神の導きで悪魔の残虐行為に打ち勝つ

2019年11月28日

私と娘は共に全能神教会に属するクリスチャンです。私たちは神に付き従っていたとき、親子ともども中国共産党政府に逮捕され、「労働再教育」を宣告されました。刑期は私が三年、娘が一年でした。私は中国共産党政府から非人道的な迫害と虐待を受けましたが、絶望して危険にさらされるたび、いつも神がおられ、ひそかに私を見守り、保護し、道を開いてくださいました。私は全能神の御言葉から生きる勇気と意欲を与えられるとともに、残酷な拷問の苦しみに打ち勝つよう導かれ、こうしてあの地獄のような刑務所の中で三年間耐え抜くことができました。逆境の最中、全能神の愛と救いを目の当たりにし、神の御言葉の権威と力を経験したのです。かくも多くを得た私はそれを特別な恩恵と感じ、揺らぐことなく神に従って正しい人生の道を歩もうと決意しました。

神を信じる前は商売を営み、何とかうまくやって相当な収入を得ていました。しかし暮らしを立てるのに忙しい中、人生の浮き沈みも散々経験しました。毎日知恵を絞ってどうすればもうかるかを考える他に、政府の各部門による様々な物品検査に応じなければならなかったのです。人とのつきあいでは一日中不誠実な話をして仮面をかぶることを余儀なくされました。つらい上に疲れる生き方でしたが仕方なかったのです。仕事のせいで精神的にも肉体的にも疲れ果てるまでになったとき、私は終わりの日の全能神の福音を受け入れました。全能神が表された御言葉は人生の奥義を明らかにし、人類のあらゆる苦痛の根源とサタンによる人類の堕落の真相を暴くことを知ったのです。それはまた生涯たどるべき光の道を人に示しており、私の心はすぐに神の御言葉を受け入れました。これこそが真の神の働きであり、神への信仰が人生における唯一の正しい道であると心の底から確信したのです。終わりの日の神の働きを受け入れられて実に幸運だと感じた私は、自分と同じく空しい生活を送り、人生の方向性を見いだせず、全能神による終わりの日の救いを必要としている世界中の人たちのことを考えました。そこでより多くの人が神の救いを得られるよう、私は真理を求めるさらに多数の人たちに、終わりの日の福音を伝えたいと思いました。神の愛に心を動かされた私は、神の働きと救いをいつ語っても語りつくせず、また宣教を通じ、真剣に真理を求める人たちを何名か信者に引き入れることができて胸が躍りました。当時、娘は高校を卒業したばかりで、私が全能神に従うようになってからどれほど幸せになったかを目にし、また我が家に来る兄弟姉妹が皆純粋で親切で、集まって率直に話し合い、賛美歌を歌って躍っている姿も見ており、そこにとてつもない優しさと楽しさに満ちた活気がいつもあることを知っていました。そういうわけで娘もこのような生活を切望し始め、神を信じて従うことを強く望みました。以来、私たち親子は日中には商売を営み、夜になると一緒に祈り、一緒に神の御言葉を読み、一緒に賛美歌を憶え、神の御言葉の理解について交わるようになりました。私たちの暮らしは喜びに満ちていたのです。

私たちが神の愛にこの上なく心を奪われ、温められていたとき、思いがけないことに、中共政府の悪魔の爪が私たち二人を襲い、胸が張り裂ける悪夢のような苦痛をもたらしました。それは決して忘れられない出来事でした。2007年12月7日、娘が家で洗濯をしており、私が教会での本分を尽くしに出かける用意をしていたとき、いきなり五、六人の私服警官が入ってきたのです。するとその一人が「お前たちは全能神の信者だな! しかもあちこち宣教に回りやがって!」と叫びました。その警官が娘を指さし、別の二人の警官に「まずこの女を押さえろ!」と言うと、娘はすぐさまその二人に連れて行かれました。そして他の警官たちが我が家を隅々まで捜索し始め、箱とたんすを引っ掻き回し、私たちの服のポケットまで全部調べました。たちまちベッドも床も滅茶苦茶に散らかり、警官たちは革靴を履いたままベッドを踏み荒らした挙句、神の御言葉の本数冊、ディスク数枚、CDプレーヤー二台、MP3プレーヤー二台、現金二千元、そして金のイヤリング一組を押収しました。そして私をパトカーの中に押しやったのです。私は彼らに「私たちは神を信じて何の法律を破ったの? なぜ逮捕するの?」と尋ねて説明を求めました。すると驚いたことに、彼らはその場に集まった野次馬の前で、「お前ら神の信者を捕まえることが我々の仕事だ!」と厚かましくも言い放つではありませんか。私は憤りました。彼らは「人民警察」ではなく、正しい人々を取り締まることが専門の盗賊、ならず者、やくざの集団に過ぎないのです。

