていました。誰の信仰が本物で、誰のが偽物かなど誰にも分からなかったしまして、誰が真に神に従い、誰が反しているかなど、誰にも分かりませんでした。主イエス・キリストが受肉され御働きをされたとき、人は仮面をはがされませんでしたか? そこに神の全能と知恵が存在するのです。終わりの日のキリストである全能神が出現され、御働きをなさるとき賢い乙女は神の声を聞き足跡を見ることができます。当然ながら神の王座の前に引き上げられるのです。愚かな乙女は聖書に固執し、終わりの日のキリストが真の神であるのに、全能神を認識しないため正体を暴かれ投げ捨てられるのです。俗に言う信仰とやらに今だしつこくしがみつき災難に襲われると、むせび泣き歯ぎしりをして苦しむのです。このことから、聖書にのみ固執し真理を受け入れない者や天の神のみを信じ肉となったキリストを受け入れない者は全て不信心者であり、間違いなく神から見捨てられるでしょう。それが真実です。それについて、全能神が何とおっしゃっているか見てみましょう。

全能神は言われます。「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる」(「聖書について(1)」『言葉は肉において現れる』)

彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書の文章を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか」(「キリストと融和する道を探せ」『言葉は肉において現れる』)

全能神の言葉を読んでみて良く考えてみましょう。主を信じるとはどういうことでしょうか? 聖書を信じるとはどういうことでしょうか? 聖書と主とはどういう関係にあるのでしょうか? どちらが先だったのでしょう。では誰が救いの働きをするのでしょう? それなら、聖書が主に代わって御働きができますか? 聖書は主を代弁できますか? 人が盲目的に聖書を信じ崇拝するなら、神を信じて礼拝することになりますか? 聖書にしがみつくことは、神の言葉を実行し体験することと同じですか? 聖書にしがみつくということは、主の道に従っているということを意味するのでしょうか? 人が聖書を何よりも上に置くということは同じように主を崇拝し、主に敬虔で従順であることを意味しますか? これについての真の答えが誰にも見えていないのです。何千年も盲目的に聖書を崇拝し、主と同じ地位にを与えてきました。聖書を主とその御働きの代わりに利用する者もいるくらいです。でも誰も本当の意味では主を知らないし、神に従順でもないのです。パリサイ人たちは聖書にしがみつき、主イエスを十字架に釘付けにしました。何が間違っていたのでしょう? 聖書を理解することが神を知ることですか? 聖書にしがみつくということは、主の道に従っているということを意味するのですか? パリサイ人は聖書学の専門家であったけれども、神を知らなかった。代わりに、真理を表し、贖いの御働きをした主イエスを十字架に釘付けにしました。私達はこれを忘れてしまったのですか? 神を本当に知るということは正確にはどういう意味なのでしょう? 単に聖書を解釈しその意味を理解できれば、神を知っているということになるのですか? もしそうであれば、パリサイ人は聖書を解釈していたのだからなぜ主イエスを非難し敵対したでしょう? 真に神を知り、従うことができるかどうかの鍵は、肉となったキリストを知っており従っているか否かなのです。神の受肉によってすべての人類の正体が曝され、これを認識する人はほとんどいません。パリサイ人に対する主イエスの呪いは神がすべての人を平等に扱うという事実を証すものです。もし主に従わずに崇拝もせず、聖書だけを盲目的に信じているとすれば、明らかに神の承認は得られません。もし信仰が聖書のみに従うもので主をまったく鑑みず、またもし主を崇拝できず、神様の御言葉を実行できないならあるいは神様の御働きと御導きを受け入れられず、従うことができないなら、そのような人はパリサイ人のような偽善者ではないであろうか? そのような者は、キリストを敵に回してしまった者ではありませんか? 聖書に固執しているからといって、真理や命を手に入れたとは言えません。聖書を崇拝し盲目的に従うことは間違っているし、主に認めてもらうわけではありません。人を清め救い、悪魔の影響から解き放つため神は受肉され、真理を発されたのです。最後には神に従い、神を崇拝し、神によって得られるようにするそれこそ、神が受肉され御働きをされる目的であり意義なのです。私たちの信仰の鍵は、真理を求め、主の御言葉を実行し経験することです。そうしてのみ、私たちは聖霊の御働きを受け、主を知るようになるのです。そうやって私達は主を畏れ、心の中で主を賞賛できるのです。また、主に対する真の信仰と服従をするのです。これが本当の意味で主を信仰するということなのです。このように信仰を実践することによってのみ、主の承認を受けるでしょう。このことから、誰もが聖書を信じることが神を信じることとは同じではないとはっきり理解することができます。

