神の声を聞かなければ、主をお迎えできないのはなぜか

2023年10月6日

いま、雲に乗った主イエスの降臨をすべての信者が待ち望んでいます。災害が深刻化し、ありとあらゆる疫病がはびこり、飢饉と戦争が差し迫っているからです。主は今にもお戻りになり、雲に乗っていつ突然降臨するかわからないと信者は感じており、昼も夜も目をこらし、祈りながら到来を待っています。しかし、災害がすでに降り始めているのに、今なお雲に乗った主の出現を見ていません。多くの人が困惑しています。「主がいまだ来られないのはなぜか? 御言葉に誠実さがないのか?」そんなことはありません。主は誠実で、無駄な言葉は発しません。誰も予想しないうちに、主はすでに人の子として受肉し、密かに降臨され、多くの人がずっと以前にお迎えしています。聖霊の足跡を長年求めてきた彼らは、人の子が語り、多くの真理を表わしているのを突き止めました。そうした御言葉を読めば読むほど、それは聖霊の声、神の声だと感じ、真理を表わすこの人の子こそ主イエスの再臨だと悟りました。すなわち受肉した全能神です! 誰もが喜びました。「主イエスが戻られた。ようやく主をお迎えした!」神の選民がその知らせを広めようと奔走し、全能神が発する真理、その出現と働きを証しした結果、真理を愛し、神の出現を待ち望んできた各教派の大勢の人が、全能神の言葉を読んで神の声だと気づき、次々と神の玉座の前に出て、子羊の婚宴に加わりました。これは主イエスの預言を成就します。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。全能神の出現と働きは、主イエスの次の預言も成就しました。「すぐに来る」、「人の子の現れる」、「人の子が来る」そして「人の子もその日には」。神は誠実で、その言葉と預言は必ず成就するという証拠です。主イエスは言われました。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない(マタイによる福音書 24:35)。全能神もこう言われました。「天地は滅び行くが、わたしが言うことの一点、一画としてすたれることはない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五十三章」〔『言葉』第1巻〕)救い主イエスはすでに戻られ、それが全能神です。多くの真理を表わし、終わりの日の裁きの働きを行ない、勝利者の一団を作りました。全能神はサタンを打ち負かし、すべての栄光を得て、それとともに大災害が始まっています。神の働きはすべて密接に結びついているのです。全能神は多数の真理を表わし、宗教界と世界全体を揺るがしています。しかし、多くの宗教人はいまだ空を見上げ、雲に乗った救い主イエスの降臨を待っています。災害に陥っていながら、何が起きているかわからず、愚かな乙女としか言えません。宗教界の反キリスト勢力に騙される愚かで無知な人が大勢いて、いまだ全能神の出現と働きを非難・断罪しています。その言葉が真理だと知りながら受け入れず、雲に乗った主の降臨という聖書の言葉にこだわり、真の道を考察せず、まして神の声など求めません。結果として災害に陥り、恨み言を言って泣きわめき、歯ぎしりしています。悲劇そのものです。「主をお迎えするのに神の声を聞く必要があるのはなぜだ?」と問う人もいます。今日はこの問題についてわたしの認識をお話しします。

まずはっきりさせましょう。主が本当に天から雲に乗って再臨し、誰もがそれを見られるなら、主の声を聞かずとも視覚に頼ればいいはずです。しかし主は人の子として肉において戻るので、外見は普通の人で神の姿をしておらず、超自然的なところはありません。人は死すべき存在で神の霊を見られない。人の子の肉体しか見られないので、その声を聞かなければ、受肉した人の子に気づけない。発する言葉でしか識別できないのです。そこで主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。ご存じの通り、2千年前、人類を贖うべく主イエスとして受肉した神は普通の人間性の中で生き、衣食住も旅するのも普通の人と同じでした。家族さえも、主イエスが受肉した神だとわからず、主イエスご自身さえ、自分が受肉した神だとは知りませんでした。主は各地で天国の福音を説き、多くの真理を表わし、懺悔と悔い改め、寛容と忍耐、7の70倍人を赦すこと、十字架を背負って主に従うことを教えました。また、心と魂と思いを尽くして神を愛し、自分のように人を愛せと言いました。さらに、天国の奥義を明かし、誰が天国に入れるかなどを伝えました。これらの真理は、神が人の贖いのために示した悔い改めの道であり、人がそれまで見聞きしたことのないものです。大勢が主イエスに従ったのは、その言葉の権威と力強さを耳にし、人には表わせないことを聞いたからです。神の声だと気づいて主に従った彼らは、神の声を聞いて主をお迎する神の羊なのです。一方、ユダヤの祭司長、律法学者、パリサイ人は、主の言葉の権威と力を認めながら、主イエスの外見が普通の人の子で、有力な家庭に生まれず、地位や権力もなく、その言葉が聖書になく、聖書で預言されたメシアという名でないといって、主イエスを拒絶し、冒涜を吐いたと言って断罪しました。最後は十字架にかけ、神の懲罰を受けて呪われました。ゆえに、主をお迎えするには神の声を聞くのが重要なのです! 神の声に耳を澄ませず、人の子の外見しか見ないなら、神であるとはわかりません。観念と想像で主を拒んで断罪するだけです。終わりの日、神は再度人の子として受肉し、出現して働いています。主をお迎えしたければ、神の声に耳を澄ませ、神の言葉かどうか、真理かどうか、聖霊に由来するかどうかを確かめましょう。それを基に判断すること。それで初めてキリスト、神の示現に気づき、神の声を聞くことでのみ主をお迎えできます。