公安局に着くと、私は手錠をかけられ尋問室に連行されました。彼らの凶暴そうな姿を見るとどうしようもなく怖くなり、こう思いました。

「この悪魔たちの手に落ち、家の中から御言葉の本やディスクがあんなに見つかった以上、逃がしてもらえるはずなんてない。拷問に耐えきれなくてユダになってしまえば、神を裏切った反逆者として永久に名を残すことになる!」

心の中で神に静かに祈り、加護と導きをお願いしたその時、神の次の御言葉を思い出しました。

患難の時に、わたしに全く忠誠を示さなかった者たちにはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみが与えられるのはここまでだからだ。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉のおかげで、神の義なる性質が背きを許さず、神がご自身を裏切る人を愛されないことを悟りました。そして次の御言葉を思い出したのです。

権力を持っている者たちは、外側から見ると悪質に見えるかもしれないが、恐れることはない。それは、あなた方の信仰があまりに僅かだからである。あなた方の信仰が成長する限り、難しいことは何もない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十五章」〔『言葉』第1巻〕)

「そうよ! 彼らを恐れてはいけない。この悪しき警官どもがどんなに手ごわくても、彼らだって神の御手の中にあるのだし、どんなにひどい連中だとしても神のお許しがなければ、私の髪の毛一本傷つけられないわ」

私は御言葉に信仰と勇気を与えられ、神に誓いを立てました。

「神よ! あなたが私を試される時が来ました。私はあなたの証しを立てることを望み、決してユダにならないと命にかけて誓います」

祈りを終えた後、心が次第に落ち着きました。その時、リーダーらしき悪しき警官が私を責めたてました。

「バカな女だ! 他のことなら何でもしていいが、娘にまで神を信じさせるとは。きれいな娘じゃないか。金持ちに体を売れば年に数万元は稼げるのに、バカみたいに神なんか信じやがって! さあ言え、いつから神を信じるようになった? 誰に教わった? あの本はどこから手に入れたんだ?」

その男がまくしたてるのを聞いて、私は腹が立ちました。威厳に満ちているはずの政府官僚がそのような卑しく恥知らずなことを言えるのが信じられなかったのです。人が自分の体を売るのを良しとして、そのような悪しき行為を奨励さえしています。その一方で、神を信じて崇め、正直な人間を目指している私たちを、不正を働く犯罪者に分類し、厳しい取り締まりと逮捕の対象にしているのです。このようにふるまうことで、彼らは悪を守って善をねじ伏せ、正義を押し殺してはいないでしょうか。中共政府は実に邪悪で腐敗しています。警官たちがそのようなでたらめを言い続け、道理をまったく聞き分けない様を見た私は、彼らの目を覚ますのは至難の業だとわかったため、口を閉じました。私が話そうとしないのを見た彼らは私をパトカーに連れ戻すと、「家でこれだけ証拠を見つけたんだ。大人しく全部吐かないと引きずり出して撃つぞ!」と脅しました。彼らのこの言葉に、私は恐怖を禁じえませんでした。

「この人たちは何でもやりかねない。本当に撃たれたら娘に二度と会えない」

そう思えば思うほどつらくなり、心の中で絶えず神に呼びかけ、自分の心を守り、自分の中にある恐怖と心配を追い払ってくださるようにお願いしました。ちょうどその時、次の御言葉が思い浮かんだのです。

宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第一章」〔『言葉』第1巻〕)

信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。臆病と恐怖を抱いている者はサタンに騙されているのだ。サタンは私たちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れている(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)

その瞬間、すべてがはっきりしました。

「そうだわ。私の命も娘の命も神の御手の中にあり、私たちが生きるか死ぬかは神が最終的にお決めになる。このサタンの手下たちが私たちの運命を支配することはできない。神のお許しがなければ、誰も私たちの命を奪おうと考えることすらできない。サタンは今日、私がその狡猾な策略に掛かって屈するように、私の弱みに付け込んで脅迫し、威嚇しようとしている。でもサタンにだまされてはいけない。死んでも生きても喜んで従うわ。神を裏切るぐらいなら死んだほうがましなのだから」

