ぶどう園の労働者のたとえ:主の御心は何ですか

2019年8月19日

誠心(チェンシン)

編集者注:ぶどう園の労働者のたとえは、新約聖書の中で主イエスが語られたたとえ話の一つです。このたとえでは、主人は人間の感覚にそぐわない行動をとっています。ぶどう園では、先に働いた労働者は長く働いた分、より多くの報酬を得るべきだと考えられていますが、主人は後に働いた労働者にも同じ報酬を与えているのです。では、主イエスはこのたとえ話で、私たちに神の旨について何を明らかにしようとしているのでしょうか。 一緒に分かち合いましょう。

ある晩、私は神様に祈ってから机に向かい、イエス様が(マタイによる福音書20:1~16)で語られたたとえ話を読みました。その話では、天の御国が労働者を雇うぶどう園の主人にたとえられています。労働者たちがぶどう園に入るのが朝一番であれ、午後であれ、晩であれ、賃銀は同じであり、最初に来た労働者たちはこのことを知ると主人に不平を言いますが、主人はこう答えます。「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(マタイによる福音書20:15-16)。聖書のこれらの行を読んで、私は眉をひそめ、こう思わずにはいられませんでした。「神様への信仰を長いあいだ実践し、主のために多くのものを捨てて費やし、長年骨折って働いている者たちは、あとに来た者たちよりも多く報われるべきだと言うのは理に適っている。しかし聖書には、先に来る者も後から来る者も賃銀は同じだと記されている。これは神様が後から来る者たちを意図的にえこひいきされているのではないか」。私はこれらの御言葉にとても混乱しました。これらの御言葉を語られた主の御旨がどういうものか分からなかったのです。

ある日、私は同じ教会の信者とばったり出会い、話す中で、自分が長年困惑していた疑問について語りました。すると彼はこう言いました。「私もそのように誤解していたんだ。最近まで神様の御心を理解していなかったけれど、ある本を読んで真理のこの側面が分かるようになった」彼はそう言いながらその本を鞄から出し、私にある一節を読んでくれました。「あなたが神の言葉をどれほど聞き、真理をどれほど受け入れることができて理解し、現実をどれほど生き、どれほど多くの成果を得ていようと、一つの事実がある。神の真理と道といのちは一人ひとりに進んで授けられ、それは誰にとっても公平である。ある人が長く神を信じ、別の人がそれより短い期間しか神を信じていないからといって、神が前者をひいきすることはなく、年齢、外見、性別、生まれた家庭、家庭環境などのために、違う接し方をすることもない。誰もが神から同じものを得る。神は誰かがより少ないものしか得られないようにしたり、より多くのものを得られるようにしたりはしない。神は誰に対しても公平で公正である。神は適切なときに適切な分だけ人間に糧を与え、彼らが飢えたり、寒い思いをしたり、喉が渇いたりしないようにして、人間の心が必要とするものをすべて満足させる」(『終わりの日のキリスト講話集』「人間は神の経営計画の最大の受益者」〔『言葉』第3巻〕)

読み終わると、彼はこう続けました。「長いあいだ主を信じ、主のために自分をもっと費やした人たちが、それより短い期間しか主を信じず、主のために自分を費やすのがより少ない人たちと同じ報いしか受け取らないのであれば、神様はえこひいきをされているのではないかと、私も昔は思った。しかしその一節を読んで、ようやく神様についての誤解が解けたんだ。実際のところ、神様は一人ひとりを公平に扱っておられ、新しい信者であろうと長年神様を信じてきた者であろうと、家庭環境がどうであろうと、がいけんがどうであろうと、誰一人えこひいきなさることはない。神様はいつも各人の必要に応じて糧を与えてくださる。神様が人類を救う働きをなさりながら人に授けてくださる真理も同じで、また同様に、神様は私たち一人ひとりのために環境と機会を采配してくださる。私たちが最終的に真理を獲得できるか否かは、私たち自身が真理を愛して求めているか、主の御言葉を実践できるか否か、そして主の御心とお求め通りに本分を尽くせるかどうかにかかっている。もし真理を愛さず、真理を求めなければ、私たちは神様に託されたことを御心通りに行うことができないし、自分の観念に合致しない事柄に遭遇すると神様の御心をじっくり考えようとも探し求めようともせず、自分の頭で物事を分析して、おそらく神様を誤解して責めさえするだろう。そのようなことをする者は、たとえ長年神様を信じて大いに骨折って働いても、結局は何も得られず、真理を獲得するために神様から授かる機会を失いさえするだろう。神様の目から見て、このような人々は悪を行う人であり、神様に淘汰され懲罰されるしかない。一方、神様を信じてきた期間がまだ短くても、真理を渇望して探し求める心の持ち主もいる。彼らは自分に何かが起きたとしても、常に神様に祈って真理を求めることができ、ひとたび神様の御心を理解すれば、御言葉に従って実践することができる。このような人は神様に従っているから、堕落した性質が少しずつ変わり、真理を獲得し、正常な人間性を生きる。このような人が良き終着点を得るんだ。

