悔い改めとは何か。真の悔い改めをするにはどうすればよいでしょうか

2020年5月1日

2020年、新型コロナウイルスCOVID-19が世界中に広がり、全世界をパニックに陥れました。また、アフリカで大発生したバッタのニュースも衝撃的でした。こうした疫病や飢餓という災害の発生により、主を信じる人々の中には、主の到来の日が近づいており、神の国はまもなく到来すると感じる人が増えています。主イエスはかつて次のように語られました。「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書 4:17)これは主が私たち一人一人に求めていることです。私たちは真に悔い改めることによってのみ、神に守られ、大患難の前に天の国に導かれるのです。では真の悔い改めとは何であり、どうすればそれを成し遂げることができるのでしょうか。

悔い改めとは何か。真の悔い改めをするにはどうすればよいでしょうか

良い行いは真の悔い改めを意味するのか

悔い改めというと、主を信じる人々の多くは次のように言います。「私たちはもう主を信じていて、悪態をついたり争ったりもしないし、他人には寛容に忍耐強く接しているし、頻繁に神に祈り懺悔して、主のために働き身を捧げているし、投獄されても主の名を否定したりしない。こうした良い行いは、私たちが真に悔い改めたことの証明だ。だから主が再来されたら、私たちは主とともに神の国に入るのだ」。私たちは主を信じるようになってから、自分の邪悪な習慣を捨て、謙虚にかつ寛容になり、他の人を助け、物事を断念して自分の身を捧げ、福音を広めて主の証しをすることができるようになりました。確かに私たちの行動は少し変わりましたが、それでも私たちが罪の束縛から抜け出せておらず、いまだにしばしば罪の中に生き、逃れられずにいることは否定できません。たとえば誰かに傷つくようなことを言われたとしても、それが自分の主な利益を損なうものでなければ、まだ我慢できるかもしれず、あえて言い争いはしないでしょう。でも誰かが自分の威信や地位を傷つけ、恥をかかせるようなことを言ったとしたら、彼らを批判するようなことは言い返さなかったとしても、心の中にはその人に対する恨みや偏見が残り、場合によっては報復さえ考えるかもしれません。私たちは多くの物事において、重大な悪事には手を染めないように見えるかもしれませんが、それでも心からは邪悪な考えが漏れ出していることがよくあります。時にはしばらくの間我慢して自制できるかもしれませんが、しまいに耐え難くなれば、やはり私たちは悪事を働く傾向があります。そのようなことが私たちの中で露わにされ明らかになっており、そしてまだ罪の束縛から逃れられてもいないのに、それで真に悔い改めたと言えるでしょうか。

ここで神の言葉の次の一節を読んでみましょう。「表面的な振る舞いのみの変化は継続不可能です。人間のいのちの性質に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるでしょう。そうした者の振る舞いの変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易です。信者以外の者が『善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである』と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ません。人間の振る舞いはいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の振る舞いとなり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表します。虚偽の物事は続きません。神が人間を救うために業を行う時、それは人間に良い振る舞いをさせて引き立てるのではありません。神の業は、人間の性質を変化させ、新しい人間として生まれ変わらせるためのものです。…良い振る舞いをすることは、神に服従することとは異なり、ましてやキリストの味方をすることに等しいということはありません。振る舞いの変化は教義に基づき、情熱に由来します。それは神に関する真の認識や真理に基づくものではなく、ましてや聖霊の導きに基づくものではありません。人間の行動には聖霊に導かれているものもありますが、それはいのちの表出ではなく、神を知ることなどでは勿論ありません。人の振る舞いがどれほど立派であっても、それが神に従うという証明にならなければ、真理を実践するという証明にはなりません。振る舞いの変化などは錯覚に過ぎず、その人の熱心さの現れに過ぎず、いのちの表出などではありません(『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より)

