主イエスが十字架で残した「すべてが終った」という言葉の本当の意味

2021年10月8日

クリスチャンの間では、主イエスが十字架で発した「すべてが終った」という言葉は、人類を救う神の働きのことを指していると理解されています。人々は確信をもって、再来した主は救いの働きをこれ以上行わず、信心者が主と対面できるように天高くまで連れていき、天国に入れるようにすることで、働きを完了すると考えています。主を信じる者はこれを固く信じています。ですから、多くの信心者が常に天を見つめ、主によって天国に召されるのを待っているのです。しかし、大災難がやってきた今でも、多くの人がまだ主の再来を見ておらず、信仰心が薄れ、失望が生まれ、疑念を持つ者もいます。「主の約束は本当なのか。主は再来されるのか」と。実際は、主イエスはすでに人の子として密かに再来し、多くの真理を表して、神の家から始まる裁きの働きを行っていますが、多くの人が神の声を聞くために注意を払うこともなく、教会に向けた聖霊の御言葉を聞こうともせず、雲に乗って現れた主によって天国に導かれると思い込んでいるため、主をお迎えする機会を逃し、生涯悔やむことになるでしょう。このことは、十字架で主イエスが発した言葉の解釈に密接な関係があるようです。「すべてが終った

まずこの言葉から考えましょう。これほど多くの信心者が主イエスの「すべてが終った」という言葉を、神の裁きの働きの完了と解釈しているのはなぜでしょう。聖書に根拠がありますか? 聖霊がそうだと言ったのですか? 救いの働きはこれ以上行わないと主が仰ったのですか? この「終った」という言葉の意味は神の裁きの働きの完了のことだと聖霊が言いましたか? 答えはすべて、ノーです。それなのになぜこの主イエスの言葉が、神の救いの働きを指していると思われているのでしょう。おかしな話ではありませんか? 神の御言葉を理解するのは簡単ではありません、ペテロの第二の手紙の1章20節に、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである」とあるように、聖書を勝手に解釈することは深刻な事態を招きます。パリサイ人のことを考えてみましょう。メシアについての預言を勝手に解釈し、その結果、メシアは来ましたが、主イエスがその解釈に当てはまっていないとして、その働きを断罪し、十字架にかけてしまったのです。そして深刻な事態に陥りました。これが直接の原因となって主イエスに呪われ―。災いを与えられたのです。