そう思うとすぐ、サタンと最後まで戦う決意が湧き、もはや怯えも怖気づきもしませんでした。

私は警察の手で拘留所へと連行されました。中庭に引っ張られるとすぐ刑務官に荒っぽく調べられ、靴と服を脱ぐよう指示されました。その後、ものすごく寒い庭に三十分近く立たされたのです。あまりの寒さに身体のバランスを保つのも難しく、全身が激しく震え、歯が絶えずカチカチと鳴りました。私から何も見つけられなかった刑務官の一人が私を雑居房に連れて行き、そこの囚人頭と他の囚人に「こいつは全能神の信者よ……」と言って煽りました。刑務官がそう言うや否や、囚人たちが私に寄ってたかり、ズボンを足首まで上げ下げさせました。私を笑いながら何度もそうさせたのです。からかわれ、侮辱された後、私は囚人頭に鶏の羽毛から物を作る方法を覚えさせられました。しかしこの作業はある程度の技量と練習を要するため二日目になっても覚えられず、それを理由に囚人頭に竹の棒で両手をひどく叩かれました。手が痛んでしびれるまで叩かれ、鶏の羽をつまみ合わせることもできません。床に落ちた羽を拾い上げようとすると、囚人頭に手を踏みつけられて焼きつくような痛みに襲われ、指がちぎれたかと思いました。しかしそれだけではすまず、囚人頭に再び竹の棒で頭を何度も殴られ、やがてめまいがして視界がぼやけました。挙句の果てに、囚人頭は冷酷に言い放ちました。

「今夜は罰として夜勤よ。明日あんたは警察の尋問があるから、明日の仕事を今日やってもらうわ。全部終わらなかったら、明日は一晩中立たせるわよ!」

その瞬間、私は言葉にならない悲しみと憂鬱を感じました。ぐるになった悪しき警察と囚人たちにこうして傷つけられ、もうすでに耐えられなくなっているのに、どうしてこの先何日も持ちこたえられるのかと思ったのです。苦悶の中、事の理不尽さを嘆き、涙で顔を濡らしながら、無言で神に自分の困難を打ち明けました。

「ああ神よ! この鬼たちから加えられる嘲笑と責め苦を前に、私は本当に孤独と無力と恐怖を感じ、どうすれば耐え抜けられるかわかりません。どうか私を導き、強くしてください」

祈りの後、神は私に次の御言葉の一節を思い出させ、啓いてくださいました。

神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである(『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」〔『言葉』第1巻〕)

私は御言葉から大いに慰めを得て、御心を悟ることができました。神はサタンによる包囲と迫害を用いて人を完全になさるとともに、人がサタンの影響から逃れ、神によって勝利者とされて神の国に入れるようにしてくださるのです。中国共産党政府が支配するこの暗く悪しき国において、人々は正しい道ではなく悪しき道を歩むことしか許されません。その狙いは、人々が善悪も正邪も区別できなくなり、悪を擁して正義を捨て、ついには神に抵抗したことで自分たちもろとも滅びるまで堕落させることです。暗黒の勢力に四方を囲まれても屈せず、神の御前で自分の信仰と忠誠と愛を保ち、神の証しを立てることでのみ、人は真の勝利者になれるのであり、そうして初めてサタンを辱め、神に栄光を得ていただくことができます。その時、私は神に祈りを捧げました。

「ああ神よ! あなたはこのサタンの手下たちに奉仕をさせることで、私の信仰を試し、あなたの証しをする機会を与えてくださっています。そうすることで、あなたは私を高めてくださっているのであり、私は今自分の身に起こっていることがすべてあなたによって指揮され、何事もひそかに精査されると信じています。この試練においてあなたの証しを立て、ご満足頂きたいと思います。どんな苦しみを受けても倒れたり道を誤ったりしないよう、ただ信仰と強さ、そして苦しみに耐える決意を与えてくださることをお願いします」

三日目の午前九時、警察は私を尋問室に連れて行き、娘の携帯電話を突きつけながら尋問を始めました。

「この電話のメッセージはお前が送ったものだ。お前は家を買うと娘に言った。ということは、金に困っていないようだな」

この悪しき警官は本当に卑劣でした。どんな手を使ってでも私から一銭残らず絞りとろうとしたのです。私は「その話はただの冗談よ」と答えました。すると警官は表情を一変させ、メモ帳で私を激しく叩きました。私はしまいにめまいがして顔が焼けるように痛みました。警官は歯ぎしりしながら言いました。