では神と聖書とはどういう関係にあるのでしょうか? この質問については、主イエスが明確におっしゃっています。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(ヨハネによる福音書 5:39-40)。主イエスの御言葉から聖書は神の証しをするものであり、神の過去の御働きを記したものに過ぎないということがはっきりします。神の御言葉と御働きを一部記載しているだけですから、聖書は神様を代弁するものではありません。神様の御言葉と御働きを一部記載しているだけなのに、なぜ神様を代弁できるのですか? 神は全てを満たすことのできる創造主で、あらゆるものの主なのです。神のいのちは無限で無尽蔵です。神の豊かさや偉大さは、人が計り知ることのできないものです。聖書に見られる神の御言葉と御働きの限られた記録は神のいのちという広大な海の中の1滴の水にすぎません。それなのになぜ聖書が神様を代弁していると言えるのですか? なぜ聖書が神様と同等だと言えるのですか? 神様は人を救う御働きをなさいますが、聖書が人を救えますか? 神様は真理を示すことができますが、聖書はできますか? 神様は常に人を啓き、照らし、導くことができますが、聖書にはできますか? もちろんできません。つまり聖書は神様を代弁することは出来ないのです。人は聖書を神と同等に置き、聖書が神を代弁できると考えています。これは神様を中傷し、冒涜するものではありませんか? 人が神の御働きの代わりに聖書を使うならば、神を否認し裏切ることになります。神は神であり、聖書は聖書に過ぎません。聖書が神様を代弁したり、神様の御働きの代理をするなど所詮無理なのです! 聖書は神の御働きの記録に過ぎないのです。聖書の中の神様の御言葉は真理です。神様のいのちの性質を表明し神の御意志を見せることができます。ただ神様が御働きをされる上で、それぞれの働きで神様がその時代に人類に要求するものと意志とを表現しているだけでなのです。他の時代での神様の御言葉や御働きを表現していません。

聖書の内幕については全能神の御言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか」(「聖書について(4)」『言葉は肉において現れる』)

彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての素質の程度にしたがっていたと言えよう。彼らが記録したのは人間の経験だった。記録し、また認識するにあたって、人には自分なりの手段があり、一つひとつの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救える。聖書は人間を救えず、人々は数千年にわたって聖書を読んだかもしれないが、それでもなお彼らの中には少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるなら、聖霊の働きを得ることは決してないだろう」(「聖書について(3)」『言葉は肉において現れる』)

聖書に対する人々の態度は執着と信仰であり、聖書の内部事情や本質を完全に理解している人は誰もいない。だから、人々は今なお聖書に対して説明しがたい不思議さを感じ、ますます聖書に執着し、よりいっそう聖書を信じている。……そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼があるために、その人たちは聖霊の働きを探し求める欲求をもたない。人々は自分の観念の中で、聖書だけが聖霊の働きをもたらせると考えている。つまり、神の足跡は聖書の中でしか見出せず、神の働きの奥義が隠されているのも聖書の中だけであり、神のすべてと神の働きの全体を明確にできるのも聖書だけであって、他の書物や人々にはそれができないというわけだ。聖書は天の働きを地にもたらすことができ、また時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々には聖霊の働きを探し求めようとしない。そのため、聖書が過去どれほど人々の役に立とうとも、それは神の最新の働きの妨げになっている。聖書がなくても、人々は別の場所で神の足跡を探せる。しかし今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは二倍難しくなり、かつ困難なことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、また聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は、神が聖書の外で働けることをどうしても信じられず、聖書の外で神を見つけられることも信じられずにいる。まして、神が最後の働きのさなかに聖書を離れ、新しく始められるなどとは到底信じられない。それは人々にとって考えられないことであり、彼らには信じられないし、想像することもできない。聖書は人々が神の新たな働きを受け入れる上で大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めるのを困難にしてしまった」「結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を守り、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか」(「聖書について(1)」『言葉は肉において現れる』)

