信仰を通して救いを得た人は天国に入れるのか

2021年12月15日

ウィルスの感染拡大は留まることを知らず地震、洪水、虫害、飢饉も始まっています。多くの人が絶えず不安を感じ、信者は雲に乗って降臨した主により天に引き上げられ、災難の苦しみから逃れ、死を免れる日を、心待ちにしています。自分たちがなぜいまだに引き上げられて主と対面していないのか理解できず、何もわからずただ空を見上げています。多くの人がひどく心を痛めています。教会の聖職者たちが感染症によって命を落としているのを目の当たりにして、自分たちは神に見捨てられ、災難に陥ったのではないか、自分たちは生きのびられるのかと不安を感じ、途方に暮れています。黙示録の預言に、主イエスは災難の前に降臨し、人が災難に陥らないよう、天に引き上げるとあります。それが人の望みです。人の信仰は災難を逃れ永遠のいのちを得るため。しかし災難はすでに降りかかっているのに、なぜ主は雲に乗って現れ、信者を迎え入れないのでしょう? 信仰を通して人の罪は赦され、義と認められ救いを得られるはず。なのにまだ天国に導かれていないのはなぜでしょう? 苦しみの中、何年も主を待ち続け、辛酸をなめてきたのに、なぜ主はまだ現れず、人が主と対面し、災難の苦しみを逃れられるよう、引き上げてくれないのでしょう? 主は本当に人を見捨てたのでしょうか? 多くの信者がこの点を疑問に思っています。でも、信仰による救いは人を天国に導くのでしょうか? このことについて、私の個人的な理解を少しお話しします。

交わりを始める前に、ひとつはっきりさせておきましょう。信仰を通して義とされるという考え方は、神の言葉に裏づけられているのでしょうか? 信仰を通して義とされることで天国に行けると、主イエスは言っていますか? 言っていません。聖霊はそう証しをしていますか? していません。つまりこの考えは完全に人間の観念であり、天国に導かれる根拠にならないことがわかります。事実、誰が天国に行けるのかについて、主イエスはこう明言しています。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:21-23)。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)。「きよさがなければ、だれも主を見られない(へブル人への手紙 12:14)。主イエスは明確に言っています。神の旨を行う人だけが天国にはいれ、罪から逃れ、清められた人だけが天国に留まれると。これこそが天国に入る唯一の条件なのです。罪を赦され、信仰により義とされることは、神の旨を行うことと同義ですか? もう二度と罪を犯したり、神に抵抗したりしないと言えますか? もちろん言えません。主を信じる人が目の当たりにしているのは、罪を赦され信仰により義とされても、人は罪を犯し続け、罪を犯しては悔い改めるという悪循環に陥っているということ。罪から逃れられない苦しみの中で生きざるを得ないのです。どの教派にも、嫉妬し合い、他人と争い、名声や利益を求め、互いを誹りあう人がいます。これは日常茶飯事です。信者の大半は神の恵みを受けるためだけに神を信仰し、神の言葉を行いません。危機に直面すると教会に駆け込みますが、何もない時には流行に流され、教会は宴席を設けるだけの場所と化し、真理を交わったり、個人の証しを伝えたりする人の姿はなく、最高の恵みと祝福を求めて互いに競い合うだけ。大災難が降りかかっているのに、主が自分たちを引き上げるために雲に乗って現れないため、信仰心と愛が冷めてしまい、神への不満や批判を表し始めています。中には神を否定し裏切る人さえいます。この事実からわかるのは、罪を赦され、救いという恵みを得ることで、人の行いがよくなっても、だからといって罪の束縛から完全に逃れ、神に従うわけではなく、清められ、天国に入る資格を得るわけでもないということ。それは都合のいい考えにすぎません。なぜ主イエスは、その御名によって預言し、悪霊を追い出した人たちを不法を働く者、全く知らない人たちと呼んだのか、おわかりでしょう。人は罪を赦されたものの、いまだに罪を犯し続け、主を責め、批判し、主がまだ現れないことに不満を抱き、主を否定し、裏切り始めました。自分を天国に導いてくれなければ主に文句を言ってやる、などと言う人さえいます。彼らは主イエスを弾圧し、断罪したパリサイ人と同等、またはパリサイ人よりもたちが悪いと言えるでしょう。その振る舞いは誰の目にも明らかであり、神の目に悪人と映ることは疑いようがありません。神は聖く、義です。絶えず罪を犯し、神を批判し、神に抵抗する人を天国に入れることなどありえますか? 絶対にありえません。ですから、「信仰によって義とされれば天国に行ける」という人の考えは、主の言葉や真理と矛盾する観念なのです。それは人のとてつもない欲望が生んだ観念と想像に他なりません。

