降臨した救い主は、やはりイエスと呼ばれるのか

2021年12月15日

終わりの日、救い全能神はすでに降臨し、人類を完全に救うべく、真理を表し働きを行なっています。『言葉は肉において現れる』がネットで公開されて以来、世界中の人たちが、全能神の御言葉は真理だと悟り、神の声を聞きました。全能神の顔を見ずとも、その御言葉が聖霊の言葉、人類に対する神の発言、肉において現れた言葉だと確信しています。人の子の出現と働きをようやく目にし、神の足跡を見つけたのです。興奮を胸にその知らせを伝え、喜んで全能神を受け入れ、神の御座の前に出ています。神の現在の御言葉を日々飲み食いし、読むにつれてますます啓かれ、御言葉の潤しと牧養を享受しています。多くの真理を学んで信仰が深まり、我先に全能神の名を広め、人を救う救い主の降臨を証ししています。彼らは信仰と力に満ち、全能神の御言葉から安らぎを得ています。追求の目標と人生の進路も正しく、神のために全力を捧げ、証しをしています。世界中でますます多くの人が真の道を調べていますが、ありとあらゆる災難が降りかかる今、誰もが真の道と聖霊の足跡、救い主の出現と働きを求めるよう迫られています。これは避けられない流れです。各国の宗教界でも、日々多くの人が真の道を受け入れ、全能神に立ち返っています。多くの国で全能神教会が設立され、イザヤ書の次の預言が成就しています。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき(イザヤ書 2:2)。大勢が飢えたように真の道を調べる一方、全能神の御言葉が真理で、権威と力があると認めながら、全能神が普通の人の外見で、主イエスの霊の姿で現われず、しるしや奇跡も見せないといって、あくまで受け入れようとしない人もいます。また、全能神の御言葉はすべて真理だと少しも疑わないのに、聖書に記されていないという理由で、全能神が再臨した主イエスだと確信できない人もいます。それにとらわれ受け入れようとしないのです。さらに、全能神の御言葉が真理で神に由来すると認めながら、「イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル人への手紙 13:8)、という聖句を見て、イエスの名は決して変わらないと信じる人もいます。全能神の名はイエスでなく、聖書も全能神の名に触れていないといって、降臨した救い主だと認めないのです。全能神を受け入れることは主イエスへの裏切りだと思い、それにとらわれ、全能神を受け入れません。この3つの状況は、すべて1つの問題に帰結します。全能神は一見普通の人で、言うことはどれも真理で、力と権威がありながら、イエスと呼ばれず、イエスの霊の姿で出現していない。だから全能神を再臨した主イエスだと認めない。人の観念と想像だけに基づけば、これは理解できますが、神の出現と働きには、人には推し量れない大きな奥義があります。真理を求めず、神の御言葉と働きの事実に沿って物事を判断しなければ、正しい答えは見つかりません。聖書の字句と自身の観念に闇雲にしがみつき、真理を表すキリストを受け入れなければ、思いもよらぬ結果になります。主イエスの贖いを受け入れようとせずに呪われたユダヤ教信者と同じです。このつらい教訓はずっと前から目の前にありました。救い主が来られた今、真理を求めない結末は想像がつきます。さて、再臨した救い主はやはり「イエス」と呼ばれるでしょうか? それについて、私の理解をお話しします。