神の言葉からは、私たちが神を信じるようになってから、私たちの行動は改善されたものの、そのいのちの性質に変化があったわけではないことがわかります。よい行いのほとんどは熱情の結果であり、教義や規則によって生み出されたものか、そうでなければ精霊に動かされたことによって行われた実践です。私たちがそれを行ったのは、真理を理解しているからではなく、神を知っているからでもなく、神を満足させ愛したいという願いから自然にそうしたものでもありません。私たちは数千年にわたってサタンに堕落させられており、傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さなどというあらゆる類の悪魔的な堕落した性質を備えています。こうした性質が解決されなければ、特定の規則に従うことができたり外見的には敬虔に見えたりしても、それは長く続くものではなく、何か不満なことが起これば罪を犯すことを止められません。たとえば私たちは、傲慢でうぬぼれたサタンのような性質に支配されて、いつも他の人々から称賛されようと努めており、人が自分の言うとおりにしないと激怒して説教を始めます。この利己的な性質のため、私たちのすることはすべて自分自身の利益のためであり、私たちは自分の家ですべてがうまく行っていれば、進んで物事を断念し神に身を捧げ、あらゆる苦労にも耐えることができます。でも不幸に見舞われると、神が守ってくださらなかったと言って神を非難し、場合によっては物事を断念したことを後悔し、神を裏切ることさえ考え始めます。時には、教会の兄弟姉妹たちが明らかに神の教えに背き、さらには教会の利益にも反する行為をしているのを目にすることがあり、そうしたときは彼らに何か言わなければなりません。でも、「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」「余計なことはしないほうがいい」といった悪魔的な人生哲学に影響された私たちは、口をつぐみ、教会の利益を犠牲にして彼らとの関係を維持することを選びます。そのような例は数え上げればきりがありません。このことから、もし私たちの堕落した性質が解決されなければ、私たちは真理を実践することも神に従うこともできず、場合によっては神に逆らうことになるのがわかります。例として2000年前のパリサイ人を見てみましょう。彼らは外見的には何も罪を犯していないように見え、遠方まで旅をして福音を広め、人々に聖書の教義を詳しく説明して、律法に従うよう教えていました。彼らの行いの多くは良いものでしたが、しかし主イエスが現れて働きを始められると、主が外見上はまったく普通の人であり、メシヤと呼ばれてもおらず、さらに主のすべてが彼らの観念と食い違っていたため、彼らの傲慢でうぬぼれたサタンのような性質が露呈しました。そして目に余るほどのやり方で主イエスを糾弾し冒涜し、主イエスが語られる神託が真理であるかどうかなど構いもせず、主がいくらしるしや奇跡を示しても無視し、最終的にローマ当局と共謀して主イエスを十字架に張り付けたのです。

上記のことは、外的な態度に変化があったとしても、内的ないのちの性質に変化がなければ、私たちはやはりサタンのような堕落した性質に支配されており、いつでも罪を犯し神に逆らう傾向があることを意味しています。そのような人々はまた、真に悔い改めてもおらず、根本的に天の国に入る資格がありません。これは聖書に次のように書かれているとおりです。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)

真の悔い改めとは

では真の悔い改めとは何なのでしょうか。聖書には次のように書かれています。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである(ヨハネの黙示録 22:14)わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)神は聖なるものであり、人の罪を嫌悪しているため、真の悔い改めというものの基準は、傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さといった人のさまざまなサタン的性質が清められ変わっていること、そして周囲の状況に関係なく神の言葉を実践し、もう罪を犯したり神に逆らったりせず、真に神に従い神を崇めていること、そしてその人が完全に神のものとされていることです。そのような人だけが、真に悔い改めたと言えるのです。

