神の愛のみが真の愛である

2017年12月21日

神はこう仰いました。「数千年にわたり腐敗し続けてきた中国国家は、現在まで存続してきた。ありとあらゆる害毒が、らい病のように随所に拡散している。人間関係を見るだけで、人間にどれほど大量の害毒があるかを理解するに十分である。そうした密閉されて害毒に冒された領域で御業を行うことは、神にとって極めて困難である。人々の人間性、習慣、行動方法、人生や人間関係で表現されるあらゆる物事は、すべて信じられない程に破壊され…」(『神の出現と働き』「道……〔6〕」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉の御啓示により、サタンの堕落は人々の関係全てを異常なものと化してしまうのだと分かりました。なぜなら、全てがサタンの人生観に基づいており、それには何の真理も含まれていないからです。神の御救いを受けていなければ、私は依然として盲目で、感情も騙されたままであったでしょう。しかし、神の働きを受けた私は、“お互いを助け合う” ことの本質を理解して、友情、愛、そして家族間の愛情のあり方を知ることができたのです。私は、神の御言葉のみが真理であり、神の御言葉をつらぬいてのみ、サタンの支配から抜け出すことができ、真理に従って行動してのみ、有意義な人生を送ることができるのだと分かりました。

私の両親は共にキリスト教徒だったのですが、当時、イエスを信仰していた私達は多くの恵みを授かりました。特にビジネスにおいて、神は物質的な安楽を沢山お与えくださいました。私の親戚の大多数は私の両親ほど裕福ではなかったので、私の両親は金銭的にも、物質的にも彼らの面倒を見ていました。私の親戚は私の両親をとても尊敬しており、自然と私にも同じ姿勢でした。私はこのような恵まれた環境で育ったのです。私の友人達と親戚はとても素晴らしい人達で、私の家族が何か必要であれば、快く助けてくれるものだと思っていました。

1998年の事です。私達家族は全員で全能の神の働きを受け入れたのです。そして、神の祝福を授かりたいという希望と、厳しい業界でビジネスを展開していたということを理由に私達は家業を辞めることにしたのです。友人と親戚の中には、“お前達が何年もかけて成長させてきたビジネスなのに、辞めてしまうなんてもったいない”、と言って家業を続けるように説得してくる人達がいました。私達はこれ以上いらない程に稼いだから辞めるんだろうと、私達のいない所でこそこそ言っている人達までいたのです。これを聞いて悲しくはなりましたが、それでも私達はビジネスを辞める決意をしました。全能の神の働きを受け入れたと言っても、私は依然として人々の堕落については全く解っていませんでした。それ故に、私は、心の中では依然としてこの世俗的な世界を手放せずにいたのです。私はよく仲の良い友人や親戚達と一緒に食べたり、飲んだりして、楽しく遊んでいました。私は気前よくお金を使うので友達が沢山でき、非常に “重要” だった私は、同窓会、パーティ、クラスメートや友人達の誕生日会や結婚式、その他の集まりには必ず招待されていました。その上、毎週日曜日には、ガールフレンドを迎えに行っては見送り、頻繁にデートをしました。当時私は、教会で週に3回ある集会を一度も逃したことはありませんでしたが、依然として神の御言葉を理解しておらず、私の心も変わらぬまま世俗をさまよい続け、神への信仰は規制による束縛のように感じました。しかし、神は私が真理を理解できるような環境をお作りくださったのです。人々の関係は共通の関心に基づくもので、それには本当の気持ちや愛などといったものは存在しないとお示しになりました。

家業を辞めた後、私の両親は自宅の修理を行い、私の妹と私の授業料を納める必要があったため、僅か数年後には家の貯金がほぼ底をついてしまったのです。そして、両親から収入を得ていた私の出費も減っていきました。私は、結婚式や集まりにはその規模に関係なくできるだけ参加しないようにし始めたため、私の友達の輪も次第に小さくなり、友人達の目から見た私の存在もその重要性を失い始めたのです。貧しかった友人や親戚の運気が改善したとたん、彼らは私達から遠ざかっていきました。この時、私は他の人達の心の中にはもはや存在していないと感じたため、私にとっての精錬の期間となりました。特に、私のガールフレンドは、私が以前ほど気前よくお金を使わなくなったため、私からどんどん距離を置くようになり、2001にはついに私と別れて、他の人と付き合い始めてしまったのです。

