他人にいい顔をする人は救いを得られるのか

2021年1月30日

中国山東 郝正

私は貧しく遅れた山村で生まれ育ちましたが、そこには封建的な習慣や複雑な人間関係が残っていました。私はそうした環境や、両親がよく口にする次のような言葉に強い影響を受けました。「口を開く前に頭を使え。それから控えめに話せ」、「沈黙は金、雄弁は銀、多弁は過ちのもと」、「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」、「他人の気持ちと道理に適った好ましい言葉を話しなさい。ずけずけとものを言う者は嫌われる」。こうした哲学が私の人生における格言となったのです。兄弟と一緒にいるときでさえ、私は絶えず彼らの様子をじっとうかがい、彼らを喜ばせようと聞こえのよい褒め言葉を言おうとしました。誰かが悪いことをして、誰の仕業だと親から訊かれても、私はいつも知らないと答えていたので、兄弟から大いに好かれていました。それに母からも、お前はいい子だと常に言われていました。ひとたび世間に出ると、友人と一緒にいるときだろうと、あるいはあらゆる種類の人と一緒のときだろうと、絶えず細心の注意を払って自分の人間関係を守っていました。人の気分を害することも、人と言い争うことも決してしなかったのです。誰かに気分を害されても、私はとても寛容で、波風を立てることはしませんでした。自分が何度も貧乏くじを引かされ、むっとして腹が立つことがあっても、「沈黙は金、雄弁は銀、多弁は過ちのもと」という言葉にしがみついてひたすら自分の感情を抑えました。やがて親族や友人たちのあいだでいい人として知られるようになり、そのおかげで誰からも褒められ、賞賛されましたが、心の中では言葉にできない重圧と苦痛をいつも感じていました。誰といるときでも相手を傷つけないよう用心し、誰にも心を開こうとしませんでした。自分の利益を守るため、常にこびへつらって偽りの仮面を被っていたのです。それはつらくて疲れるひどい生き方でした。「自分の苦しみはいつ終わるんだろう? どうすればもっと気軽な人生を送れるんだろう?」と常に自問していたものです。迷いと苦しみの中にあったとき、全能神が私に救いの手を差し伸べてくださいました。

1998年、私は全能神による終わりの日の働きを受け入れるという幸運に恵まれました。おもに私たちの堕落した性質を解消し、私たちが真に人間らしく生きられるようにすべく、神が肉となって人類を救うために来られたことを、全能神の御言葉から学んだのです。全能神は言われます。「あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。「わたしの国には、正直で、偽善的でなく、偽りのない人々が必要だ。誠実で正直な人々は、この世では好かれないのではないか。わたしはまったくその逆だ。正直な人たちがわたしのところに来るのは受け入れられる。わたしはそのような人を喜び、そのような人を必要としてもいる。それこそがわたしの義である(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十三章」〔『言葉』第1巻〕)。神は私たちに、誠実かつ純朴になって心を開くよう告げるとともに、それが天国に入る唯一の道だと言われています。私は御言葉を読んで、そのほうが気軽で幸せな生き方だと心の底から実感し、神のお求め通り誠実になろうと決意しました。また兄弟姉妹との交流や集会の中で、彼らがみな正直で、自由に語っていることに気づきました。誠実で偽りがないのです。誰かについての意見があったり、誰かが堕落を表わしたりすると、彼らはそれを指摘してその人を助け、心を開いて自分の認識を語ることができます。それは私にとって本当に驚きでした。人についての意見を口にしては絶対にだめで、正直になれば他人を怒らせ自分を傷つけてしまうといつも考えていたからです。けれど、そんな心配はここでは無用でした。兄弟姉妹は世間の人ほどずる賢くはなく、他の人を傷つけたときにはちゃんと謝ります。常に他の人のことを思いやっているのです。彼らがそれを実践して生きられるのは、ひとえに全能神の働きと御言葉のおかげなのだとわかりました。それによって、全能神の御言葉は真理であり、人を清めて変えることができるとますます確信し、自分も誠実な人になりたいと心から思いました。しかしサタンの処世哲学がずっと前から私の中に深く根ざしており、自分の生存法則になっていました。兄弟姉妹との交流でも、気づかぬうちにそうしたサタンの哲学にいまだ頼っていたのです。心を開いて心から語ることや、誰かを怒らせたり、自分の評判を傷つけたりすることが不安でした。また人との関係を守ることに気を遣い続け、誠実になるのは本当に高い壁だと感じていました。そのとき、私を清めて変えるべく、神が正しい環境を入念に整え、私の堕落と欠点を暴き、誠実な人になる現実へと導いてくださったのです。