「言え! お前の金はどこだ? 洗いざらい吐かないと引きずり出して撃つぞ! それか八年から十年の実刑だ!」

私は何も知らないと言いました。背の高い堂々とした風采の警官が怒りだし、私に飛びかかったと思うと私の上着の後ろをつかみ、私を数メートル向こうの床に投げ飛ばしました。そして私の頭、背中、足を乱暴に蹴りながら言いました。

「吐かないからこうなるんだ。何も知らないとほざくが、そんなこと信じるのはバカだけだ! 訊いたことを教えないなら今日ぶっ殺すぞ!」

私は歯を食いしばって痛みをこらえ、心の中でひたすら神に呼びかけました。

「ああ神よ! この悪魔たちは本当に悪意でいっぱいです。どうか彼らの暴行に打ち勝つ力を与え、あなたの証しを立てられるようにお守りください」

まさにその時、私は次の御言葉を思いました。

キリストの良き兵士たちならば、勇敢であってわたしを信頼し、霊的に強くなければならない。戦士になるために戦い、決死の覚悟でサタンと戦わなければならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十二章」〔『言葉』第1巻〕)

あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)

私は御言葉に信仰と強さ、そして死の呪縛に打ち勝つ勇気を与えられました。その瞬間、神の愛を感じ、神がいつもそばにいてくださると悟ってこう思いました。

「あなたたちにこうしてぶたれればぶたれるほど、神の敵であるあなたたちの本性が見えるわ。たとえ死んでも、絶対あなたたちに屈しない。私がそのうち神を裏切ると思っているなら考え直しなさい!」

そう思うや否や、体全体が楽になるのを感じました。その日の朝は暴行と尋問が交互に繰り返され、午後には冷たく硬い床に正座させられました。一日中日が暮れるまで拷問され、ひどい暴行を受けたせいでついには全身が堪らなく痛み、立つ力がなくなりました。彼らは私に尋問しても何も聞き出せないと悟ったため、拘置所に連れ戻しました。

冷酷な刑務官は拘置所に戻った私に決して十分な食事をさせず、そのうえ過剰な量の仕事を課しました。毎日十五時間以上働かせ、全部終わらないと囚人頭に痛めつけさせました。私はまだこの作業を始めたばかりでペースが遅かったので、作業で使っていた鋼の金槌を囚人頭に取られ、それで頭を殴られました。たちまち頭に大きなこぶができ、それからも囚人頭に蹴られ、殴られ、しまいに体中が耐え難いほど痛み、口から血が滴り落ちました。そんな残酷な責め苦を受けながら、娘のことを考えずにはいられませんでした。娘が逮捕されてから、悪しき悪魔たちからどんな拷問で苦しめられているかも、刑務所でどうしているのかも見当がつきません。ちょうどその時、隣の男性囚人の雑居房から突然叫び声が聞こえ、私と同じ房にいる女性の一人が言いました。

「ここでは人を殺すなんて虫を殺すのと一緒よ。ある男の囚人が責め苦に耐えられなくて刑務所の後ろの丘に逃げたんだけど、警官はその人を見つけると殴り殺して、家族には自殺したって言ったの。そうやって全部もみ消したのよ」

この話を聞いて私は怖くなり、娘のことがいっそう心配になりました。彼女は十九歳になったばかりで、それまで人生でこのような困難に遭ったことはおろか、まったく苦しんだこともありません。人を平気で殺せるこの悪魔たちは、人が思いつくどんな卑劣な行為もしかねません。私はその悪魔たちの拷問と残酷さに娘が耐えられるかどうか不安でした。娘が生きているのか死んでいるのか見当もつかず、激しい苦悩にさいなまれ、夢の中でも娘がその悪魔たちに拷問されるおぞましい光景を目にしました。そんな夢からはっと目を覚まし、あまりの動揺でそれから一晩中眠れないことがよくありました。

