誠実に話すという難関

2022年12月15日

2017年、全能神による終わりの日の働きを受け入れました。兄弟姉妹との交わりの時間はいつも幸せでした。必ず真理を学んで収穫を得たからです。最初はすべて文字のチャットで、言いたいことをタイピングしていました。だから何一つ隠さず、神の御言葉に関する自分の理解を熱心に伝えました。指導者によく理解していると言われ、兄弟姉妹も仰ぎ見てくれました。わたしの交わりを聞くのが嬉しく、英語も見事だと言うのです。そんな褒め言葉を聞いてわくわくし、自分はよくやっていると思いました。やがてある姉妹が、音声通話で集会しようと提案したのですが、わたしの問題が表面化しました。

午後の集会で御言葉を読んだあと、2人の姉妹がそれについての理解を話しましたが、わたしは不安で、2人の交わりが耳に入りませんでした。いつもは文字だったから、話して交わるのは慣れていません。話すことが弱点でした。文字を使えば言葉をすらすら選べるのに、ライブチャットだと準備する時間が足りません。神の御言葉を多少理解しているけど、わたしの交わりは混乱し、ぐちゃぐちゃになるはず。それでみんなに失望されるのを恐れ、そのことでずっと頭が一杯でした。交わろうかどうか迷いました。交わらなければ消極的だとみんなに思われ、指導者をがっかりさせる。でも交われば注目を浴び、うまくできなければ兄弟姉妹に見下される。そうなればわたしのイメージは台無し。そう考えて不安になるあまり、何も話せませんでした。本当に恥ずかしかった。と言うのも、わたしに福音を説いた姉妹たちが参加していたからです。2人ともがっかりしたはず。文字で交流していたときは、よく理解していることを示して積極的だったのに、今回は何も言えなかった。するとリーダーのフローラ・シーに言われました。「ウェニエラ姉妹、交わりをしてくれる? みんなしたわよ。交わるのを忘れてしまったの?」その口調から、がっかりしていると思い、惨めで恥ずかしくなりました。そこで自分の欠点を隠し、みんなが抱くイメージを守ろうと、今後は集会の前に、交わることを紙に書き、自分の番になったら読み上げようと決めました。そうすれば緊張せず、いい話し手だと思われ、立派な交わりでみんなを助けられる。いいアイデアだと思いました。

ある夜、中国から来た2人の姉妹が集会を開きましたが、便を図るため、みんな英語で話しました。地元の兄弟姉妹は、英語がうまくないので恥ずかしがっていましたが、それでも神の御言葉に関する理解を交わることができました。わたしは自分の番になると積極的に交わり、自信を持って話しました。事前に紙に書いたからです。わたしは最後でした。時間をかけて交わりを書き上げ、自然に話そうと全力を尽くしたので、読み上げていることは気づかれませんでした。その後、みんなわたしの交わりを褒め、役に立ったとか、素晴らしい英語だとか言ってくれました。わたしは心の中で密かに喜び、尊敬を勝ち取ったと思いました。その後は、交わりを褒められ、あなたには才能があると言われるたび、喜びを抑えられませんでした。やがて、グループリーダーに選ばれたわたしは、みんなからどう思われているかをますます気にするようになりました。しかししばらくすると、みんなから褒められるたび、罪悪感と一緒の不安を感じたのです。自分は間違ったことをしている、本当の自分をみんなに見せていない。気が咎めましたが、それでも同じことを続けました。集会でもみんなの交わりにじっくり耳を傾けず、真剣に聞くことはまったくなく、自分の認識をせっせと書き留めるばかり。結局、みんなの交わりから何かを学ぶことはありませんでした。集会が何の意味もなくなったのです。いいと感じたことを書き留めるのに集中し、虚栄心を満たして評判を守ろうとするだけ。そのため集会で収穫を得ることはなくなりました。変化してもっと自由に交わりたくても、その一歩を踏み出すのが怖かったのです。前もって書き留めていることがみんなにばれ、見下されてしまい、実は率直でなく、嘘をついて騙していると言われたらどうしよう、と。何度ももうやめようと思いました。自分にとっていいことはないし、本当に不安になったからですが、イメージを守ってみんなに尊敬されることのほうが、そんな不安を上回りました。体面と評判のほうが大事だったのです。でもそうするたび、とてつもない罪悪感を覚えました。こう自分を納得させようとしたほどです。わたしは自分の理解をよりはっきり、正確に伝えようとしているだけ。みんなもわたしの言うことをよりよく理解できる。大丈夫だと自分に言い聞かせても、不安と罪悪感にずっと苛まされました。もしも虚栄心を捨ててみんなに本当のことを言えば、それを逃れられるはず。でも英語があまり上手くないのを知られたら、みんなの笑いもの。合わせる顔がなくなってしまう。しばらく葛藤しましたが、やはり心を開くことはありませんでした。仕方なく、語学力を上げようと思い、自宅で交わりの練習をし、それを録音して、どう聞こえるか自分で確かめました。そうすれば語学力が徐々に伸び、前もって交わりを書かなくても、直接伝えられると思ったのです。みんなに本当のことを言う必要もないし、立派に交わり英語を流暢に話せば、変わらず尊敬してもらえる。でもどれだけ練習しても、みんなで交わるたびに不安で、いつものように交わりを読み上げるだけでした。そんな自分に失望し、消極的になってしまい、本分にも影響が出て、結局グループリーダーから外されました。

