すでに人類を贖った主イエスが、終わりの日に裁きの働きを為されるのはなぜか

2021年11月13日

2000年前、受肉した主イエスは人類の罪を贖うため十字架にかけられ、罪のいけにえとなり、贖いの働きを終わらせました。主は終わりの日の再来を約束されたので、すべての信者がその再来を待ち続けてきました。彼らは、主を信じる者として、自分たちの罪はすでに許され、罪人とは見なされない。主が再来され、神の国に導かれるのを待つだけと考えています。だから、人はいつも空を見つめています。雲に乗った主によって空に引き上げられ、人と対面できる日を待っているのです。しかし期待とは裏腹に、大災難が始まっても、いまだ主を迎えられていません。一体どうなっているのか、誰にもわかりません。主が雲に乗って現れるのは見ていなくても、東方閃電が多くの証を立てているのは目にしています。主が受肉した全能神として再来し、真理を表し、神の家から裁きの働きを始めているという証言です。全能神の出現と働きは宗教界全体を揺るがし、大きな反発を呼びました。受肉した神による裁きの働きは、人々の観念や想像とかけ離れています。多くの人はこう尋ねます。主イエスはすでに偉大な贖いの働きを終え、神は人を義なる者と呼んだ。なぜ終わりの日に裁きの働きが必要なのか、と。そんなことはありえないと。宗教界は全能神に抵抗し、全能神を批判し、その働きを調べようともせず、雲に乗った主に天国に引き上げてもらうことで、大災難を逃れたいと考えています。しかし、神の働きは壮大で、誰にも止めることはできません。全能神はすでに勝利者の一団を作り、大災害は始まり、宗教界は災難の中で涙を流し歯ぎしりをしています。災難の前でないなら、せめて途中でも後でも、携挙されたいと願っています。なぜ彼らは災難の前に主を迎えなかったのでしょう? どこで過ちを犯したのでしょう? 主イエスが約束を破り災難の前に信者を携挙せず、信者を失望させたのでしょうか? もしくは人が聖書の預言を誤解し、主が雲に乗って現れるという観念にとらわれ、神の声を聞くことを拒んだので、主を迎えることなく災難に陥ったのでしょうか? なぜ主は災難の前に雲に乗って現れ、携挙をなさらなかったのかと皆が困惑しています。今日は、終わりの日に、受肉した神が人の子として行う裁きの働きについて、私の理解をお話します。

まず、聖書を知る人ならご存知のように、聖書の預言は2つの事を示しています。「主の再来」と「終わりの日の裁き」です。これらは実際は1つのことを表します。神が終わりの日に受肉し、裁きの働きを行う、ということです。その根拠は聖書にあるのかと思われる人もいるでしょう? もちろんあります。これに関して200以上の預言が聖書に記録されています。その例を見てみましょう。まずは旧約聖書です。「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる(イザヤ書 2:4)。「主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる(詩篇 96:13)。新約聖書にはこうあります。「さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)。主イエス自身も、終わりの日に再来し裁きの働きを行うと預言しています。主イエスは言われました。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネによる福音書 5:22)。「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった(ヨハネによる福音書 5:27)。以下はヨハネの黙示録です。「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』(ヨハネの黙示録 14:7)。これらの預言は極めて明確に、主が人の子として再来し、終わりの日に裁きの働きを行うと言っています。疑う余地はありません。恵みの時代、主イエスははっきりと預言しています。終わりの日に人の子として再来し、裁きの働きを行うと。黙示録ではこう預言されています。「神のさばきの時がきたからである」これらの預言が証明するのは、主が終わりの日に人の子として受肉し、裁きの働きのために人の中に降臨することです。これは神が遥か昔に計画したことで、誰にも否定できません。全能神は裁きの働きのために真理を表し、多くの言葉を発し、勝利者の一団を作りました。つまり上記の預言は、完全に実現したのです。宗教界では、多くの人が「主は贖いの働きを終えた。だから終わりの日に裁きの働きをすることはない」と信じています。聖書にその根拠がありますか? 主イエスがそう仰ったのですか? 答えはノーです。この考えは人間の観念と想像、つまり希望的観測に過ぎません。聖書で預言されていることと完全に矛盾し、神の言葉でも裏づけられない実に馬鹿げた思い込みです。なぜ人は、主の言葉や聖書の預言を真摯に追い求めず、自分の観念を基に、終わりの日の神の働きを批判し、断罪するのでしょう? 理不尽でごう慢ではありませんか? 終わりの日の人の子の再来と裁きは聖書で多く預言されています。なぜ目の前の聖書を読もうとしないでしょうか? ちょうど聖書のこの一節のようです。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである(マタイによる福音書 13:14-15)。賢い者は、なぜ神は終わりの日に裁きの働きを行うのか、なぜ働きのために現れるのが人の子なのかを考えます。これは、聖書の預言を理解する前に答えるべき疑問です。

