山上の垂訓の中の「心の貧しい人」とはどのような人を指しているのでしょうか。
ある日のディボーション中に、次のような主イエスの御言葉が目に留まりました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)私は聖書を置くと、この言葉を思い巡らしました。「主は心の貧しい人を喜ばれ、祝福される。そして天国は彼らのもの。でも心の貧しい人ってどんな人のことなんだろう。外見は謙遜で柔和、周りの人に愛情深い人のこと?」私はしばらくこのことを考えていましたが、光を見つけることはできず、午後まで考え続けました。ちょうどその日は集会のある日だったので、そこで私はこの疑問を兄弟姉妹と話し合うことができました。
心の貧しい人とは外見は謙虚で柔和、愛情深い人のことか
私はその集会で自分の疑問を投げかけました。私の話を聞いていたファン兄弟が言いました。「外見上は謙虚で柔和、愛ある人のようだという理由で、その人が心の貧しい人だと判断することはできません。むしろその人が神様にどのように対応し、真理に対してどのような態度を取るかを見なければなりません。それがこの問題を検討する正しい方法です。外見は謙遜で柔和、人に愛情深く見えても、心の中は傲慢で自己中心で、真理に従えない人もいます。そのような人は、神様の働きが自分の観念と一致しなければ、真理を求めることに興味を示さないばかりか、おごりから自分の考え方に固執して神様の働きを拒み、反発し、非難や反抗さえします。そのような人がどれほど謙虚であっても、心の貧しい人ではありません。彼らは当時のパリサイ人同様、よく庶民に向けて聖書の言葉を解釈し、シナゴーグや通りにわざとらしく立って長い祈りを朗誦したり、慈善活動をしたり、通りに立って立派な行いをしたり、外見的にはとても謙虚で柔和で愛ある人々のように見えます。しかし主イエスが来られた時、彼らは全く真理を探し求めようとはせず、それどころか自分達の観念や想像に頼り、主イエスがメシアと呼ばれなかったという理由でキリストではないと主張したのです。そして神様の働きを旧約聖書に限定し、主イエスの言葉と働きを旧約聖書を越えていると非難することで、主イエスの言葉と働きを否定したのです。そればかりか、パリサイ人は主イエスを神様の出現とは認識しませんでした。彼らは主イエスはただ普通の人でしかないと決めつけ、「この人は大工の子ではないか。母はマリヤ・・・ではないか」(マタイによる福音書13:55)などと言いました。パリサイ人は、主イエスの言葉に権威と力があり、主イエスが多くの奇跡や不思議を行なわれるのを見ましたが、それでも謙虚に求めることをせず、それどころか特に傲慢で真理に従うことができず、自らの観念に固執し、偽証するものとなり、噂話をでっち上げ、主イエスを激しく非難し冒瀆したのです。最後にはローマ政府と共謀し、憐れみ深い主イエスを十字架にかけ、筆舌に尽くしがたいほどの罪を犯し、神様に罰せられたのです。このことから、人が外見上どれほど謙虚で柔和、愛ある人のように見えても、もし神様と真理に本当に従順でないならば、その人は心の貧しい人などでは決してないことが分かります。そのような人は偽善者なのです。その人の謙虚さは偽りであり、他人への愛もまやかしなのです。全ては欺きであり嘘であり、皆に称賛され高く評価されようとして騙そうとするものなのです。そのような人は外見は謙虚で忍耐強く、愛あるように見えても、その心の中は偽りと悪意、邪悪に満ちており、彼らの本質は偽善者なのです」
ファン兄弟の話を聞いて、人が謙虚で柔和に見えるかどうかでその人が心の貧しい人かどうかを決めつけるのは正しい事ではないこと、一番重要なのはその人の神様への対応の仕方や真理に対する姿勢なのだと言うことが分かりました。パリサイ人は謙虚で柔和のように映り、良い行いもしましたが、主イエスが来られて働かれた時には謙虚に求めるどころか自分の観念と想像に固執し、主イエスを激しく拒み非難し十字架にかけたのです。そのような人間がどうして心の貧しい人と呼ばれることがありえるでしょうか。彼らは明らかに傲慢で尊大であり、神様の敵だったのです。
心の貧しい人とは、心の貧しい人が現わすものとは何か
ファン兄弟は続けました。「傲慢な性質を持っていながら真理に従うことができる人もいます。そのような人は神様の働きが自分の観念と一致しない場合、自分を二の次にして謙虚に求め、真理を理解するとすぐにそれを受け入れて従います。そのような人は真に心の貧しい人で、謙虚な人でもあります。ちょうどナタナエルについて聖書に書かれているようにです。ピリポが主イエスの事を彼に証言しようとした時、ナタナエルは自分の観念と想像に頼り「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と言いました。けれども主イエスが彼のことを、「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われた時、ナタナエルはイエス様に「どうしてわたしをご存知なのですか」と尋ねました。イエス様は答えて、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」と仰いました。ナタナエルは答えました。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネによる福音書1:45-49参照)。ナタナエルはメシアがナザレで生まれたはずはないと信じていたために、初めのうちは主イエス様について観念があったものの、自分の考えに執着することなく謙虚に求めて主イエスの言葉に注意深く耳を傾けたことが分かります。主イエスがいちじくの木の下にいる自分を見たと仰るのを聞いた時、ナタナエルは主イエスは全能であり全てをご存知で、自分の心と魂を調べることがおできになる方で、普通の人とは違うと感じました。そしてナタナエルは自分の観念を手放し、主イエスが預言されたメシアであると認識し、主イエスを受け入れ、主の救いを受けたのです」