私は、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに向かって荒野へと導かれたとき、人々に尊敬されていたあの強壮な男たちと背の高い『戦士たち』が、神様の御心を求めるどころか神様を責めたこと、そして結局は荒野で死んだことを思い出した。しかし一方、まったく従順で、神様の御言葉に従って実践し、神様の指揮と采配に従った女と子供たちは、最後には良きカナンの地に入った。また、ユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人は聖書に精通し、律法を熟知しており、中には福音を広めるために地の果てまで旅をし、自分たちは誰よりも長く神様を信じ、骨折って働いてきたとか、誰よりもメシアを迎えて神様に選ばれる資格があるのだとか思い込む者もいた。しかし、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、彼らは主イエスの御言葉に権威と力があることを知っていたが、頑固で傲慢だった。自分たちの立場を捨てて真理を求めるのを拒み、神様の新しい働きを受け入れず、自分たちの聖書の知識を駆使して主の新しい働きを断罪し、それに反抗しようとさえした。挙句の果てには、自分たちの立場と生活を守るために主を十字架に釘付けにし、その結果、主に呪われ懲罰されることになった。しかし、主によって選ばれた弟子たちや、主に従ったユダヤの人々や、イスラエル以外の諸国民は、パリサイ人よりも神様を信じてきたが短く、聖書の知識も彼らと同じほどはなく、パリサイ人のように骨折って働いた経験も、地の果てまで旅をして福音を伝えた経験もなかったが、皆それでも神様を畏れる心があった。そして真理を渇望して探し求めたため、主の救いを受けた。

以上のことから、誰がもっとも長く神様を信じたか、あるいは誰が最も費やし、骨折り、働いたかに基づくことで、神様の報いと祝福を得る資格が誰にあるのかを判断できる、という見方は真理と合致しないことがわかる。これは誤った考え方なんだ。神様がこれらの外面的な要素に基づいて報いと懲罰を与えたり、人々の結末を決めたりされることは絶対にない。むしろ、私たちが神様を信じることで真理を得たか否か、私たちが神様の御心を行なう者であるか否かをご覧になる。それはこの本で言われている通りだ。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない」(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)「人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も義であるから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な條件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

これらの二節は、神様が人間を判断なさる基準と、神様の人間に対する態度をはっきり説明している。神様は義にして聖なる性質をお持ちであり、一人ひとりに対して公明正大でいらっしゃる。人の地位の高低や年功、信じてきた期間の長さや、受けてきた苦しみの大きさをご覧にはならない。むしろ、人が真理を求めているか否か、神様を愛し、神様に従う心があるか否か、万事において神様の御心を考慮し満足させられるか否か、そして神様への信仰によって最終的に真理を獲得するか否かを見ておられる。神様を信じる私たちのうち、牧師であれ長老であれ一般信者であれ、真理を渇望して探し求める謙虚で従順な者は、その一人ひとりが神様の啓きを受け、後からぶどう園に来た者たちのように神様の祝福を受けることができる。長いあいだ神様を信じていても真理を求めるどころか邪説にしがみつき、自分の観念や想像の中で生き、自分の年功や資格を誇示する者は、どれほど苦しみを受け、どれほど自分を費やし、どれほど資格があっても、結局は真理を得られず、皆淘汰されるだろう。これは不変の事実であり、神様の義なる性質によって決められたことだ。

彼の交わりを聞いた私は、神様の働きがいかに自分の観念と合致しなくても、神様は依然として義であって、私たちは神様がなさることに選り好みをしたり疑念をもったりしてはならず、自分の観念を捨て、求め、従うべきなのだと理解するようになりました。それはまさにヤーウェ神がおっしゃったとおりです。ヤーウェであるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」(エレミヤ書17:10)また箴言15章3節には「ヤーウェの目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」とあります。神様は私たちの心と思いを見ておられ、私たちを徹底的に理解されており、誰が真に神様を信じ、誰が真理を愛し、誰が偽善者で真理を憎むかを一番よくご存知です。神様が私たちの結末を決められる基準は、私たちがどれほど長く神様を信じてきたかや、どれほど多く働きを行ってきたかではなく、むしろ私たちが本質的に真理を愛するか否か、また神様への信仰を通して最終的に真理を獲得するか否かなのです。これは実に適切です。いまや私は、神様はぶどう園に先に来る者も後から来る者も賃銀を同じにすることで、後から来る者をえこひいきなさったという自分の観念が誤りだったことを知っています。

私の心にあったこの謎を解いてくださった神様に感謝いたします。神様にすべての栄光あれ!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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