それを知った時、私は事実として受け入れられなかったのです。感情を露わにはしなかったものの、この知らせはナイフが心臓に刺さったかのように辛いものでした。私は浮気をしたことなどなく、彼女のために費やした努力も誠実な動機によるものでした。なのにどうして、私は彼女に裏切られるようなことになったのでしょうか?5年間続いた彼女との関係もこんな形で幕を閉じたのです。私は彼女を忘れることができずに、この痛みを心の奥深くに埋め込んだのです。それ以降、私は、誰かがこれについて触れるたびに嫌な思いをしました。どうしてこのような事が自分に起ったのか、私には理解できませんでした。そして、ある日、私はこの神の御言葉の一節を目にしたのです、「殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。」(『神の出現と働き』「働きと入ること(1)」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉による御啓きは人間のいのちを忠実に描写しています。恋の病にかかり、“ロマンチックな恋” の幻想的な世界を過ごした時期を振り返ってみると、私は脱出不可能な罠にかかっていたのです。これらはサタンが人を欺くために仕掛けた罠であり、人々を捕まえては目標を持たずに、神の働きに気付こうとする意思すら持たずに生きて行かせるための計略であったとは、全く知りませんでした。私は自らを神の信者と称してはいましたが、友情と愛について頭を悩ませ、苦労した日々を沢山過ごしました。私の状況が変わっていなければ、依然として “永遠の愛の誓い” であったり、“忠実な友人” を信じ、決して脱出できなかったでしょう。ガールフレンドと分かれたことをきっかけに、私はクラスメート全員との関係も断ちました。騒々しい環境から出たことで、私は心を落ち着かせ、神への信仰に専念することができたのです。私は集会の場で兄弟姉妹達と交流するようになり、私の傷ついた心が徐々に元気を取り戻していったのです。私は長い間忘れていた喜びを感じとり、もはや喪失感はなく、苦しみの中を生きることもなくなったのです。外部からの邪魔が入らないため、私は心が落ち着いた状態で集会に集中することができたのです。私は神への信仰にますます興味を持つようになり、それ以降、自分の本分を尽くし始めたのです。