翌日、刑務官は何かと難癖をつけて私が十分に働いていないと言い、何の理由もなく顔を平手打ちしました。それがあまりに激しいので、私は顔が熱くなって耳鳴りがしました。しかし刑務官はそれでも気がすまず、「ここではあなたを直せないと思うから、『鉄の処女』の恐怖を味わわせてやるわ!」と叫びました。そこで刑務官が指示を出すと他の五、六人が来て、私はすっかり別人に見えるほど髪の毛を切り落とされました。そして床に押さえつけられ、刑務所内で最もひどい拷問具である「鉄の処女」を身に着けさせられたのです。鉄棒で繋がっている鉄の輪が私の頭、両手、両足に一つずつはめられました。この拷問具で縛られた私は立っていることもできず、壁にもたれかからざるをえませんでした。刑務官は私にこの拷問具を毎日午前五時から真夜中まで身に着けさせ(つまり十九時間ずっと立ちっぱなしでした)、囚人頭に「見張っていて。寝ようとしたら蹴ってやって」と指示しました。その後、囚人頭は私を毎日見張り、一瞬も目を閉じさせませんでした。これらの輪が鉄製で体中にはめられていたため、血流が遮られているような感じがします。私はまったく目を開けていられなくなったため、囚人頭に罵倒されたうえ、蹴られもしました。体中が震えだし、痛さをこらえるのもほとんど無理でした。就寝時間になると、日中の作業で使っていた大きな板の上に、囚人四人がかりで持ち上げられ、翌朝になるとまた持ち上げられて降ろされました。その数日間、外は吹雪がひどく、異常に寒い気候でした。憎むべき刑務官は私を苦しめようと、この鉄の輪を七日七晩はめさせました。私は一人で飲食することもトイレに行くこともできず、用を足す必要があるときはまだ作業を終えていない他の囚人に手伝ってもらわなければなりませんでした。囚人たちは皆毎日忙しかったので、私に物を食べさせるときはいつもやり方がいいかげんで、水を飲ませてくれることはほとんどありませんでした。私は飢えと寒さにひどく苦しみ、毎日が一生のように感じられました。早朝になって大きな板から降ろされるたび、また一日耐えることなんてできるだろうかとものすごく苦悩しました。夜が待ち遠しく、太陽が二度と昇らなければいいと思うほどでした。鉄の輪のあまりの重さのため、それをはめられた二日目には手が腫れて黒紫色になっており、皮膚は今にも張り裂けそうでした。全身が風船のように腫れ上がり、十か月経っても完全には引かなかったほどです。死んだほうがましに感じられるほどの苦痛にさいなまれ、我慢の限界に達していました。そのため、私は神に祈り、懇願しました。

「この責め苦にはとても耐えられません。生きていたくありませんが、死ぬこともできません。あと一分も生きていたくないので、ただ私に息を引き取らせることをお願いします」

痛みから逃れるために死を望み、神にこうした不条理な要求をしていたちょうどその時、神の御言葉が頭に浮かびました。

今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく……一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。……このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)

人間として、あなたは神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。あなたは喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブのように、ペテロのように、意味のある生活を送るべきである。……あなた方は正しい道を追求する人々、成長を求める人々である。あなた方は赤い大きな竜のいる国で立ち上がる人々、神が義人と呼ぶ人々である。それは最も意味のある人生ではないだろうか(『神の出現と働き』「実践〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)

その御言葉は甘露のごとく私の乾いた心に降り注ぎました。

「そうよ。今こそ、私が神の証しをすることを神が必要となさっている時だわ。痛みを受けたくないからといって死んでしまえば、臆病者にならないかしら? 今、私はこの悪魔たちの手で虐待と責め苦に遭っているけれど、神の証しを立てて神に義と呼んでいただけることが、最も有意義で価値あることではないの? これまで何年も神に従い、神から多くの恵みと祝福を享受してきたのだから、今日サタンの前で神の証しをするべきで、それが私にとって名誉なことよ。どんなに苦しんでもつらくなっても、命にしがみついて神の心が満たされるようにするわ」

私は神の御言葉によって心も霊も覚醒し、御心がわかるようになりました。もはや死のうと思わず、むしろただ痛みに耐え、神の指揮と采配に従うことだけを望みました。ついに七日七晩の体罰が終わりました。その時点で私は頻死になるまで痛めつけられており、かかとの皮膚が剥がれ落ち、口の周りの皮膚がぼろぼろ剥けていました。後になって、隣の雑居房の男性囚人が「強くてたくましい三十代の男の囚人があの責め苦で死んだ」と言うのを聞いて、心の中で神に感謝し続けました。なぜなら自分が生き延びたのは単に運がよかったからではなく、神の導きと加護のおかげだったことを知っていたからです。いのちの力が吹き込まれた御言葉のおかげで、私は生き続けられたのです。それがなければ、か弱い女性である以上、その責め苦でとうに死んでいたでしょう。