その後集会で、ある姉妹が御言葉のこの一節を伝えてくれました。「他人に信頼されることを望むのであれば、まずは正直でなければなりません。正直な人となるには、まず自分の心をさらけ出し、誰もがそれを見て、あなたが考えている全てのことを理解し、あなたの本当の顔を見られるようにしなければなりません。自分を偽ろうとしたり、よく見せようと装ったりしてはいけません。そのとき初めて、他の人たちはあなたを信頼し、あなたのことを正直だと思います。これが正直な人になるための最も基本的な実践であり、前提条件でもあるのです。あなたはいつも見せかけていて、聖さや高潔さ、偉大さに加え、高尚な道徳的特質を常に装っています。自分の堕落や欠点を人に見せません。あなたは高潔で、偉大で、自己犠牲をいとわず、公平で、無私だと思われようと、人に偽りの姿を見せます。それは不正直と偽りではないですか。しばらくすれば、人はあなたを見抜けるのではないですか。ゆえに、自分を偽装したり、装ったりしてはなりません。代わりに自分と自分の心を人にさらけ出し、見えるようにしなさい。人に見えるように心をさらけ出し、それが肯定的なものでも否定的なものでも、自分の考えやもくろみをすべてさらけ出すことができれば、あなたは正直ではありませんか。人に見えるように自分をさらけ出すことができれば、神もあなたを見て『あなたは人に見えるように自分をさらけ出したので、わたしの前でもたしかに正直だ』と言います。あなたが他の人に見えないところで神にだけ自分をさらけ出し、人前では立派で高潔、あるいは公平で無私であるかのようなふりをいつもしているなら、神はどう考え何と言いますか。神はこう言います。『あなたは本当に不正直だ。まったく偽善的で狭量で、正直な人ではない』。そうしてあなたを断罪します。正直な人でありたいならば、神の前にいるときであろうと、人の前にいるときであろうと、自分の内なる状態や、自分の心の言葉について、純粋に隠し事なく説明できなければなりません。これは簡単に成し遂げられることですか。これには一定期間の訓練と、たびたび神に祈り、神にすがることが必要です。何事についても、単純かつ率直に心から語る練習をしなければなりません。このように練習すれば、進歩できます(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。神は誠実な人を好み、ずるく不誠実な人を嫌われます。いいことでも悪いことでも、心を開いて交わり、自分を偽ったり、装ったりしてはいけません。それが誠実さ。これを読んで罪悪感を覚えました。誠実な人でないとわかったから。みんなに心を開き、虚栄心を捨てたいと心底思いましたが、数回試しても、そうすることができません。面子を手放せず、虚栄心の虜になっていたのです。自分の堕落のひどさがわかり、罪悪感と懊悩を同時に覚えました。いつも自分を装い、偽りの好印象を与えようとしたのはなぜ? 真理を実践できないのはなぜ? 神への信仰を無駄にしているのはなぜ? 集会と本分がすべて無駄に終わるの? 自分の虚栄心という束縛から逃れられない気がして、グループから離れ、時間をかけて状態を正したいと思いました。その後集会に戻り、ああしたことをやめればいい。そこで、一人になって反省しようと、グループを抜け、アカウントを停止しました。しばらくは困惑と苛立ちを感じ、同時に孤独でした。自分に失望していたのです。信者になって2年経つのに、誠実になって虚栄心を捨てられない。みんなからどう思われるかを気にしすぎ、真相を知ったみんなの反応を想像するだけで、恥ずかしさを感じてしまう。

