終わりの日、神はなぜ霊の姿でなく肉となって来たのか
全能神、救い主が終わりの日の裁きの働きに向けて真理を発して以来、多くの人が真の道を求めて調べ、救い主の降臨をお迎えしています。全能神の御言葉にはとてつもない権威と力があり、まさに真理だとわかった彼らは、それは聖霊の声で、普通の人は誰もそうした言葉を発せないと認めました。神の御声を聞いて全能神を受け入れ、神の御座の前に引き上げられ、子羊の婚宴に出たのです。神の選民は神の御言葉を日々飲み食いし、心がますます明るくなっています。神の存在を享受するだけでなく、御言葉の啓きを得て、多数の真理を学んで多くのことを理解します。また聖書の奥義も多数わかり、大きな喜びを得ます。信仰に満ち溢れ、神への愛も深まります。神の選民の多くは、中国共産党の圧迫、逮捕、迫害に遭っても恐れません。家庭も俗世の繋がりも捨て、福音を広めて神の証しをすることを義務とします。共産党の残酷な取り締まりや迫害を受けても、ひるむことなく勇敢に神に従い、神を証しします。打ち負かされることも、一掃されることもなく、美しい神の証しをしました。今、全能神の国の福音は世界各国に広まり、その多くで全能神教会が設立されています。ますます多くの人が神の御声を聞いて全能神に立ち返り、オンラインで全能神の働きを調べる人も増えていますが、これは主イエスの預言を完全に成就します。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。全能神の御言葉の通りです。「わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにする。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大な力を持つ全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは我が選民と向き合って、さらに多くの言葉を彼らに語りかける。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。あたかも赤児が生まれたばかりであるかのように、すべての人々が喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の『オリーブ山』にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。つまり、すべての国がわたしにひれ伏し、すべての人がその言葉でわたしを認め、すべての人がわたしを信頼し、またすべての人がわたしに服従するようにすることである」(『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」〔『言葉』第1巻〕)。
全能神の発する言葉は偉大な光のごとく、東から西へとすでに広まっています。各国の神の選民が福音を伝え、神の証しをし、サタンを負かしてすべての栄光を得た神を歓喜して称えています。救い主全能神は災害の前に現われて働きをなし、勝利者の一団を作りました。御国(みくに)の福音が各国に広まり、災害がそれに続きました。神の家から始まる裁きの働きがすでに大成功を収め、その後、神があらゆる災害を用いて世を裁き、罰したことがわかります。それらの災害によって御国の福音が広まり、より多くの人を罪とサタンの勢力から救います。一方、神は災害を用いて、暗く邪悪なこの時代を罰して終わらせ、神に逆らう悪しき勢力を一掃します。これが、神による終わりの日の裁きの働きの成果です。全能神、救い主は多数の真理を表わし、偉大な働きをなして世を揺るがしました。しかし宗教界の大勢はいまだ赤い大きな竜、中国共産党に騙され、宗教界の反キリスト勢力に縛られています。主は雲に乗って霊の姿で現われ、人の子として戻るはずはないという考えに固執し、それゆえ、雲に乗って来ないものはすべて偽物だ、主が人の子だという証しは嘘で、人への信仰に過ぎないと確信しています。教会に対する聖霊の言葉を求めて調べたり、神の御声を求めて聞かないだけでなく、宗教界の反キリストに従い、全能神の出現と働きを頑なに批判し、断罪し、冒涜します。それゆえいまだ主をお迎えしておらず、闇に落ちて泣いて歯ぎしりし、その生死は誰も知りません。多くの人がこう問います。主イエスは復活後40日間、霊の姿で現われた。だから霊の姿で戻られるはず。全能神が霊でなく、受肉した人の子として現われたのはなぜか?多くの人がこの疑問を抱き、霊でなく肉体だからといって、全能神を受け入れません。本当に残念です!唯一の救いの機会を逃し、永遠に後悔するでしょう。次に、この疑問に関するお話をします。終わりの日、神が霊でなく肉において現われるのはなぜか。