ではここで考えてみましょう。すでに人類を贖った主が、裁きの働きのために再び受肉するのはなぜでしょうか。この奥義はすでに全能神が明らかにしています。全能神の御言葉を見てみましょう。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉は非常に明白ですね? 主イエスは恵みの時代に人類を贖いました。ではなぜ終わりの日に裁きのために再来するのでしょう? 主イエスが終わらせたのは贖いの働きのみ、つまり神の救いの働きの半分に過ぎません。この働きは人の罪を贖い、主に祈り、主と交わり、主の恵みと祝福を受ける資格を与えました。罪を許され、聖霊がもたらす平穏と喜びを享受しながらも、人はいまだに罪を犯し続け、悔い改めては、また罪を犯すことを繰り返しています。誰も罪の束縛と足かせから逃れられず、苦しみながら生きています。辛くとも、自由になれる道はありません。これによってわかるのは、主によって罪を許されても、人の罪深い本性や堕落した性質は消えず、神に逆らい、抵抗し、神を批判する可能性があります。これは否定できない事実です。何年信仰していようとも、罪から逃れ聖くなることも、神に会う資格を得ることもできません。これは主の預言と完全に一致しています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:21-23)。へブル人への手紙の12章14節にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」このように、神の旨を行う者だけが神の国に進むことができます。しかしなぜ主は、主の名によって伝道し、悪霊を追い出した者たちを悪人と呼んだのでしょう? 多くの人が不思議に思うかもしれません。これはつまり、口では主を信じると言いながら、罪を犯し続け悔い改めていないからです。どれほど伝道を行っても、悪霊を追い出そうとも、主の承認を得られず、主の目には悪人として映ります。主の名によって何を行おうとも、主を侮辱することになり、主に憎まれます。たとえ罪を許されても、彼らに神の国に入る資格はあるでしょうか? 絶対にありません。彼らは今も主に引き上げられる日を夢見ていますが、それは人の幻想です。主イエスによる再来の預言は、主に会えるように人を空に引き上げることではなく、裁きを行い人の罪深い本性と堕落を清め、人を罪とサタンの力から完全に救い、美しい終着点に導くことを意味していました。これが終わりの日の神の裁きの働きの意味です。ここまでで、もうお分かりになったかと思います。恵みの時代の贖いの働きは、ただ人の罪を贖い、罪を許すためのもので、救いの働きの半分にすぎません。神は終わりの日に、さらに大きな働きを行います。主イエスの贖いの働きを礎に、全能神は終わりの日の裁きの働きの真理を表し、人を完全に清め、罪から救い、サタンの力から解放します。お分かりのように、主イエスの贖いは終わりの日の神の裁きのための下準備、つまり基礎的な働きでした。そして全能神の裁きの働きが、人類を救うための神の経営計画の最重要段階であり、この時代を締めくくるものです。主イエスの贖いの働きだけを受け入れ、全能神の終わりの日の裁きの働きを受け入れないのは、信仰の道の半ばで歩みを止めることと同じです。この最後の段階は最も重要で、人の運命と行く末を決めるものなので、この段階を踏まないことは、挫折に等しく、過去の苦労が水の泡です!「百里を行く者は九十を半ばとす」と言いますが、信仰の最終段階が人の運命が決める最も重要な局面です。信者の行く末と運命は、終わりの日の神の裁きの働きによって決定します。受け入れなければ神に淘汰され、悲しい結末を迎えます。つまり、神を何年信じていても、全能神を受け入れない者は、神に淘汰され、愚かな乙女のように必ず災難の中で涙を流し歯ぎしりすることになります。多くの未信者が全能神の働きを直接受け入れ、終わりの日の神の救いを得ました。彼らは幸運に恵まれ、全能神を受け入れずに淘汰される信者にとって代わります。そうなれば、悔やんでも悔やみきれないでしょう。何年も主を待ち続けた挙句、全能神が裁きの働きを行い多くの真理を表しているのを見ても、それを受け入れず、主が雲にのって現れるのを頑なに待ち続けために、最後は救いの機会を逃してしまうのです。信者としてこれ以上の悲しみはありますか?