その残酷な拷問を受けて、私は神の全能をまさに目の当たりにしただけでなく、自分の無力さを一層思い知りました。試練の間、自分のこともろくにできなかったのに、娘がしっかり立てるかどうかを心配していたのです。単に自分の想像でくよくよしていたのではないでしょうか。娘の運命は神の御手に委ねられており、私は娘を心配したところで少しも助けることはできず、ただサタンに付け入る隙を与えてその惑わしと害を受けやすくさせるだけです。万物は神によって指揮され、采配されているのであって、私はそのとき娘を神に委ねて神を仰ぐべきだと悟りました。またこの逆境の中、神が私をどのように導かれようと、娘のことも導かれてこの過酷な時期を乗り切らせてくださると信じました。そこで私は神に祈りを捧げ、神の御言葉を思い出したのです。

なぜあなたは彼らをわたしの手に委ねないのか。あなたはわたしを十分に信じていないのか。それとも、わたしがあなたに不適切なものを用意するのではないかと恐れているのか。どうしてあなたはいつもあなたの家を恋しがっているのか。また他の人たちを恋しがっているのか。わたしはあなたの心の中で或る位置を占めているのか(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五十九章」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉のおかげで私の状態がよくなりました。

「そうよ。人が経験する困難や苦痛はすべて神によって予め定められている。娘が受けている苦しみは神のお許しで起きた。私はそれを理解していないかもしれないし、娘がどうなっているのかもわからないけれど、何事にも神の愛がこめられているはずよ。人に対する神の愛は最も現実で真実の愛なのだから。娘のことは神に支配と采配をお任せし、神から来ることなら何でも従おう」

すべてを手放して神の指揮に従おうと思ったとき、私は法廷で娘に会いました。自分が神の導きで苦難と拷問に打ち勝ち、神の祝福を目の当たりにしたことを、娘は私にこっそり教えてくれました。神が何人かの裕福な囚人を動かし、服を与えたり、食べ物や飲み物を買ったりする形で、娘を助けてくださったのです。囚人頭が見えすいた口実で娘をいじめに来たとき、かばってくれる人もいました。こうしたことは神が獄中の娘に授けてくださった祝福のほんの一部なのです。この経験を通じて、娘は神の不可思議で知恵のある働きをある程度認識し、神の愛が決して言葉で言い尽くせないことを理解するようになりました。私はこのことを娘から聞いて大変喜び、神への感謝の涙が目から溢れました。自分の娘の中に、神の全能なる主権と不可思議な御業を再び目の当たりにし、私たち親子がこの逆境と迫害を乗り切れるように神が常に導き、守ってくださっていたのだと悟ったのです。こうして私の神への信仰はさらに強められました。

それからの数日間、刑務官は私の体が腫れて痛んでいることを気にも留めず、作業を強要し続けました。やがて、私はあまりの疲労のため、既にある怪我の上にまた別の怪我が増え、腰痛がひどくてまっすぐ立つことができなくなりました。動いたり向きを変えたりするたび、引き裂くような痛みが全身の骨と関節に走るため、夜寝ることが困難になりました。それでも刑務官は私を大目に見るどころか、機会を見つけては囚人頭にいじめさせたのです。食べ物を買ってあげるお金がなかったせいで、囚人頭に下半身をひどく蹴られました。本能的にかわして隠れようとすると、苛立ちから腹を立てた囚人頭に蹴り倒され、思いきり踏みつけられました。食事に油が使われていなかったため、私はよく便秘になりましたが、便所で長時間しゃがんでいると罵倒され、便器の壷を空にするという罰を十日以上も受けました。また恣意的な理由で、他の人の代わりに一晩中見張り番に立つという罰も与えられました。作業に原料を使いすぎていると言われ、五十元の罰金を取られたこともあります。刑務官はこの機会に乗じて私を事務所に連れて行き、「他に誰と一緒に神を信じていたか教えてくれたら、裁判長に減刑を頼んであげる。この五十元の罰金もなしにするわ」と言いました。この悪しき警察は実に多くの狡猾な策を用意し、飴と鞭を交互に使い、考えられる作戦はすべて試して、私に神を裏切らせようとしましたが、すべて無駄でした。私は刑務官の申し出を断ったのです。

