神様への信仰を築くには

2019年8月29日

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目次
私たちには主への真の信仰があるか
真の信仰とはいったい何か
1.アブラハムの信仰
2.ヨブの信仰
神様への真の信仰を築くには

神様が私たちクリスチャンひとり一人に求めていらっしゃるのは、本物の信仰を自分のものにすることです。信仰のおかげで神様の素晴らしい行ないを見、神様に祝福されることができた人の数多くの例が聖書には記されています。モーセは神様を信仰し、神様のお導きを通じてファラオの様々な障害や制約を乗り越え、エジプトから脱出するイスラエル人を見事に導くことができました。アブラハムも神様への信仰をもち、独り子イサクを生け贄として神様に捧げることをいとわなかったので、神様は最後にアブラハムを祝福なさるとともに、その子孫がどんどん増えて偉大な諸国になるようになさいました。ヨブも神様を信仰し、二度の試練を通じて神様の証しをすることができました。神様はヨブをさらに祝福なさり、嵐の中から彼にお姿を見せてお語りになりました。マタイによる福音書に登場するカナンの女は主イエスへの信仰をもち、主が娘から悪霊を追い払えると信じました。彼女は主イエスに懇願し、娘の病は癒やされました。私たちはクリスチャンとして、仕事の失敗や生活のつまずき、家族の不幸な出来事など、人生においてどんな困難に遭遇しようとも自分の信仰に頼ってぐらつくことなく神様に従い、鳴り響くような神様の証しをして、最終的に神様の承認を得られるよう、真の信仰とは何かという真理を理解しなければなりません。

私たちには主への真の信仰があるか

信仰についての議論を聞いて、自分には確かに信仰があると自信たっぷりに言い切る兄弟姉妹がいるかもしれません。

「私は100パーセント神様を信じている。いつも神様の存在を認めているし、そのことは私が信仰者であることを証明している」

「主イエスは私たちの救い主であり、私たちの罪を贖われるため十字架にかけられたと私は信じている。主に祈って告白する限り、私たちの罪は必ず主によって赦される。それが主への信仰をもつということではないのか」

「私は何年も前からずっと信者だ。主のために自分を費やし、働くために出世も家庭も仕事も捨てた。私はあらゆる場所に教会を建て、不満も言わず多くの苦しみに耐えてきた。それらはみな神様への信仰の表明である」

確かに、私たちは神様の存在を信じていますし、主のために熱心に働き、自分を費やし、苦しみ、代償を払っていることは事実です。しかしそうしたことは、神様への真の信仰があることを意味しますか。これは、心から主を信じて真理を渇望している兄弟姉妹である私たち全員が探求して分かち合う価値のある問題です。

私を例にとってみます。クリスチャンになって以来、私はいつも積極的に集会に参加し、他の人たちと福音を分かち合い、弱っている兄弟姉妹に手を差し伸べてきました。どんな困難があってもこのような活動をやめることは決してありませんでした。熱心に主に仕えるためなら自分の肉体的な快適さを脇にのけることもまったくいとわないので、自分のことを主を愛し、主に忠実で、主への信仰をもつ人間だと考えています。しかし家族と私が病気にかかり、しばらく祈ったあとも状態がよくならなかったとき、私は落胆して主に失望し、私や家族をお守りにならなかったことについて主に文句さえ言いました。このまぎれもない事実が明らかにしたことのおかげで、自分には本物の信仰がまったく欠けており、家庭に調和があり、身体的な病気や災難がないという土台の上に信仰があるだけなのがわかりました。望ましくないことが起きた瞬間、私の真の霊的背丈が明らかにされたのです。そのとき初めて、自分の神様への信仰が情けないほど取るに足らないものであり、自慢するようなものではまったくないことがわかりました。周りの兄弟姉妹に目を向けても、ほとんどが同じでした。家庭や仕事の予定とかち合うようなことがあると、自分の利益がそこなわれないようにと、教会礼拝に出席するのをほぼすっかりやめてしまう人もいます。職探しや他のことで困難に見舞われると、最初は解決法を求めて主に祈ることができるものの、それがいつまでも未解決のままだと主への恨みを募らせるとともに、落胆して失望する人さえいます。そうした人は顔がきき権威がありそうな周りの友人に頼るようになるか、自分自身の考えをもとに行動することもあります。また、主の祝福を受けているときはありとあらゆる教会の仕事に熱心に参加するものの、家庭で悪いことが起きたり、事業で失敗したりすると、主への誤解と不満の中で生き、果ては主のもとから立ち去ってしまう兄弟姉妹もいます。