私が神を信じていることを知った親戚達は、窮まるところを知らずに邪魔をしてきたのです。神を信じるなんてこんな若い私がすることではないというのが親戚の考えだったのです。母方の叔母は頻繁に頼み事をしてくるようになり、父方の叔母は彼女と一緒に商売をしようと言ってきたり、育ての母までもが(自分に息子がいないから)赤ちゃんが生まれてもその子の面倒を見るからと言って、結婚させようとしてくるのです。御婆ちゃんは泣きながらこう言いました:“あなたの親が神を信じるってことには反対じゃないけど、人生の半分を働いて、あなた達が生きて行く道を開くために全てを注ぎ込んだんだから、のんびりさせてあげなさい。あなたは子供を作ることと、自分のキャリアに集中しなさい。そして御婆ちゃんは、私の父が貧困の中で育ったこと、父がゼロから出発したこと、沢山辛い思いをしたこと、どれだけ一生懸命に働いたかということ、私が恵まれた環境で育ったこと、そして私が理想的な目標を持てていないことについて説明し出したのです。皆が突然私を“心配”してくれたことはとても嬉しく思いました。しかし、私は混乱しました。なぜなら、皆が言っていたことは正しくて、皆が私にとって一番良いことを望んでくれていたように思えたからです。しかも、皆は私の一番近い親戚だから、私を傷つけるようなことはするはずがありません。若い時に何かをやり損ねていたとしたら、私は年を取った時どうなるでしょうか?私は精錬の中を生きていたのです。これは精神的な戦いだと分かってはいましたが、私にはもう戦い続ける気力が残っていませんでした。集会の場で、リーダーが私にこの神の御言葉の一節を見せてくれました、「数千年にわたり、中国人は奴隷生活を送ってきたため、考え方や観念、生活、言語、態度、行動が大いに制限され、少しも自由がなかった。数千年にわたる歴史により、霊と活気を備えていた人々は疲弊して霊のない屍のような状態になった。多くの人々がサタンの大形肉切り包丁の下に置かれ…外側からは、人間は高等『動物』のように見えるが、実際には汚れた悪魔と共生している。そうした人間を世話する者は居らず、サタンが常に待ち伏せする中で暮らし、罠にかかり、そこから逃げ出すことは出来ない。そうした者は、居心地のよい家で愛する者と共に幸福で満たされた生活を送っていると言うよりも、陰府に住み、悪魔と取引し、悪霊と付き合っていると言うべきであろう。」(『神の出現と働き』「働きと入ること(5)」〔『言葉』第1巻〕)私は、神の御言葉による御啓きと兄弟姉妹達との交流を通じて、私の親戚達が、表面的には親戚であるかの様に見えると同時に、彼らの言葉が私の肉の要求と一致しているものの、彼らの思考、観念、いのち、言葉遣い、振る舞い、そして行動はサタンの堕落によって拘束されているのだと気が付きました。私の親戚は全員が未信者なのです。彼らが持つ観点の全て、および彼らが口にすることは全てサタンから来ているものであり、皆が求めるものは全てが肉の利己的な欲求なのです。この中に真理と合致しているものは何一つありません。真理と識別を全く兼ね備えていない私がこれ以上彼らと関わりを持つのは私をどんどん堕落させるだけです。これから得られるものは何もないのです。彼らは単に私を破滅へと導くのです。当時、私は、兄弟姉妹達が頻繁に語っていた “未信者は全員が悪魔である” ということについてある程度は理解していましたが、完全には把握できていませんでした。その後、神は、私が家族の絆の真の本質を知ることができる環境をご用意してくださったのです。

