受肉とは何か

2023年10月6日

ご存知のとおり、2千年前、神は人を贖うため、受肉して主イエスとして人の世に来られ、教えを宣べました。「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書 4:17)。とまた多くの真理を表し、贖いの働きを成し遂げるため、人の罪のいけにえとして十字架にかけられたことで、律法の時代が終わり、恵みの時代が始まりました。これが、神が初めて受肉した際に行われた贖いの働きです。ユダヤ教は主イエスを必死に断罪し、ローマ政府と謀(はか)って主を十字架にかけましたが、2千年後のいま、主イエスの福音は世界中に広がっています。これが示すのは、主イエスが受肉した神だったということ。肉において働く唯一の真の神、創造主だったということです。しかし多くの人は主イエスが受肉した神だと考えず、主イエスを普通の人とみなしています。宗教界においても主イエスは神ではなくその愛する子だと、多くの牧師が考えています。現在、主の信者は無数にいますが、主イエスが神だと認識しているのはごくわずかで、主イエスが表したすべての真理の意味と価値を知る人は誰もいません。ですから、主を迎えるにあたっては、多くの人が神の声を聞けず、災難の中へと陥りました。一見敬虔な信者のように見えても、神の声を聞けない人は、主イエスの人の子の姿を見ても、変わらず主を信じ、従えるでしょうか? 主イエスを普通の人として断罪し、神であることを否定するのでしょうか? 主イエスが今日多数の真理を表していると聞いたら、たわ言を言っていると主イエスを断罪し、再び十字架にかけるのでしょうか? パリサイ人が主イエスを断罪した事実からも、確信をもって言えます。もしも今、主を信じる全員が人の子という本来の主イエスの姿を見たら、おそらく多くの人が逃げ出し、さらに多くの人がパリサイ人のように主イエスを非難し、断罪し、再び十字架にかけるでしょう。このように言うと、反対する人もいますが、これはすべて事実です。人は深く堕落しており、目で見たものしか信じないので、受肉した人の子が神の顕在だと誰も分からないのです。つまり、受肉とは偉大な奥義であり、数千年の間、真理のこの側面を理解した人は誰もいません。主イエスは受肉した神だと知っていても、受肉とは何かということや、受肉した神をどう理解すべきかを明確にした信者はいません。

なぜ神は肉において現われ、働きをなしたのでしょう? 厳密に言うと、人の堕落により、神は受肉して救いの働きをする必要があった、つまり神の受肉は、人類の完全な救いに必要不可欠だったのです。神は人を贖い救うために2度受肉されました。主イエスは受肉した神であり、贖いの働きを行うために来られた。こう問う人もいます。神が人を使って贖いの働きをしなかったのはなぜか? 神が受肉したのはなぜか? それは、堕落した人類はすべて罪人であり、罪のいけにえになれなかったからです。罪がないのは受肉した人の子だけなので、人の子として受肉した神自身が贖いの働きをなさったのです。これは神の義と聖さを真に示し、サタンを辱めて神を責める根拠を奪い、人類は神のまことの愛と慈悲を認識できるようになりました。主イエスは贖いの働きを終わらせた時、ご自身の再来を預言されました。そして今、主イエスは再来し、受肉した全能神となられました。全能神は多くの真理を表し、終わりの日の裁きの働きを通じて人の堕落を完全に清め、罪やサタンの力から救い、美しい終着点に人を導こうとしています。しかし予想外だったのは、これほど多くの真理を表した全能神が、いまだ宗教界から強く反発され、断罪されていることです。宗教界の反キリスト勢力は共産党と手を組み、終わりの日の神の出現と働きを阻止し、もみ消し、禁じています。全能神が受肉した神であることを必死に否定し、全能神を普通の人間だとして断罪し、冒とくしています。これは宗教界の反キリスト勢力がもつ、真理を憎み、神に抵抗する醜さの表れです。2千年前、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人は、死んでも主イエスをメシアとして受け入れず、主イエスのことを妄言を吐く普通の人とみなし、あらゆる手段で主イエスに抵抗し、断罪し、冒とくし、最終的に十字架にかけたことで、大罪を犯して神に呪われ、懲罰を受けました。現在、全能神は人の子の姿で現れ、働きを行っています。多くの人は全能神の表す言葉が真理だと理解し、神の声を聞いています。そして終わりの日の神の働きを受け入れ、主をお迎えしました。しかし、受肉した神について知らない多くの人は、いまだに全能神を普通の人とみなし、全能神を受け入れた人たちを非難し、断罪しています。普通の人間を信じているにすぎないと。自分は聖書を理解していると考え、真の道を調べることを拒み、全能神を必死に断罪し、抵抗し、神を十字架にかける罪を繰り返そうとしている。神の2度の受肉は、なぜどちらも人に断罪され、拒否されるのでしょう? その理由は、人が神を知らず、真理とは何かを知らず、まして受肉の偉大な奥義を理解していないからです。また、人が深く堕落し、サタン的本性をもっているためです。真理を嫌い、憎むだけでなく、神を敵視し、畏敬の念などまったくありません。事実、一部の敬虔な信者は無知であるゆえに、魔王のような共産党と宗教界の反キリスト勢力に騙され、神に逆らう道を歩んでいます。その失敗の要因は受肉と真理についての理解が不足しているためで、神の声を聞くことができず、ゆえに受肉した神を普通の人とみなし、非難と冒とくを重ねます。このように、受肉の真理を理解することは、主をお迎えして天国に引き上げられ、終着点に行く上でとても重要な問題です。

