沈黙の裏側で

2022年4月16日

ギリシア 立志

しばらく前のこと、私は編集の本分を尽くすことになりました。ともに編集の本分についている兄弟姉妹はとても経験豊富で、原則を理解しており、優れた素質の持ち主でした。真理を理解しているのは誰か、真の才能と確固たる知識を持っているのは誰かを、みんな識別することができたのです。私は少し動揺しました。素質は平均的で真理の現実もないので、話し合いのときに自分の意見を好き勝手に話してしまえば、魚に泳ぎ方を教えているようなものではないか? 自分が正しかったとしても関係ないし、仮に間違っていれば、真理の理解が浅いにもかかわらず自分を誇示しているのではないかと、みんなに思われてしまう。それは本当に恥ずかしいことのように感じられました。私は目立たぬようにいつも気をつけ、話すよりも聞くことのほうに集中しようと自分に言い聞かせました。そのため、全員で問題を探究するときも、自分の考えを話すことはほとんどなかったのです。一つ提案をしたこともありますが、それは正しい取り組み方ではないということで全員の意見が一致しました――私はとても恥ずかしくなり、向こう見ずに出しゃばってはいけない、さもないとドジを踏んで物笑いの種になる、と思いました。そこで、その後の話し合いでは自分が考えたことを決して自ら口にせず、まずは他の人たちに話をさせたのです。

その後、素晴らしい素質を持ち、洞察力に優れた姉妹が私たちのチームに加わり、私と一緒に働くことになりました。ある問題を話し合っていたときのこと、アイデアがいくつか浮かんでそれを話そうとしたのですが、自分の考えが的外れで、口にしたことが吟味に耐えられず、この新人の姉妹に単純で考えが甘いと思われ、自分の正体がばれてしまうのではないかと不安になりました。彼女が私を見下すようになったら、いったいどうすればいいだろう? そこでそのことは忘れ、ひたすら彼女の言うことに耳を傾けようと決めたのです。それから数日、私たちはその問題に対処したのですが、私は自分の見方をほとんど伝えず、彼女の見方に従うばかりで、そうすれば恥をかかずに済むし物事もスムーズに進むと考えていました。私がほとんど話さないこともあり、私たちの協調関係はとても冴えないものに感じられました。ときおり彼女が何らかの問題に直面しても、私は自分の意見を伝えず、二人とも行き詰まるばかり。私たちの生産性は極めて低く、働きの全体的な進み具合も停滞していました。時がたつにつれ、私はますます口数が少なくなり、たとえ意見があっても心の中で何度も反芻し、時間をかけてじっくり考えてからようやく口を開くという有様です。本当に落ち込んでしまい、本分でもほとんど成果を挙げられません。その状態から抜け出せず、妙な憂鬱と不安を感じてしまうという具合でした。そのとき、私は神の御前に出て祈り、こう伝えたのです。「神よ、近ごろは本分を尽くしていても聖霊の啓きを一切感じられず、働きもほとんど進んでいません。自分がどんな堕落した性質の中で生きていて、あなたを嫌悪させているのかわかりません――どうか私をお導きになり、自己を認識させてください」。