私の家族は常にホストファミリーで、2005年のある日、ある悪人による報告のせいで、私の両親と兄弟姉妹数人が大きな赤い竜に捕まってしまったのです。私の実の姉は、逃げようとした時に溺水しそうになりながらも何とか生き延び、神の御加護のおかげで命は助かりました。私の両親と私の家族宅で滞在していた兄弟姉妹達は拘束され、罰金を科されてしまい、全員が拷問を受けて怪我を負ったのです。この知らせを聞いた私は、感情を抑えられず、自分の本分を尽くすほどの勇気を持てませんでした。私は、“こんな時は何が何でも実家に戻るべきだ。両親は私を育ててくれた。今は二人が大変なことになってるんだから、何もできないにしても様子を見に行って安心させてあげるくらいの事はするべきだ”と思ったのです。 それで、私は両親に会いに行くために電車に乗り(私と同じく神を信仰している)父方の叔母の家に直行しました。その時点で、両親の傷はまだ癒えていませんでした。私はとても気の毒に思い、目から急に涙が溢れ出したのです。私は自分の両親が屈辱をうけたような気分になりました。その時、両親が私にこの話をしてくれました:大きな赤い竜から逃げようとした時、私の実の姉が(12月のある日の日没後に)川に飛び込んだのです。水面は彼女の首の高さまであり、川の流れは強く、野草が彼女の足に絡まりつき、彼女の靴は泥沼にはまっていたのです。これを考えると、彼女が川の反対側までたどり着いたのは全く不可解なことだったのです。神が奇跡的に彼女をお守りくださったに違いありません。そうでなければ、考えたくもないような結果になっていたことでしょう(この数日前に40代の男性が深みにはまり、強い流れにのまれて命を落としていたのです)。後に、私の実の姉は年配の姉妹宅に隠れ、この姉妹が私の姉に着替えを出してくれたのです。その時、私の姉は泣きながら自分の濡れた服を乾かし、この姉妹はそれ以外にも私の姉の世話をしてくれたのです。数日後、私の姉はこの姉妹の家ももはや危険な状態にあると知り、私の父方の叔母宅へと移動してそこで隠れたのです。 彼女は日中に私達の教会のリーダーに私の家族の状況を知らせるために手紙を持って行きました。しかし、彼女が戻ると、私の母方の叔母の下の娘がが彼女にこう言ったのです、“ねえ、どうして戻って来たの?もう出て行ったと思ってたのに。とっくに布団をたたんでしまったわよ。” その時、私の姉は、母方の叔母はこれに巻き込まれたくないから彼女をそこに住ませたくないのだと思い、泣きながらその家を出て、他に行くあてがなかった彼女は拘束されるリスクをおいながらも家に帰ってきたのです。私の両親は、解放された後に私の姉が溺水しかけたことや母方の叔母が彼女を家から追い出したことを知ってとても怒りました。しかし、私の母方の叔母はいかにも自分が正しいと確信しているかのような口調でこう答えたのです、“その通りよ。私達は巻き込まれたくなかったのよ。あなた達が拘束されたのは自分達が招いたことじゃない。あなた達は完璧な人生を送っていたのに、自分達でめちゃくちゃにしたんじゃないの。あなた達のせいで人が1人殺されそうになったんだから!” 大きな赤い竜が私の家族を拘束し、いのちの危険にさらされている時に、安心を感じられることが最も大切だという時に、私の一番近い親戚が、過去私と一番距離が近かった人達がこのような非人道的なことを言ったり、残酷なことをするなんて思ってもみませんでした。 こんなことが出来る人達だったと知ってとても悲しくなりました。過去に沢山助けてあげた人達は誰も私達の様子を見に来たり、慰めてくれようともしませんでした。私達と一番良い関係にあった人達は、私の両親と道端で顔を合わせても話しをしないどころが、私の両親をよけて歩くようになったのです。以前は私達に会釈して挨拶してくれた人達の中には私達を無視して陰口をたたくようになってしまった人もいました。私達の兄弟姉妹達のみ、夜になると私達の所へ足を運んでくれて、一緒に交流してくれたのです。自分の家族がこのような悲惨な状態に陥ることになるとは思ってもみませんでした。私は、又しても、精錬の状態に追い込まれ、神を裏切ることを心の中で考え始めたのです。後に、私は神の御啓きを受け、私の兄弟姉妹達が話していた “人々の関係は共通の関心のみに基づいており、お互いを利用し合うことを目的に築かれた関係では、家族と友人もお互いをただ助け合うだけなのです” という事を実際に体験したのでした。私は更に、自分の両親が言っていた大きな赤い竜に拘束された経験から得たことについて振り返ってみました。例えばこれです:大きな赤い竜が私の父親を革製のむちで打った時、お父さんは大した痛みを感じることがなく、ベルトが粉々になった、と言う事。私の姉は彼女の体験した事は全く怖くなかったと言いました。12月のことであったにもかかわらず、水から出た時も寒くなかったと言うのです。神が彼女に特別に力と自信をお与えになっていたのです。大きな赤い竜によって拘束されたことで、彼らの信仰がより確固たるものとなり、強さも増したのです。