宗教指導者に従うことは神に従うことと同じか?

2023年10月6日

2千年前、救い主、主イエスは贖いの働きをするために現れ、ユダヤ教の祭司長や律法学者、パリサイ人から激しく断罪されました。そしてユダヤ教徒の多くが指導者を崇拝していたので、そのような反キリスト達に従い、主イエスを断罪・拒絶し、最後には十字架にかけました。大罪を犯した彼らは神の呪いと懲罰を受け、2千年にわたるイスラエルの亡国を招きました。主イエスは終わりの日に受肉した全能神として再来し、人類を完全に清めて救うべく、真理を表して裁きの働きを行い、宗教指導者から激しい断罪と抵抗を受けています。彼らは教会を封鎖し、信徒が真の道を探ることを阻止し、その結果多くの人が、全能神の言葉が真理であり、力と権威があり、神のものだと認めながらも、調べて受け入れようとせず、主を迎える機会を逃し、災難に陥っています。主を迎えるにあたり彼らが犯した過ちは何でしょうか。それは宗教指導者を崇めたことです! 彼らの考えは、宗教指導者は神に召命され、神に使われるので、彼らに従うことは神に従うことと同じ。だから指導者に付き従い、その言葉が神の言葉かのように服従するのです。また多くの人が、主イエスの再来はまず聖職者に知らされるので、聖職者が何も言わないのだからまだ主は再来していないと考え、全能神の働きを調べようともせず、宗教指導者に従い全能神を断罪します。そのため災難に陥り、携挙の機会を逃しているのです。一体誰が悪いのでしょう? 一言では言えません。かつて主イエスに抵抗し、断罪したパリサイ人は神に呪われましたが、宗教界の多くの人がその辛い教訓をいかせず、聖職者を無闇に崇め、彼らと一緒になって再来した主イエスを断罪し、十字架にかけようとしています。本当に残念なことです! では聖職者というのは本当に神に召命されたのでしょうか? 彼らに従うことが神に従うことになるのでしょうか? それを明らかにすることが喫緊の課題です。