そのころ、わたしは神の御言葉を読むばかりでしたが、ある日この一節を目にしました。「真理を追い求めるには真理の実践に集中しなければなりませんが、真理の実践はどこから始めるべきですか。これに決まりはありません。どれでもいいので、あなたが理解している真理の側面を実践すべきです。本分を始めたばかりであれば、本分を尽くすことから始めるべきです。本分を尽くすことには、実践すべき真理の側面が多数あるので、どれでもいいので、理解している真理の側面を実践すべきです。たとえば、誠実な人になって誠実に語り、心を開くことから始めることができます。兄弟姉妹に話すのが恥ずかしいことがあれば、ひざまずいて神に祈り、それを話すべきです。神に何を言うべきですか。心の内を神に話しなさい。空虚な褒め言葉を口にしたり、神を欺こうとしたりしてはいけません。まずは誠実になることから始めなさい。弱くなったときは、そう伝えなさい。悪に染まったときは正直に言いなさい。正直でなくなったときはそう話しなさい。邪悪で陰険な思いがあるとき、地位を競っているとき、神にそれを話し、神に懲らしめてもらいなさい。神に環境を整えてもらい、あらゆる困難を切り抜けてすべての問題を解決する手助けをしてもらいなさい。神に心を開きなさい。それを閉ざしたままではいけません。たとえ神を締め出しても、神はあなたを見通せます。しかし神に心を開けば、あなたは真理を得られます。では、どの道を選ぶべきですか。神に心を開き、誠実に神と話すべきです。虚偽を言ったり、自分を偽ったりしては絶対にいけません。誠実な人であることから始めるべきです。何年ものあいだ、わたしたちは誠実であることに関する真理について交わってきましたが、今日に至ってもなお、無関心なままの人、言動が自分の意図や願望や目的にしか沿っていない人、悔い改めるということが頭に浮かんだことのない人が大勢います。これは誠実な人の態度ではありません。神はなぜ人に対し、誠実になるよう求めるのですか。人のことを簡単に理解できるようにするためですか。絶対に違います。神が人に対して誠実になるよう求めるのは、神は誠実な人を好み、誠実な人を祝福するからです。誠実な人であることは、良心と理知を持った人であることを意味します。信頼に足る人、神が好む人、真理を実践して神を愛せる人であることを意味するのです。誠実な人であることは、正常な人間性を有し、真の人間らしさを生きていることの最も基本的な表われです。誠実であったことがない、あるいは誠実になろうとは考えたことがない人は、真理を理解することができず、ましてや真理を得るなど不可能です。わたしの言うことが信じられないのであれば、自分の目で確かめるか、自分で経験してみなさい。誠実な人になることでのみ、神に心を開いて真理を受け入れることができ、真理があなたのいのちとなり、あなたは真理を理解して得ることができます。あなたの心がいつも閉ざされていて、あなた自身も心を開けようとせず、誰にも何も言わず、そのため誰もあなたを理解できないほどであれば、あなたの壁はあまりに高く、あなたは最も不実な人です。神を信じながら神に心を開くことができないなら、神に嘘をついたり、大げさなことを言って神を騙したりすることができるのに、神に誠実に話すことができず、それなのに回りくどい話し方をして自分の意図を隠すことができるなら、あなたは自分を傷つけるだけで、神はあなたを無視し、あなたの中で働きません。あなたはどのような真理であれ、まったく理解せず、何の真理も得られません(『終わりの日のキリスト講話集』「いのちの成長を表す六つの指標」〔『言葉』第3巻〕)。これでわかりました。真理の理解が何より重要で、体面や虚栄心よりも大事。真理を得るには、まず誠実になること。一は一、二は二であって、偽りや欺瞞はもういらない。わたしはずっと仮面を被ってみんなを騙していた。理解力と英語力を褒められたくて、交わりの内容を前もって書き留めると、みんな褒めてくれた。罪悪感と不安に苛まれても、兄弟姉妹に打ち明ける勇気がなかった。欠点を見られて軽蔑され、嘘つきだと言われるのが嫌だった。本当のことを言うよりはと、グループを抜けさえした。わたしは本当に狡猾でした。こんなに落ち込んでいるのは、サタンがわたしに害をなし、いのちの入りを妨げているのだと気づきました。このままだと駄目になってしまう。誠実さを実践できるよう、勇気を出して心の内をみんなに打ち明けないと。真相を話すのがどんなに気まずくても、間違ったやり方を続けるわけにはいかない。神は誠実な人を好み、ずる賢い人を憎まれる。仮面を被り続け、みんなに間違った印象を与えて率直にならなければ、闇の中でずっと生き、聖霊の働きを得られず、真理も決して得られない。神に心を大きく開き、わたしの狡猾さの解決を助けていただかないと。わたしは祈り、真理を実践して誠実な人になれるようお導きを、と願いました。