まず、終わりの日の主の出現と働きですが、主イエスが人の子として終わりの日に再臨し、働きをなすことは確認できます。これは主イエスご自身による複数の預言を根拠とし、人が決めたことではありません。主が霊で戻るのか、人の子として肉の姿で戻るのかは、神がはるか以前に決めたことで、そこに人の選択はありません。人は従うより他になく、観念や想像を基に決めつけることはできません。事実、神の定めた出現の仕方が人の観念に合わなくても、それが最善であり、人の救いに最も有意義かつ有利なのです。絶対にそうです。想像を基に取り組んではならず、賢い乙女にならねばなりません。それが主の出現をお迎えする唯一の方法です。人はあくまで決めつけようとし、雲に乗って降臨する主しか受け入れようとせず、受肉した人の子を拒みます。そうした態度の結果は何でしょう?きっと災害に陥って罰せられ、自ら滅びを招きます。賢い乙女なら、主のお求めどおりにし、神の御声を聞いて主を迎え、どんな姿でも喜んで受け入れ、従うべきです。選り好みしてはいけません。さもないと愚かな乙女になり、災害に陥り泣きわめいて歯ぎしりします。では、終わりの日にいったい何が起きるのでしょう?神は霊の姿で戻るのか、人の子として戻るのか?まず、神の霊と人の子、どちらと接触するのが簡単かから話しましょう。霊を通じて語るのと、肉を通じて語るのと、どちらが簡単でしょう?どちらも人の子のほうが簡単だと、多くの人が答えるはずです。そのとおり。だから神は恵みの時代に出現して働きをなしたとき、肉となったのです。主イエスは人の子でした。人のあいだで暮らし、一緒に飲み食いしました。多くの人が主に従い、主と交わり、語り、交流しました。まったく自由で、制限は一切ありません。誰もが主イエスの愛おしさを見たのです。主に潤され、施され、支えられ、多くの真理を学べました。多くの真理を発した主は十字架にかけられ、人の罪の捧げ物になりました。主イエスを救い主として受け入れ、主に告白して悔い改めれば、誰もが罪を赦された。そして罪を赦された平安と喜び、神からの恵みを享受できたのです。磔刑に処されて復活した主は天に昇り、ますます多くの人が主の福音を伝え、主イエスは救い主、神の出現だと証しし始め、主イエスの福音は早くから世界各国に広まりました。これにより、神が人の子として肉となり、人を贖って救うのが、最も有効だとわかります。人は神の霊を見ることも触れることもできず、そうした交流は無理です。神の霊と交流することはできません。神の霊が語ると、誰もが恐怖に震えます。どうして交流できるでしょう?それに、神の霊が十字架にかけられるなどあり得ません。見ることも触れることもできないものを、どうして十字架にかけられるでしょう?これで、神が人の子として働くのが最善だとわかります。主イエスが人類を贖う働きを終えたとき、神は称えられた。これははっきりわかる事実です。主イエスの働きの事実から、人類を救う神の働きにおいて、それが贖いの働きだろうと、終わりの日の裁きの働きだろうと、人の子として受肉するのが最適だと確信できます。最善の結果を生み出すのです。また、神が終わりの日に人の子として受肉することで、主イエスの預言が成就します。「人の子の現れる」、「人の子が来る」、「人の子もその日には」。聖書に詳しければ、主の御言葉が成就したとわかるでしょう。ならば、人の子の出現と働きにまつわる観念に、多くの人が固執するのはなぜか?主は雲に乗って霊の姿で降臨すると、多くの人がいまだ言い張るのはなぜか?これは実に愚かで無知です。神が人の子として謙虚に、密かに現われ、働くのは、それが一番効果的だからというだけでなく、神の性質と、謙虚に目立たないことの愛おしさを知らしめるためです。神は人の子として人と直接接し、面と向き合い、一緒に飲み食いして暮らし、また真理を表わすことで、人を潤し、牧養し、救います。これが神の偉大な愛です!なぜ人には見えないのでしょう?全能神の御言葉にあるとおりです。「神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。……神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉と血の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない」(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与える働き、そして見て触ることのできる働きである。現実的な働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間を堕落した邪悪な性質から救える。それを成し遂げられるのは受肉した神だけであり、受肉した神だけが、人間をかつての堕落した邪悪な性質から救えるのだ」(『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」〔『言葉』第1巻〕)。