全能神も言われます。「神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちである』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)

神の出現の求め方、神の受肉の見分け方を全能神の御言葉は示しています。実に明快です。キリストは道、真理、いのちであり、その神性はおもに、真理と神の声を表わすことで明かされます。なのでキリストの外見がいかに普通でも、真理、神の性質、神が所有するものと神そのものを表わせる限り、それは神の示現です。キリストの人間性がいかに平凡でも、真理と神の声を表わせる限り、神性の実質を持つ人、受肉した神なのです。疑う余地はありません。全能神が出現して働きだして以来、真理を愛する各教派の大勢の人が全能神の言葉を読み、どれも真理で、聖霊に由来する神の声だと気づきました。全能神こそ神の示現、受肉した神、主イエスの再臨だと認めたのです。これは神の選民全員が確認できる事実です。受肉した全能神は人のあいだで暮らし、衣食住を共にすると同時に、いつでもどこでも真理を表わし、神の選民に水と糧を施し、導きます。神の言葉が次々発表されるのをわたしたちは目にしましたが、それらは数百万語に上り、『言葉は肉において現れる』などの本にまとめられています。全能神は6000年にわたる経営の働きの奥義を残らず明かしました。人類を経営する神の目的、サタンが人を堕落させる方法と、神が彼らを一歩ずつ救う方法、受肉の奥義と聖書の内幕、人を清めて救う、神による終わりの日の裁きの働き、神が人を選り分け、善に報いて悪を罰し、時代を終わらせる方法、キリストの国が地上でどう実現するかなどです。また、神に逆らう人類の本質と、その堕落の真相も裁いて暴き、堕落した性質を除去して救われる道をもたらします。さらに、神との正常な関係の築き方、誠実な人になる方法、忠実に神の道を辿り、神を畏れて悪を避ける方法、従順になって神を愛する方法なども伝えます。それらはどれも、信仰によって罪から解放され、完全に救われるのに必要な真理であり、全能神が表わすすべての真理は主イエスの預言を完全に成就させます。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。全能神の言葉を読めば読むほど心が明るくなり、完全に征服されます。裁きの言葉で明かされる神の義、聖さ、威厳と怒りを見、神の犯せざる性質を経験すると、全能神の言葉は真理、神の声であり、聖霊が諸教会に語る言葉だと確認できます。考えてみてください。神以外の誰がその働きの奥義を明かせるでしょう? 誰が神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わせるでしょう? 神以外の誰が人類の堕落した本質を裁いて暴けるでしょう? 誰が人類を罪から救えるでしょう? 真理を表わし、人類の堕落を清めて罪とサタンの権力から救えるのは神だけです。全能神の外見は普通の人の子ですが、その言葉と働きから、普通の人間性だけでなく神性の実質も有することがわかります。神の霊が内在し、その言葉は神の霊が直接発するものです。全能神は道、真理、いのちであり、受肉した神にして主イエスの再臨です。こう言われるとおりです。「神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いてわたしたちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、わたしたちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。わたしたちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。……わたしたちの考えをすべて知り、わたしたちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理としてわたしたちに語りかけ、このようにわたしたちに働きかけることができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、わたしたちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、わたしたちをサタンの束縛やわたしたち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼はわたしたちに希望をもたらし、漠然としていたわたしたちの生活を終わらせ、わたしたちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼はわたしたちの存在そのものを征服し、わたしたちの心を得た。その瞬間からわたしたちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、わたしたちの間で生きながらも長年わたしたちに拒否され続けてきたこの人こそ、わたしたちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそがわたしたちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである(『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」〔『言葉』第1巻〕)

