神の御前に生きる

2021年1月30日

全能神は言われます。「いのちの入りを求めるには、日常生活の中で出会うあらゆる物事において、自分の言動や考えを吟味しなければなりません。まず自分の状態を把握してから、それを真理と照らし合わせ、真理を求め、自分が理解する真理の現実へと入っていかなければなりません。真理の現実に入る過程では、自分の状態を把握し、頻繁に神の前に出て祈り、懇願しなければなりません。また心を開いて他の兄弟姉妹たちと頻繁に交わりを持ち、真理の現実に入る道を探し、真理の原則を求めなければなりません。そして最終的には、自分が日常生活の中でどのような性質を表しているのか、それを神が喜びとしているのか、自分が実践している道は正しいのか、自分の中の状態を神の言葉と照らし合わせて自省し確認しているか、それは正確に確認したのか、それは神の言葉と一致しているか、そして神の言葉と一致している状態については、真に成果を上げ実際に入ることができたのかを知るようになります。頻繁にこうした状態や状況の中で過ごしていると、いくつかの真理と自分の実際の状態について、徐々に基本的な理解が得られるようになります(「性質を知ることは性質を変えるための基本である」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は、いのちの入りへの道筋を示してくれます。それによって私たちは、実生活で起こるすべての思考と行動を吟味し、神の御言葉の暴きに照らし合わせ、自分の堕落した性質を反省し、知り、真理を活用して解決します。これこそが、自身を真に知り、神の御言葉の現実に入る唯一の方法です。

チェン兄弟は半年前の集会で、ある体験を話してくれました。話を聞いて私は思いました。彼は自分勝手で原則を破るので、刈り込み、取り扱われました。言い訳せずに自制心を働かせただけで、服従しているように見えました。でも自分勝手に仕事をする理由や、どんな堕落が彼を支配し、その根源に何があったかについてはあまり顧みず、理解しようともせず、真理を模索して解決しようともしませんでした。彼の服従は規則を守るだけのことで、真の服従とは言えません。私は、これを彼に伝えるべきか迷いました。でも思いました。「彼は私よりも信仰が長く理解と経験も私より上です。私が彼に意見したら、私は偉そうな子供のようではないか、傲慢だと思われないか。だから何も言わないほうがいいのだろう」と。説教を終えた彼は、欠点に気づいたら教えてほしいと言いました。私は指摘したかったけど、できませんでした。こう思いました。「だって、彼は私よりも年上。彼の服従は真の服従ではなく、規則に従っているだけだと言われれば、彼は面子を失い、ばつが悪くなるでしょう。彼がそれを認めず、私のことを傲慢で未熟だと言えば私が恥ずかしい思いをします。彼のことをよく知らないし、悪い印象を与えるのも損」。しばらく迷った末、こう言いました。「豊富な経験と実践的な理解があるのですね」。

これを言って不安になりました。彼の欠点は明確なのに、それには一言もふれず、心にもないことを言いました。まったく正直な発言ではありませんでした。みなが交わりを共有する間、思いました。私たちは毎日振り返って自身を知り、いくつ嘘をつき、真実をごまかしたか、私欲で話したことはどれだけあったか。真理に反してどのようなこと言動をしたかを考えなければなりません。私はチェン兄弟に嘘をついたことを知りました。神は私たちに正直に、ありのままに話しなさいと再三忠告してくれます。でもそんな基本的な要求すら私は実践できませんでした。自分が悲しくなりました。私はすぐに祈りました。自分を知るために神の導きが必要でした。そして神の御言葉を読みました。「あなたがたは皆立派な教育を受けており、話すときには上品かつ控えめにすることだけでなく、話し方にも気を配っています。皆さんは機転が利き、他人の自尊心や尊厳を傷つけないようにすることを学んでいます。言動においては相手に駆け引きの余地を残し、人に気を使わせないためにできることは何でもします。相手の傷や欠点をさらけ出さないようにし、傷つけたり、恥をかかせたりしないようにしています。大半の人はこの原則に従って行動していますが、これはどのような原則なのでしょうか。それは狡猾で、信用できず、ずるく、陰湿な原則です。人々の笑顔の裏には、悪意に満ちた陰湿で卑劣なものがたくさん隠れています。たとえば一部の人は、人と接するとき、相手に多少の地位があると気づくやいなや、相手の気分を良くするため、巧みで聞こえのよい媚びるような話し方をし始めます。それは実際に心から思っていることでしょうか。なぜそのような話し方をするのでしょうか。間違いなく、意図と下心を抱いているからです。そのような人は心に闇を抱えており、とても卑劣なのです。そのような人たちの生活の中での振る舞いは、忌まわしく嫌悪すべきものなのです(「いのちの進歩を表す六つの指標」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は私の状態を明らかにしてくれました。私は自分の言葉に少しも正直でないばかりか、大きく屈折していました。相手を傷つけないよう回りくどく、聞こえのいいことばかり言っていました。一見他人を思いやっているようですが、本当は自分をよく見せたかっただけで、自分の名声と地位を守りたかったのです。チェン兄弟の話から、彼が規則にこだわりすぎていたことは知っていました。これでは彼のいのちの入りには役立ちません。でも指摘すると彼に恥をかかせ、自分の印象も悪くなります。だから黙っていました。彼に意見を求められても、率直になれませんでした。それどころかお世辞を言って、嘘をついたのです。私はずるかったのです。でも彼は欠点を指摘してもらうことで、彼に足りないものを直したかったのです。私は彼を助ける責任を果たさなかっただけでなく、彼を誉めて欺き、だましました。そのとき初めてわかりました。うまくいい人ぶって、誰も傷つけなかったけれど、問題に直面しても真理を実践しなかったと。私は善人であるどころか、ずるがしこい欺瞞に満ちた人間でした。自分は若く経験不足で、世間知らずだと思っていましたが、事実を目の当たりにして初めて、自分がずるい人間であることを知りました。そして自己嫌悪になり、これ以上うそをつきたくないと思いました。悔やみ、神の言うとおり真実を話し、正直でありたいと祈りました。