その後、ようやく指導者のコニー姉妹に打ち明け、グループを抜けてアカウントを停止した理由を話しました。それを聞いたコニー姉妹はこう言いました。「わたしはそんなことであなたを見下さないし、その正直さは立派です」。それを聞いて、心からほっとしました。誠実な人になる素晴らしさを実感したのです。誠実になることで不安はなくなり、間違った見方を正せました。そしてこうアドバイスされました。神の御言葉に関する認識を伝えるときは、雄弁に語ったり、立派な理屈を述べたりする必要はない。心から語り、本当のことを話せばそれでいい。神はそれを喜ばれる、と。わたしは彼女の意見を受け止め、実践しようと決意しました。

その後、別の姉妹が御言葉の一節を送ってくれました。「多くの人には、真理の探求の代わりにそれぞれのつまらない課題があります。このような人にとっては、自分の利益や体面、他人の目に映る自分の立場や地位がきわめて重要なのです。こうしたことだけが大切で、必死にしがみつきます。また、神にどう見られるかや、どう扱われるかということは二の次です。今のところ、そのことは無視します。今のところ、自分がグループのボスかどうか、他人が自分を仰ぎ見るかどうか、自分の言葉に重みがあるかどうかしか考えません。彼らがまず気にするのは、その立場を占めることです。グループに所属しているとき、ほぼすべての人がこのような立場、このような機会を求めます。優れた才能がある人は、当然ながら最高の地位に就きたいと思います。能力が普通であっても、グループの中でより高い地位に就きたいと思います。またグループでの地位が低く、素質と能力が平均的であっても、他人に仰ぎ見られたいと思い、見下されることを望みません。こうした人にとっては面子と尊厳が決定的で、これらにどうしても固執します。高潔さなど一切あり得ませんし、神の承認も同意も手に入れることはまずありませんが、グループにおいては、面子や地位、他人の称賛を巧みに手に入れる機会を見逃すことはありません。これはサタンの性質です。しかし、人はこのことに気づいていません。彼らの信念では、最後の最後までこのくだらない面子にしがみつかなければならないのです。こうした虚しく表面的な物事を完全に放棄し、脇にのけて初めて、真の人間になるということに彼らは気づいていません。捨て去るべきこうした物事を自分のいのちとして守るなら、その人は運命を失います。何が危機に瀕しているのかわからないのです。そのため、行動するときはいつも何かを差し控え、いつも自分の面子と地位を守ろうとし、それらを最優先にして、自分の結末のため、偽りの自己弁護のためにしか話しません。彼らがすることはどれも自分のためです。光り輝くものなら何でも飛びつき、自分はその一部だと全員に知らしめます。実際には何の関係もないのですが、舞台裏に取り残されることが絶対にいやで、他の人から見下されることを常に恐れ、自分が何でもなく、何もできず、何の技能もないと言われることに絶えず恐怖を感じています。これはどれも、彼らのサタン的性質に指図されているのではありませんか。面子や地位といったものを捨て去ることができるとき、あなたはずっと落ち着き、ますます自由を感じます。誠実になる道へと足を踏み入れたのです。しかし多くの人にとって、これを成し遂げるのは容易なことではありません。例えばカメラに映るとき、人は先を争って前に出ます。カメラに顔をとらえられるのが好きで、自分が大きく映れば映るほど良いのです。十分に映らないかもと心配し、映る機会のためならどんな代価でも支払います。これもすべて、彼らのサタン的性質が指図しているのではありませんか。これは彼らのサタン的性質です。映ったからといって、それが何ですか。人によく思われて、それが何になりますか。人があなたを偶像化して、それが何だというのですか。このどれかが、あなたに真理の現実があることの証明になりますか。このどれにも価値は一切ありません。