長年神様を信じてきたのに、私はなぜ変わっていないのか

2019年10月6日

兄弟姉妹が私の落ち度を指摘した時、あるいは私の意見に耳を貸さなかった時、私は納得できないと感じたり、彼らと言い争ったりしました。後になって自分の振る舞いを後悔しましたが、このようなことに直面すると、堕落した性格を露呈せずにはいられませんでした。そのせいで深く悩み、他人の言葉で恥ずかしい思いをして怒るのはなぜだろうとか、八年も神様に従っているのに、なぜまったく変わっていないのだろうとか考えました。私は心配になって何度も神様を求め、自分の堕落した性質がなぜ変わっていないかの根源を認識できるよう、自分をお啓きくださいとお願いしました。

ある日、デボーションのさなかに説教の一節を目にしました。「誰もが自分の傲慢さやうぬぼれ、ねじ曲がった心、ずる賢さを毛嫌いしています。ほとんどの人はある程度まで変わります。ある種の人たち、つまり傲慢でうぬぼれており、理知に欠ける人、あるいは本性がねじ曲がっていてずる賢い人はほとんど変わりません。なので、彼らの様子や行動にもほとんど変化がありません。傲慢さ、うぬぼれ、ねじ曲がった心、ずる賢さが明らかなままなのです。これは経験に関係があります。最初から最後まで、彼らは性質の変化を追い求めず、他人がどうやっていのちに入るかを観察するだけです。その結果、彼らは後に取り残されます。他人の傲慢さとうぬぼれしか見ておらず、他人だけが神に裁かれ罰せられるべきだと信じているからです。このような人は、自分自身は神に抵抗したことがないと考えており、神の裁きと刑罰は他人事にすぎません。神の御言葉をこのように理解するのはおかしなことで、変化しないのも不思議ではありません(兄弟の説教より)。この時、私は目覚めました。何年も神様に従いながら変わらなかったのは、神様を信じこそすれ、自分の性質を変えようと求めなかったことが理由だと分かったのです。つまり、自分がいのちに入ることではなく、他の人がどうやっていのちに入るのかに注目していただけでした。この時、自分が慌ただしく歩き回って「働きを行う」光景を思い出さずにはいられませんでした。神様の御言葉を飲み食いしても、その御言葉を使って自分の状況を考慮することは一度もありませんでした。いつも他人に神様の御言葉を教え、御言葉と照らし合わせて他人を判断していたのです。集会の際に真理を伝えても、それは単に他人の問題や困難を解決するためであり、自分自身が入るべきものを探し求めることは一度もありませんでした。人間の堕落した本質を暴く神様の御言葉を伝えるときも、他の兄弟姉妹を例に挙げ、他人を使って警告しながら、私は神様の御言葉を使って自分自身の状況を理解し、自分の入りを見出すことをほとんどしませんでした……そのため何年経っても、私自身のいのちの入りはほぼ空白のままだったのです。それでもなお、自分は思いやりのある人間で、兄弟姉妹のいのちの重荷を背負っていると思っていました。特に昨年から現在にかけて、若い姉妹とパートナーを組んで一緒に本分を尽くすように教会が采配したときも、私は自分の「重荷」を背負い続け、彼女のいのちの入りに目を向けていました。この姉妹が傲慢で意固地であることが明らかになった時、私は神様の御言葉を使って急いで彼女と意思疎通を図りましたが、心の中では「あなたは単に傲慢すぎるのよ」と思っていました。この姉妹が自分の将来と運命への不安に縛られ、そのせいで消極性から自由になれないでいたとき、私はそれにふさわしい神様の御言葉を見つけて一緒に飲み食いし、神様は私たちを救うことを望まれていると伝えましたが、心の中では「ほとんど時間が残っていないのに、それでもあなたはそんな熱心に祝福を求めているの」と考え、彼女を軽蔑していました。この姉妹が心を開き、どんな風にしばしば人を疑うのかを私に打ち明けた時、私は正直な人についての真理を話しましたが、心の中では「あなたは厄介者よ」と考え、彼女に苛立っていました。この姉妹が苦境にあってもその理由を言えなかった時、自分自身を吟味して本性を分析するよう言いましたが、私自身のことになると、自分が露わにしたことから、神様の御言葉を使って自分を理解することにも、自分を分析することにも注意を払いませんでした……私は自分を神様の御言葉の外側に置きながら、堕落しすぎているのは他人だけで、神様に裁かれ罰せられるべきなのも他人だけだと考えていたのではないでしょうか。他人のいのちの入りにだけ目を向けて、自分を置いてきぼりにしていたのではないでしょうか。その瞬間やっと、自分が一文無しの乞食と同じくらい貧しく哀れな存在だと気づき、心が後悔の念でいっぱいになりました。