彼の欠点を紙に書いて彼に送ることにしました。でも書こうとするとまた躊躇するのです。書き方次第で拒絶されるかもしれないと心配になりました。些細なことにうるさいと思われるのではないかと。過去のことを今になって指摘したら、小さなことでうるさいと思わせるでしょう。「今回は何もせずに、次回言おう」と思いました。でもそう思ってもモヤモヤします。神がこの状況を見せてくれたのは、私に理解させるためではありません。神は私が神の御言葉を受け入れて実践することを望んでいました。私が諦めたら、神にごまかしたことにならないだろうか。再び神に祈りました。「チェン兄弟の体裁や自分がどう見えるかはもう考えたくない。神様どうか真理を実践できるように導いてください」。その後チェン兄弟の経験を神の御言葉に照らし合わせました。自分が気づいた問題を書き、彼に送りました。そうやって実践すると安心できました。翌日彼から返事がありました。私の手紙を読んで感動したそうです。欠点の指摘は神の愛ゆえだと。自分は何かあっても真理を求めようとは思わず刈り込み、取り扱われたときは、ただ投げやりに対応するだけだったと。今後は欠点を正していきたいと書いてありました。彼の返事に感動しました。兄弟姉妹との触れ合いを恐れる必要はないと感じました。正しい動機を持って指摘すれば、彼らは喜んで受け入れます。私の不安はすべて想像で、堕落した性質に支配されていたのです。私は理解できるようになりました。教会の人間関係は人生哲学や欺瞞ではなく、神の御言葉を実践することと互いに誠実であることが土台にあるのだと。でも私はサタンによって深く堕落し、その性質が深く根付いていたので、自分の名声と利益が脅かされると真理を実践できませんでした。

その後、ある妹がオンライン小説をよく読んでいると知って、不安で鼓動が高鳴りました。「オンライン小説など人が作ったフィクションにすぎない。のめりこんだら、神の御言葉を読んで本分を実践したいと思わなくなるのではないか。彼女は聖霊の働きを失い、いのちに大きな損失を被るだろう。彼女に指摘しなければ」と。でも口を開こうとして躊躇しました。「私はおせっかいだと思われやしないか。彼女が私の言うことを認めなければ、毎日顔を合わせにくくなる。きっと教会のリーダーに伝えた方がいいだろう。リーダーが彼女に説教してくれるはずだ」と。でもこの考えが間違っていることはわかりました。私が気づいたのだから、自分で彼女に説教する責任があるのです。誰かに責任転嫁するべきではないのです。その後彼女に指摘しようと何度か思いましたが、毎回言うことはできず、どう切り出すかもわかりませんでした。これが何日も続きました。ある日教会のリーダーに妹の状況をきかれました。この時初めてリーダーに話したのです。驚いたことに、リーダーは忙しいので私から姉妹に説教してほしいと言うのです。私は、これは神の計らいだと思いました。自分の肉を捨てて真理を実践せよと。それまでしばらく感じていた不安を思いました。彼女の姿を見ると、まだ話してないことにとらわれてしまいました。彼女に愛も責任も見せず、自分の良心が痛んでいました。オンライン小説にはまることの危険はよく知っていました。サタンはこの邪悪な傾向を使って人をだまし、堕落させ、思考をコントロールして神を避けるように仕向けます。だんだんと堕落と落胆、破滅に導くのです。彼女のいのちがだめになることを、私は少しも考えませんでした。また彼女が本分に集中せず、教会の仕事にも大きな損害が出ることも。これを指摘して気を悪くさせるのを恐れ、関係を維持するために殻に閉じこもって過ごしました。私はとてもわがままで卑劣だったのです。