ある日、デボーションで自己反省をしていたところ、「つかみ所がない」という単語が突然頭に浮かびました。そして御言葉の中からそれに関連する次の一節を見つけたのです。「決して心を開かず、自分が考えていることを他の人たちに伝えない人もいます。何を行なうにせよ、他の人に相談することはなく、その代わりに心を閉ざし、事あるごとに他人を警戒しているように見えるのです。このような人はできるだけ固く自分の殻に閉じこもります。これはずる賢い人ではないですか。たとえば、独創的だと自負しているアイデアがあると、こう考えます。『これはしばらく隠しておこう。伝えてしまうと、あなたがたはこれを使ってわたしのお株を奪うかもしれない。秘密にしておこう』。あるいは、完全には理解していないことがあると、こう考えます。『今は話さないでおこう。話してしまえば、誰かがもっと立派なことを言うだろうし、そうなれば自分が馬鹿に見えないだろうか。みんながわたしのことを見抜いて、こうしたことでの弱点がわかってしまう。何も言ってはいけない』。このように、視点や論法、あるいは根底にある動機にかかわらず、誰もが自分のことを見抜いてしまうのではないかと、彼らは恐れているのです。このような人は絶えずこうした視点や態度で自分の本分、および人や物事や出来事に向き合っています。これはどういった性質ですか。歪んで不実な悪しき性質です(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を実践することでのみ正常な人間性を有することができる」)。これを読んで心が重くなりました。神の御言葉は私の本当の状態を完全に暴いており、特に「歪んで不実な悪しき性質です」という一言が強く胸を刺し、私をすっかり当惑させました。直接声を上げず、自分の意見を好きなときに話さないことで、たとえ自分は思慮深い人間だと思えても、実際には企みで一杯なのです。直面した問題について自分の見方や意見があっても、すべてをきちんと把握していると思えなければ、自分の言ったことが否定されたり、面子を失って他の人たちに見下されたりするのを恐れていました。そのため自分を抑え、まずはほかの人たちの考えを感じ取り、そこから物事を引き出すのです。これこそつかみ所がなくて悪賢いということではないでしょうか? それは絶えず策略を巡らせ、ずる賢くて他人を騙す俗世の人たちにしか当てはまらないと、私はずっと思っていました。俗世で暮らす私の友だちや同僚はみな、私が正直な人で、行動する際も密かな動機を抱いていないということで意見が一致しています。私はウナギのようにつかみ所がなく、風の吹く方向をいつも見定めようとしている人たちを蛇蝎のごとくずっと憎んでおり、自分もその同類だとは考えたこともありません。しかしそのとき、たとえ真っ赤な嘘をついたり、そうした人たちのように物事を行ったりしていなくても、やはり自分の悪賢い本性によって突き動かされているのだとわかりました。何を言うにも、また何をするにしても、私は場の空気を慎重に読み、ひたすら流れに身を任せ、自分が無能に見えたり、人に正体を見抜かれたりすることを恐れていたのです。事あるごとに誠実さを失い、評判を守るために自分を偽っていました。本分で困難に直面しても、思ったことを好きなときに言わず、それどころか不実で悪賢く、自分の意見を隠し、神の家の益などほとんど考慮していませんでした。ようやく、自分がつかみ所のない悪賢い人間だとわかったのです。私はいつも、大口を叩かないのは自分の性格の一部に過ぎないと思っていました――その裏にあるサタンの性質を分析してはいなかったのです。そのとき初めて、自分のことをいかに認識していないかがわかりました。

その後読んだもう一つの神の御言葉のおかげで、物事がはっきり見えるようになりました。神は言われます。「サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの悪魔的な言葉が人間のいのちと本性になったのです。『己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす』はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです。……人の生活、行動や振る舞いには、サタンの害毒がいまだ数多く存在し、それらに真理はほぼまったくありません。例えば、人の処世哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです。……人類はサタンによってあまりに深く堕落させられてきました。サタンの害毒がすべての人の血に流れており、人の本性は目に見えて堕落し、邪悪であり、反動的であり、サタンの哲学に満ち溢れています。それは完全に神を裏切る本性です。人が神に抵抗し、神と敵対するのはそれが理由です(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。神の御言葉は私の心の奥底を正確に言い当てていました。そして自分が、「耳を開いて口を閉じよ」とか、「沈黙は金、多弁は過ちのもと」といったサタンの哲学をずっと守っていたのだとわかりました。他人に対して「メガホン」でなく「受信機」でいれば、自分の弱さをさらけ出すことも、愚かに見えることもありません。言いたいことを押し殺すことで、私の間違った考えの多くは決して明るみに出ず、したがって誰かに間違いを指摘されたり、反論されたりすることも当然ありません。そうして私は面子を保つことができ、「沈黙は金」や「耳を開いて口を閉じよ」といった考えに従うことが、現世でうまくやっていく最も賢い方法だとさらに確信したのです。全能神による終わりの日の働きを受け入れたあとも、私はそうした事柄に従って兄弟姉妹との交流を続けました。多くを語らず口を閉じている限り、私の個人的な短所や欠点は誰にもわからず、自分のイメージを守れると思っていました。私はそうしたサタンの哲学によって生き、自分の見方を伝えたいと思うたび、自分の損得と、他の人がどう思うかを必ず計算していました。恥をかく恐れがあると思えば安全な道を選び、何も言わず何もしません。そうしたサタンの害毒のせいで、私はますますつかみ所のない悪賢い人間になり、いつも先読みして他の人から身を守っていました。自らコミュニケーションをとって心を開くこともなく、他の人たちと働いていても本当に憂鬱で単調でした。そんな風では、本分においてちゃんとした仕事をするなど不可能です。