このようなことを克服できるとき、つまりそれらに無関心になり、もはや重要とは感じず、面子や虚栄心、地位、そして人の称賛があなたの思いや振る舞いを、ましてや本分の尽くし方を支配しなくなったとき、あなたの本分の遂行はますます効果的に、純粋になります(『終わりの日のキリスト講話集』「善行は性質の変化を意味しない」〔『言葉』第3巻〕)。神はこの一節で、人がいのちよりも体面と地位を大事にしていること、何かあったとき、人はまず地位や虚栄心や立場を考え、神の旨は考えないことを暴いています。わたしたちが仮面を被り、評判を何より大事にし、人のあいだの地位を求めることを、神は望まれていない。そんなことでは神の承認を得られず、いのちの性質は変わらず、救われることもありません。名誉と地位は、わたしたちを縛るサタンの手段。そうしたもの追い求めると、ますます虚栄心が強く、狡猾になる。そうして神の導きを失い、最後は神の救いを失います。神は狡猾な人を嫌い、ずる賢い手段で神の承認や人の尊敬を勝ち取ろうとするのを嫌がります。評判と地位を捨て去り、真理を求めて誠実な人になることを望まれているのです。神の前でも人の前でも、騙してはいけない。私は何度も体面と虚栄心を気にかけ、心を開いて葛藤を伝えることができませんでした。サタンの性質にしっかり掴まれ、真理を実践できずにいたのです。体面と地位への願望が強すぎでした。

その後、姉妹がさらに御言葉を送ってくれましたが、特に役立つ一節がありました。「今それに目を向けると、ささやかな好意を用いて人を買収し、籠絡したり、自分を誇示したり、他者を幻惑したりすることは、そうした手段を用いて得られる利益や満足感が一見どれほど大きくても、辿るべき正しい道だと言えますか。それは真理を追い求める道ですか。人に救いをもたらせる道ですか。明らかに違います。そうした手段や策略は、どれほど素晴らしく思われたとしても、神を騙せるはずはなく、最終的にはすべて神によって断罪され、嫌悪されます。そうした振る舞いの裏には個人的な野心や、神と対立したがる態度と実質があるからです。神は心の奥底で、そうした人を本分を尽くしている者とは決して見なさず、それどころか悪人だと定義します。悪人を取り扱う際の神の結論は何ですか。『不法を働く者どもよ、行ってしまえ』です。『行ってしまえ』と言うとき、神はそうした人がどこへ行くことを望んでいますか。神は彼らをサタンに引き渡し、多数のサタンが住まう場所へと送っています。彼らの最終的な結末はどうなりますか。悪霊に死ぬまで苛まれます。つまり、サタンに飲み込まれるのです。神はもはやこのような人を望みません。望まないとはつまり、彼らを救わないことを意味します。神の羊の一人でなく、まして神に付き従う者たちの一人ではないので、救われる人の中に含まれません。このような人はそうした形で定義されます(『反キリストを暴く』「第1条 彼らは人を取り込もうとする」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉から、人の心の中の地位を奪う、偽りの偽善者がいるとわかりました。人の尊敬を勝ち取り、野心や欲望が満たされているように見えますが、最後に何を得るでしょう? しばらく人を騙せても、神は騙せません。神は人の心と思いを見抜くので、そうした人は結局神の救いの機会を失い、真理も神の承認も得られません。神の御言葉は明快です。真理を追い求めず、野心を抱き、人の心の中の地位を奪う人を憎み、悪人と見なし、その人が尽くす本分を認めません。わたしは怖くなりました。神に捨てられ、サタンに引き渡され、救いを失うのを恐れたのです。自分が間違った道を歩んでいたことに気づきました。わたしの考えや行動はどれも人に褒められ、尊敬されるためなので、神の旨も、そんな振る舞いの結果も考慮しませんでした。人の心を獲得しても、神に逆らう道を歩んでいるので、真理は得られません。その道を歩み続ければ、最後は破滅するだけでしょう。そう考え、神はわたしの行ないを憎み、わたしがそのように追求するのを望まれていないとわかり、落ち着かなくなりました。変化してその状態から逃れ、真の自分になりたいと心から思いました。人を騙すなんてもう嫌です。