その時神の御言葉を読みました。「多くの人は、良い人でいるのは実に簡単なことで、不言実行を実践し、良い心をもち、何の悪意ももたなければそれでいいと信じています。そのような人は、そうすることで自分はどこに行っても栄え、人々に好まれるようになり、そのような人でありさえすれば十分だと信じているのです。彼らは真理を追い求めようと思うことすらなく、単に良い人であることに満足しています。真理を追い求めて神に仕えるという問題はあまりに複雑で、それには多くの真理を理解する必要があり、いったい誰がそんなことを成し遂げられるだろうと考えるのです。彼らは簡単な道を行くこと、つまり良い人になって本分を尽くすことだけを望み、それで十分だと思っています。そのような態度で持ちこたえられますか。良い人でいるのは本当にそれほど簡単なことですか。立派な話し方で語る良い人を、あなたたちは社会で数多く見つけるでしょう。そのような人は、たとえ表面上は大きな悪事を犯したことがないように見えても、奥深くでは不実で狡猾です。特に、そのような人は風の吹く方向を見ることができ、スムースかつ如才なく物事を雄弁に語ります。わたしの見るところ、このような『良い人』は偽者であり、偽善者です。このような人は良い人の振りをしているに過ぎません。最も悪質なのは、中庸に固執する人です。彼らは誰も傷つけようとせず、人々を喜ばせています。彼らは物事を上手にこなし、誰も彼らの正体を突き止められません。そのような人は生けるサタンなのです(「真理を実行に移すことでのみ、堕落した性質の束縛を振り払える」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は心に刺さりました。私はいつも中立で、いい人を演じ、誰も怒らせず、間違いを指摘せず、まさに神の御言葉どおりだったのです。何か言うときは相手や状況を考えました。友情を壊したり、自分の悪口を言われたりするのが嫌でした。この姉妹の問題に気付き、それを指摘したくても、気分を害するだろうと何度も指摘を避け、教会のリーダーに肩代わりしてもらおうとしました。私は自分のことしか考えておらず、異論が多いことは他者にまかせ、自分の利益を守ったのです。私は兄弟姉妹にこんな接し方をしていたのです。誰かが悪い状況にあるときや堕落していると思えば、見なかったことにして、それを指摘せず交わりもしません。一見誰とでも仲良く、配慮があるように見えます。でもそれは嘘で、わざとらしい行為でした。自分の心からの言葉を隠し、表面を飾っていました。私は偽善者だったのです。私は露骨に兄弟姉妹をだましつつも、いい人と思われたかったのです。あまりにも恥知らずです! 自分はずるい嘘つきのイエスマンで、まやかしです。

神の御言葉をさらに読みました。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は特に何を引き起こすでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました(「ペテロの道を歩むには」『キリストの言葉の記録』)。するとイエスマンの根底にある原因が理解できました。つまりサタンの哲学と毒が私に深く侵食していたのです。毒されていました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」「他人の気持ちと道理に適った好ましい言葉を話しなさい。ずけずけとものを言う者は嫌われる」などです。私は自分の名声と地位しか考えていませんでした自分の評価ばかり気にして、わがままでずる賢く、嘘つきになりました。小さいころから両親に言われました。話すよりも人の話を聞け、言葉は少ない方がいい、他者には率直に話すべきではない、気分を害するからと。こうしたサタンの哲学で生き、他者に心を開いて正直になることは稀でした。親友に対してもそうです。欠点を指摘するほど心を開くことはほとんどなく、相手の気分を害し、自分の印象を損なうことを恐れました。その代わり、相手に合わせ、おせじを言いました。でもすべて偽りだったのです! こうしたサタンの哲学で生きると、自分は嘘つきでずるく、自分勝手で卑しくなるだけです。自分の利益だけで他者のことを全く考えていませんでした。他者に対して不誠実で、愛がありませんでした。私のような人は誰の役にも立たず、親しくなる価値などありません。こうしたサタンの哲学は本当にばかげていて、行動の原則にはしてはいけません。サタンの哲学で生きると、より堕落し、人間性を失うだけです。問題に気付いても何も言わないと後で罪悪感を抱き、心の中の石が取り除けないような気分になりました。真理を知っているのに実践できなかった気分になりました。臆病で尊厳も人格もありませんでした。この歳になってもまともな人間になれず、対人関係の原則を知りませんでした。それどころか、サタンが教え広める俗な生き方を追求しました。その時は自己嫌悪がひどく、これ以上サタンの哲学で生きたくありませんでした。とにかく神の御言葉に沿って行動したかったのです。