2008年8月25日、私は中国共産党政府に「邪教組織に加わり、法の執行を妨害した」罪で起訴され、三年間の労働再教育を宣告されたあと、刑に服すため省の女子労働収容所に連行されました。娘は一年間の労働再教育を宣告され、地元の拘置所で服役することになりました。

私が収監されて二週間後、看守は囚人を異なる作業班に分けようと考えました。私は年配の囚人の仕事が少しばかり軽いと聞いており、自分の体が拘置所でひどく傷つけられてすでにぼろぼろであり、肉体労働を続ける力がないことを考えました。このことについて神に祈り、道を開いてくださるようにお願いしました。私がそのような状況を経験し続けることを神が本当に必要とされるなら、私は喜んで従うつもりでした。果たして年配の囚人の作業班に入れられたため、祈りを聞いてくださった神に感謝しました。他の人たちは皆そんなことは前代未聞だと言いましたが、神がそのすべてを指揮しておられ、私の弱さを気遣ってくださっているのだと、私は心からよくわかっていました。年配の囚人班では、看守たちがとても感じのいい口調で「よくがんばって一生懸命働いた人は誰でも減刑になれるわ。えこひいきはしないから」と言いました。私はその言葉を信じ、ここの看守たちは拘置所の刑務官たちより少しはましだと思いました。そのため作業に没頭し、三百人ほどいる囚人のうち成績上位十名の中に入りました。しかし減刑対象者のリストが発表される時になると、看守は喧嘩好きな人や贈り物を買ってくれる人を減刑させただけで、私の刑期は一日も減りませんでした。ある囚人は減刑のために死に物狂いで働きましたが、驚いたことに看守たちから「あなたぐらいできる人にはここに一生いてもらうわ!」と言われました。私はそれを聞くと、中国共産党政府の残虐非道な本質がわからず、その嘘に引っかかった自分の愚かさを嫌悪しました。実際のところ、神ははるか以前にこうおっしゃっています。

全人類の上にかかる空は、暗く陰鬱であり、澄み渡った明るさなど微塵もない。人間の世界は漆黒の闇であり、そこで生きるとき、人は伸ばした自身の手を見ることができないし、顔を上げても太陽を見ることはできない(『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉が明かした事柄と実際の事実を比較することで、中国共産党政府はどこまでも闇と汚れに過ぎず、公平性や正義のかけらなどこれっぽっちもないことがやっとわかりました。悪しき警察は嘘で人々をだまし、欺くことしかできず、私たちを人として扱うことなどとうていできません。彼らにとって、囚人は金もうけの道具にすぎず、能力が高いほど減刑の可能性が低くなるのです。看守は人にずっと奉仕してもらい、ラバのように働かせることでさらにお金を稼がせようと思っています。業績を上げるため、悪しき警察は私たちにトイレすら許さず、私は我慢できずに尿を漏らしたことが何度かありました。私のこなせる仕事の量が突出していたため、主力作業班は私を異動させて「基準」にするよう手配しました。私はすでに彼らの醜い素顔をはっきりと見ており、異動したらもっと働くように圧力をかけられるのは間違いありません。異動を恐れた私は、ずっと神に呼びかけました。

「ああ神よ! これが悪魔の仕掛けたわなだとわかっていますが、逃げようがありません。どうか道を開いてください」

驚いたことに、そう祈った後、気候の暑さにもかかわらず手が冷たくなり、こぶしが固くしまって指が青くなりました。主力作業班を担当する刑務官はそれを芝居だと言い、私を働かせようと他の二人に命じて上の階に連れて行かせました。私は神に必死で叫ぶことしかできず、その結果、三階から二階に転げ落ちました。彼らはこれを見て不安になったため、私を年配の作業班に戻らせました。その後、自分の体が実際にはまったく負傷していないことに気づきました。もう一度神が守ってくださるのをこの目で確かめたのです。

獄中では、全能神の信者は政治犯に分類され、常に中国共産党の悪魔たちに監視されるため、話す権利もありません。私も誰かに話しかけると看守に気づかれ、何を言っているのかと訊かれたものです。夜になると、看守は囚人頭に私を見張らせ、他の人と信仰の話をしているかどうか確かめさせました。また家族の誰かが面会に来るたび、私は看守に神を冒涜する言葉を言わされ、言わないと家族との会話をわざと邪魔されました(つまり会話する時間が減らされたのです)。そのような言葉を口にするのは神に背くとわかっていたため、そうした状況になると必ず、私は静かに神に祈りました