多くの人はこう聞きます。主イエスが受肉した神で、すでに贖いの働きを終え、人類は救われて神に立ち返ったのに、なぜ終わりの日に再び受肉して人類を救う裁きの働きをする必要があるのかと。これには非常に深い意味があります。簡単に言うと、人類を贖うために2度受肉し、その後完全に人を清め救うというのは、創世のずっと前から神に決められていました。神が人の子として2度受肉されることは聖書でも多く預言されています。1度目は、罪のいけにえとして十字架にかけられることで、贖いの働きを成し遂げ、人の罪を赦しました。しかし人はまだ罪にとらわれ聖さを得ていません。2度目は、真理を表し裁きの働きを行って、人類を完全に清め、罪とサタンの力から人を完全に救い、時代を終わらせ、人を美しい終着点に導きます。つまり、2度の受肉には人を贖い、その後完全に救うというねらいがありました。神は人類救済の経営計画を成し遂げるため2度受肉されます。現在、全能神は終わりの日の裁きの働きで人を征服し、勝者の一団を完成させました。神はサタンを打ち負かし、栄光をつかみ、神の偉大な働きは達成されたと言えます。これは神がすでになさったことで、終わりの日の神の受肉がもつ重大な意味がわかります。一方では恵みの時代という古い時代を終わらせ、神の国の時代という新たな時代を始め、もう一方では人を完全に清め、救い、美しい終着点に導きます。贖いの働きも裁きの働きも受肉した神により完成します。ですから神の2度の受肉には深い意味があるのです。そして今、全能神は多くの真理を表し、人の世で偉大なことをなさった。なのになぜ、いまだ多くの人が神の働きを知らないのでしょう? いまだに全能神が受肉した神だと認めようとせず、宗教的観念にしがみつき、主イエスのみが神だと信じ、聖書に従いさえすれば天国に行けると言い張る。なんと愚かで無知な人たちでしょうか! このような愚かな人は神の声を聞けるでしょうか? 全能神が表したすべての真理を見つけられるでしょうか? 結局のところ、受肉した神を十分に知ることができず、神の声を認識できない人は、神の玉座の前に携挙されないのです。このように無知な人、つまり愚かな乙女は、何年信仰しようとも神の承認を得られません。もし、主をお迎えしたいなら、受肉した神、そして受肉の真理について知ることが不可欠です! では、受肉とは一体何でしょう? どう理解すべきでしょう? 偽キリストを見分ける方法は? それは全能神の御言葉を読めばわかります。