私の父親は、以前は神の御言葉を信じずに、むしろ大きな赤い竜の崇拝者であったけれども、今回の出来事で大きな赤い竜は単なる悪党集団で、私達の家にあった金目の物なら何でも奪い、殺人者や放火魔よりも、神を信じ、律法に従う信者達を拘束したがる盗賊であることが分かったと言っていました。 私は、私達は皆、神のリーダーシップの下で生き、私達が体験することは全て神の主権と采配の一部であり、いかなる者でも他人を助ける力は持っておらず、家族間の愛情は私達を神から遠ざけるだけのものであり、人々がお互いを助け合えるものは肉にかなうものに限り、真理とは合致していないということを理解して恥ずかしい思いをしました。“両親の肉に苦しんで欲しくない” といった思考は、両親のいのちの為にならないだけでなく、両親が救われることの為にもならないのです。人が何を必要とするかは神のみが知り得ることであり、神は誰よりも人を愛しているのです。私はこの神の御言葉の一節を目にしました、「神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉と実相を通じて、私は神のいのちの力の異例さと偉大さを、神は常に私達の中に生きておられるということ、常に人類を御導きになり、御力をお示しになっているということ、そして人はそれぞれが神の立案される采配の中を生きているということを体験しました。神の御言葉を受けて、自分がどれだけ小さく、情緒的なつながりがどれだけささいな事であるかを知ったのです。私は、自分の家族が直面した苦難に対して何をすることができたでしょうか?彼らを守り、気を遣い、危機を乗り越えさせてくれたのは神だったのではないでしょうか?人から人への愛が、神から人への愛を超えることは可能なのでしょうか?これと同時に、私は神の御言葉の裁きを受けたのです、「あなたがたのうち、私のために全てを費やし、捧げることが本当に出来る者は、誰であろうか。あなたがたは皆、心が中途半端で、考えが堂々巡りし、自宅のこと、外部の世界のこと、食べ物や着る物の事を考えている。あなたがたは私の前で行動しているという事実に反し、あなたがたの心の中では、依然として自宅に居る自分の妻子や両親の事を考えているが、それは全てあなたがたの性質であろうか。あなたがたは、なぜそうした物事を私の手に委ねないのか。あなたがたは私を十分に信じていないのであろうか。それとも、あなたがたに対して、私が不適切な采配をすることを恐れているのか。あなたがたが常に自宅を恋しがるのはなぜか。そして他の誰かを恋しがるのは、なぜか。あなたがたの心の中で、私は何らかの位置づけがされているであろうか。それでも、あなたがたは私にあなたがたを統べ治めさせ、全てを占めさせるなどと言っているが、それは全くの偽りである。あなたがたのうち、心から教会のために在る者は、何人居るだろうか。あなたがたのうち、誰が無我になって現在の王国のことを考えているだろうか。あなたがたは、このことを熟慮する必要がある。」(『言葉は肉において現れる』より)私は、心の中で依然として自分の家族のことを気遣っていたことを知りました。神を信じていなかった私は、依然として自分の家族のことを神にお任せすることができなかったのです。私は、真理の中を生きておらず、神の家で自分の本分を尽くしてはいても、自分の家族のことを頻繁に心配して、神に自分の心にお入りいただくことを拒んでいたのだと知ったのです。私は何よりも神を尊敬し、自分の本分を忠実に尽くすということができませんでした。私はサタンにより騙され、苦しめられていたのです。私は、これらの “不幸な” 出来事が起こっていなかったら、決して物事を明確に見極めることができなかったでしょう。この神の御言葉による讃美歌はまるでこの事について歌っているかのように思えます、「人間の生活の状態について、人間は、まだ真の人生を見出しておらず、世界の不公平、荒廃、惨めな状態を見通しておらず、そのため災いが降りかかることがなければ、大抵の人は、まだ母なる自然を信奉し、『人生』の味わいに夢中になっていることだろう。これが世界の現実ではないのか。これが、わたしが人間に語っている救いの声ではないのか。なぜ、人間の誰一人、真にわたしを愛さないのか。なぜ、人間は刑罰と試練の中でだけわたしを愛し、わたしの守りを受けている時には、誰もわたしを愛さないのか。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)これらの状況が明らかにしてくれた事がなかったら、私は決して人々の間の関係を本当に理解することができずに、依然として家族の絆、愛情、友情にコントロールされたままとなり、脱出する術がないままこういった物事を追い求め続け、これらに騙されては苦しめられ、無知のまま幸福を感じていたことでしょう。“大惨事” に襲われていなければ、私は依然として邪悪で世俗的なトレンドを追い続け、自分の卑しさを知ることはなかったでしょう。神の刑罰と裁きを受けていなければ、私は決して真理を授かることがなく、人生の正しい道を歩むこともなかったでしょう。神の御救いは、私が二度と “人生” を堪能することがないようにしてくださったのです。私は、これを全て理解した時、神を心から信じて、神がお与えくださった愛に応えられるよう真理を求める決意をしたのです。