全能神の御言葉は極めて明快です。終わりの日の裁きに向けて肉になることでのみ、神は人を完全に清めて救い、美しい終着点へと導ける。全能神が共に暮らし、いつも真理を交わって実際の解決を問題するのを、私たちはこの目で見てきました。全能神は人の堕落を観察し、御言葉を記して真理を施します。私たちは心から御言葉を享受し、霊が解放されています。神が真理を交わるとき、私たちは神に質問でき、神は辛抱強く答えます。全能神は人のあいだで暮らし、共に語って交わります。私たちの言動、そして考えさえも、神にはすべて明らかで、すぐ目の前にあります。神はいつでもどこでも真理を表わし、私たちのサタン的性質、神に関する観念と想像を明るみに出し、信仰での間違いや追求の誤った観点を正せます。受肉した神はこうして私たちを自ら潤し、牧養し、面と向かって教え、支えます。これは私たちにとって、心温まる素晴らしい経験です。神はとても愛おしく、近しい存在です。私たちは神の愛おしい側面を無数に見て、心の底から愛せます。キリストは多くの真理を表わし、かくも偉大な働きをなしますが、とても謙虚で目立たず、自分を誇ることも、神として誇示することもありません。とても気さくで親切に接し、話を聞くよう無理強いすることはありません。キリストには傲慢さや偉ぶった態度がかけらもなく、その言葉は信頼に足り、嘘も見せかけも策略もありません。私たちと家族のように接し、心の内を語り、おしゃべりします。本当に心温まることです。キリストの人間性に堕落は一切見られません。正常な人間性、つまり優しく聖い人間性を有しています。キリストはいつでもどこでも真理を表わし、人に糧を施し、支え、導けます。それ以上に、キリストは正常な人間性だけでなく、神性の実質を有していると断言できます。キリストはまさに神の出現、肉における実際の神なのです。私たちは今日までキリストに従い、真理、道、いのちだとわかっています。キリストを除き、どんな有名人や偉人も真理を表わし人を救うことはできません。神の受肉した姿の中に、神が所有するものと神そのものを多数見ることができます。キリストの神性の実質や、神の性質が聖く義であることを見て取り、また神が謙虚で目立たず、実に優しく美しいことを目にします。これによって神に近づき、服従して愛するようになります。人類を救う受肉した神の働きは実に有意義で、神と人との溝を埋めるだけでなく、神に関する実際の知識と理解を得られるようにします。神の実際の働きを通じて、私たちは徐々に真理を理解して現実に入り、傲慢さや不実さなど多数の堕落した性質を自分から一掃します。真の人間らしく生き、神の救いという恵みを得ます。終わりの日の全能神の働きを通じ、受肉した神の働きがいかに現実的で本物かを実感するのです!神が受肉していなければ、かくも具体的な潤しと糧を神から得られず、まして真理を得て理解し、罪を捨て、神に完全に救われるなどあり得ないはず。神が肉において裁きの働きをなさなければ、不可能なのです。
ゆえに、誰もがはっきりわかります。神が終わりの日に肉となり、真理を表わし裁きの働きをなすのは、ひとえに人類を清めて救うためだと。神が霊において現われ、働きをなすなら、我々堕落した人類に真理を理解して得る機会はなく、堕落を一掃して神に救われるのは無理でしょう。疑う余地はありません。しかし宗教界の大勢は、全能神が多数の真理を表わすのを見て、全能神の御言葉に権威と力があることを認めていますが、普通の外見をした人の子だからといって、全能神を批判・断罪し、神でなく人だと言い張り、我を忘れて全能神の出現と働きに逆らい、断罪し、冒涜しています。二千年前、主イエスが働きに来られたときのことを思わずにはいられません。主イエスが普通の外見をしていたので、パリサイ人は主をありふれた人のように扱い、こう決めつけました。「ナザレの人じゃないか?」「大工の息子じゃないか?」どれほど多くの真理を表わそうと、いかに偉大な奇跡をなそうと、パリサイ人は求めも受け入れもせず、むしろ主イエスを非難・断罪し、魔王の力を借りて悪霊を追い出していると言い、しまいには十字架にかけてこの上ない大罪を犯し、神に呪われ懲罰されました。今再び、神は人の子として現われ、働きをなしています。人はどうしてそれを認識せず、キリストに逆らい、断罪し、拒むのでしょう?どこが間違いでしょう?外面だけを見て、キリストが普通の人のように見えるからです。考察せず、キリストが表わすすべての真理を認識しません。キリストの神性の実質を見ず、人の観念でキリストに逆らい、断罪するばかりです。ゆえに懲罰を受けて呪われます。聖書にはこうあります。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネによる福音書 3:36)。真理を表わす人の子を断罪し、逆らう者は聖霊を冒涜する罪を犯し、この世でもあの世でも赦されません。賢い乙女は真理を求め、神の御声に耳を澄ませなければなりません。終わりの日、主は人の子として再臨し、語って働きます。それを受け入れる人は真理を愛する人です。人の子を拒み、逆らい、断罪する人はみな、真理を憎んでいます。神は人の子の出現と働きを通じ、各人の正体を暴きます。これが神の知恵で、その全能を明らかにします。