ヂャン兄弟はうなずいて言いました。「そうです。ナタナエルのように謙虚に求める態度で神様と神様の働きに対応し、主イエスの言葉を受け入れて従うことができる人は心の貧しい人です。主イエスの福音を受け入れたエチオピアの宦官のことも思い出します。聖書にはこうあります。『宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕』(使徒行伝8:34-37)エチオピアの宦官には権力と地位がありましたが、それらのものに全く影響を受けていませんでした。エルサレムで礼拝した後の帰路、宦官はピリポに会いました。彼は自分の地位や聖書の知識ゆえに自分が人より優れていると考えることもなく、傲慢でも尊大でもありませんでした。かえって謙虚な態度でつつましく求め、ピリポから主イエスの話を聞くと、その方がキリストだと信じ、喜んで主イエスを救い主として受け入れたのです。そのような人が心の貧しい人なのです」
ファン兄とヂャン兄の話を聞いて、私もその通りだと思いました。私は言いました。「つまり、心の貧しい人は頑固な人ではありませんね。心の貧しい人は神様から出たものには、自分の観念に合うかどうかに関わらず謙虚な姿勢で向き合います。そしてひとたび真理を理解したなら、自分の観念を捨てて神様の働きを受け入れて従うことができます。そのような人は純粋で正直で、真理を切望する心を持っています。神様はそのような人を愛されます。主に感謝します!私は遂に心の貧しい人とは外見が謙遜で柔和な人ではないこと、そして最も重要なことに、神様を畏れる心を持ち、全てのことにおいて謙虚に求め、真理に従い、気まぐれに神様の働きを制限してしまわない人だということが分かりました」
続けてヤン姉がこう言いました。
「ええ、心の貧しい人は神様を畏れる心を持っています。そして神様の働きが自分の人間的な観念と一致するかどうかに関わらず、自分のことを二の次にして謙虚に求めることができます。これこそが心の貧しい人で、そのような人だけが天国に入る資格があります。外見は謙虚であってもその本質が傲慢で真理を受け入れない人は、ひとたび神様の働きが自分の観念と一致しないならば、裁き、反抗し、非難し始め、謙虚に求めたり探ったりすることが全くできず、最終的には神様に嫌われ憎まれるのです。そのような人は天国のほんの一部もあずかることはありません」
兄弟姉妹の交わりを聞いた後、私は突然聖書の中のヤーウェの言葉を思い出しました。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、ヤーウェは心を見る」(サムエル上16:7)。そしてこう言いました。「私たちは人を見る時その人の外見だけを見ますが、神様は人の心と本質を見られます。以前の私は識別力に欠けていたため、誰かが善いことをしたり柔和で優しそうに見えると、その人は謙虚だと考えました。でも今こうして考えていると、この観念が愚かなことかが分かります」
ファン兄は言いました。「アーメン!主の啓きと導きにより、今日このような理解を得ることができました。今、主イエスの『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』という言葉を読むと、更にはっきりと分かるようになりました。私たちはすでに終わりの日の最後の段階にいます。主の再臨を歓迎する重要な時です。私たちが心の貧しい人となり、全てのことにおいて謙虚に求め、真理を受け入れて真理に従うことはそれゆえにずっと重要なことで、それによって私たちは主に喜んでいただき、主の再臨を歓迎できるのです。主イエスの言葉を思い出してください。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。そしてヨハネの黙示録3章20節ではこう預言しています。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』。また、黙示録2章7節では、次のように預言しています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。これらの聖句から、終わりの日に主が戻られる時には、主はさらに語られ、全ての真理と奥義を私たちに語られることが分かります。どこかの教会が主が戻られて語られていると証言したり、誰かが主が戻られたと証言したりするのを聞いたならば、私たちは自分の観念を捨てて、これらの言葉が自分の霊的必要を満たし、実際の問題を解決し、実践の道を示してくれるかどうかを謙虚に求めるべきです。それが神様の声であり真理の表現だと確信したならば、私たちは真理を受け入れて神様の働きに従うべきです。このようにすることで、私たちは確かに主の再臨を歓迎することができるのです。そうせず、謙虚に求める姿勢をもたず、自分の観念に合わないものは一切求めることも探ることも拒むのであれば、神様に反抗するパリサイ人の道を歩む危険性があり、主の再臨を歓迎する機会を逃すことになります。これは大変な悲劇となるでしょう」
私はうなずきながら言いました。
「アーメン!私たちが心の貧しい者であり、謙虚に真理を求め、神様の声や真理の表現を聞いたと確信した時にそれを受け入れて従うならば、真に思慮深いのです。私は謙虚に求め、神様の声に耳を傾け、主の出現を歓迎する者でありたいです」
「神様に感謝します!」
「今日の交わりは素晴らしい!本当に聖霊の啓きと導きからのものです!」
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