なぜ私たちは主を信じていながら真の悔い改めを成し遂げていないのか

中には次のように考える人もいるかもしれません。「私たちはもう主の贖いを受け入れ、罪を許されているのに、なぜ真の悔い改めを成し遂げることができないのか」と。これはおもに、主イエスが恵みの時代に贖いの働きを行われたものの、その働きは人々の堕落した性質を変えるものではなかったからです。神の言葉の別の一節を読んでみましょう。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった」(『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)より)これを見ると、恵みの時代に主イエスは人類の贖いの働きだけを行われ、その趣旨は人々を懺悔させ悔い改めさせることだったのがわかります。主イエスは贖いの働きの一部として、悔い改めの方法について語り、どのように罪を告白し悔い改めればよいか、そしてどのように十字架を背負って主に従えばよいかを人々に教えられました。また他人を自分自身のように愛さねばならないことや、謙虚で忍耐強く寛容になり、人を7回の70倍許さねばならないことなども教えられました。それらはすべて当時の人々の水準に基づいて与えられた要求であり、人々は罪を犯すと主イエスの前に来て、罪を告白し悔い改め、そして罪を許されて、神の前に出て引き続き神を崇拝する資格を与えられていました。主イエスが表されたすべてのことは、当時の人々が理解できる真理でした。しかしこの働きには人々の性質を変えることは含まれていなかったため、私たちはいくら聖書を読んでも、どんなに罪を告白して悔い改めても、どれほど自分自身に打ち克っても、罪から逃れ真の悔い改めを成し遂げることができずにいるのです。

真の悔い改めを成し遂げるには

ではどうすれば、真の悔い改めを成し遂げることができるのでしょうか。主イエスは次のように預言されています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(ヨハネによる福音書 17:17)こうした言葉から、主イエスは恵みの時代、当時の人々の水準が非常に低かったため、あまり多くの真理を表されず、私たちのサタン的な性質を解決する方法も与えられなかったことがわかります。そのため主は自分が再来することを預言され、そのときにより多くより高次の真理を表されること、そして人の裁きと清めの働きを行われることを預言されました。その働きによって、私たちは完全に罪の束縛から逃れ、清められて変化することができ、そして主の再来による裁きと清めの働きを受け入れることによってのみ、私たちは真の悔い改めを成し遂げることができるのです。

今日、主イエスは再来されました。主は受肉した全能神です。全能神は主イエスの贖いの働きを基盤として、まず教会から裁きの働きを行い、人類の救いに必要なすべての真理を表されました。主は世の終わりに主の救いを受け入れる人々を裁き、清め、完全にするために到来されたのです。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

世の終わりに全能神が真理を表され、人の裁きと清めの働きを行われるとき、神は単に悔い改めを実践するためのさまざまな方法を語るだけでなく、裁きの言葉を表し、神に背き反抗する私たちの本性と実体を暴き、私たちの堕落の真実を露わにされます。神は私たちに、どうやって誠実になればよいか、どうやって神に従えばよいか、どうやって神を愛せばよいかといったさまざまな真理をもたらされ、それによって私たちに降りかかるあらゆる出来事における実践の道を与えてくださいます。神の言葉の裁きを経験することで、私たちは徐々に自分がどれほど深くサタンに堕落させられていたかに気づき、そして自分の本性と実体が、傲慢と独善、利己心と下劣、裏切りと狡猾といったサタンのような性質に満ちていることを知ります。このように生きている私たちが行う物事の中に人間らしさはなく、私たちは他人にとって忌まわしいものであり、さらに神にとっても忌まわしく嫌悪すべきものなのです。神の裁きの言葉から、私たちは自分が下劣で邪悪な、神の前で生きるに値しないものであることに気づき、そして初めて自分の罪を嫌悪し始め、悔い改めたいと願うようになるのです。また同時に、あらゆる罪を見逃さない神の義なる性質を知り、真理を実践しなければ必ず神に嫌悪され拒否されるということに気づきます。そして初めて私たちの中に神への畏怖の念が生まれ、私たちは肉を捨て去って真理を実践するようになり、徐々に神への服従という現実に馴染み、もう神に抗いも逆らいもしなくなるのです。

神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは完全に罪を逃れ、もう自分のサタン的な本性に束縛されることなく、自由に神の言葉を実践し神に従って神を崇めることができるようになります。そうなって初めて、私たちは真に悔い改め変わったと言うことができ、そして初めて神の国に入る資格を得られるのです。明らかなのは、世の終わりにおける神の裁きの働きを受け入れることが、真に悔い改めて変わるための唯一の方法だということです。これで皆さんは、真の悔い改めを成し遂げるための方法がわかり始めたことと思います。では今、私たちはどんな選択をすればよいでしょうか。

著者:小语(米国)

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