聖書が神様を代弁できるか否かまた聖書と神との関係について、真理を探り求めることは非常に重要なことです。まず認識すべきは神がどのような神なのか? 神のみが人類を救い、導くことができます。神だけが人類の運命を決めることができます。これは広く認識されている事実です。もう一度考えでみましょう。聖書はどうやって作られましたか? 神様がその御働きをされたあと神に使わされた人が証しと経験を書き記し、その証しと経験は後に集積され聖書が出来上がりました。ですから聖書は単に神様の過去の御働きを記録したものだということは間違いないのです。神様の御働きを証言したものに過ぎません。聖書は神様を代弁することはできないし、人間を救う働きを神様の代わりに実行することもできません。人の信仰が聖書を読むことだけで成り立ち、神様の御働きの経験が無いとしたら聖霊の御働きを受けて、救われることはないでしょう。なぜそのような事が言えるのか? 神様の人を救うという御働きは前進しているのです。ですから、私たちは神様の御働きの1段階だけや2段階だけに固執すべきではありません。神様が人類を救うための御働きを完了するまで、その足跡に従うべきでしょう。こうすることだけで神様の完全な救いを受け、素晴らしい終着点にたどり着くことができるのです。神様の救いの経営計画には、3つの作業段階があります。律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代での御働きです。律法の時代は、神が人を人生で導くために律法を利用した時代であると誰もが理解しています。恵みの時代には、神様が人類に対して贖いの御働きをされました。人類をサタンの支配から贖うために主イエスは十字架にかけられましたが、そのおかげで私達は罪を赦され神様の前に出て、神様に祈り、神様と語ることができる資格を与えてくださいました。神の国の時代の裁きの御働きは人類を徹底的に清め、救い、完全な者にする御働きです。もし人類が律法の時代と恵みの時代のみを生き延び、終わりの日に神様の裁きを受け入れなければ、神に完全に救われ、得られることはないでしょう。なぜでしょうか? 恵みの時代の主イエスの御働きは、人類を贖うことのみであったことを誰もが理解できます。その時代に主を信じることは、私たちの罪が赦され神様に祈る資格を得て、神様の恵みをすべて享受することを意味しています。ただ私達はこの時代に純潔であることができませんでした。私達は罪深い性質を持っており、しばしば罪を犯し、神様に反する事をしますが、主イエスは再臨することを約束され、終わりの日に人類を救うすべての真理を示し、神様の声を聞いて神様の御座の前に導かれるすべての人を清めてくださるのです。主イエスはこう言われた。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。全能神の御言葉と御働きは、この聖句を完全に成就しています。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」。つまり全能神は主イエスの再来なのです。全能神は現在終わりの日の裁きの御働きをなさっており、御座の前に来たすべての人を清め完全なものにしようとなさっています。すなわち、神様の声を聞き、そのもとに戻ってきた賢い乙女達を勝利者として完成し神の国に連れて行ってくれるのです。神様は三段階に分け救いの御働きをなさっている事実は、神様がいつも人類を導き救うために働いておられることを、私たちに見せてくださっているのです。神様の御働きは常に以前の段階より、より奥深いものになっています。聖書に関しては、神様の従者が持っているべき書物でしかありません。聖書は人間を導き救う働きを神様の代わりに実行することはできません。

聖書は神様の御働きの記録に過ぎませんね。神様が御働きを完成させたとき、人が神様の言葉と御働きを記録し聖書を作りました。聖書は人間の信仰に欠かせないものですが、聖霊の働きを受けることによってのみ、本当に聖書と真理を理解することができます。それが事実です。ですから主への信仰には、子羊の足跡を忠実にたどり、終わりの日の神様の裁きの御働きを受け入れ、服従する必要があります。そうしてのみ、私たちは聖霊の御働きを受け、神様から救っていただき完全になることができるのです。聖書を読むだけで、終わりの日に神様の御言葉や御働きを受け入れなければ、私たちは清められ救われることはないでしょう。実際に神の言葉がすべて聖書に記録されているとしても、聖霊の御働きがなければ、私たちは神様の御言葉を理解し、知ることはできないでしょう。真理を理解するためには、私達は神様の御言葉を経験して実行し、聖霊の啓示と光を受け取らなければなりません。それによってのみ神様の御言葉を理解し、真理を理解し、真理に入り、神様により完全にしてもらうことができるのです。これについては事実を理解する必要があります。つまり、信者として救いに一番重要なものは? 聖霊の御働きが、聖霊による完成こそが重要なのです。では誰が聖霊なのでしょう? 聖霊は神様その方ではないのですか? 聖書は神様の過去の御働きの記録に過ぎません。だれば神様の代わりとなることができ得るでしょうか? もう言いましたが、神様だけが人を救うことができ、聖書は人を救うことができません。私達の信仰が聖書に執着するだけで、終わりの日の神様の御言葉と御働きを受け入れず、神様の御働きの足跡を辿らなければ、私たちは見捨てられ投げ捨てられるでしょう。律法の時代には、沢山の人が主イエスの御働きを受け入れることができず投げ捨てられました。主イエスを信じても、終わりの日の全能神の御働きを受け入れなければ、やはり見捨てられ投げ捨てられるでしょう。このような人は盲目であり、神様を知らないと言えます。来るべき災害に直面して、泣き叫び歯を噛み砕くことしかできないでしょう。