神様の導きのもと、神様の御言葉がこう述べているのを目にしました。「人々はこのようなことを言う。将来への展望は脇において、より現実的になれ。人々が祝福されることを考えないようになることをあなたは求めるが、あなた自身についてはどうなのか。あなたは祝福されるという人々の考えを否定しつつ自分は祝福を求めるのか。あなたは他人が祝福を受けることを許さず、しかし自分では祝福を受けることを密かに考えている。それであなたはどうなるのか。詐欺師である。あなたがこのように行動するとき、あなたの良心は非難されないのか。心の中であなたは恩義を感じないのか。あなたは詐欺師ではないのか。あなたは他人の心の言葉を詮索するが、あなた自身の心にある言葉については何も言わない。あなたは何と価値のないゴミであることか。」(『言葉は肉において現れる』の「第四十二章」より)神様の御言葉が私の心を突き刺し、私を深く恥じ入らせました。私は自分がしてきたことを残らず思い浮かべました。神様が暴かれた通り、私は詐欺師ではなかったでしょうか。うわべは本分を尽くしているように見えながら、実際には自分の熱意を利用して神様の信頼を騙し取っていたのです。表面上は自分の兄弟姉妹を助けていましたが、実際には彼らの心の中で地位を占めようと、言葉や教義を駆使して彼らの尊敬と称賛を騙し取っていました。地位を求めるな、傲慢になるなと他の人に言いながら、私はよく他人を見下し、兄弟姉妹の落ち度を正しく認識することができず、他人に服従することさえ拒否していました。自分の未来や運命に支配されてはいけないと言って、他人に祝福を受ける意図を捨てさせておきながら、自分はしばしば将来の計画を立て、それについて深く案じてさえいました。他人のずる賢さや懐疑心に苛立つ一方、しばしば他人の様子を気にして、自分のことをどう思っているのだろうと心配していました。他人には自分を理解し、内なる思考を把握して自身の本性を分析しなさいと言っておきながら、私は自分の悪意を隠していたので、言動が神様に監督されることはありませんでした……私は長年にわたって大きなことをよく語り、教義の文字どおりの意味を述べ立てることに満足していましたが、現実に入って神様の御言葉を生きることに集中していなかったのです。結果としていまだ自分を理解せず、いのちの性質もさほど変わりませんでした。むしろますます傲慢になってしまったのです。それはまさに、「理解する教義の数が増えれば増えるほど、性格が傲慢になる(『キリストの言葉の記録』の「神のために人間に課された要件が多すぎる」より)と神様がおっしゃる通りです。私は自分がものにしている教義を自分の資産とみなしていましたが、自分を理解すること、入りを求めること、真理を得ることには注意を払いませんでした。このような具合で、一体どうすればいのちの性質を変えられるでしょうか。神様の実践的な働きと御言葉は私たちに必要な真理を授け、神様は私たちがその真理を理解すること、私たちが得た光と啓きを、本分を尽くすことを通じて日常の経験と入りに取り入れること、そして兄弟姉妹にそれを伝えることを望んでおられます。しかし、私は教義で自分を武装することに専念して、教義の話をすることを自分の本分だとみなしていました。そうして聖霊の啓きを無私無欲で他人にもたらし、真理を実践させていましたが、私自身は入っていませんでした。その結果、私は自分を置き去りにして兄弟姉妹も傷つけました。私は本当に現代のパウロです。

神様、あなたの啓きと照らしに感謝いたします。おかげで、長年神様を信じてきたのに自分の性質を変えられなかったのは、働きを行なうことだけに集中し、自分のいのちの入りに気を配らず、むしろ教義で自分を武装し、自分を見せつけていたからだと気づくことができました。自分があまりに傲慢で無知なこと、自分が真理を愛していないことを憎みます。そのため真理に入って変化を求める機会を数多く失ってしまったのです。いまはあなたの御言葉を通じて真理をより理解し、自分をさらに深く認識することを求め、熱心かつ現実的に神様の御言葉を実践して真理に入り、実際的に生きてあなたに報いてまいりたいと思います。

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