7. 人々が救われ完全にされるように、神の働きの三段階はどのように次第に深化するのか。

関連する神の言葉

神の経営全体は三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求がなされる。さらに、時代が過ぎ去り進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、神によるこの経営の働きは、人間が「言葉は肉において現われる」という事実を目の当たりにするまで、一歩ずつ絶頂に達する。そしてこのような形で、人間に対する要求がいっそう高くなり、人間が証しすることへの要求もさらに高度化する。人間が神と真に協力できればできるほど、神はますます栄光を得る。人間の協力とは、人間が行なう必要のある証しであり、人間が行なう証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証しが存在し得るかどうかは、人間による協力と証しに密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神による経営のすべてが終わりに達するとき、人間はより高い証しをするよう要求される。そして神の働きが終わりを迎えるとき、人間の実践と入りは頂点に達する。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙虚であることを求められた。現在、人間は神の采配のすべてに従い、神への至高の愛を備えるよう求められており、最終的には患難のただ中でも神を愛することを要求される。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形を成す。人間の性質が神の要求する基準にますます近づくのはまさに、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、そのとき初めて、神の働きが完全に終わりを迎え、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

神の経営の働きは創世の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためだと言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、あるいは瞬時に行われるものではなく、一、二年で行われるものでもないので、神は人類の生存に必要なもの、すなわち太陽、月、あらゆる種類の生物、食物、そして快適な環境などを数多く造る必要があった。これが神の経営の始まりである。

その後、神は人類をサタンに渡し、人間はサタンの支配下で暮らした。そして、これが徐々に、神による最初の時代の働きへと至った。すなわち律法の時代の物語である。……数千年に及んだ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、当然のこととして考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そのため、律法を守っていながら、同時に偶像を崇め、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの加護がないまま、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はいまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇りさえしていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った……。

(中略)

いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は第二段階の新たな働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちのあいだで語り、働きを行ったのである。しかし、例外なく誰もそれを知らず、ごく少数の人だけが、イエスが十字架にかけられて蘇った後、彼こそ受肉した神だと認めた。……神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にかけられた後、人間を罪から取り戻す(つまり、人間をサタンの手から取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪を赦されるようになった。名目上、人間の罪は、救いを得て神の前に出る妨げではもはやなく、サタンが人間を責める手立てではなくなった。それは、神自身が現実の働きを行い、罪深い肉の姿を取ってその前触れとなり、また神自身が罪の捧げ物だったからである。こうして、神の肉、すなわちこの罪深い肉の姿を通じて、人間は十字架から降り、贖われ、救われたのである。そのため、人間はサタンに捕らわれた後、神の前で救いを受け入れることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは、律法の時代における神の経営よりもさらに深く、さらに発展していた。

(中略)

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階だが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。なぜなら、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔がより鮮明に人間に明かされるからである。人類の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今こそ自分たちが享受する時だと思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃に晒されている。実を言えば、これこそ神の民が「享受」すべき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「わたしは長い間迷っていた小羊で、神が大金を払って買い戻してくれた。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか。これが、わたしを笑い、さらし者にする神のやり方なのか……」と考えざるを得ない。長い年月の後、人間は精錬と刑罰の苦難を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行いの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身が分かるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に対して行った不当な要求の数々を憎むようになる。時間を戻すことはできない。過去の出来事は人間の後悔の記憶となり、神の言葉と愛が人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る……すると、神がずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることにようやく気づく。神の心は自ら造った人類をいまだ気遣い、神の手は始まりの時同様、いまだ暖かく、そして力強い。それはまるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、人間は今回、もはや蛇の誘惑に耳を傾けず、ヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、最高の捧げ物をする――ああ! わが主、わが神よ!