2007年に、私が自分の本分を尽くしに故郷に戻った時、共に信仰に参加した兄弟が社会の闇と悪を見抜けなかったがために、俗世間の誘惑に屈し、神を裏切り、神の家族から去って行ったことを知りました。彼の両親と兄弟姉妹達が繰り返し彼と交流を行い、留まるように説得しようとしたのですが、彼は頑固にも首を振り神の家族に戻ることを拒否して、俗世間に帰る選択をしてしまったのです。その後、間もなく、彼はこれら俗世間のトレンドの落とし穴にどんどん深入りしていったのです。彼はハンサムで高収入を得ていました。なので、彼は多くの女性と関係を持つようになったのです。最終的に、彼は殺害されてしまい、彼の臓器は売られてしまったという知らせを聞きました。彼の両親が彼の体を見ることは二度とありませんでした。この知らせを聞いて、私は可哀想に思いましたが、同時に私は、俗世間のトレンドを追い求めることの悲惨な結末も目にし、それ以上に、私の両親が私に俗世間に戻ることを止めさせようとしていたのも、神が御遣いになっていたことであったと知ったのです。これにより、私は神の御心遣いと御加護を体験することができ、この世界で大金を持つということは自身の破滅に繋がる下り坂であるということを理解できたのです。神はこう仰いました、「人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。」(『神の出現と働き』「働きと入ること(9)」〔『言葉』第1巻〕)私は、神の御言葉を通じて真理を知り、サタンが人類を堕落させる方法を知りました。私は、最終的にはその悪質な本質が人々を飲み込み、神の時にかなったお救いがなければ私もこの邪悪で世俗的なトレンドに飲み込まれ、その中に埋もれてしまう運命にあったと知ったのです。 これを理解した私は、神に心から感謝の念をお伝えし、神を讃えたました。私は神の慈しみ、恵み、御加護のおかげで今日までやってこれたのです。