これに気づいた私は神の御前に出て祈り、堕落した性質のこの側面を解決できるよう導きを求めました。その後は自分の個人的な動機を捨て、自分がどう見えるかを気にすることなく自らの考えを進んで言えるように、兄弟姉妹との話し合いで意識的に努力しました。よく練られていないアイデアがあれば、兄弟姉妹にそれを示して話し合いや対話を行い、また本分で困難に突き当たったときは、みんなで祈って一緒に探求し、互いに意見を伝え合うのです。このようにして、私たちは前に進む道を見つけることができました。しかし私はサタンによってあまりに深く堕落させられていたので、堕落した性質に従って行動してしまうことがいまだ何度もありました。あるとき、本分での問題について話し合っていたところ、たまたま二人の監督者が同席していたのですが、私はこう思いました。「兄弟姉妹と色々なアイデアを話し合うのはいいけれど、今は監督者がいる。私の考えが間違っていたり、私の理解が的外れだったりしたら、私の素質についてどう思うだろう? この本分に適していないと判断されてチームから外されたらどうしよう――そうなったら他の人たちはどう思うかしら? 二度と顔向けできないわ」こうした不安に心を乱された私は、話し合いが終わるまで一言も発しませんでした。やがてまとめに入ったのですが、監督者の一人が私に向かって、なぜ何も言わなかったのかと尋ねました。気まずさと申し訳なさを心から感じ、なんと答えていいかわかりません。そしてようやくこう言いました。「私の悪賢い性質がまた出てしまったんです。言い過ぎれば必ずぼろが出ると心配だったので、口を開く勇気が出ませんでした」しかしそのあとも、私はやはり不安でした。自分が示した堕落を認めはしたものの、次にこのような状況に置かれたとき、同じことをしてしまうのではないか? これを反省していると、自分は自己認識をいくらか得て、この問題を暴き出す神の御言葉に寄りかかって自己を支えてはいたけれど、困難に直面するとどうしてもこの堕落した性質に従って生きてしまうのだ、とわかりました。真に悔い改めて変わってはいなかったのです。私は神の御前に出て、真に自己認識できるようどうかお導きくださいと祈りました。