その後、私は李兄弟とチームリーダーとして働くようになりました。二人の仲はとてもよく、李兄弟は多くのことで私を手助けしてくれました。ところが本分を尽くす中で、彼が傲慢かつ身勝手で、原則に従わないことがわかったのです。私は何か言いたくなるたび口を開きかけるのですが、結局言葉を呑み込むだけでした。「彼を批判すれば、君には良心がないとか、自分は君にとても親切にしてきたのに、君はいつも僕の問題点を指摘しているとか言われるだろう。彼が僕に偏見を抱き、協力して本分を尽くせなくなったらどうしよう」と考えたのです。二人の関係を守るため、私はその件を決して彼に持ち出しませんでした。やがて、傲慢さと自分の本分を無視したことが原因で、李兄弟は教会の働きに深刻な影響を与えしまい、解任されました。それにもかかわらず、私はなおも自己反省をしませんでした。しかしある日、用事があって李兄弟の自宅に出かけたところ、彼の奥さんからこう言われたのです。「夫が解任されたのはあなたのせいでもあるわ。夫に警告して助けてくれれば、本分を尽くす中であれほど身勝手かつ無責任に振る舞い、教会の働きを乱すことはなかったはず。どうして教会の働きを守れないの? あなたは他人にいい顔をする人で、真理を実践していないわ!」彼女の言葉を聞いて私はショックを受け、この上なく恥ずかしい気持ちになりました。そこを立ち去っても涙が止まりません。苦痛の中、私は神に祈りました。「ああ、神よ。あなたは今日、この姉妹が私を取り扱い、叱責するのをお許しになりましたが、私は本当に自分を認識していません。どうか私を啓き、お導きください」。祈ると徐々に心が落ち着き、李兄弟と働いていたときのことを振り返りました。そして自分がサタンの処世哲学によって生きてきたことがわかったのです。李兄弟が原則に反しているのをはっきり見ながら、私は彼を止めることも助けることもしませんでした。彼の気分を害し、自分たちの協力関係にひびが入るのを恐れていたのです。李兄弟がそこまで至ったことについて、私には逃れられない責任があります。こうしてますます罪悪感と後悔を覚えました。