多くの信者が、教会指導者、つまり教皇や、神父、牧師、長老などの聖職者は、主イエスに召命され、使われ、信徒を導く権威をもつので、彼らに従うことが神に従うことだと考えています。この考えの根拠は一体何でしょうか? 主イエスはこれまでに宗教指導者が神に召命されたと言いましたか? 言っていません。聖霊の証し、または聖霊の働きの証しはありますか? ありません。つまりこの考えは完全に人の観念なのです。考えてみましょう。もし宗教指導者がすべて神に召命されたのであれば、主イエスに抵抗し、断罪したユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人たちも神に召命されたと言えるのでは? 主イエスを十字架にかけた彼らに従うことも、神への服従ですか? 聖職者に対するこの考えは馬鹿げています! また聖書からもわかるように各時代の神の働きにおいて、神は確かに人を働きのために使っています。彼らはみな神に呼ばれ、神に証しされており、神の言葉もそれを示しています。彼らは人によって任命されたのではなく、人に訓練されたのでもありません。律法の時代、神に使われ、イスラエルの民をエジプトから脱出させたモーセは、ヤーウェ神自身の言葉で証しされています。ヤーウェ神はモーセにこう言いました。「いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう(出エジプト記 3:9-10)。恵みの時代、主イエスがペテロに信徒の牧養をさせたことも、証しされています。主イエスはペテロにこう言いました。「『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』……私の羊を養いなさい(ヨハネによる福音書 21:17)。「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう(マタイによる福音書 16:18-19)。それぞれの時代に神に使われた人は、神に召命され、証しされており、聖霊の働きでも証しされています。律法と恵みの両時代、神に使われた人は、神に召命され証しされることもあれば、他の方法が用いられることもありました。直接召命されない場合は、預言者を通して明らかにされたり、聖霊の働きに証しされました。これは否定できない事実です。現在の宗教界では、教皇、司教、神父、牧師、長老という役割は、誰によって与えられていますか? 神の言葉の証しはありますか? 聖霊の働きの証しは? 聖霊が証しをしていますか? そんなことはありません! 事実、このような教会の宗教指導者たちは、そのほとんどが修道院や神学校を卒業し、神学の学位をもっています。そしてその学位により、教会の信徒を指導する役目を与えられています。才能があり、弁が立ち、熱心な人は、上層部の推薦を受けてより高い地位に就きます。宗教界の聖職者のほとんどがこのように地位を得ますが、大部分の人が聖霊の働きを欠いています。聖霊の働きがある人もまれにいますが、聖霊の証しはありません。ですから彼らは、神に証しされた人でも、神に使われる人でもありません。人が育て、人が選んだ指導者たちなのです。では彼らはなぜ、神に召命されたと主張するのでしょうか? 事実に反してはいませんか? 明らかな嘘をつき、自分で自分の証しをしているだけでは? その結末は何でしょう? 信徒を騙し、害を及ぼす行為では? 宗教指導者の中には、ペテロに対する主イエスの言葉を引用し、厚かましくも、主イエスがペテロに与えた権威が教皇に引き継がれた、教皇は神に承認された、主イエスの代弁者だと主張し、教皇に従う神父もまた、神に承認されているから、人の罪を赦せると言います。馬鹿げてはいませんか? 主イエスはペテロに言ったのでしょうか?「自分が与えた権威を、代々の聖職者に引き継がせよ」と。一言も言っていません! ペテロはそんな話を残していますか? 残していません! そのようなことは聖書に書かれていません。また当時は教皇もおらず、神父も存在していませんでした。ですから自分たちが神に承認された主イエスの代弁者だという聖職者たちは、神のふりをして人を惑わせているのです。そんな聖職者に服従し、崇拝することは偶像崇拝になりませんか? 神への抵抗では? 多くの人がこのことを理解せず、自分たちの指導者を闇雲に崇め、神が彼らを召命したと信じています。なんと愚かで無知なことでしょう。偶像崇拝する不信心者と何が違うのでしょう。神を信じながらその言葉に従わず、他の人間を神とみなし、崇め、跪き、罪を告白するなら、神を辱め、冒とくしているのでは? このように愚かな人が神に救われるでしょうか? おそらく、このように愚かな人は神の承認を得られないでしょう。

大事なのは、神の召命は、軽々しく恣意的になされるわけではなく証しが必要だということ。モーセの召命には神の証しがあり、イスラエルの民はそれを理解していました。主イエスによるペテロの召命も事実であり、弟子たちは理解していました。「神に召命された」と言うには、事実的根拠が必要で、恣意的に主張することはできません。さらに、神によって召命される人には、聖霊の導きと聖霊の証しが必ずあります。その働きは神の旨をなすことができ、明らかな成果が達成され、神の委託を完遂させます。全能神の言葉を見てみましょう。「その働きの本質と神に用いられる背景について言えば、神に用いられる人は神によって起こされ、神の働きのために神によって用意され、神自身の働きに協力する。その人に代わってその仕事を行なえる者は決していないだろう。それが、神性の働きとともに欠くことのできない人間の協力である。一方、他の働き手や使徒が行なう働きは、教会に関するその時々の取り決めについて、その多くの側面を伝えて実行するもの、さもなければ教会生活を維持するためのちょっとした単純ないのちの施しの働きである。そうした働き手や使徒は神に任命されるのではなく、ましてや聖霊に用いられる者と呼ぶことはできない。彼らは教会の中から選ばれ、一定期間の訓練を受けて養成された後、適した者が残され、適していない者は元いた場所に帰される。こうした人々は教会の中から選ばれるため、中にはリーダーになるとその本性を現わす者もおり、様々な悪事を働いて最終的に淘汰される者すらいる。一方、神に用いられる人は神によって用意された人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせている。その人はあらかじめ聖霊によって用意され、完全にされており、ひとえに聖霊によって導かれ、特にその働きについては聖霊から指示と命令を受ける。その結果、神の選民を導く道から逸れることは一切ない。なぜなら神は自らの働きに必ずや責任をもち、常に自らの働きを行なっているからである(『神の出現と働き』「神が人間を用いることについて」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉からわかります。働きのために召命され使われる人というのは、はるか昔に神に決定され、神の選民を導くために神に取り立てられる人。その働きや教えは、聖霊の支配と導きによるものであり、神に召命されていない人は、何人たりとも代わりにはなれません。律法の時代のモーセ、恵みの時代のペテロは、神の選民を導くという神の言葉と求めにきびしく従い、神は常にそばにいて、あらゆる局面で彼らを導きました。神は不適格な人や、神に抵抗する人を使わずその働きに常に責任をもちます。神が使う人は、その働きと言葉において常に聖霊の啓きをえます。そして神の言葉の純粋なる理解を広め、神の選民が神の言葉や旨、神の求めを理解できるようにし、常に真理を使って神の選民の実際的な問題を助けることで、彼らが神の言葉の現実や正しい信仰に入れるようにします。神の選民は、神に使われる人の牧養を受け入れ服従することで、いのちの糧を得ることができ、徐々に真理を理解し、神の働きと性質への認識を深め、神への信仰と愛を強められます。神の選民が彼らを支持するのは、彼らが神に召命され神の旨を行う人だと知っているからです。その人の導きを受け入れ、従うことは、神に従い、服従することであり、神の旨に沿っています。神に召命される人は、神の選民が神の働きを経験し、神に従えるよう導く役目を負い、その働きと教えは、聖霊の導きと啓きに基づいています。彼らの導きを受け入れ、従うことは、神に従うことに等しく、彼への抵抗は神への抵抗に等しいため、神の暴露と淘汰、または呪いと懲罰を受けます。モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを出た時、モーセに逆らったコラとダタンは、神の懲罰を受けました。これは明白な事実です。