ここまでで、主をお迎えすべく神の声を聞く理由がおわかりでしょう。実際、神の声を聞くのは難しいことではありません。神の羊は神の声を聞ける――それは神が定めたことです。教育の程度や聖書の知識、経験の深さは関係ありません。心と霊のある人なら全能神の言葉を読んで、どれも真理で権威と力があり、神の声だと感じられます。人類に対する神の愛、義と威厳に満ち、人の背きを許さない神の性質を感じるのです。これは霊感と直感の作用で、主イエスの言葉を読むときと同じ感情です。全能神と主イエスの言葉はいずれも1つの霊が表わし、由来が同じだからです。全能神と主イエスは1つの神です。全能神の言葉をさらに数節読みましょう。全能神は言われます。「わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにする。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大な力を持つ全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは我が選民と向き合って、さらに多くの言葉を彼らに語りかける。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。あたかも赤児が生まれたばかりであるかのように、すべての人々が喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の『オリーブ山』にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。つまり、すべての国がわたしにひれ伏し、すべての人がその言葉でわたしを認め、すべての人がわたしを信頼し、またすべての人がわたしに服従するようにすることである(『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」〔『言葉』第1巻〕)

わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)

わたしが全宇宙に面と向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきたすべての働きを見る。わたしの旨に逆らう者、つまり、人間の行ないでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の無数の星々を取ってそれらを新しくし、またわたしのおかげで、太陽と月は新たになる――空はもはや以前の空ではなく、地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は滅ぼされ、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを崇める者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、みな灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの働きによって征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲に乗って降臨するのを見たからである。すべての人がその種類に応じて選り分けられ、それぞれの行いにふさわしい刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行ないがわたしと関わりのなかった人たちは、自分たちの振る舞いのために、わたしの子らとわが民による支配の下、地上で存在し続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現わし、自ら地上に声を発してわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分の目でそれを見られるようにする(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉はどれも力と権威に満ち、人の心を震わせます。全能神は創造主として全人類に語りかけます。神の権威と身分はその言葉にはっきり表われ、神の口調、占める地位、性質、神が所有するものと神そのものは神固有の特徴です。どんな天使も、被造物も、サタンの悪霊も、それらを有することはできません。全能神の言葉は神独自の権威を完全に明かし、神の義にして犯せざる性質を示します。全能神の言葉が神の表現にして声なのを、誰もが目にしました。

今、『言葉は肉において現れる』に収められた全能神の言葉や、神の言葉の朗読動画が多数ネットで公開され、各国・各教派のますます多くの人が全能神を調べ、受け入れています。しかし聖書にこだわり、雲に乗った主の降臨という観念にしがみつく人が宗教界にはいまだ多数います。全能神が表わす多くの真理を見ても、求めも調べもせず、神の声を聞かないどころか、宗教界の反キリスト勢力に従い、全能神を批判し、中傷し、断罪します。心の目を塞がれたかのようで、聞いてもわからず、見ても理解しません。そうした人は神の声を聞けず、神の羊でないとわかります。終わりの日の神の言葉が暴く毒麦、愚かな乙女で、今や神に淘汰され、災害に落ちてしまいました。今後の生死はわかりません。生き延びたところで、災害後に主イエスが雲に乗って降臨し、公然と出現するのを待つばかり。しかしそのときには、自分たちの断罪した全能神こそ主イエスの再臨だとわかってもあっけにとられ、後悔しても手遅れです。泣きわめいて歯ぎしりするでしょう。これで黙示録の預言が成就します。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)

最後に、全能神の言葉の一節を読みましょう。全能神は言われます。「神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。『不可能』だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。……だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

三位一体の考えは成立するか

受肉した主イエスが恵みの時代の働きをなさってから二千年間、すべてのクリスチャンは唯一の真なる神を「三位一体」としてきました。聖書に父、子、聖霊とあるので、神は三位一体に違いないと思い込んだのです。多少の論争はありましたが、大半の人は三位一体の考えを変えずに固持しています。「聖三一…

信仰を通して救いを得た人は天国に入れるのか

ウィルスの感染拡大は留まることを知らず地震、洪水、虫害、飢饉も始まっています。多くの人が絶えず不安を感じ、信者は雲に乗って降臨した主により天に引き上げられ、災難の苦しみから逃れ、死を免れる日を、心待ちにしています。自分たちがなぜいまだに引き上げられて主と対面していないのか理解でき…

降臨した救い主は、やはりイエスと呼ばれるのか

終わりの日、救い主全能神はすでに降臨し、人類を完全に救うべく、真理を表し働きを行なっています。『言葉は肉において現れる』がネットで公開されて以来、世界中の人たちが、全能神の御言葉は真理だと悟り、神の声を聞きました。全能神の顔を見ずとも、その御言葉が聖霊の言葉、人類に対する神の発言…

主は本当に雲に乗って戻るのか

災害が次々と起き、ウイルスが世界に蔓延しています。主が雲に乗って戻り、自分たちを天に上げ、この暗い世界と災害から救い、天国へ導くのを、信者は心待ちにしています。空を眺めてひたすら祈り、雲に乗った主を見たいと切に願い、主が来て自分たちを災害に放り込んではたまらないと、目を離しません…

コメントを残す