後に、私は神の御言葉の一節を読みました。「『善い人間性』には基準が必要ですそれは中庸の道ではありません原則を堅持せず誰も不快にさせず誰にでもへつらい、口先がうまく調子がよくて世渡り上手で人当たりがいいことでもありませんその基準となるのは神に対し、人や物事に対し誠実な心を持ち、責任を負えることそれが誰の目にも分かり、感じられることですさらに神は彼ら一人ひとりの心を探り知っているのです。中には、自分は善い人間性を備えていると常に自慢し、悪事を犯したことも、他人の物を盗んだり羨んだりしたこともないと言い張る人がいます。このような人は、利益を巡って紛糾すると自分が損するほうを好み、自分の利益を犠牲にしてでも他人に得をさせ、誰の悪口も決して言いませんが、それは単に誰からもいい人だと思われるためです。しかし神の家で本分を尽くすときはずる賢くいい加減で、いつも自分のために策を巡らせます。神の家の利益を考えることも、神が緊急としているものを緊急として扱うこともなく、神が考えるように考えることもなければ、本分を尽くすために自分の利益を脇にのけることも決してできません。自分の利益を決して手放さないのです。たとえ悪人が悪事を犯すのを見ても、彼らはその人を暴きません。原則が一切ないのです。これは善い人間性の見本ではありません。そうした人が言うことに注意を払ってはいけません。その人が何を生きているのか、何を露わにするのか、本分を尽くすときの態度はどうか、そして内なる状況はどのようなものか、何を愛しているのかを見る必要があります。自分の名声や富に対するその人の愛が、神に対する献身や神の利益を超えているなら、あるいはその人が神に示す懸念を上回っているなら、その人は人間性をもたない人です。そうした人の振る舞いは他人や神に見られるので、彼らが真理を得るのは極めて困難です(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。善人であることは振る舞いがよいという意味ではないのだと、神の御言葉は示してくれました。それは、人と仲よく付き合うことでも、人に認めてもらうことでもありません。自分の心を神に向け、忠実であり、真理を実践して神の家の働きを守り、真理の原則に従い、生活の中で人々を霊的に助けて支えることなのです。ところが私は、李兄弟が身勝手になって真理の原則に何度も反し、非常に傲慢で他人の提案を受け入れないのを目の当たりにし、それは彼自身にとっても、神の家の働きにとっても悪いことだと知りながら、それでも「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」というサタンの哲学に従い、見て見ぬ振りをしていました。彼を助けることも、教会指導者に相談することもせず、教会の働きに害が及ぶのを指をくわえて見ているだけでした。自分の評判を犠牲にしてでも真理を実践し、責任を負うということがまったくできなかったのです。私はそれほど利己的で、卑劣で、狡猾でした。彼が罪を犯したのは私のせいではないか。私はサタンの側に立っているのではないか。人の気分を害することへの恐れから、私は卑劣で利己的な人間になってしまいました。正義感が一切なく、善人などではまったくありません。「いい人」になろうと追い求める中で、神がお嫌いになる他人にいい顔をする人、不実な人になってしまったのです。俗世間ではそれでもいいでしょうが、神の家では神に嫌悪されます。そのとき、真理を実践しないまま、いい顔をして関係を守ろうとするのは、実際には人に害を及ぼすことだと気づきました。生まれて初めて、善人であることへの見方が揺さぶられたのです。人間関係の中でサタンの哲学に従うのは完全な間違いだとわかり、また今回取り扱いを受けたことで、忘れることのできない深い印象が刻まれました。李兄弟は過ちを犯したけれど、私に残されたのは永遠の負い目だと感じたのです。神の裁きと刑罰を通じ、私は長年にわたる自分の誤った追求を理解し、そのように生きるのはもう嫌だと思いました。神のお求めどおり誠実で正直な人になろうという意志が湧き上がり、努力して誠実な人になりたいという欲求が生まれました。しかし私には、堕落とサタン的性質がとても深く根ざしており、他人にいい顔をする人という自分の本性と本質を、完全に理解することも憎むこともしておらず、本当に変わってはいませんでした。程なくして、元の木阿弥になってしまったのです。

近くの村に住む張姉妹の夫は地元でも札付きの悪党で、彼女の信仰を邪魔していました。彼女が集会へ出かけるのを見るたび、他の兄弟姉妹ともめ事を起こすので、彼らは安心できずにいたほどです。張姉妹が集会へ出かけたときのこと、彼女の夫は、ある兄弟が家を建てるために使おうとしていた材木に火を点け、残らず燃やしてしまいました。教会指導者は彼女にこう告げました。「集会に来ないでほしい。みんなの安全を守らなければならないんだ。家でデボーションを行ない、神の御言葉を読みなさい」。でもしばらくすると、彼女は集会に出たいと心の底から思うようになり、我慢できず王姉妹に会うため私たちの村を訪れたのです。王姉妹はどうしてよいかわからず、私のところへ相談に来ました。教会の益を第一に考えなければならず、張姉妹を帰宅させるべきであることは私もよくわかっていましたが、そのときこんな考えが頭に浮かびました。「僕は教会指導者じゃない。これが間違った行動だとしたら、他のみんなはどう思うだろう。それに、僕のせいで集会に出られなかったと張姉妹に知られたら、彼女は僕のことをどう思うだろう」。私はそう思い、このように言って丁寧に話をはぐらかしました。「この件は教会指導者に相談すべきだ。探しに行きなさい」。結局、彼女は指導者を見つけられず、張姉妹を村に留めることになりました。