現代の宗教指導者たちを見てみましょう。カトリックの教皇、司教、神父やその他キリスト教の牧師や長老たちは、神に召命されましたか? 神に証しされていますか? 聖霊の働きの証しはありますか? 働きの成果の証しはありますか? どれも答えはノーです。彼らは神に召命されたのではなく、人に選ばれたからです。彼らは神学校で学び、公的な宗教組織による任命を受けているため、警戒が必要です。そのほとんどは真理を信じず、神への真の信仰もありません。彼らが信じるのは、神学や地位や肩書、自分の収入です。どれほど聖書の知識が深く、その教えが優れていても、聖霊の働きも導きもなく、聖霊による啓きもありません。つまり彼らは偽の羊飼い、不信心者であり、神の承認を得ていません。そんな人を崇拝し、従うことは極めて愚かではありませんか? 神の言葉の証しや聖霊による証しがないばかりか、彼らの身分を裏付ける証拠はただの1つもありません。全能神はかくも多くの真理を表し、人の本性を明快に暴いています。真理を愛するかどうか、真理を認めるかどうか、真理を受け入れるかどうか、そして真理を嫌い拒むかどうか。すべて暴かれます。全能神の言葉は真理で、全能神は受肉した神だと認める人は、真理を愛する人であり、神の承認を得ることができます。神の声を聞く賢い乙女として、神の玉座の前に引き上げられます。全能神がかくも多くの真理を表しているのを見ても、神の出現と働きに抵抗し、断罪し、否定し続ける人は、真理を心から憎む人、神に抵抗し断罪する反キリストです。すでに災難に陥り、神の懲罰が下ろうとしています。カトリックだけでなく、全能神に抵抗している、すべての教派の指導者に言えることです。宗教界がこのような反キリストに牛耳られているというのは、誰も否定できない、周知の事実です。司教や神父、牧師や長老が、全能神の働きに抵抗し断罪する反キリストの集団だと分かった今、どう対応すべきでしょうか? 彼らを拒んで呪い、その束縛から逃れなければなりません。それが賢い選択です。真の道を彼らに求め続け、善悪を判断してもらうことは、非常に愚かなことであり、無知蒙昧であると言えます。盲人が盲人を手引きすれば、2人とも穴に落ちる。この聖句のとおりです。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる(ホセア書 4:6)