その後、神の御言葉のこの一節を読みました。「いつも話をして他人に心を開くのを好むならば、誰もが自分のことを見抜き、自分に深さがなく、平凡な人であることを知り、そうしてそれ以上尊敬することはないと、反キリストは信じています。他の人たちが尊敬しないと言うとき、それはどういった意味ですか。それは、他人の心の中で立派な位置をもはや占めておらず、自分が極めて凡庸で、単純で、平凡に見えるということを意味しています。このことを、反キリストは見たがりません。ゆえに、あるグループの中で、常に自分をさらけ出し、自分は消極的になって神に背き、昨日はこんなことで過ちを犯し、今日は誠実な人でないために苦しみ、痛みを感じていると言う人を見かけても、反キリストはそうしたことを何一つ言わず、自分を深く隠すのです。素質が乏しいとか、頭脳が単純だとか、物事をあまり考えていないという理由でほとんど何も言わず、ゆえに口数が極めて少ない人がいます。反キリストの同類もほとんど話しませんが、それが理由なのではなく、むしろ彼らの性質における問題なのです。彼らは他の人と会ってもほとんど話さず、他の人がある事柄について話しても、軽々しく意見を口にはしません。彼らが意見を言わないのはなぜですか。まず何より、このような人には真理がなく、物事の核心を見通せないのは間違いありません。口を開くやいなや間違いを犯し、他の人に正体を見抜かれます。したがって、彼らは沈黙して潜り込み、他人が自分のことを正確に測れないようにするだけでなく、この人は並外れて優秀だと思わせさえするのです。このようにして、彼らのことを取るに足らない人物だと考える人は誰もいなくなり、彼らの穏やかで落ち着いた物腰を見て、人は彼らのことを高く評価し、あえて軽んじようとはしなくなります。これが反キリストのずる賢さと邪悪さです。容易に意見を言わないことが、彼らのこの性質の一部なのです。彼らが容易に意見を言わないのは、自分に意見がないからではありません。彼らには、間違っていてねじ曲がった意見、真理にまったく沿っていない意見、さらには日の光を見ることができない意見がありますが、どのような意見を持っていようと、それを自由に発することはしません。彼らが自由に意見を発しないのは、他人の手柄にされることを恐れているからではなく、それを隠しておきたいからです。自分の正体を見抜かれるのが怖いから、意見をはっきり口にしないのです。……彼らは自分の程度を知り、別の動機を持っていますが、最も恥ずべきこととして、高く評価されることを願っています。これは極めて不快なことではないですか(『反キリストを暴く』)。神の御言葉の一言一句に私は芯まで打ちのめされました。自分は「沈黙は金」や「多弁は過ちのもと」といった考えにいつもしがみついていた。単に自分のイメージを守り、間違ったことを言って笑われたり、恥をかいたりすることを恐れていただけのように思われたけれど、問題の核心は、他人の目に映る地位を得たいと望んでいたことだった。私は、自分が口にするすべてのこと、自分の述べるすべての意見が他人に賞賛され、認められ、賛成してもらうことを望んでいました。それを達成するため、率直さを捨てて自分を偽り、頭脳を振り絞って自分の言動にこだわることで、思慮深く洞察力に満ちた人物だと思われるようにしていたのです。監督者と話し合ったときも、自分のイメージと地位を守ることにとりわけ執着していたので、あえて自分の意見を伝えませんでした。自分が正しければ問題ないけれど、間違っていたら理解力のなさを露呈してしまうと考えたのです。さらに、監督者が私によくない印象を抱き、本分から外してしまえば、他の人たちのあいだで私の地位は完全に失墜してしまう。こうしたよこしまな動機を抱いていた私は、自分の考えと意見を打ち明けることが不安でひたすら口を閉じ、「これを理解しているかどうか、自信がありません」という簡単な一言さえ言おうとしませんでした。実に卑劣で恥ずかしいことです! 本分で他の人たちと協力したり、兄弟姉妹と日々交流したりするとき、自分はもの静かで外面こそ誠実に見えるけれど、内面にはずる賢さを抱えているのだと気づきました。私は自分の醜さを隠し、自分を偽って他の人たちを誤解させていたのです。そして集会の場で真理について交わったり、問題を話し合ったりするときでさえ、他者の目に映る自分の地位とイメージを守ろうと、流れに身を任せようとしました。真理と義を愛する以上に自分自身のイメージと評判を愛する――これは悪賢く邪悪な反キリストの性質に他ならず、それを私は露呈していたのです。ここまで反省したところで、自分の状態がいかに危険かがわかりました。そして恵みの時代、ご自身の旨を行うのを怠った者に対し、神が「わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書7:23)とおっしゃったことを考えました。自分には信仰こそあるものの、神の御言葉を実践せず、神に満足していただくために実際の行動をとることもありませんでした。交わりのときも兄弟姉妹に心を開いて率直になることができず、その代わりに自分の望ましくない面をいつも隠し、兄弟姉妹に仰ぎ見てもらえるよう、あの手この手で自分のイメージを守って他者を誤解させました。地位を巡って神と争い、神に反抗するという反キリストの道を歩んでいたのです。悔い改めなければ最後は神によって淘汰されることはわかっていました。ようやくこれを理解した私は、自分の堕落した本性に対する強い嫌悪感で一杯になり、またそうした追求を続けていればどれほど危険なことになるかもわかりました。できるだけ早く神の御前に出て悔い改め、自分の肉を捨てた上で、神の御言葉を実践しなければなりません。