私たちは自分が日々表し、生きる姿勢を通してあらわにすることから、自らの信仰が決して現実の試練に耐えられないことに気づきます。私たちは主イエスが真の神様であることを認め、自分たちの救い主であるとは信じますが、そのことは神様への真の信仰があることを意味するわけではありません。それは特に、自分がどんな環境にいようと決して神様を否定したり捨てたりしないということを意味するものではありません。それは私たちの信仰が神様に関する真の認識という土台ではなく、神様の祝福と約束を得られるかどうか、何らかの利益を得られるかどうかという土台の上に築かれているからです。私たちの神様への信仰がまったく本物でないのはそれが理由です。では真の信仰とは何でしょうか。真の信仰があることはどのように表現されるのでしょうか。

真の信仰とはいったい何か

神様の御言葉はこう述べています。

神がどのように働くのか、あなたがどんな状況に置かれているのかに関わらず、あなたはいのちを追い求め、あなたの内で行われる神の業の進展を求め、真理を追求することが出来るであろう。あなたは神の働きに関する認識を得て、真理に従って行動出来るようになるであろう。これがあなたの真の信仰であり、それは、あなたが神への望みを失っていないことを示している。あなたはなおも精錬の中で真理を追求し、神を真に愛することができ、神への疑念を募らせることはないであろう。神がどんなことをしようと、あなたは神を満足させるために真理を実践し、神の意志を深く追求し、神の意志に気を配ることが出来るであろう。これのみが神への真の信仰である。」(『完全にされる者は精錬を経なければならない』より)

神様の御言葉から、真の信仰とは自分がどんな環境に直面しようとも、困難や精錬、つまずきや失敗に見舞われようとも、肉体的あるいは霊的な苦しみがどれほど大きかろうとも、神様を畏れ神様に服従する心を保てることだと認識することができます。私たちは神様が用意された環境において真理を探し求め、神様の御心を認識し、神様に忠実であり続けることができなければなりません。このような人のみが真の信仰をもつ人とみなされます。本物の信仰とは何かをよりよく理解できるように、ここでアブラハムとヨブの経験を見てみましょう。

1.アブラハムの信仰

アブラハムが百歳のとき、神様は息子イサクを彼に授けると約束なさいました。しかしイサクが成長していくと、神様はアブラハムにイサクを生け贄として捧げなければならないとおっしゃいました。神様がこのようにお働きになるのは人間の観念からあまりにかけ離れていると感じる人は多いでしょうし、そうした試練が自分に降りかかったらきっと神様に反論しようとするはずだと考える人さえいるかもしれません。しかしアブラハムがこの事態に見舞われたとき、彼の反応は私たちの予想と正反対でした。彼は神様に反論しなかっただけでなく、本当に純粋にイサクを神様にお返しすることで、神様に真に服従しようとすることができたのです。聖書にもこう記されています。

「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた……彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした……」(創世記22:3、9-10)

すべての人間は肉でできています。私たちはみな感情的であり、こうしたことに見舞われると苦しんだり痛みを感じたりするのは間違いありません。しかしアブラハムが神様と取引しようとするのを慎み、神様のご命令に従えた理由は、イサクがそもそも神様から授けられたこと、そして神様によって連れて行かれることを知っていたからです。アブラハムは当然のこととして従順であり、それが神様へのアブラハムの信仰でした。彼は真に神様を信じ、絶対的に服従しました。それが自分が一番大切にしているものを手放すことを意味しても、進んでイサクを神様にお返ししようとしたのです。神様へのアブラハムの真の信仰と服従は、最終的に神様の承認と祝福を獲得しました。神様は彼を多くの国の父となさいました。彼の子孫は栄え、ますます増え、そして偉大な諸国となりました。

2.ヨブの信仰

聖書によるとヨブの家庭は大いに富み栄え、十人の子どもと多くの僕たちがいました。当時、人々からは大いに尊敬され、高く評価されていました。しかしサタンの誘惑と攻撃によって、ヨブは一日のうちにすべての財産と子どもを失い、その後全身が腫れ物で覆われました。その試練のせいで、ヨブを東方のもっとも大なる人からもっとも貧しい人になり、さらに家族や友人からも裁かれ攻撃されました。こうした過酷な試練に晒されながらも、ヨブは一言たりとも神様への不満を漏らすことなく、それどころかひれ伏して神様を崇拝し、こう言いました。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)