そして神の御言葉を読みました。「正直な人であるために、一番大切な実践とは何でしょうか。それは神に対して心を開くことです。『心を開く』とはどういうことでしょうか。それは自分のすべての考えと、自分の意図が何であるか、何が自分を支配しているのかを、神に完全に明らかにすることを意味します。あなたの言うことが心の中の思いそのままで、少しの違いも隠し事もなく、裏もなく、他の人が推測したり質問して掘り下げたりする必要もなく、遠回しな表現も必要なく、ただ他意なく思ったことを言っているだけならば、それはあなたの心が開いていることを意味します。時にはその率直さが相手を傷つけたり、不快にさせたりすることもあるかもしれません。しかし、『そんなに正直に言われて、本当に傷ついた。あなたの正直さは受け入れられない』などと言う人がいるでしょうか。誰もいないはずです。たまに人を傷つけることがあっても、心を開いて謝罪し、分別なく話して相手の弱さを無視してしまったことを認めれば、相手はあなたに悪意はなく、正直な人なのだと思い、ただ話し方にあまり気をつけていないだけで、とても率直な人なのだと思うでしょう。そして誰も、そのことであなたを責めたりはしません。……正直な人であるために最も重要なことは、神に対して心を開くということです。そしてその後、他の人々に心を開くこと、正直に事実のとおりに話すこと、心にあることをそのまま話すこと、尊厳と人格と品性を備えた人になること、そして大げさに話したり、嘘を言ったり、自分を偽ったり、人を欺いたりしないことを学べばよいのです(『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉を熟考して、深く感動しました。神が私の手を取って人間としての行動を教えてくれたと感じました。正直な人間になること、正直な言動をし、神に完全に心を開くこと、兄弟姉妹に率直になること、そして何か特定の方法を取ったり、ごまかしたりしないこと。このような生き方は疲れません。後で妹と話し、オンライン小説にはまることの危険を指摘して交わりました。最初彼女は嫌な顔をし、気まずい空気が流れました。でも心を開いて交わると、彼女は自分が危険な状態であったことに気づきました。そして、もうオンライン小説は読まない、自分の本分に集中すると言いました。その言葉を聞いて、心から安心しました。しかし自分を責めました。もっと前に言っておけば、彼女をすぐに正すことができたのではないか。イエスマンでいようとして、自分に負けて真理を実践せず、物事が長引いたのです。イエスマンでいることが大きな害をもたらしました。その後兄弟姉妹の本分で気になることがあれば、彼らが気分を害するのを恐れることもありますが、神に祈ることで、意識的に真理を実践し、正直でいられます。いつも後で正直に問題を指摘することができるようになりました。神の御言葉の導きによってのみ、どう行動し、兄弟姉妹と交流できるかを学ぶことができたのです。神の御言葉がどれほど貴重であるかがわかりました。それは私たちの品行と行動の原則です。本分でも品行でも、神の御言葉の導きが常に必要です。問題があったときは、真理を求める限り、道が得られます。

振り返ると、自分がイエスマンで嘘つきであったのは頭で承知していましたが、本気で神の御言葉に自分を照らし合わせ、自分の堕落した性質を調べたことはありませんでした。また、神の御言葉を実践する道や原則を探すこともめったにありませんでした。だから私のわがままで嘘つきな性質は全く変わらなかったのです。人生で取るに足らない経験ではありますが、自分をよく見て神の御言葉の真理を模索することに集中すると、報いを受け、理解できるようになります。真の内なる平穏を感じ、いのちの入りの道筋が見えます。このように理解し、報いを得ることこそ、神の御言葉の導きに忠実であることなのです。神に感謝します。

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