その後、自分の状態を兄弟姉妹に打ち明けたところ、ある姉妹が神の御言葉の一節を送ってくれました。「人が神の前で本分を尽くすとき、あるいは何らかの働きを行なうとき、その人の心は清水のように純粋でなければなりません。態度が正しくなければならないのです。どのような態度が正しいですか。何をしていようとも、自分の心にあるもの、抱いている考えを他の人に伝えることができます。あなたの考えではうまくいかないと言われ、別の提案をされたなら、それに耳を傾けて『いい考えですね。それで行きましょう。わたしの考えはいいものでなく、洞察に欠け、未熟です』と言います。あなたの言動から、行ないに明確な原則があり、心に闇はなく、誠実に行動して語り、誠実な態度に頼っていると、誰もがわかります。あなたは白を白、黒を黒と言うことができます。そうならそう、違うなら違うといった具合で、策略も秘密もなく、非常に透明な人なのです。これは一種の態度ではありませんか。これはその人の性質を表わす、人や出来事や物事に対する態度です(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を実践することでのみ正常な人間性を有することができる」)。私もこの神の言葉の一節を読みました。「神は人に、不実にならず、誠実になって誠実に語り、誠実な物事を行なうよう告げています。神がこのように言うことの意義は、人が真の人間らしさを持てるようにすることであり、それによってその人は、地を這い回る蛇のように話し、いつも言葉を濁して物事の真実を曖昧にしているサタンのようにはならなくなります。つまり、人が言動のいずれにおいても、気品があって正しく、闇の面がなく、恥ずべきことが一切なく、きれいな心があり、外面と内面が調和している人生を送れるよう、このように言われたのです。このような人は心で何を考えていてもそれを話し、誰かを騙すことも神を欺くこともなく、何一つ隠さず、心は一片の浄土のようです。これが、神が人に対して誠実な人になるよう求めることの目的なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「人間は神の経営計画の最大の受益者」)。これらの御言葉を読んで、神は正直な人を好まれることがわかりました。正直な人は飾り気がなく率直で、神を騙したり欺いたりすることも、他人に対して悪だくみをすることもありません。心のうちをねじ曲げることなく率直に話すので、神も人もその人の本当の心を見て取れます。人はこのように、つまり正直かつありのままに、自分を表わすべきなのです。正直な人は真理を愛し、肯定的な物事を愛するので、容易に真理を得て神に完全にしていただくことができます。一方の私は、他の人たちとの交流や協力において、心からの本当の言葉を一言も発することができませんでした。言動ともにはっきりせず、当てにならず狡猾なので、真理を理解して得るなどできるわけがありません。事実、神は私の素質をすっかりご存じで、真理に対する私の理解がどの程度かも知っておられます。自分自身を偽ることで他の人たちは騙せても、神を騙すことは絶対にできません。私は常に嘘をつき、正直ではありませんでしたが、それがいかに邪悪で嫌悪感を催すことか、神はご存じなので、私を導くために働きをなさることなどあり得ません。しかし、神のお求め通りに真理を実践して正直な人になり、自分の見方が間違っているかどうかを他の人たちに打ち明けるというのは、私にとってそれほど大変なことではないでしょうし、神にも喜んでいただけます。その上、自分の口を開きさえすれば、自分がどこで間違っているのかを学ぶことができます。そうすれば、他の人たちも私に指摘して手助けすることができますし、私が進歩するにはその方法しかありません。面子を多少失うことになりますが、真理を理解し、いのちの成長を遂げる上でとても有益なのです。以前、私は自分をどう律するべきかまったくわからずにいました。しかし、神が私たちの手をお取りになり、どう話すべきか、どう行動すべきかを教えてくださってからというもの、私たちは人間らしく生きられるようになりました。私は神の切実な御旨を理解するようになり、心から励まされるとともに、実践の道を得ました。

その後、兄弟姉妹とともに働いたり、本分の中で監督者と交流したりする際、私は努めて心を開いて隠し事をせず、自分の評判と地位を守ろうとするのをやめるようになりました。また、自分の本心を伝え、兄弟姉妹に対して率直であろうとしました。そして自分のアイデアがよく練られていないこと、自分の理解が浅いこと、あるいは自分の考えが単純なことを兄弟姉妹にはっきり言うことができるようになり、みんなも私に欠けているものを喜んで正してくれました。そのようにすることを実践して、私は心から自由を感じました。しかも、間違ったことを言っても恥ずかしい思いをすることはありません。他人の賞賛を得るために絶えず自分を偽り、偽の仮面を被ることこそ、偽善的で恥知らずなことなのです。それから程なくして、このチームに最も長くいる姉妹と一緒に働くことになりました。彼女は業務や真理の交わりにとても優れていたので、私は働く中で自分の見方を口に出すのをためらいました。自分の欠点を露わにせず、思慮深く見えるようにするためです。その考えが首をもたげたとき、またしても自分を偽ろうとしていることにすぐ気づいたため、神に祈って自分を捨てました。その後、この姉妹と業務の話し合いをするとき、私はもう自分を抑えることなく、進んで自分の見方を伝えました。こうした相互の話し合いのおかげで、自分の見方が本当に正しいかどうか、です。彼女は私の弱点を見て、どこに欠陥があるかがわかるようになったのそれに応じた提案をすることができました。こうした協力関係のおかげで、私は自分の働きだけでなく、原則を把握する方面でも進化を遂げることができました。他の人たちと自発的にコミュニケーションをとって議論を行い、正直な人になり、神に面と向かって本分を尽くすことで、心の闇がかなり消え去るのを経験し、ずっと気楽になりました。また本分をよりよく尽くせるようにもなりました。神の導きに心から感謝します!

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