その後、交わりを伝えてみんなに心を開き、誠実になり、喜びと安心を得るよう、コニー姉妹に促されました。でも自分の堕落や欠点を打ち明けることを考え、わたしは躊躇しました。すると、御言葉の別の一節が目に入ったのです。「問題が生じたら、それが何であれ、真理を求めて解決しなければならず、自分自身を偽装したり、他人に偽りの顔を見せたりしては絶対になりません。自分の短所、欠点、過ち、堕落した性質をすべて完全に明るみに出し、それらについて交わりなさい。内側に留めてはなりません。どのように自己を開示するかを学ぶことは、いのちに入る第一歩であり、乗り越えるのが最も難しい最初のハードルです。ひとたびそれを乗り越えると、真理に入るのは簡単です。この一歩を踏み出すことは何を意味しますか。それは、あなたが心を開き、よいものであれ悪いものであれ、自分が持つものをすべて見せているということ、他の人たちと神に見えるように自分をさらけ出しているということ、神から何も隠さず、何一つ秘匿せず、何も偽装せず、偽りや策略がないということ、他の人たちにも同様に心を開いて誠実であることを意味します。このように、あなたは光の中で生きており、神だけがあなたを細かく調べるのではなく、他の人たちにもあなたが原則に沿って、いくらかの透明度をもって行動することがわかるようになります。自分の評判、イメージ、地位を守るために何らかの方法を用いる必要も、間違いを隠したり偽装したりする必要もありません。そうした無駄な努力をする必要はないのです。このようなことを捨て去れるなら、とてもゆったりとした気持ちになり、束縛や苦痛がない状態で、完全に光の中で生きることになります。交わりの際に心を開くようになることは、いのちに入る第一歩です。次に、自分の思考や行動を分析し、どれが間違いで、どれが神に好まれないのかをわかるようになり、それらをすぐに逆転させ、改める必要があります。改める目的は何でしょうか。それは真理を受け入れて理解するとともに、あなたの内にあるサタンに属するものを拒絶し、それを真理と置き換えることです。以前のあなたは、何をするにも偽りと不実さに満ちた自分自身の狡猾な性質に従い、嘘をつかなければ何も成し遂げられないと思っていました。真理を理解し、サタンのやり方を嫌悪するようになった今、そのように行動することはもはやなく、誠実で、純粋で、従順な心性で行動します。何も隠さず、仮面を被ったり、装ったり、見せかけたりせず、兄弟姉妹に自分をさらけ出し、心の奥底にある思いや考えを隠さず、逆に自分の正直な態度を他の人たちに見せるなら、真理が徐々にあなたの中で根ざし、花開いて実をつけ、少しずつ成果を生み出します。心がますます正直になってどんどん神のほうを向き、本分を尽くす際に神の家の利益を守れるようになり、神の家の利益を守れないときに良心が痛むようであれば、それはあなたの中で真理が作用し、あなたのいのちになった証拠です(『終わりの日のキリスト講話集』「真に神に服従する人だけが神を畏れる心を持つ」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は本当に人を変えられるのだとわかりました。自分の堕落の真相を打ち明け、真理を求められるようになれば、間違った観点や堕落した性質が徐々に変わります。神はわたしの間違った考えを暴き、名誉と地位を追い求める過ちを明かし、御言葉によってわたしを導き、実践の道を見つけさせてくださいました。みんなに心を開く第一歩を踏み出し、名誉と体面を考えるのをやめ、ずるさ、欺瞞、不実さを捨てなければなりません。神の御言葉を実践し、内から道を導いてもらわなければ。