ここまでの話で、こう思う人もいるでしょう。 「信仰を通して恵みを受け、救われることは、聖書に書かれている」と。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ人への手紙 2:8)。信仰の救いによって天国に行けないのなら、この「救い」とは何を意味するのでしょう? 全能神がこの真理の奥義について説明しています。一緒にその言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪ある人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」〔『言葉』第1巻〕)。「人は罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。……人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。ここからわかるのは、主イエスは人類の罪の生贄として十字架にかけられ、人の罪を贖ったということ。罪を主に告白し悔い改めれば、人の罪は赦され、律法のもとで断罪されて死に処されることはありません。主から罪人とみなされることも、サタンに責められることもありません。主の前に出て祈る資格を与えられ、主がもたらす平穏と喜び、そして豊かな祝福を享受できます。これが「救い」という言葉の意味です。信仰で救われるというのは、罪を赦され、律法のもとで断罪されないというだけで、一度救われると永遠に救われ、天国に入る資格を得られるわけではありません。聖書における「救い」の意味はパウロが語ったことで、主イエスや聖霊が語ったものではありません。聖書に記された人の言葉を根拠にすることはできず、。主イエスの言葉だけが根拠になりえます。このように言う人もいるでしょう。主が人の罪を赦したのだから、人は神に罪人とみなされず、義とされた。なのになぜ天国に入れないのかと。神は確かに人を義としましたが、罪を赦されれば天国に入れるとは言っていません。赦されたからといって罪を重ねても聖くいられるとも言っていません。神は聖く、義なる性質をもっており、罪を犯し続ける人を聖いとみなすことは決してありませんし、罪深い人を罪なき人とみなすこともありません。罪を赦された信者でさえも、神に抵抗し、神を冒とくすれば、神に呪われるのです。聖書にあるとおりです。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない(へブル人への手紙 10:26)。主イエスを批判し、断罪し、抵抗したパリサイ人は、主に呪われた。これは事実ではありませんか? 神の性質がいかなる背きも許さないことを信者は皆知っています。主イエスはこう仰いました。「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない(マタイによる福音書 12:31-32)。罪を赦されるというのは確かに神の恵みですが、赦された後も神の性質に背き続ける人は、神に呪われ、懲罰をうけるのです。もし再び神を十字架にかければ、恐ろしいことが起こるでしょう。しかし神は愛であり、慈悲です。人が聖くなれるよう、罪と悪から救おうとしていますですから主イエスは贖いの働きの後で再来すると約束したのです。再来する目的は何でしょうか? それは罪とサタンの勢力から人を完全に救い、人が神に立ち返り、神のものとなれるようにすることです。主の再来を迎える信者だけが、天国に入る希望をもてるのです。ここまで聞いて、このように思うかもしれません。人の罪はすでに赦されているが、真に罪から逃れ、聖さを得て、天国に入るにはどうすればいいのかと。これが今日の本題です。主イエスの赦しを受け入れるだけでは十分ではありません。罪から逃れ、完全に救われ、天国に入る資格を得るためには、主をお迎えし、主の働きの次の段階を受け入れる必要があります。主イエスの預言のとおりです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。……そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった(ヨハネによる福音書 5:22、27)。そして、「さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)。よく考えると分かりますが、主イエスは終わりの日に人の子として再来され、真理を表し裁きの働きを行って人が真理に入れるよう導き、罪やサタンの勢力から完全に逃れ、完全な救いを得られるようにしています。ですから、終わりの日の神の裁きを受け入れ、堕落した性質を清めることが、天国に入る唯一の道となります。全能神の言葉をもう少し見てみましょう。全能神は言われます。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の言葉は、すべてを明らかにしていると思いませんか? 恵みの時代、主イエスは贖いの働きを行い、人の罪を赦して贖いました。それは事実です。しかし人の罪深い本性は解決されておらず、神に抵抗し続けているので、完全に救われたことになりません。全能神は終わりの日に現れ、かくも多くの真理を表し、主イエスの贖いの働きをもとに、神の家から始まる裁きの働きを行っています。人を徹底的に清め、救い、神の国に導くためです。終わりの日の裁きの働きは、人類を救う上で最も重要かつ根本的な働きであり、人を清め、完全に救う唯一の道です。これは千載一遇の機会であり、天国に入る唯一のチャンスです。こう言えるでしょう。神の家から始まる全能神の裁きの働きこそ、信者を引き上げる働きだと。神の裁きと刑罰を通して、人の堕落が清められ、大災害から守られ、神の国に入れるのです。これが「引き上げる」の本当の意味です。この働きについていけないと、たとえ何年信仰しようと、苦しみや代償をどれほど払おうと、すべてが徒労に終わります。道半ばで挫折することになり、全ての苦労が水の泡です。災難に陥り、涙を流して歯ぎしりすることになる。神に抵抗し続ける人が神の国に導かれるということは絶対にありません。これは神の義なる性質により決められています。