まとめとして、神の御言葉を2節見てみましょう。
全能神は言われます。「今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる。人は終わりの日の神の働きにより、地上で人々のあいだで生きている天の神を見られるようになり、また神を知り、神に従い、神を畏れ、神を愛することができるようになる。これが、神が二度目に肉へと戻った理由である。今日人が見るものは、人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的に神は、あなたがたに次のことを示すだろう。すなわち、この人が存在していなければ、天と地は巨大な変化を経験し、この人が存在していなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになる、ということである。終わりの日にあなたがたを救うべく、受肉した神が来ていなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずだということを、神はあなたがたに示すだろう。またこの肉が存在していなければ、あなたがたは永遠に大罪人で、死体のままであるということを、神はあなたがたに示すだろう。この肉が存在しなければ、全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日に神が人類へと繰り出す、さらに厳しい懲罰から逃れるのは不可能であるということを、あなたがたは知るべきである。この普通の肉が生まれていなければ、生きようと懇願しても生きられず、死を願っても死ねない状態に陥るだろう。この肉が存在しなければ、今日、あなたがたは真理を得て神の玉座の前に来ることができず、それどころか、あなたがたの深い罪ゆえに、神によって罰せられるだろう。神が肉へと戻ることがなければ、誰にも救いの機会はなかったはずだということを、あなたがたは知っていたのか。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずだということを、あなたがたは知っていたのか。そうであれば、あなたがたは神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなたがたは、この普通の人から多くの利点を引き出すことができるのに、なぜ喜んでこの人を受け入れようとしないのか」(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)。
「終わりの日における神の働きのすべては、この普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、またそれ以上に、あなたに関係するすべてのことを決定できる。このような人が、あなたがたが思っているように、言及する価値もないほど取るに足らないということがあり得るだろうか。この人の真理はあなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。この人の業の証しは、あなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。あるいは、この人がもたらす道は、あなたがたが歩む価値などないということなのか。結局あなたがたがこの人を忌み嫌い、見捨て、距離を置く理由は何なのか。真理を表すのはこの人であり、真理を施すのはこの人であり、あなたがたに従うべき道をもたらすのもこの人である。あなたがたが依然として、これらの真理の内に神の働きの痕跡を見つけられないということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類が十字架から降りることはできなかったはずだが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる者たちが神に認められることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなたがたに神の本当の顔を見る機会はなく、またその資格もない。と言うのも、あなたがたはみな、はるか昔に滅ぼされているべき対象だからである。二度目に受肉した神の到来のゆえに、神はあなたがたを赦し、あなたがたに憐れみを示してきた。いずれにしても、最後にわたしがあなたがたに言い残さなければならない言葉はやはりこうである。受肉した神であるこの普通の人は、あなたがたにとって極めて重要である。これこそが、神が人々のあいだで成し遂げた偉大なことなのだ」(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)。
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