翌日の晩、自宅でデボーションを行ない、神の御言葉の讃美歌に耳を傾けていたところ、ドアを激しく叩く音が突然聞こえました。息子がドアを開けた瞬間、棍棒をもった三、四人の大男が部屋に押し入り、その後別の四、五人が屋根から飛び降りてきました。連中は無言で私をベッドに押さえつけると、乱暴に殴りました。私は心の底から恐怖を感じ、絶え間なく祈って神を呼び求めました。痛みが本当にひどくなりつつあったまさにそのとき、ベッドの枠が折れて私は床に倒れました。暴徒たちは私がひどい怪我を負ったと思ったのか、パニックになって逃げました。こんな暴行を受けたからには骨が何本か折れているはずだと思ったのですが、驚いたことに皮膚が傷ついただけで骨に損傷はありません。それが神の気遣いと加護であることはわかっていました。翌日になり、張姉妹の夫が、彼女が集会へ出かけたことを突き止め、私がその手引きをしたと思い込んでいることがわかりました。それであの連中に私を襲わせたのです。こんなことになったのは、私が原則に従わなかったせいだと気づきました。原則に従い、張姉妹があの集会に出るのを止めていれば、こんなことにはならなかったはずです。あの悪党どもに暴行を受けたのは、私が利己的で卑劣だったからに他なりません。私は自分の利益しか気にせず、真理を実践しようとしない「いい人」でした。それは自業自得だったのです。

その後、私は神の御前に出て探求と反省を行ないました。自分の利益を守り、他人にいい顔をする人でいるのを止められないのはなぜなのか。真理を知っているのに、それを実践できないのはなぜなのか。あるとき、私は次の御言葉を読みました。「サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの嘘とたわ言が人間のいのちと本性になったのです。「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです。……人の生活、行動や振る舞いには、サタンの害毒がいまだ数多く存在し、それらに真理はほぼまったくありません。例えば、人の処世哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです。そのような役人、権力者、成功者はみな、成功に至る道と秘訣をもっています。そのような秘訣は、彼らの本性を完全に表わしてはいませんか。彼らはこの世でかくも大きなことを成し遂げましたが、それらの裏にある企みや策略を見抜ける人はいません。そのことは、彼らの本性がいかに狡猾で悪意に満ちているかを示しています。人類はサタンによってあまりに深く堕落させられてきました。サタンの害毒がすべての人の血に流れており、人の本性は目に見えて堕落し、邪悪であり、反動的であり、サタンの哲学に満ちています。それは完全に神を裏切る本性です。人が神に抵抗し、神と敵対するのはそれが理由です(「どのようにして人間の本性を知ればよいか」『キリストの言葉の記録』)。これをじっくり考えるうち、問題の根源がわかりました。私がいつも他人にいい顔をして、真理を実践できずにいたのは、「沈黙は金、雄弁は銀、多弁は過ちのもと」、「何か間違いに気づいても、言わぬが花」、「賢者は保身に優れ、ひたすら過ちを避けようとする」、「口を開く前に頭を使え。それから控えめに話せ」、「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」などといった、サタンの哲学と害毒に満ちていたからです。こうした言葉を生きる上での格言、行動の法則とし、それらを基にいい人であろうと全力を尽くしていたのです。どんな人付き合いにおいても、私の頭にあったのは人の気分を害さないことや、人に褒められ、尊敬されるにはどうすればよいか、といったことばかりでした。私は狡猾で不実なサタンの哲学を完成させ、それらが私の自然な現われになったのです。私は俗世で善人に思われ、人々もいい人だといって私を褒めてくれましたが、真の善人からはかけ離れていました。こうしたサタンの害毒にしたがって生きることで、私はいったい何を得ていたのでしょう。小さなころから子供がもつべき純真さを失い、誰に対しても偽りの仮面を被っていました。話したり行動したりするときも非常に慎重で、他人の顔をいつもうかがっていました。相手が誰でも警戒し、心を開いて心から語ったことなど一度もありません。私は自分の家族にすら正直ではありませんでした。他人の気分を害することを恐れ、自分の良心に何度も反し、自身の尊厳と高潔さを売り渡しました。正しい物事のためにあえて立ち上がったことは一度もなく、ただ自分のイメージを守るために高潔さを犠牲にしました。怒っているときでさえも無理に笑みを浮かべていたのです。私はそうしたサタンの哲学のせいで正常な人間性を生きられなかっただけでなく、利己的で、卑劣で、不実になり、善悪の区別ができませんでした。そうしたサタンの哲学で生きていれば、その瞬間は他人に褒めてもらえるでしょうが、それは目に見えない足かせをはめられ、きつく縛られているようなものです。私は自由に話すことも、行動することもできませんでした。何の自由もなく、心底憂鬱で苦痛を感じていたのです。今やっと、私がなろうと努めていた他人にいい顔をする人になっても、実際には善人になるわけでなく、真理を追い求めない狡猾で腹黒い人になるのだとわかりました。私は神に反抗し、神を裏切っていました。神の裁きと清めがなければ、決して救われることはないでしょう。そのとき、あの悪党どもが私に暴行したのは、神がお許しになったことなのだと気づきました。神の御前に出て自分を反省し、他人にいい顔をする人でいることの本質と結末を知らしめ、悔い改めさせるために、神は私に警告なさっていたのです。