では主イエスの「すべてが終った」という言葉は、何を意味していたのでしょうか。これを理解するには、終わりの日の主の再来に関する聖書の預言についてよく考え、主イエスはご自分で何をすると仰ったのか、また神の国についての比喩に注意を払う必要があります。これらは終わりの日の神の働きと直接関係しています。これらの預言や比喩の基本的な理解を得ることで、主イエスが十字架で仰った、あの言葉が本当に意味することが何なのかを、正しく理解できます。完全に理解できずとも、「終った」という言葉は神の救いの働きが完成したことを意味すると決めつける理由はありません。これは何の根拠もない、馬鹿げた考えです。事実、神の国についての主イエスの預言や比喩を注意深くみてみると、天国と、再来した神の働きについての基本的な理解を得ることができ、「すべてが終った」という言葉の誤解を解くことができます。主イエスはこう預言しました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。……そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった(ヨハネによる福音書 5:22、27)。ペテロの第一の手紙には「さばきが神の家から始められる時がきた」とあり、(ペテロの第一の手紙 4:17)。黙示録にはこうあります。「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる(ヨハネの黙示録 5:5)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)。主イエスはまた、多くの比喩を使って神の国を表しています。「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう(マタイによる福音書 13:47-50)。これらの預言や比喩からわかることは、主イエスが、再来後に多くの働きをすると仰ったことです。その最も重要な部分は、真理を表して裁きの働きを行い、すべての真理に入れるように人々を導くことです。そして人類をよりわけ、善人を完成させ、悪人を淘汰します。これにより、主イエスが天国について話したことがすべて実現されます。麦と毒麦のたとえ、魚をとる網のたとえ、賢い乙女と愚かな乙女のたとえや、羊と山羊のたとえ、そしてよいしもべと悪いしもべ。神の家から始まる裁きの働きは麦と毒麦を見分けることができるともに、よいしもべから悪いしもべを、真理を愛する者から安らぎだけを求める者をより分けます。賢い乙女は小羊の婚宴に参加して神によって完成されます。一方愚かな乙女は、神の声を聞かなかったために災難に放り込まれ、泣き叫び歯ぎしりをします。このように全人類をより分けて善に報い悪を罰するため、裁きの働きを行うというのは、黙示録のこの預言と完全に一致します。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ(ヨハネの黙示録 22:11)。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう(ヨハネの黙示録 22:12)。主イエスの預言を真の意味で理解した時、終わりの日に主が再来するのは、真理を表し裁きの働きを行い、人を種類ごとに分けてその行く末を決めるためだとわかります。「すべてが終った」と十字架の上で主イエスが仰ったのは、人類を救う神の働きを指していたと本当に言えますか? これからも愚かに天を仰ぎ、雲に乗った主イエスによって、天に導かれるのを待ち続けますか? 終わりの日の働きを行う神が発したあらゆる真理を簡単に断罪し続けますか? 終わりの日の裁きの働きをするために人の子として受肉された主の再来を恐れ多くも否定しますか? 大災難はすでにきているのに多くの宗教者がいまだに、「自分たちが淘汰されることはない」と信じながら主の再来を夢見ています。今こそ目を覚ます時です。目を覚まさなければ、災難が終わり全能神が万人の前に姿を現した時に、神は天地を新たに創造され、宗教界の人々は悲しみに嘆き歯ぎしりをすることになります。これは黙示録の預言と一致します。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)

いま多くの方が知りたいのは、「すべてが終った」という主イエスの言葉の本当の意味でしょう。答えは非常に簡単です。主イエスの御言葉はいつも実際に即しています。ですからこの「終った」というのは、贖いの働きが終ったことを意味していたのです。しかし人々はこの実際的な主の言葉が、人類を救う神の働きのことを指していると主張しています。これは一方的な決めつけです。人類を救う神の働きはまだ完了していないのですから。終わりの日の裁きの働きという最も重要な段階が残っています。「すべてが終った」という言葉をもって、神の救いの働きがすべて終ったとなぜ言えるのですか? 荒唐無稽で理知に欠けていると思いませんか? そもそも主イエスはなぜ十字架にかけられたのでしょう。それにより何が成し遂げられ、その成果は何だったのでしょうか。信心者は答えを知っています。聖書の中に明確に書かれているからです。主イエスは、人類を贖うために来られました。十字架にかけられたことで主イエスが人の罪のいけにえとなり、あらゆる人の罪を背負ったので。人は律法の下で断罪され、死ぬことがなくなりました。人はただ主を信じて祈り、罪を告白すれば、その罪を赦され、神の偉大な恩恵を受けられます。これは恵みによる救いであり、主イエスの贖いの働きの成果といえます。人の罪は信仰により許されました。しかし人がいまだに、罪を犯し続けていることは否定できない事実です。罪を犯しては告白し、また罪を犯すという悪循環を繰り返し、罪に捉われたままです。これはどういうことでしょう。人はいまだ罪深い本性とサタン的な性質をもち、そのために、罪を許されてもまた犯してしまうという悪循環から抜け出せないのです。これはすべての信心者を途方にくれさせる、辛い事実です神はこうおっしゃいました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)。神は正しく、聖い。ゆえに聖くなければ神には会えません。それでは罪を犯し続け神に抵抗する人々に、神の国に入る資格はあるでしょうか。人はまだ罪から完全に逃れられず清められてもいない。人類を救う神の働きは本当に終わったのでしょうか。神が人を救う時、それは完璧な働きとなるはずで、働きを途中でやめることありえません。だからこそ主イエスは何度も再来すると預言したのです。終わりの日、受肉した全能神として、主はしばらく前に再来しました。全能神は主の贖いの働きを土台にして、裁きの働きを行うために真理を表しています。その目的は人の堕落した性質を清め、罪の足かせや制約から、人を解放し、サタンの勢力から人を完全に救い、最終的に神の国に導くこと。終わりの日の全能神の裁きの働きが終わるまでは、人類を救う神の働きは終わることはありません。