私が神の家族として自分の本分を尽くすようになってから数年が経ち、そこでは神の愛を感じることができました。私がどこで自分の本分を尽くしていようとも、神はいつもそこにいて、私の面倒を見てくださるのです。私の兄弟姉妹達ともまるで本当の家族のように仲良くしています。お互いを利用し合ったり、利益の取引などはしていません。私の兄弟姉妹達はとても誠実で、私達の堕落がお互いに顔を出すことがあっても、お互いが心を開き、自分自身について分かっていることを話し合うようにしているので、私達の間に恨みや警戒心はないのです。私達はお互いを助け合い、愛しあっています。それぞれを同じ目で見なし、貧乏であるとか、金持ちだからと言って特別扱いすることはありません。私は健康に問題あるので、頻繁に病気になりますが、私の兄弟姉妹達はとても思いやりがあるので、手厚く看護してくれるのです。この中で、私とこの兄弟姉妹達の間に血の繋がりはなくても、彼らは実際の親戚よりも近い存在であることを実感したのです。そして、私達は、神の御導きを受けながら全員で真理を追い求め、自分達の本分を尽くそうと努めています。

ここ数年の間に経験したことによって、私は、神の御心を徐々に理解できるようになっただけでなく、神が私に対して行ったくださった働きはお救いの働きと愛情であり、神の仰る御言葉は真理であり、それ以上に私達のいのちを御救いになる御言葉であることを知りました。これらの真理が私にとっては神からの最高のお気遣いと御加護となったのです。これらの御言葉から逸脱したり、これらの御言葉が与えてくださる根拠を基に物事を見ていなければ、私は自分自信を破滅させてしまうでしょう。私はサタンにより深刻に堕落させられていたため、神の御言葉の意義を真っすぐに捉えることができなかったのです。それ故に、神は私に恵みを与えるため、私を完全にするため、そして私が神の御言葉を理解できるようにするために、私のニーズに合わせて多種多様な状況、人々、問題、出来事をご用意してくださったのです。私は、経験した苦難と試練の渦中でこれらの神が仰る御言葉は全てが真理であり、人類が必要とするものなのだと無意識のうちに認識したのです。それは人類がいのちを授かり、普通の人としてのいのちを生き抜けるようにしてくださるだけでなく、人生の正しい道をも指し示してくださるのです。それは、神が真理であり、正しい道であり、いのちであるからなのです。神の御言葉はこうあります、「わたしは、人間にはただ、わたしの言葉の内容とわたしの言葉の本来の意味とを受け入れる以外のことは何も求めない。わたしの言葉は単純であるが、その実体は複雑である。人間はあまりに小さく、あまりに鈍くなっているからだ。わたしが肉の体でわたしの奥義を直接明示し、わたしの心を明らかにしたとき、あなたがたは、まったく気づかない。あなたがたは、その音を聞いても、意味は理解しない。わたしは悲しみにうちひしがれる。わたしは肉の体をもっているが、肉の職分の働きはできない。」(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第九章」〔『言葉』第1巻〕)私は神の御言葉に神の感じておられる緊急性と悲しみを見ました。神の仰る御言葉は全てが真理であるものの、人類は霊的背丈が低すぎて、麻痺しずぎているために、神の御心を気にもかけておらず、神を憂鬱感な気分にさせてしまっているのです。私は神にご安心していただき、共に協力し合いたいと思っています。私が理解できていない真理は多くありますが、真理を追い求め、自分の本分を尽くしていれば、神は私が神の御言葉を理解できるように御啓きと御光を与えてくださるでしょう。 私の内には依然として清めが必要なドラクが多く存在しています。私は神の働きだけでなく、神の裁きと刑罰、そして付随する苦難と精錬をもっと沢山受ける必要があります。しかし、神は人に多くを求めている訳ではないのです。私が神の御言葉の実相を受け入れることのみを御求めになっておられるのです。

以前、私が神の信仰を始めたばかりの時、私は神の御言葉を愛していなければ、大切にしてもいませんでした。しかし、神が私にご用意してくださった状況と長年に渡って授かった精錬のおかげで、私は神の御言葉を富として見るようになったのです。しかし、これらの状況が起っていなければ、私は決して神の御言葉を真の意味で理解することはなかったでしょう。私は神を讃え、神に感謝いたします!神が私を御救いくださったのです。神からのいのちの御言葉が私の目を覚まし、サタンの支配下で騙されながら生きていた私を救済してくださったのです。私は、神の御言葉の中に、いのち等の真の意味を知ることができたのです。私は、神は常に人類に対して気を遣われ、常に人類を見守られ、保護されて来られたのだと知り、更に、人類は神の御言葉の供給、育み、注ぎ、支援を受けることから離れられない、そして神のみが真理であり、正しい道であり、いのちであると理解し、神を通してのみお救いを受けることができるのだと知ったのです。神の御言葉が今日まで私を御導きくださったのです。私は神の御言葉を自分のモットーとし、この先歩む道の目印とし、自分の行いの指針にしたいと思います。ああ、神様!あなたは私を御救いくださいました。私はあなたの御言葉で目覚め、堕落の道を歩むまずに済んだのです。私は残りの人生をこのままあなたに従いながら歩み、絶対にあなたのもとから離れたくはありません。私の決断がいかなる状況でいかなる困難や苦難を招こうとも、私はあなたの足跡をたどりながら、あなたと共に歩み、あなたに安心していただきたいと思っています。私は、これから常に、永遠に、最後まであなたに従って生きていきます。

四川省 シャンドン

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