日曜日の朝、わたしはいつものように集会に参加し、正直になって自分の認識をみんなに自由に伝えなければと自分に言い聞かせ、こう祈りました。「神よ、今度こそ真理を実践し、サタンの束縛から逃れ、自分の偽善と欺瞞を明かします。みんなに見下されても気にしません。誠実な人になってあなたに満足いただきたいのです。心を開いて誠実になれるよう、どうかお助けを」。祈ると心が落ち着きました。集会になり、わたしは御言葉に思いを致し、経験と認識に関するみんなの交わりにじっくり耳を傾けました。その時間を使って自分の交わりを書き出すことも、どんな交わりが好まれるかを考えることもしませんでした。そうするうちに、みんなの交わりから新たな啓きを得られました。わたしの番になっても、自分の交わりが立派で雄弁かは考えず、緊張こそしていたものの、それで交わりが途切れることはありませんでした。やがて、本当に感動した神の御言葉の一節について話しました。「誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである。……共有するのを躊躇するような秘密を数多く持っているなら、自分の秘密、つまり自分自身の困難を光の道を求めるために他者の前に明かすのがどうしても嫌だというなら、あなたは簡単には救いを得られない人であり、暗闇から簡単には脱せない人であるとわたしは言う(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。わたしはこの一節と自分の経験を結びつけ、最後に自分を露わにして、本当の一面をみんなに明かしました。みんなにどう言われるかはまったく気にせず、こう言いました。「今までずっと、私は仮面を被り、英語がうまい振りをしていました。本当は、交わりの内容を事前にすべて書き出し、自然に聞こえてみんなによく思われるよう、録音して練習するほどでした。ただみんなに褒められ、評価されたかったからです。わたしはみんなを騙していました……」心を開いたあと、みんなに軽蔑されると思いましたが、こう言われました。交わりがたどたどしいのを心配することはない、みんな同じだ、と。私たちが正直になり、飾ったり非現実的になったりしないことを神は望まれています。心から交わらず、教義を文字通り語るだけなら、何の意味があるでしょう? わたしは感動しました。みんなわたしを軽蔑せず、あなたの動機がわかった、役に立つ経験だった、と言ってくれる人もいました。これは嬉しい驚きでした。自分の堕落をみんなに打ち明けると、喉に刺さった小骨が取れた気がしました。やっと自由になれたのです。サタンは虚栄心と評判を使い、真理の実践を妨げますが、御言葉を通じて自分を知り、誠実な人になって心を開くことを実践すると、自分が神に一歩近づき、兄弟姉妹との壁が消えたように感じました。虚栄心を捨てて真実を言うことがこれまでずっとできなかったのは、自分の体面にこだわり、神の旨を考慮していなかったから。長きにわたり、虚栄心を満たしてみんなに褒められようと、自分を偽装することを選んでいたのです。しかし神はそれを望みません。

この経験で、真理を追い求めることの大事さがわかりました。サタン的世質の足かせから逃れる唯一の方法は、誠実な人になって真理を実践すること。幸福と平安を得る唯一の方法は、真理を選ぶことです。かつてのわたしはずる賢い偽善者でしたが、今は真理を実践し、誠実になろうと決意しています。それが何より大事なのです。さらに真理を実践できるよう、神に引き続き導いていただくことを願います。

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