わたしたちの罪は赦された――再臨した主は、わたしたちをまっすぐ天国に引き上げるのか?

2021年11月5日

災害がひどくなる一方のいま、信者はみな救い主の降臨を待ちわび、睡眠中に空へ上げられて主にお会いし、激しさを増す今日の災害の苦しみから逃れることを切望しています。主イエスが降臨して自分たちを空に上げ、相まみえるのを自信満々に待っているのはなぜでしょう。主イエスへの信仰を通じて罪を赦されたので、主はもう自分を罪人とは見ておらず、自分には必要なものが何でもあり、主の降臨時にまっすぐ天国へ引き上げられると信じています。しかし多くの人は混乱しています。大災害が到来したのに、主がいまだいらっしゃらないのはなぜか? 主の降臨は本当かと、多くの人が疑いだしているのです。本当でなければ、災害に見舞われいつ死ぬかわからないのではないか? 多くの牧師が主は災害のさなかか終わりに来られ、他に説明はつかないと言っています。これは正しいでしょうか? 宗教界は依然、主をお迎えしていませんが、主はまだいらしていないということでしょうか? 災害の前にフィラデルフィアの教会を引き上げ、災害の苦難から守るという主のお約束は誰もが知っています。主は約束を破られたのでしょうか? 絶対に違います。人の想像通り、主が雲に乗って来られ、信者を天に上げるというのは本当ですが、東方閃電が一貫して、主は全能神としてお戻りになり、多くの真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさっていると証ししていることは、誰もが知っています。真理を愛する各教派の人が、全能神の御言葉の中に神の声を聞いて神に立ち返り、玉座の前に引き上げられ、神の言葉を日々飲み食いし、子羊の祝宴に出ています。全能神の裁きと清めを経験し、美しい証しをしているのです。彼らは神のもとで生き、喜んで神を称えています。災害への終わりなき恐怖という宗教界の状況に比べ、天地の違いです。多くの信者がこう考えています。東方閃電が証ししている全能神は、主の再臨なのか? 主は本当に、終わりの日に裁きの働きの一歩をなさっているのか? しかしこんな疑問もまだ多くあります。「わたしはもう主に罪を赦され、罪人と見なされていない。主が戻られるとき、まっすぐ天に上げられるはずだ。わたしをいますぐ引き上げず、終わりの日に裁きの働きの一歩をなさるのはなぜか?」今日はこの話題を考えましょう。罪の赦しは、天国に入れることを意味するのか?

まずはこれを検証します。罪を赦された人はまっすぐ天国へ入れるという考えは、聖書に根拠があるのか? 主の御言葉はこれを裏付けているのか? 罪を赦された人はまっすぐ天国に行けると、主イエスはいつおっしゃったでしょうか? 聖霊も、そうすればまっすぐ天国に入れるとは言っていません。証拠となる聖書の根拠も主の御言葉もないのに、主が来られるとき、自分は引き上げられると確信しているのはなぜでしょう? まったく意味をなしません。誰が天国に入れるかについて、主はこう明言されています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。ここから、罪の赦しだけでは、天国に入れないことがわかります。なぜ入れないのでしょう? それはおもに、罪の赦しは清められたという意味でなく、神に従い、神の旨を行なうという意味でもないからです。罪を赦された信者さえ、絶えず嘘をついて騙し、歪んで不実だということは、誰もがはっきり見ています。傲慢で、聖書の知識を多少得ると誰の話も聞きません。権力と利益を求めて争い、罪から脱出できずに生きています。ここからはっきりわかるのは、人は罪を赦されても、いまだ汚れて堕落し、いつも罪を犯しているということ。真理の受容や服従が無理なだけでなく、神を批判して逆らいますパリサイ人のように、主を断罪、批判、冒涜し、またも十字架にかけさえします。これは、人類は罪を赦されたものの、依然汚れて堕落し、神に逆らう堕落した性質があることを証明しています。神の御言葉にあります。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない(へブル人への手紙 12:14)。ゆえに、罪の中で生きる人に天国へ入る資格はなく、これに疑いの余地はありません。これは神の義にして聖い性質によって決まっています。自分に罪はなく、もう罪を犯さず、聖くなったと言い張る信者がどこにいますか? どこにもいません。多くの著作がある偉大で有名な霊的人物も、罪を捨てて聖くなったとは言いません。事実、信者はみな同じで、罪の中で苦闘しながら、昼に罪を犯し、夜に告白する生活を送っています。みな罪の束縛という、とてつもない苦痛を受けているのです。この事実は何を示しているでしょう? 罪を赦されても、罪から逃れて聖くなってはいないということを示しており、ゆえに天国に入る資格はないと断言できます。主イエスが言われた通りです。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。ここから、罪を赦されたので天国に入るという根拠は聖書になく、人の観念に過ぎないとわかります。

