日々の神の御言葉「神の働き、神の性質、そして神自身 3」抜粋78

パリサイ人によるイエスへの非難

マルコによる福音書 3:21-22 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

イエスによるパリサイ人への叱責

マタイによる福音書 12:31-32 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

マタイによる福音書 23:13-15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

上の二節の内容はそれぞれ異なっています。まずは「パリサイ人によるイエスへの非難」の一節について検討しましょう。

聖書によると、イエスと、イエスの行なったことに対するパリサイ人の評価は「気が狂ったと思った……『彼はベルゼブルにとりつかれている』……『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書 3:21-22)というものでした。律法学者とパリサイ人による主イエスへの非難は単なる他人の言葉の受け売りでも、根拠のない憶測でもありませんでした。それは主イエスの行動を見聞きしたことから引き出された結論だったのです。その結論はあくまで正義の名のもとに下され、人々から見てしっかりした根拠があるように思われましたが、彼らが主イエスを非難した際の傲慢さは、彼ら自身にも抑えがたいものでした。主イエスに対する燃えるような憎しみの力は、彼ら自身の向こう見ずな野望と悪しきサタンのような顔つき、そして神に抵抗する悪意に満ちた本性を露わにしました。主イエスを非難するにあたって彼らが述べたこれらの言葉は、彼らの向こう見ずな野望、嫉妬、そして神と真理に敵対する悪意に満ちた醜い本性を原動力としていたのです。彼らは主イエスの行動が何によるものかを調べず、イエスの言動の本質を調べることもしませんでした。それどころか、興奮状態の中、意図的な悪意をもって、イエスが行なったことを無闇に攻撃して貶めたのです。そのひどさたるや、イエスの霊、すなわち神の霊である聖霊を故意に貶めるほどでした。律法学者とパリサイ人が「気が狂った」、「ベルゼブル」、「悪霊どものかしら」などと言ったのは、そのような意味だったのです。つまり、神の霊はベルゼブル、悪霊の頭だと言ったのであって、受肉した神の霊、すなわち肉をまとった神の働きに狂気という烙印を押したのです。彼らは聖霊をベルゼブル、悪霊の頭といって冒涜したのみならず、神の働きを断罪し、主イエス・キリストをも断罪して冒涜しました。神に抵抗して冒涜する彼らの本質は、サタンや悪魔が神に抵抗して冒涜する本質とまったく同じです。彼らは堕落した人間を象徴していただけでなく、それ以上にサタンの権化でもありました。彼らは人類の間でサタンにつながる出口であり、サタンの一味にして手下でした。彼らが主イエス・キリストを冒涜、誹謗することの本質は、地位を巡る神との戦い、争い、そして終わることのない神への挑戦でした。神に抵抗する彼らの本質、神に敵対する彼らの姿勢、そして彼らの言葉と考えが、神の霊を直接冒涜してその怒りを招いたのです。そのため、神は彼らの言動をもとに妥当な裁きを下し、彼らの行ないを、聖霊を冒涜した罪だと判断しました。この罪はこの世でもきたるべき世でも赦されるものではありません。聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」と記されている通りです。本日は「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という神の言葉がもつ真の意味について話し合いましょう。つまり「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という言葉を神がどのようにして実現するか、その謎を解き明かしていきます。