ヨブは試練のあいだ、言葉で罪を犯すのを避けるとともに、祈りにおいて神様の御前へ赴くことができました。そのことはヨブの心に神様の居場所があったこと、ヨブには神様への真の信仰があったこと、そして一切の出来事と物事は神様の手中にあり、自分が直面した状況はどれも神様が承認なされたものであって、人間がこしらえたものではないと彼が信じていたことを示しています。ヨブが数十年間の生涯において深く体験したのは、自分がもつ一切のものは神様のご支配と采配から生まれたものだということでした。彼の富はすべて神様から授けられたものであり、自分の努力によって生まれたものではなかったのです。よって、神様が以前にお与えになったものを取り上げたいとお思いになれば、それは当然にして正当なことであり、被造物であるヨブはそれらのものをお取り上げになる神様に服従すべきなのです。神様に反論してはならず、ましてや不満を言うべきではありません。自分のいのちを取り上げられたとしても、一言たりとも不満を漏らすべきでないと彼は知っていました。ヨブの証しはサタンにすっかり恥をかかせ、その後神様は嵐の中からヨブに姿をお見せになり、さらなる祝福をお授けになりました。

アブラハムとヨブの経験から、神様への真の信仰に到達するには、まず神様のご支配について真の認識を得て、一切の出来事と物事はひとえに神様の手中にあると信じなければならないことがわかります。また被造物である自分の立場を本当に知り、被造物が有するべき理知をもたなければなりません。試練や困難がどれだけ大きかろうと、神様を責めたり捨てたりすることはできず、神様の御心を探し求めてそのおそばに立ち、断固として神様に従うことができ続けなければなりません。耐える苦痛がどれほど大きかろうと、それでも神様の証しをしっかり行なえなければなりません。それをできる人だけが神様への真の信仰を自分のものにしているのです。無神論思想をもつ中国共産党によって逮捕、迫害され、残酷な拷問を受けて何年間も投獄されながら、決して神様を否定したり捨てたりしなかった兄弟姉妹のことを考えてください。あれが神様への真の信仰なのです。信者になったあとで家族や友人に拒絶されたり、家庭で不幸な出来事があったりしながらも決して神様に不満を言わず、神様に従い神様のために自分自身を費やし続けることのできる兄弟姉妹がいます。それもまた神様への真の信仰の表われです。自分自身とこれらの証しを比べて、自分が神様への真の信仰の持ち主だと本当に言えますか。私たちの大半にとって、神様がいらっしゃることを無条件に認めることや、主のために福音を広めようと働くことにおいて少しだけ苦しんだり、小さな代償を払ったりできることが信仰の基礎となっています。しかしそれは真の信仰には数えられません。

神様への真の信仰を築くには

真の信仰を有したいと願うなら、日々遭遇するすべての人、出来事、物における神様のご支配を認識しようと努めるべきであり、神様の準備なさる環境が自分自身の観念と合致しているかどうか、それらが表面的に自分の利益となるかどうかにかかわらず、被造物としての自分の立場を知り、畏れの心をもって神様の御心を探し求めなければなりません。経験するすべてのことから何かを得て、神様が采配なさるすべてのことにおいて神様の行ないを見られるように、神様が私たちのために用意される環境の背後にある綿密かつ熱心な意図を認識しなければなりません。すると神様への私たちの信仰は徐々に本物に近づいてゆきます。ヨブの信仰も同じです。それはヨブに生まれつき備わっていたのではなく、人生で起きたあらゆる出来事において神様のご支配を経験し、神様についての認識を求めたことで徐々に大きくなったのです。ヨブの例にならい、生活の中で神様のご支配を経験し、それを本当に認識することに集中し、そうして神様についての真実の認識に到達することができれば、そのとき初めて神様への真の信仰を自分のものにすることができます。そのとき、いかなる困難や試練が降りかかろうと、肉体や霊の苦痛がどれほど大きかろうと、私たちは信仰を通じて冷静にそれと向き合い、神様の御心と神様が私たちにお求めになることを積極的に探し求め、神様のご支配と采配に従い、神様の証しをすることができます。

神様の啓きとお導きに感謝します。アーメン!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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