神の御言葉に関する交わりを通じ、他人にいい顔をする人の本性と実質だけでなく、その危険性と結末もわかりました。私は心から真理を追い求め、サタンの哲学による束縛から自由になり、神の御言葉にしたがって誠実な人になろうと思い、神に祈りました。あるとき、林姉妹が別の教会に移り、執事に選ばれたことを知りました。彼女が実は他人を騙す人間で、前の教会で本分を尽くしていたときも本当にずる賢く、言動が一致していないのを、私は知っていました。これほど誠実でない人間を教会の執事にしてはならない。自分は教会の働きを守るべきだ。そこで、その教会の指導者に手紙を書き、状況を説明することにしたのですが、ペンを持とうとするとためらってしまい、「これはあの教会の問題だ。そこの指導者に、君は反応しすぎだとか、自分のことに集中しろとか言われるんじゃないか」と思いました。そのとき、神の御言葉が頭に浮かんだのです。「皆が自分は神の重荷を思いやっており教会の証しを守るつもりだと言うが、一体誰が本当に神の重荷を思いやったのか。自問してみなさい、あなたは神の重荷に配慮を示した人間なのか。神のために義を実践することができるか。立ち上がってわたしのために語ることができるか。真理を揺るぎなく実践に移すことができるか。サタンのすべての仕業に大胆に立ち向かうことができるか。わたしの真理のために、感情を脇に置き、サタンを暴露することができるか。わたしの旨をあなたの中で成就させることができるか。最も重要なときに、自分の心を捧げたのか。あなたはわたしの旨を行う者か(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉の一言一句が私の心に語りかけ、神の差し迫った御旨を感じられるようにしてくれました。神は人に、真理を実践して義を守り、勇気をもってサタンの勢力に「ノー」と言い、責任をもって神の働きを守ることを望まれています。神が私たちに望まれているのは、自分の損得を計算することでなく、教会の益を第一にすることです。ひとたび神の御旨がわかると真理を実践する信念が生まれ、そこの教会の指導者に宛てて手紙を書き、林姉妹に関することを伝えました。数日後、調査の結果、林姉妹が誠実でない人間だと確定し、彼女の本分を変更したと、その指導者から伝えられました。そうなったことを知り、私は安心して安らぎを得られました。誠実でいるのは素晴らしいことで、自分は有意義なことをしたのだとわかったのです。後に兄弟姉妹の数名から、あの手紙を書いて教会の益を守ったことで、あなたが本当に変わり、正義感を得たことがわかったと言われました。彼らの口からそれを聞いて、私はとても感動しました。真理を実践してささやかな変化を遂げられたのは、すべて神の裁きと刑罰による成果だと、心の中で知ったのです。私を救ってくださった全能神に感謝します。

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