全能神は言われます。「『受肉』というのは、神が肉において現れることであり、神はその肉の姿で、自分の創った人間のもとで働く。さて、神が受肉するには、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するというのは、神が肉体において生き、働くということ、その実質において肉となり、一人の人間になるということを意味する(『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれ、キリストは神の霊がまとう肉である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を有している。キリストの神性はいかなる人も有していないものである。キリストの普通の人間性は肉における普通の活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する(『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は明快です。受肉とは神の霊が肉において具現化すること。つまり神の霊が肉をまとい普通の人になって、人の世に現れ働きを行うこと。簡単に言えば、神の霊が肉をまとい、人の子になることです。外見からは、受肉した神は正常な、普通の人間に見えます。特別でも、非凡でもなく、普通の人間のように食事をし、服を着て、普通の生活を送り、お腹がすけば食べ、疲れれば眠り、正常な人間の感情をもち、実際に人として、人のあいだで生活します。その正体が受肉した神であるとは誰も気づきません。しかしそんな普通の人間でありながら、被造物である人とは大きな違いがあります。受肉した神の中には、神の霊が内在しており、正常な人間らしさとともに、目に見え触れることができる、完全な神性をもちます。時と場所を問わず、真理を表したり、奥義を示したりすることができます。神の性質や神が所有するものと神そのもの、神の旨や考え、神の愛、神の全能と智慧を表し、その証しをして、すべての人が神を知り、理解できるようにします。また聖書の奥義をすべて明らかにすることができます。つまり黙示録の巻物を開くことができるのです。これは受肉した神が完全な神性をもっている証です。一見するとキリストは普通の人間ですが、多くの真理を表して人々を目覚めさせ、サタンの力から人類を救うことができます。神の霊が内在しなければ、そんなことが可能でしょうか? これは、どんな有名人も偉人にもできません。どんな有名人や偉人も、真理を表すことはできず、真理を備えていないからです。自分さえ救えない者が全人類を救うことなどできますか? 受肉した神は真理を表し、裁きの働きを行って人を清め、救います。これはいかなる人間にもできないことです。「言葉は肉において現れる」は終わりの日の神の発言集で、終わりの日の神の裁きの働きの証しをします。神の選民は終わりの日の神の裁きの働きを経験し、全能神自身の潤しと牧養を受け入れつつ、受肉した神の働きの深い実践性を感じました。神は実際に人として人のあいだで生き、実際の状況を基に真理を表して人を支え、糧を施し、逸脱した信仰心、誤った追求や観点、そして人の中にあるサタン的な性質をすべて暴き、自覚と変化を促します。また神の望みや人への要求を伝え、追うべき目標と実践すべき原則を、実際的かつ的確に示し、人が真理の現実に入り、神の救いを受け、サタンの闇の力から完全に脱せるようにします。全能神に従うすべての人は深く実感しています。受肉した神が人を裁き罰するために真理を表さなければ、自分の罪深い本性を自覚できず、罪の束縛から逃れられなかったはずだと。それに加えて、神の裁きと刑罰を受け入れることが、堕落した性質を清める唯一の術であり、神の義なる性質を知ることが、神を畏れて悪を避ける唯一の術、神の御言葉に沿って生きることが、真に人間らしく生き、神の承認と祝福を得て神の国に入る唯一の術だと感じています。考えてみてください。終わりの日に受肉した神がかくも多くの真理を表していなければ、人は救いを得る千載一遇のチャンスをつかめますか? 神の裁きと刑罰を受け、神の豊富な祝福を享受できますか? 終わりの日の受肉した神がいなければ、全人類は破滅に追いこまれ、救われることはありません。全能神もこう仰っています。「今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる。人は終わりの日の神の働きにより、地上で人々のあいだで生きている天の神を見られるようになり、また神を知り、神に従い、神を畏れ、神を愛することができるようになる。これが、神が二度目に肉へと戻った理由である。今日人が見るものは、人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的に神は、あなたがたに次のことを示すだろう。すなわち、この人が存在していなければ、天と地は巨大な変化を経験し、この人が存在していなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになる、ということである。終わりの日にあなたがたを救うべく、受肉した神が来ていなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずだということを、神はあなたがたに示すだろう。またこの肉が存在していなければ、あなたがたは永遠に大罪人で、死体のままであるということを、神はあなたがたに示すだろう。この肉が存在しなければ、全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日に神が人類へと繰り出す、さらに厳しい懲罰から逃れるのは不可能であるということを、あなたがたは知るべきである。この普通の肉が生まれていなければ、生きようと懇願しても生きられず、死を願っても死ねない状態に陥るだろう。この肉が存在しなければ、今日、あなたがたは真理を得て神の玉座の前に来ることができず、それどころか、あなたがたの深い罪ゆえに、神によって罰せられるだろう。神が肉へと戻ることがなければ、誰にも救いの機会はなかったはずだということを、あなたがたは知っていたのか。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずだということを、あなたがたは知っていたのか。そうであれば、あなたがたは神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなたがたは、この普通の人から多くの利点を引き出すことができるのに、なぜ喜んでこの人を受け入れようとしないのか(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)