それでは、全能神は、一体どのように裁きと清めの働きを行い、人を完全に救うのでしょう? これについては交わるべき真理が数多くありますが、今日は簡単にお話します。全能神は言われます。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。全能神はこう仰っています。終わりの日の裁きとは主に、人の堕落を暴露するための真理を数多く表して、人類の堕落した本質を裁くことだと。これにより人は自己を認識し、自分の堕落を知り、後悔の念を覚え、自分を嫌い、自分の肉を恨み、真に悔い改めることができます。この裁きの働きは、人に理解させるために真理をいくつか表すだけではなく、真理の多くの側面を表すことによって為されます。これらの真理はすべて人を裁き、暴露し、刈り込み、取り扱い、試し、精錬するためのものです。特に人の堕落した本質を裁き暴露する神の御言葉は、人のサタン的性質、本性、本質を非常に鋭く明らかにしています。これらの御言葉は痛烈で、私たちの心に突き刺さります。自分の堕落の深さを知り、人と呼ばれる価値もなく、隠れる場所もなく、ただ大地の裂け目に逃げ込み神の怒りを逃れたくなります。この裁きを経験して初めて、人は自分の堕落を知り、後悔の念に苛まれ、自分には神の祝福を得て、神の国に入る価値はないと悟ります。堕落した私たちに、神に会う資格などありません。神の裁きと刑罰なしには、本当の意味で自分を認識することはできず、口先で罪を認めるだけで、完全にサタン的な性質を生きていることに気づかず、神に逆らい抵抗し続け、それでも天国に行けると考えている。それはあまりに厚かましい妄想で、自己認識に欠けています。全能神の裁きと清めを経験した私たちは、御言葉が真理であり、貴重なものだと身をもって理解しています。神が表した真理だけが、人の堕落を清め、罪から救うことができます。御言葉の裁きを経験して初めて、堕落した性質を清め、変化させることができ、神の旨を行い、神の国に入る資格を得られるのです。終わりの日の全能神の裁きの働きは、人に道、真理、いのちを与えるものであり、全能神の働きによって人は真理といのちを得て、神の前に生きることができます。これは神からの大きな祝福です。

ここまでで、多くの人が理解されたと思います。人を救う神の働きは私たちが考えるほど簡単ではなく、人類を贖いその罪を許せば終わりではありません。神の救いの働きは罪悪やサタンの力から人を完全に救い、人を神に服従させ、神を崇めさせます。これは裁きの働きによってのみ実現されます。全能神は多くの真理を表し、裁きの働きを行っています。働きは壮大で、すべてを凌駕するものです。全能神の御言葉は世界を揺るがし、宇宙を震かんさせ、終わりの日の神の偉大な働きに、注目が集まり、世界が驚きました。真理を愛するすべての者が終わりの日の神の働きを調べ、真理を愛さない者だけが見て見ぬふりをし、神の働きを無視しています。しかし神の働きは宗教界や不信者の影響を受けず、着々と進み続けます。瞬く間に、大災難が始まり、終わりの日の神の裁きの働きは最高潮に達しています。神の家から始まる裁きを通して、一部の人を完全にする一方、多くの人を淘汰し災難を用いて神に抵抗する悪人を段階的に取り扱い、サタンによる悪の時代を完全に終わらせます。その後、新たな時代に突入し――キリストの国が地上に現れます。雲に乗った主を待ち続ける者は災難の中で涙を流し歯ぎしりをするでしょう。これは黙示録の預言のとおりです。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)。全能神はこう仰っています。「多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)

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