終わりの日に全能神が真理を示してなされる裁きの御働きは、全人類を救う神様の経営計画の中核となる御働きです。人類を徹底的に清め、救い、完全にすることは神様の御働きの最後の段階なのです。信者が聖書に記されている御働きの最初の2段階だけに従い、終わりの日のキリストによる清めと救済の御働きを、受け入れなければ救われないし、神の国に入ることもできません。その人達が何年主を信仰していようとも、全能神による終末の救いを拒否する者は、すべて神に反する者であり、偽善者パリサイ人と同じなのです。これには疑問をはさむ余地がありません。パリサイ人が聖書に従って主イエスを拒んで、終わりの日には長老や牧師が聖書に基づいて、全能神の御働きを拒もうとしていますが、彼らの議論は成り立ちません。それは神様の御言葉が土台となっておらず、聖書の文字だけに依存しているからなのです。神様については、どのような理由があろうとも、全能神の終わりの日の御働をに受け入れない者は、神に反する者であり、裏切り者です。神様の目には彼らは皆邪悪な者で、神様は彼らを絶対に認めないでしょう。終わりの日に神様の御働きにより暴露された反キリスト者や不信者は、悲鳴を挙げ歯ぎしりして来る災害の罰を受けなければならないでしょう。彼らはすべて神様から永遠に捨て去られ、投げ捨てられ再び神様に会い、認めてもらう機会を得ることは決してないでしょう。それが事実です。ようやく事実がわかってきました。聖書は神様を代弁できないだけではなく、神様の御働きに取って替わることなどできません。神様は神様であり、聖書は聖書に過ぎません。私達は神様を信じているので、神様の御働きを経験し、そのペースに合わせなければなりません。終わりの日に神様が表現する御言葉を読み、神様が表現するすべての真理を受け入れ、従わなければなりません。それが本当の意味で神様を信仰するということなのです。神様が受肉され御働きをするたびに聖書に従うだけで、神様を知り従わない人たちを捨て、投げ捨てなければなりません。ですから「神様への信仰は聖書に合わせたもので、聖書にしがみつくことは神様への真の信仰であり、聖書は神様を代弁する」という主張は全くの誤りであると自信を持って断言できます。このような主張をした人は誰も目が見えず、神様を知らないのです。聖書を他のものより優先し、神様の代わりに使うならパリサイ人と同じ道を歩いているのではないですか? パリサイ人は神様に反しながら聖書に固執し、結果神様の呪いを受けました。これは事実でしょう?

映画『私の主は誰か』より引用

前へ: 質問 8:宗教界では2千年間も、聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、全て神が発せられた御言葉であると信じてきました。つまり聖書は主を代弁するものだと。聖書が神様の霊感と神様の御言葉を受けて書かれたものであるという事を否定する者は間違いなく宗教界から非難され異端視されるでしょう。違いますか?

次へ: 質問 1:あなたは主イエスは全能神として再臨され、終わりの日に裁きの働きをし真理を示していると証しをされている。なぜそんなことが可能ですか? 主は実際に私たちを天の国に連れて行かれるのです。私たちを置いて終わりの日の裁きの働きをなされるなんて、有り得ないでしょう? 主を信じ、聖霊の働きを受けていれば、既に神様の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネによる福音書 16:7-8)。私たちは、主イエスが復活されて天国に昇ぼられた後のペンテコステで、人に働きかけるために聖霊が下りてきたのだと考えます。それによって人々はすでに、自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。主の前で告白し悔い改めたとき、私たちは実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても主イエスが天に昇られたあとにペンテコステで降りてきた聖霊の働きが、終わりの日の神の裁きの働きであると信じています。それが裁きの働きでは? 「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますが、主の信者として、私たちはよく聖霊に触れられ、戒められて訓練されています。だからいつも、主の御前で泣いて悔い改めるのよ。多くの良い行いこそが、主への信仰で私たちがどう変化したかを表すものです。これは神の裁きを受けた結果ではないのですか? あなたの言う終わりの日の全能神の裁きの働きは主イエスの働きとどう違うのですか?

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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質問 2:全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

質問 1:あなたは、主イエスが中国に再臨され、その働きをなされている、と証しをされていますが、これは主イエスが聖書の中で預言していますので、私は本当だと思います。「いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。でも私たちは、主が終わりの日に再臨され、私たちを天の国に連れて行ってくださるか、少なくとも、雲まで引き上げられて空中で神様に会えるものと思っています。パウロも聖書の中で言っています。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)。しかしなぜ主は、聖書に記されているように来られないのですか? 終わりの日の全能神の裁きの働きは私たちが天国に連れて行かれることと何の関係があるのですか?

回答:沢山の人が、主が再臨されたときに、信者を大空に持ち上げてお会いになると信じています。でもそれは主ではなく、パウロの言葉によるものです。私たちには、パウロの言葉が人間の考えなのか、聖霊の啓きから来たものなのか知るすべはありません。これは主イエスが再臨について言われたことです。…

質問 8:どのように裁きの働きをされ人類を救い清めるのですか?

回答:真の道を求め調べている人なら終わりの日の全能神の裁きの働きを理解したいですよね。それについては全能神が語っておられますから、御言葉を少し読んでみましょう。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの…

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