はっきりしているのは、カトリックやその他の教派の指導者たちは皆、あからさまに全能神を断罪していますが、これは自分の地位と収入を守るためです。信徒をがっちりと囲い込み、その財産を奪い、寄生虫のように信者にたかり、悪魔のように信者の骨をしゃぶっています。このような反キリスト達は、自分の地位と収入を守るため悪意ある嘘をでっちあげ、主の再来の知らせはすべて嘘である、主イエスは必ず雲に乗って降臨する、主の2度目の受肉を受け入れるのは偽キリストを受け入れることだ、などと、嘘をついて人を惑わし、信者が真の道を調べることを阻止し、共産党と協力して、神の国の福音を広める人を逮捕し、迫害しています。このような宗教指導者は、主イエスに抵抗したパリサイ人とどう違うのでしょう? 彼らが神を十字架にかけるのでは? 人を惑わし、破滅させる偽の羊飼い、反キリストでは? パリサイ人を断罪する主イエスの言葉を見てみましょう。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイによる福音書 23:13)。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする(マタイによる福音書 23:15)。現在の宗教指導者の多くが、主イエスに激しく抵抗したパリサイ人と同じように、信者の邪魔をし、神を嫌い、神に逆らっています。彼らこそ終わりの日の反キリストの悪魔なのです。

全能神の言葉をもう少し見てみましょう。全能神は言われます。「各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『わたしたちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)

荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)

最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。神の新しい働きに対して敵対する態度を常にとり、従う意志など微塵もなく、喜んで服従したり謙虚になったりすることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で自分を称揚し、決して誰にも従わない。神の前では、自分が説教に最も長けており、他の人に働きかけることにおいても自分が一番熟練していると考える。自分が所有する『宝』を決して手放さず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。教会にはこのような人が、確かに一定数存在する。このような人々は、『不屈の英雄』と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まる。彼らは言葉(教義)を説くことを自分の最高の本分と捉えている。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの『神聖で犯すべからざる』本分を続ける。彼らにあえて触れようとする者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりとしていない。神の家で『王』となり、何代にもわたってはびこり、他の者たちに圧政を加える。このような悪魔の群れは、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔がわたしの目の前にいるのを、どうしてわたしが許せようか(『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」〔『言葉』第1巻〕)

もうお分かりになったことでしょう。宗教指導者の多くが、真理を嫌い神を憎む反キリストで、人を惑わせる悪魔の下僕、偽の羊飼いです。その話に耳を傾け服従することは、神への服従でも神に従うことでもなく、サタンに従い、神に逆らい、サタンと同類になることで、神に憎まれ、呪われます。私たち信者がすべきことは、神を崇め、畏れ神と真理に服従することです。人を崇め、人に従ってはなりません。主イエスも言っています。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ(マタイによる福音書 4:10)。宗教指導者が真理を愛する人であり、その言葉が主の言葉と一致し、神を畏れて悪を避けるよう導くならば、その言葉に従い、服従することは神への服従と同じです。でもその言葉が真理と一致せず、主の言葉に反するなら、拒むように。彼らに従うことは、人間、そしてサタンに服従することです。宗教指導者が真理を拒絶し、憎み、真の道を調べる信者の邪魔をするなら、彼らは反キリストです。神のそばに立ち、彼らを暴いて拒絶する必要があります。きっぱりノーと言い、その束縛を逃れ、真の道を求め、受け入れ、神の足跡を追いましょう。それが真に神を信じ、従うこと。神の旨に沿うことです。祭司長やパリサイ人に捕らえられたペテロはこう言いました。「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒行伝 5:29)