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

イエスが行なった働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは「わたしは律法を廃するためではなく、成就するために来たのである」と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエル人が実践した律法、および彼らが従った戒めと一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、成就するためだったからである。律法を成就する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的かつ現実的であり、さらにそれはより一層生きたものであり、規則への盲従ではなかった。イスラエル人は安息日を守っていたのではないか。イエスは来たときに安息日を守らなかった。なぜなら、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を成就し、それを変えるためだった。今日なされるすべてのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代におけるヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなどは、旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前にもたらされたものより高次の戒めや律法から成り立っているが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのも、神の働きの各段階は以前の段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェが当時イスラエルで行った働き、たとえば犠牲を捧げ、父と母を敬い、偶像崇拝をせず、他人に暴行を加えたり呪ったりせず、姦淫を犯さず、喫煙や飲酒をせず、死肉を食べず、血を飲まないよう人々に求めたことなどについて言えば、それは現在でもあなたがたの実践の基盤を形作っているのではないか。過去の基盤の上に、働きは今日に至るまで行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたどころか、より高く引き上げられたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する一方、戒めには未来永劫守らなければならないものがある。過去の戒めはすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、喫煙をしてはならないとか、飲酒をしてはならないといった戒めをことさら強調する必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒めが定められるのである。新時代の戒めを制定することは、旧時代の戒めを廃止することではなく、この基盤の上でさらに高く持ち上げ、人間の行動をさらに完全なもの、現実とより調和したものとすることである。今日、あなたがたがイスラエル人と同じように、戒めに従い、旧約聖書の律法を守ることしか要求されず、ヤーウェによって制定された律法を暗記することさえ求められていたら、あなたがたが変われる可能性はないだろう。これらの限られた戒めを守ったり、数えきれないほどの律法を暗記したりするだけならば、あなたがたの古い性質は深く根ざしたままで、それを引き抜く方法はないであろう。そのため、あなたがたはますます堕落し、あなたがたのうち誰ひとりとして従順にならないであろう。つまり、少数の簡単な戒めや数知れない律法は、あなたがたがヤーウェの業を知る上で助けにはならないということである。あなたがたはイスラエル人と同じではない。律法に従い、戒めを暗記することによって、彼らはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェだけに献身を捧げることができた。しかし、あなたがたがそれを成し遂げることはできない。そして、旧約聖書時代の僅かな戒めは、あなたがたに心を捧げさせることも、あなたがたを守ることもできないだけではなく、それどころかあなたがたをだらしなくさせ、ハデスに落とすだろう。わたしの働きは征服の働きで、あなたがたの不従順さや古い性質に向けられているからである。ヤーウェとイエスの優しい言葉は、今日の厳しい裁きの言葉に比べてはるかに劣っている。そのような厳しい言葉がなければ、何千年ものあいだ服従してこなかった、不従順の「専門家」であるあなたがたを征服するのは不可能であろう。旧約聖書の律法はずいぶん前にあなたがたへの力を失い、今日の裁きは古い律法よりはるかに手ごわい。あなたがたに最もふさわしいのは裁きであって、律法という取るに足らない制限ではない。なぜなら、あなたがたはごく最初の人間ではなく、何千年ものあいだ堕落してきた人間だからである。人間が今成し遂げなければならないことは、今日の人間の現状に即しており、現代人の素質と実際の霊的背丈にそったものであり、規則に従うことは要求されない。それはあなたの古い性質に変化を生じさせ、あなたが自分の観念を捨てるようにするためである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(1)」(『言葉』第1巻)

人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「わたしの上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神がわたしたちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

人の救いの働きは三段階で実行された。つまり、サタンとの戦いは三段階に分割され、それによってサタンを完全に打ち負かすのだ。しかし、サタンとの戦いという働き全体に秘められた真相は、人に恵みを施し、人の罪の捧げ物となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にするといういくつかの段階を通して、その効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、武器を手にしてサタンに立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、そして人の性質を変えることであり、それによって人は神を証しする。サタンはこのようにして打ち負かされるのだ。人の堕落した性質を変えることを通して、サタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が、征服に引き続いて創造主のもとへと戻ることであり、これによって人はサタンを捨て、完全に神へと立ち返る。このようにして、人は完全に救われることになる。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かす神の経営の最終段階である。この働きがなければ、人の完全な救いは最終的に不可能で、サタンの完全な敗北も不可能なはずだ。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできない。したがって、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了させることはできない。なぜなら、神の経営の働きの核心は人類の救いだからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営の働きで打ち負かされる対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神による経営全体の資本なので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの虜となった人間を取り戻す必要があるのだ。かくしてサタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされる。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、この戦い全体の戦利品となり、戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となる。その後、人類を救う働き全体が完了するのである。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

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回答:信者の大半は、再臨された主がその霊体、つまり主イエスが復活されて40日間に人々の前に現れた時と同じ霊体で出現されると信じていますが、これについては明らかです。復活後の主イエスの霊体は見掛けは受肉と同じ姿で現れますが、物質界や空間または場所に束縛されることはありません。自由に…

質問 1:主イエスの御名と道に忠実であり、偽キリストたちや偽預言者を相手にせず、目を覚まして待てば、主は来られる時にかならず啓示をくださる。主の御声を聴かなくても引き上げていただける。主イエスはこう言われた「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。あなたたちは偽キリストたちや偽預言者たちの欺きを認めないのか? だから我々は、主の到来を証しする者は全て、間違いなく偽者だと信じているのだ。吟味するまでもない。主は来られるときには、啓示をくださるし、私たちを見捨てるはずはない。これが正しい信仰実践だと思う皆はどう思うかな?

回答:主イエスは確かに、終わりの日の偽キリストと偽預言者のことを預言されました。これは事実です。しかし、ご自身の再臨も何度か明確に預言されました。私たちはそう信じてますね? 多くの人は主イエスの再臨の預言に関しては偽キリストや偽預言者を警戒することに集中し花婿の到来を迎えることや…

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