これまで話し合ってきたことはどれも、神の性質、および人々や出来事や物事に対する神の姿勢に関するものです。もちろん、先に述べた二節も例外ではありません。これら二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。その中に神の怒りを見ると言う人もいれば、人間による背きを許さず、神を冒涜することを行なえば、その人は神の赦しを受けられないという、神の性質の側面を見ると言う人もいます。これら二節の中に、人は神の怒りと、神が人間の背きを許さないことを見たり感じ取ったりしますが、それでも神の姿勢を真に理解しているわけではありません。これら二節は、神を冒涜して怒らせた者に対する、神の本当の姿勢と処遇を暗に示しているのです。神の姿勢と処遇が「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という聖句がもつ本当の意味を表わしているのです。人が神を冒涜してその怒りを招いたとき、神は審判を下し、その審判が神の下した結末になります。それについて聖書にこう記されています。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイによる福音書 12:31)。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」(マタイによる福音書 23:13)。しかし、主イエスがこのように述べたあと、律法学者とパリサイ人の結末、そして主は狂気に取り憑かれていると言った人たちの結末がどうなったか、聖書に記されていますか。何らかの懲罰を受けたと記されていますか。何も記されていないことは確かです。ここで何も記されていないというのは、そのような記録がないということではなく、人の目に見える結末がなかったということに過ぎません。「記録されなかった」ということによって、ある種の物事を取り扱う際の神の姿勢と原則にまつわる問題が解明されます。神を冒涜したり、神に抵抗したり、果ては神を中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に神を攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対し、神は見ないふりをすることも、聞こえないふりをすることもありません。むしろ、そのような人たちに対する明確な姿勢があります。神はこうした人々を嫌悪し、心の中で断罪します。そして、神には自身を冒涜した人に対する明確な姿勢があること、およびそのような人の結末を神がどう定めるかを人々に知らしめるべく、神は彼らの結末を公然と明らかにします。しかし人は、神がそれらを述べたあとも、神がこうした人々をどのように取り扱うかに関する事実をほとんど理解できず、神が彼らに下す結末や審判の裏にある原則を認識できません。つまり人々は、神が彼らを取り扱う際の具体的な姿勢や手段を理解することができないのです。そのことは、神が業を行なう際の原則と関係しています。神は事実を生じさせることで、一部の人の邪悪な行ないを取り扱います。つまり、神は彼らの罪を宣告するのでも、彼らの結末を定めるのでもなく、事実を生じさせることで懲罰と正当な報いを直接彼らに与えているのです。こうした事実が生じるとき、その懲罰を受けるのは人の肉体ですが、そのことは、その懲罰が人間の目に見えるものであることを意味しています。一部の人々の邪悪な行動を取り扱うとき、神は言葉によって彼らを呪い、それと同時に神の怒りが彼らに及びますが、彼らが受ける懲罰は人の目には見えないものです。それにもかかわらず、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合があります。このような人を救わない、このような人にこれ以上慈悲や寛容さを示さず、機会を与えることもしないと神が判断したなら、彼らを見捨てるというのが神の姿勢です。ここで言う「見捨てる」とはどのような意味ですか。その言葉の基本的な意味は、「脇にのけてこれ以上注意を払わない」というものです。しかし、神が何かを「見捨てる」場合、その意味は二通りに説明することができます。一つ目の説明は、その人のいのちと、その人に関する一切のものを、神がサタンに与えて取り扱いを任せ、その人にそれ以上責任を負わず、管理することもないというものです。その人が狂気に取り憑かれていたり、愚かであったりしても、あるいは生きていても死んでいても、または地獄に落とされて懲罰を受けていても、そのどれも神には関係なくなるのです。つまり、そのような被造物は創造主と何ら関係がなくなるという意味です。二つ目の説明は、神がその人に対し、自らの手で何かを行なうと決めた、というものです。その人の奉仕を利用したり、彼らを引き立て役として用いたりすることもあるでしょう。または、神にはこの種の人を取り扱う特別な方法があり、パウロに対してそうしたように、特別な方法でその人を扱うかもしれません。この種の人を取り扱うと判断した際、神の心の中には以上の原則と姿勢があります。したがって、人々が神に抵抗し、神を中傷、冒涜したとき、あるいは神の怒りを買ったり、我慢の限界を超えさせたりしたとき、その結末は想像を絶するものになります。神が彼らのいのち、彼らにまつわる一切のことを永遠にサタンに委ねるというのが、最も深刻な結末です。このような人は永遠に赦されません。そのことは、この人物がサタンの餌食になり、玩具になり、そして今後は神と無関係になることを意味します。サタンがヨブを試したとき、それがどれほど悲惨なものだったか、あなたがたは想像できますか。サタンはヨブのいのちに危害を加えることを許されませんでしたが、そのような条件であっても、ヨブは大いに苦しみました。それならば、完全にサタンの手に委ねられた人、完全にサタンの手中にある人、神の慈しみや憐れみを完全に失った人、もはや創造主の支配下にいない人、神を信仰する権利と、神の支配下に属する被造物である権利を奪われた人、そして創造主との関係を完全に絶たれた人に加えられるサタンの猛威は、それにも増して想像するのが難しくはないでしょうか。サタンによるヨブの迫害は、人間がその目で見られるものでしたが、神がある人のいのちをサタンに引き渡したなら、その結末は人の想像を絶するものになります。たとえば、牛やロバとして生まれ変わる人もいれば、不浄な悪霊に取り憑かれる人などもいます。これが、神からサタンに引き渡された人の結末です。表面上、主イエスを嘲笑し、中傷し、断罪し、冒涜した人たちは、そのような結末に苛まれていないように見えます。しかし、神にはあらゆる物事に対する取り組み方がある、というのが真実です。各種の人を取り扱うにあたってその結末がどうなるか、神は明確な言語でそれを人々に話すことはないかもしれません。直接話すのではなく、むしろそのまま行動することもあります。神がそれについて何も語らないということは、何の結末もないという意味ではなく、実際のところ、そのような場合にはより深刻な結末になる可能性もあります。表面上、神が一部の人々に対し、自身の姿勢を明確に語っていないかのように思われることがあります。しかし実際には、そのような人に注意を払うことをずっと以前から望んでいなかったのです。彼らに二度と会いたくないのです。その人の行動や振る舞い、本性実質が原因となって、神はそうした人たちが自身の視界から姿を消すこと、彼らをサタンに直接引き渡すこと、彼らの霊魂と身体をサタンに与え、サタンの意のままにさせることだけを望んでいるのです。神がその人たちをどれほど憎んでいるか、どれほど嫌悪しているかは明らかです。ある人が神を怒らせ、神が二度と会いたくないとさえ思ったり、完全に見捨てる心構えができたり、自分自身で取り扱いたくないと思ったりするようになれば、あるいは、その人をサタンに引き渡して好きなようにさせ、思うがままにその人を支配し、食い尽くし、取り扱うのを許すようになれば、その人は完全に終わりです。その人の人間たる権利は永久に無効となり、神の被造物たる権利も終焉を迎えます。それは最も過酷な懲罰ではありませんか。

『言葉は肉において現れる』より引用

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