全能神の言葉をさらに見てみましょう。「神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちへの入りを追い求めているのであれ、神の旨を成就させることを追い求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならない。あなたが交わり、そして追い求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っている。神が望むのは神の歩みに従う人である。あなたが以前に理解したことがどれほど素晴らしく、また純粋なものであっても、神はそれを望んでおらず、あなたがそうしたことを脇へのけられないなら、それは将来におけるあなたの入りにとって大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従える人はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで従うことはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。神が自分をどこへ導こうともそれに付き従うほど、聖霊の現在の働きと神の歩みに従える人たちは、神に祝福される人である。聖霊の現在の働きに従わない人たちは神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど駆け回ろうとも、そのどれも神には意味がなく、神はそうした人を賞賛しない。……『聖霊の働きに従う』とは、今日の神の旨を理解し、神の現在の要求に従う形で行動すること、今日の神に服従して付き従うことができ、神が発する最新の言葉に従う形でいのちに入ることを意味する。聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいるのはそうした人だけである。そのような人は神の賞賛を受け、神を目の当たりにできるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と実質を神の最新の働きから知ることもできる。さらに、奉仕する中で自分の性質を徐々に変えることができる。このような人だけが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人である(『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」〔『言葉』第1巻〕)

この言葉で明らかなように、神を信じ、神に従うことは、真理に従い受け入れること。神の今の働きと言葉を受け入れ、神の足跡を追うことです。神の働きが人の観念といかに違おうと、どれほどの人が抵抗し、断罪しようとも、それが真理であり神の働きなら、受け入れ、従わなければ。これこそが、神を信じ神に従う道です。黙示録にもこうあります。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く(マタイの黙示録 14:4)。終わりの日、全能神が働きのために来て、多くの真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを通して人類を完全に清め、救い、悪とサタンの勢力から逃れさせようとしています。これは、千載一遇の機会であり、救いを得て神の国に入る唯一の道です。今世界中で神の出現を心待ちにしている多くの人が、ネット上で全能神の働きを調べています。その言葉がすべて真理であり、神の声であると認め、教会指導者の束縛を逃れ、教会の支配から抜け出し、子羊の婚礼に参加するため、神の玉座の前に出ています。しかし宗教界ではまだ多くの人が闇雲に聖職者に従い、崇め、反キリスト勢力の束縛から逃れられず、荒地に閉じ込められ、雲に乗って降臨する主をただ待ち続け、神に拒絶され、淘汰され、災害の中で泣きわめき、歯ぎしりしています。これは主イエスの言葉と一致します。「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう(マタイによる福音書 15:14)。神を信じると言いながら、神に逆らい人に従っているので、神にとっては不信心者です。神は聖く、悪を憎みます。神の義はいかなる背きもゆるしません。人を崇め、反キリストに従い神に逆らって冒とくする人や、真理を愛することも受け入れることもせず、聖書にしがみつく人を神は救いません。神の旨は、宗教的なバビロンから人を自由にし、宗教界の反キリスト勢力の束縛から解放し、宗教を離れ、真理と神の働きを求めさせ、主の出現と働きを迎える希望を与えることです。

では全能神の言葉をもう少し見てみましょう。「あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有力な地位にある偽の羊飼いたちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を敬愛しないが、世の汚れにふける放蕩な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを狙い、放蕩な生活を送る屍を敬愛する。あなたはキリストのそばで苦しもうとせず、あなたに肉、言葉、支配しか施さない無謀な反キリストの腕に喜んで飛び込む。今でさえ、あなたの心は彼らに、彼らの評判に、彼らの地位に、そして彼らの影響力に向いている。それなのに、あなたはキリストの働きを飲み込みがたいものにする態度をとり続け、進んでそれを受け入れようとしない。だから、あなたにはキリストを認める信仰がないと、わたしは言うのである。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、他に選択肢がなかったからに過ぎない。一連の気高いイメージが、あなたの心にいつまでもそびえている。彼らの言葉や行ないの一つひとつが忘れられず、影響力がある言葉や手腕も忘れられない。あなたがたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に取るに足らない存在であり、畏れる価値も永遠にない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさすぎ、高尚さからかけ離れているからである。

いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信者にして真理を裏切る者だとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得られない。自分の中に不信仰がどれほどあるのか、キリストへの裏切りがどれほどあるのか、あなたはもう突き止めたのか。わたしはあなたに以下のことを勧める。真理の道を選んだ以上、誠心誠意献身すべきである。あいまいであったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、真に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人に属するのだと知るべきである(『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」〔『言葉』第1巻〕)

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