さて、多くの人はまずこんな疑問を抱きます。それで天国に入れないなら、どうすれば入れるのか? 天国への道とは何か? 主イエスは、「天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」と言われました。疑問の余地なく、これが要件です。では、どうすれば御旨を行ない、天国に入れるのか? 実際、主イエスがはるか昔に道を示してくださいました。よりよく理解するため、主イエスの預言を見てみましょう。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(ヨハネによる福音書 17:17)。「わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネによる福音書 5:22)。主イエスはご自身の再臨を何度も預言なさり、これらの聖句は再臨されたときになさる働きの預言です。つまり、多数の真理を表わして裁きの働きを行ない、人をすべての真理に導き、人類を罪とサタンの勢力から完全に救い、最後はわたしたちを御国に連れ、美しい終着点を得させる働きです。ゆえに人は、再臨された主による裁きの働きを絶対に受け入れなければなりません。真理を得るまで堕落の完全な清めは無理で、罪深い本性も解消されません。これが罪を捨てて聖くなり、天国へ入る資格を得る唯一の方法です。堕落した性質を清め、罪深い本性を完全に解消する。堕落した性質を捨ててサタンの勢力から自由になり、神に従い御旨を行なう。さもなければ天国には入れません。だから、神による終わりの日の裁きと刑罰で清められた人だけが、御旨を行なう人になれると断言できます。これは、神による終わりの日の裁きと清めを受け入れることが、天国へ入る唯一の道だと証明しています。これについて御言葉を何節か読みましょう。「贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいないあなたがたのような罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたが、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人と見なされることはないが、これは、あなたに罪や汚れがないという証拠ではない。いまだ変わっていなければ、あなたはどうして聖いものとなれるのか。あなたの内側は汚れに満ち、自分勝手で卑劣である。にもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではあり得ない。あなたは神を信じる上で一つの段階を見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。さもないと、罪から贖われただけのあなたは、聖さを得ることができない。このように、神のよき祝福を共にする資格はあなたにない。と言うのも、神が人を経営する働きの一段階、つまり変化させ、完全にするという重要な段階を逸したためである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたが、神の嗣業を直接受け継ぐことはできない(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉は実に明快です。主イエスは恵みの時代に贖いの働きをなさいましたが、人の罪を赦したに過ぎず、救いの働きは道半ばでした。全能神による終わりの日の裁きの働きだけが、人類を完全に清めて救えるのです。人は全能神の表わす真理、そして裁きと刑罰を受け入れなければならず、それで堕落を清められて変化し、神に従い御旨を行なう人になって、天国に入る資格を得ます。つまり、天国へのパスポートを得るのです。こう言えます。全能神による裁きの働きこそ、人を救う神の働きで最も重要な一歩、人が天国に入れるかを決める一歩だと。この重要な一歩、つまり全能神による裁きと清めを逃せば、信仰は失敗に終わります。信仰の長さや、苦労と犠牲の量に関係なく、全能神を拒めばすべて無意味で、中途半端に終わり、天国に入れません。一生後悔するでしょう!

では、神の働きはどのように人類を裁き、清め、救い、天国へ導くのでしょう? 全能神の御言葉を読みましょう。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。神の裁きと刑罰を体験した人は、みなこう実感しています。御言葉によって自分の堕落と実質が暴かれなければ、堕落の程度と深刻さは決してわからなかった、と。神の裁き、刑罰、刈り込み、取り扱い、そして懲らしめがなければ、決して堕落した性質を捨て去れず、自己認識に至るのも苦労します。多くの信者が、絶えず罪を犯して告白することを繰り返しているのも無理はありません。罪の根源がサタンによる根深い堕落にあるとはわかっていないからです。自分は赦されたから天国にまっすぐ入るといまだ誤解し、盲目にして愚かで、自分をまったく知りません。真の悔い改めは全能神の裁きと刑罰を通じてでなければ無理で、神を畏れて悪を避けるのも、神の義なる性質を知らなければ無理です。そうして初めて、神を崇めて服従し、御旨を行なう人になれます。神による終わりの日の裁きを経て清められなければ、これを知ることはできません。

これで皆さんおわかりかと思います。天国への道筋はとても具体的かつ実際的で、単に赦されて主に引き上げられ、まっすぐ天に昇るというのではありません。これは現実でなく、単なる願望です。天国に入りたければ、全能神の裁きと刑罰を受け入れることが不可欠で、それで堕落を清められ、御旨を行なえます。そうして神の約束と祝福を受けられ、天国へ導かれます。全能神による裁きの働きを拒めば、真理といのちを得ることも、堕落の清めも不可能です。主がこのように天国へ引き上げるのをただ待つのは馬鹿げたことで、そうした人は愚かなおとめです。災害に見舞われ、泣きわめいて歯ぎしりします。全能神による終わりの日の働きを受け入れれば、御座の前に引き上げられると言えます。依然、神が表わす真理と、神の裁きと刑罰を受け入れ、堕落を捨てて清められる必要があり、最後は災害の中で神に守られ、神が用意された美しい終着点に入れます。真理を受け入れずに口先だけで全能神を受け入れ、その裁きと刑罰に従わないのは真の信仰でなく、本当に真理を愛する人でもありません。最後に暴かれ淘汰されます。全能神による別の一節を読んで終わりましょう。「キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に忌み嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

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