では全能神は、人を清めて救う裁きの働きをどのように行うのでしょう? 全能神の言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日、全能神は数百万もの言葉を表し、堕落を清め、救われるために必要なすべての真理を人に告げています。人の罪深い、神に抵抗するサタン的な本性と、堕落した性質のすべてを裁いて暴き、人の奥底に潜む、最も卑しい観念や動機をすべてさらけ出します。御言葉を読むほどに、その裁きを経験することができ、自分がサタンによってどれほど深く堕落させられていたか、どれほどごう慢で強情か、ずる賢く、欲深く、利己的で、すべてにおいてサタンの哲学や法則に従い、常に自分の利益を追い求め、見返りを得て、天国に行くために、神を信じ、本分を尽くし、良心も理知もなく、サタンのように生きていたかが自覚できます。神の裁きと刑罰を通して、背きを許さない神の義がやっとわかるのです。神は人の心と思いを見通し、人が口に出さなくとも、頭の中で考えていることや、心の奥底にある堕落を明らかにします。私たちは逃げ場を失い、深い羞恥心に襲われ、神への畏敬の念を深めます。神に祈り、心中をさらけだし、誤った考えや思想を正直に打ち明けることで、良心と理知が得られます。嘘をついてもすぐに打ち明け、過ちを正します。このように神の言葉を経験することで、堕落した性質が徐々に清められ、変化し、人間らしく生きられるようになります。全能神の裁きと清めを通して、人を救う神の働きがどれほど実際的かを感じることができます。この経験がなければ、自分の実際の堕落を認識できず、真に悔い改め、変わることもできません。罪悪から逃れるには、自分の努力と自制心だけでは足りず、神の裁きと刑罰、そして試練を必ず経験しなければなりません。また、刈り込みと取り扱い、そして懲らしめも必要です。これこそがいのちの性質を根本的に変化させ、心から神に服従し神を畏れる唯一の道です。ですから、信仰において主イエスの贖いしかなければ、罪を赦され、義とされても、天国に行く資格は得られません。主の再来を迎え、全能神の裁きを受け入れることなしに、堕落から逃れ、罪深き本性を完全に解決することはできません。そして、全能神は裁きの働きを行う主イエスの再来であり、人類を完全に救う働きを自ら行うために降臨した救い主なのです。あらゆる教派の多くの信者が神の声を聞き、全能神を受け入れています。彼らは賢い乙女であり、子羊の婚宴に出ています。一方全能神を拒絶する人は愚かな乙女として災難に陥り涙を流すのです。もうおわかりでしょう。なぜ宗教界はいまだに、雲に乗って降臨する主イエスを目にしていないのか? 彼らはあくまで聖書の字句にしがみつき、自分の考えに基づいて、主が雲に乗って現れ、人を天国に引き上げると信じています。しかし、主はすでに密かに降臨し働きを行っています。全能神が多くの真理を表しているのに、彼らは調べようとせず、見たり聞いたりしてもわからずにいます。無闇に全能神に逆らって断罪し、空を見上げ、救い主イエスが雲に乗って降臨するのを待っているだけ。彼らはいずれ災難に陥ることになりますが、自業自得ではないですか?

現在、全能神は終わりの日の裁きの働きを通して勝利者の一団を完成させました。災難はすでに始まり、神の選民は全能神の国の福音を懸命に広めてまわりながら、神の出現と働きの証しをしています。真の道について調べ、受け入れる人の数は増え続け、多くの国で全能神教会が生まれています。全能神の言葉は世界中に広がり、証しされ、真理を渇望し神の出現を求める人たちが、次々と神の玉座の前に出ています。この勢いは止められません。これは聖書の預言を成就させます。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき(イザヤ書 2:2)。しかし全能神に抵抗する宗教界の反キリスト勢力や、彼らに惑わされ支配されている信者と呼ばれる人たちは、すでに災難に陥り、天に引き上げられるチャンスを失い、涙を流し歯ぎしりしています。本当に悲惨な事です。最後に、御言葉の朗読動画を見てみましょう。全能神は言われます。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

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