全能神は言われます。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)

神による刑罰と裁きの働きの目的は、本質的に、最後の安息のために人類を清めることである。こうした清めがなければ、人類の誰も、種類に応じて異なる種類に選り分けられることができず、安息に入ることもできない。この働きは、人類が安息に入るための唯一の道なのである。神による清めの働きだけが人類の不義を清め、神による刑罰と裁きの働きだけが人類の不従順な要素を明るみに出す。それによって、救われる人と救われない人、留まれる人と留まれない人が選り分けられる。この働きが終わるとき、留まることを許された人はみな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第二の人生を享受する。言い換えると、彼らは人類の安息の日を開始し、神と共存するのである。留まることを許されない者たちは罰せられ、裁かれたあと、正体が完全に暴かれる。その後はみな滅ぼされ、サタンと同じように、地上で生き残ることをそれ以上許されない。未来の人類に、この種類の人々はもはや含まれない。このような人々は最後の安息の地に入る資格がなく、神と人類が共有する安息の日に加わる資格もない。なぜなら、彼らは懲罰の対象であり、邪悪で、不義なる人だからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きの目的は、ひとえに全人類を徹底的に清めることであり、それによって、完全に聖くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きこそが最も重要であり、神による経営の働き全体の最終段階である(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の御言葉は非常に明確です。恵みの時代の主イエスの贖いの働きはただ人の罪を許すため、終わりの日の全能神の裁きの働きは、人を完全に清め救うために行われます。全能神の御言葉は、反抗的で神に背く人の本性と本質を裁き、暴露し、自分のサタン的性質と堕落を認識させ、自分がいかにサタン的性質に満ちているか、ごう慢で、ずる賢く、邪悪で、人間らしさがないかを自覚させます。これこそがサタンによる堕落の深さを知る唯一の方法です。自分を心から嫌悪し、深く後悔し、神に悔い改めることで真理の大切さを知り、神の御言葉を実践し、真理の現実に入ることに集中できます。それによって堕落した性質から抜け出し、いのちの性質に変化し、心から神に従い、神を敬い、御言葉によって生きるようになります。このようにサタンの力を抜け出して神に完全に救われた人は、神の庇護を受け、終わりの日の大災難を生き抜くことができ、神が人のために用意した美しい終着点に入れるのです。これは黙示録21章3-6節の預言と一致します「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた、『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』。そして、わたしに仰せられた、『事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。』」ここで神は「事はすでに成った」と言っていますが、これは十字架で主イエスが言った「すべてが終った」とはまったく異なるもので、文脈も違えば、世界も違います。主イエスが「すべてが終った」と十字架の上で言った時、それは贖いの働きのことを指していました。黙示録の「事はすでに成った」という聖句は、人類を救う神の働きが完全に終わったことを意味します。神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに生き、人は神の国の民となります。そこには涙も、死も、悲しみもおありません。そうなって初めて神の救いの働きが終ったと言えます。

ここまでで、皆さんにもお分かりになったでしょう。主イエスの十字架の上での言葉は、救いの働きが終ったことを意味するという主張は、神の働きの現実と完全に矛盾し、純然たる人間の観念です。この誤った解釈が人をだまし、惑わせ、これまでに何人もの人に害を与えてきました。この考えを頑なに持ち続ける人々は、主が突然雲に乗って現れ人を天国に連れていく日を待つのみで、全能神が表した多くの真理について考察しようともしません。主と対面する機会を逃すことになり、罪から逃れることも完全に救われることもありません。生涯の信仰がまったくの無駄となり、災難の中に落ち、神に淘汰されるのです。

全能神は言われます。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

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