ここで、こう思う人もいるでしょう。受肉した神が普通の人間の姿をしていて、神性が肉に隠れているなら、神が来られた時、どうすれば受肉した神だとわかるのか。答えは全能神の御言葉が教えてくれます。全能神は言われます。「受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉からわかるように、受肉した神を見分ける方法はその外見ではなく、生まれた家柄でも、地位や権力をもつかどうかでもなく、宗教界の権威かどうかでもありません。根拠としては、神としての本質があるか、そして真理を表し神自身の働きを行うことができるか。これが最も重要です。真理を表し、人を救う働きができるのなら、一般家庭に生まれ、社会的権力や地位がなくても、神なのです。恵みの時代、働くために主イエスは、ごく普通の家庭に生まれ、飼い葉桶に寝かされ、平均的な体格をもち、地位や権力もないのに、真理を表し、悔い改める道を人に与え、人の罪を赦すことができました。真理を愛した者、例えば弟子のペテロやヨハネは、主イエスの働きや主イエスが表した真理に、神の力と権威を見いだしました。そして主イエスをメシアと認識し、付き従い、主の救いを得ることができた。現在、神は再び受肉して人の世に現れました。その姿は一見普通の人ですが、全能神は多くの真理を表し、終わりの日の裁きの働きを行えます。世界各地で多くの人が、全能神の表わす真理を目にし、神の声に気づき、全能神を受けいれ、神の玉座の前に引き上げられました。神の裁きと刑罰を経験し、多少の真理を理解し始め、全員がすばらしい体験と証しをし、力の限り福音を広め、神の証しをしています。この事実から、真理を表し、人を裁き清め、人類を完全に救えるのは、キリスト、受肉した神だけだと分かります。疑問の余地はありません。真理を表せず、しるしや奇跡で人を惑わすのは邪悪な霊の働きです。それで神を名乗る者は、神のふりをする偽キリストです。受肉した神を知るには、次の事実を認める必要があります。受肉した神だけが真理を表し、終わりの日の裁きの働きを行い、サタンの力から人を完全に救える。

全能神は終わりの日に多くの真理を表し、偉大な働きをなさいましたが、いまだ多くの人が見て見ぬふりをし、主イエスが雲に乗って現れるのを待っています。彼らは災難に陥り、泣きわめいて歯ぎしりするでしょう。これは黙示録で預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)。全能神も仰っています。「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」。最後に全能神の御言葉の一節を読みましょう。全能神は言われます。「キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に忌み嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

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