「神よ! サタンが私を誘惑しようとしています。私があなたの性質に背くことを言わないように、どうかお守りください」

看守たちは私に言わせようとしたことを言わせられなかったため、最後はなすすべがありませんでした。

刑務所で三年過ごすことで、私は中国共産党政府の素顔をはっきりと見ることができました。表ですることと裏ですることが違うのです。外の世界には「信教の自由」を誇っていますが、その裏ではあの手この手で神の働きを迫害し、妨害し、神の信者を狂ったように逮捕し、拷問によって自白させ、残忍に虐待します。人々を永久に服従させ支配するという悪しき目的を達成するために、想像しうるあらゆる卑劣な手段を用いて、人々に神を拒絶し、神を裏切り、その暴威に屈することを強要するのです。人類は神によって創造され、神を礼拝するべき存在です。しかし中国共産党政府は全力で神の到来を追い払おうとし、人々が神を信じ、福音を宣べ伝え、神の証しをすることを妨げていますが、そうすることで、よこしまで天に反する自らの悪しき本質を完全にさらけだすのです。この迫害と逆境を経験して、私の肉は多少の苦痛を被りましたが、不満も後悔もありません。神から多くを得たからです。自分が弱く無力だと感じていたとき、神が何度も信仰と強さを与えてくださったため、最後までサタンと戦う決意を抱くことができました。落ちこみ、気力を失い、悲しんで絶望していたとき、神が御言葉を用いて慰め、励ましてくださいました。死の淵にいたとき、御言葉に生き延びる意欲と生き続ける勇気を与えられました。危険にさらされたとき、神がいつも間一髪のところで救いの手を差し伸べ、守り、危険から逃れさせ、安全な所に救い出してくださいました。この経験を通して、私は悪魔サタンの神に逆らう本質をよりはっきりと見て、サタンをさらに深く完全に憎むようになったと同時に、神の不可思議な御業、神の愛と救いも真に理解しました。キリストの善良さと謙虚さ、人類を救うために受けられた苦しみのありがたさを真に感じるようになり、神への信仰と愛が深まったのです。

出所後、私は友人と家族全員に拒絶され、敬遠されました。中国共産党の悪魔どもが私たちの間にくさびを打ち込んだためです。しかし、教会の兄弟姉妹は皆私を気遣い、世話をし、人生をやり直すのに必要なものをすべて与えてくれました。そうすることで、他のどこにも見つからない温かみを与えてくれたのです。私を救ってくださった神に感謝します。これからの道がどんなにつらくても、最後まで神に従い、有意義な人生を送って神の愛に報いることを求めていきます。

河南省 王華(ワンファ)

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

困難を経て、神への愛が強まる

私は周瑞という名前で、全能神教会のクリスチャンです。物心ついた時から、両親が生活のために朝から晩まで畑で一生懸命働くのを見ていました。両親が大変な努力をしても、毎年のように稼ぎがほとんどなかったため、私たち一家の暮らしは常に困窮していました。権力や影響力のある人たちが一生懸命働か…

悪魔のねぐらに入ることで、神の愛をより深く体験する

私は子供の頃から両親の愛情を受けて育ちましたが、心の中は寂しく、誰も頼れる人がいないとよく感じていました。打ち勝てない不可解な苦悩に絶えず取りつかれているようでした。「なぜ人は生きているの。どうやって生きればいいの」とよく自問しましたが、答えは見つかりませんでした。1999年、幸…

迫害と逆境によって得た成長

かつて、私は「神様の知恵はサタンの策略を伴って実践され、神様は賢い方で、サタンは神様に敗北した敵である」ということを理論として知っているだけで、実際の認識や体得はありませんでした。その後、神様が用意して下さった環境を通して、私は真理のこの側面に対する実体験を得ることができました。…

神の愛に限りはない

私は人生における辛酸を散々なめてきました。結婚して何年も経たないうちに夫が亡くなり、その時から一人で家族の世話をするという重荷が肩にのしかかってきました。幼い子供を抱えて大変な暮らしを送っていました。私は常に人の冷笑と軽蔑の的でした。弱く無力で、毎日涙で顔を洗い、この世の生活はあ…