まずは、救い主の降臨を確かめる方法を理解する必要があります。主イエスという名前かどうか、主イエスの姿かどうかだけでは判断できません。大事なのは、真理を表して神の働きを行なえるかどうか、人類を清めて救えるかどうかです。真理と神の御声を表し、人類を救う働きができる限り、何と呼ばれようと、いかに普通の外見をしていようと、それは受肉した神、再臨した主イエスだと確認できます。救い主の降臨なのです。名前や外見だけで判断すれば、簡単に間違ってしまいます。神が律法の時代にヤーウェと名乗り、恵みの時代はイエスだったと、誰もが知っています。もはやヤーウェとは呼ばれず、イエスを名乗りましたが、主イエスは受肉したヤーウェ神です。人の子として肉をまとったヤーウェ神であり、人のもとに来て働きを行ないました。主イエスとヤーウェ神は1つの霊を共にする、1つの神です。主イエスが明かした悔い改めの道と天国の奥義、そして贖いの働きは、主イエスが受肉した神、唯一の真なる神の出現、救い主であることを完全に証明しました。当時のユダヤ教徒には、それがわからない人もいました。その多くが、主イエスの道は力と権威に満ちていると認めながら、「メシヤ」と呼ばれず普通の人のようだといって、主を拒んで断罪しました。主イエスの道がどれほど高尚でも、探求も考察もせず、冒涜だと断罪し、十字架にかけさえして、神に呪われ、懲罰されました。彼らはどこで間違ったのでしょう? 受肉とは何かを知らず、受肉した神の神性が真理を通じて示されることも知らず、そのため人の子がどれほど真理を表し、いかに偉大な働きをなそうと、神と認めなかったのです。人間だと定義したうえ、すっかり確信し、信じるのを拒みました。結果として神の救いを逃し、最後は懲罰され、呪われました。これは人の愚かさ、無知ではないでしょうか。今、宗教界の多くの人は、全能神の御言葉が真理で、神に由来すると認めながら、聖書の字句に固執し、観念と想像に従い、神の名はイエスで、決して変わらず、再臨してもそう呼ばれると言い張っています。全能神の名はイエスでなく、イエスの姿で雲に乗って来なかったから、全能神は主イエスの再臨だと絶対に認めようとしないのです。ユダヤの人々と同じ間違いを犯しているのではないでしょうか? 結果としていまだ主をお迎えしておらず、ゆえに大災難に陥り、胸を叩いて泣きわめき、歯ぎしりするでしょう。主を迎えて災難の前に引き上げられる望みは、決してかないません。悲劇ではないですか? イエスという神の名が決して変わらないというのは本当でしょうか? 聖書や神の御言葉に根拠がありますか? 実際、聖書ははるか昔に、主は新しい名で来ると預言しており、イザヤ書にはっきりこうあります。「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる(イザヤ書 62:2)。それに黙示録。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう(ヨハネの黙示録 3:12)。どちらも、神は新しい名を持つとはっきり述べています。以前に呼ばれたことのない、新しい名である以上、再臨した主がイエスと呼ばれないのは確かです。では、新しい名は? それは全能神であり、黙示録の預言とも完全に一致しています。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』(ヨハネの黙示録 1:8)。「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる(ヨハネの黙示録 19:6)。黙示録の4章8節、11章17節、16章7節にも、「全能者」の名があります。明らかに、終わりの日に再臨した主は全能者、全能神と呼ばれます。疑いの余地はありません。イエスという神の名は決して変わらず、終わりの日の救い主もイエスと呼ばれるという認識は、単なる人の観念で、現実とまったく符合しません。

こう尋ねる人もいるでしょう。神が名を変える理由は? その背後にある意味は? 全能神は真理のこうした奥義をすべて明かしています。よりよく理解するため、全能神の御言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「神の名は変わらないという人たちがいる。それではなぜ、ヤーウェという名前がイエスになったのか。メシアが到来するという預言はあるが、それではなぜ、イエスという名の人が来たのか。なぜ神の名は変ったのか。そのような働きはずっと以前に実行されたのではないか。今日、神はより新しい働きを行なわないのだろうか。昨日の働きは変えることができ、イエスの働きはヤーウェの働きから進展することができる。では、別の働きがイエスの働きに続くことはできないのか。ヤーウェという名前がイエスに変わり得るなら、イエスという名前も変わり得るのではないか。これはどれも特異なことではなく、ただ人の思考があまりに単純なのである。神は常に神である。神の働きがどう変化しようと、神の名前がいかに変わろうと、その性質と知恵は決して変わらない。神はイエスという名前でしか呼ばれるはずはないと信じているなら、あなたの見識はあまりに限られている(『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」〔『言葉』第1巻〕)

それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)

『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を有し、英知に満ちた神である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲に満ち、人を贖う罪の捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営計画の働きの一部分しか表せない。……イエスだけが人類の贖い主であり、罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代に由来し、恵みの時代における贖いの働きゆえに生じたものである。イエスの名前は、恵みの時代の人々が生き返り、救われるために生じたのであり、全人類の贖いのための特別な名前である(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)

人がいまだ、終わりの日に救い主イエスが到来することを待ち望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することを依然として期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代で止まり、それ以上進展することはできなかったはずだ。そのうえ、終わりの日は決して到来せず、時代に終止符が打たれることもないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしがイエスと名乗ったのは、ただ恵みの時代におけるすべての罪人のためだが、わたしが人類全体を終らせるのはこの名によってではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしそのもののすべてを明確に示すことはできない。それらは単に、それぞれの時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれない。力ある全能神自身と呼ばれ、この名前の下で時代全体を終らせる(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)

神が名を変えることの意義がおわかりかと思います。神はいつも新しく、決して古くなく、その働きは常に前進しています。時代と働きが変わるのに合わせ、名も変わり続けます。働きの各段階、新たな各時代で、神は特定の意義を持つ名を名乗り、その時代に行なう働きと、表す性質を示します。これがわかれば、ヤーウェとイエスの2つの名に神を限定することも、観念と想像の中で神を規定することもないでしょう。神が所有するものと神そのものがすべてを含むことを、私たちはみな知っています。神は実に賢く全能です。人の言語で表せないのに、1つや2つの名で表せますか? 名前がいくつあっても、神が所有するものと神そのものを完全には表せません。ゆえに神は各時代に違う名前を名乗ります。律法の時代、神はヤーウェと呼ばれ、その名の下に律法と戒めを発し、人の地上での暮らしを導き、罪とは何か、どう生きるべきか、ヤーウェ神をどう崇めるべきかを知らしめました。ヤーウェは、神が律法の時代に定めた名で、その時代の働き、当時表した慈悲と威厳と怒りの性質しか示しません。律法の時代の末期、人はますますサタンに堕落させられ、罪深くなり、誰も律法を守りませんでした。そのまま続けばみな断罪され、律法の下で処刑されていたでしょう。人類を贖うべく、神は自ら人の子として受肉し、イエスの名で贖いの働きを行ないました。恵みの時代を始め、律法の時代を終わらせたのです。主イエスは人類に悔い改めの道をもたらし、罪を赦し、安らぎと喜び、とてつもない恵みを授けました。最後は十字架にかけられ、全人類を贖ったのです。イエスは恵みの時代に神が定めた名で、その時代の贖いの働きと、愛と慈悲の性質を示します。これら神の働きの2段階から、神の名にそれぞれ意義があるとわかります。特定の時代における神の働きと性質を示しているのです。それについて考えましょう。主イエスが恵みの時代にヤーウェと名乗り続けていたら、神の働きは律法の時代で止まり、堕落した人類は贖われず、律法の下、みな罪のために断罪され、死に処されて、今日まで存在できなかったでしょう。終わりの日も同じです。主イエスがイエスの名で戻っていたら、神の働きは贖いの段階にとどまり、人は主イエスの贖いと、罪の赦ししか得られないでしょう。誰もが持つ罪深い本性は解消されず、罪から逃れて清められるすべもなく、天国へ入る資格を得られないはずです。主イエスは終わりの日の再臨を何度も預言し、真理を表して裁きの働きを行ない、人を清め、完全に罪から救い、神の国へ導くと述べました。この御言葉のとおりです。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。終わりの日、新たな時代と働きを始める神は、やはりイエスと呼ばれるでしょうか? 絶対に呼ばれません。終わりの日、主イエスは全能神として再臨し、働きを行ない、神の国の時代を始めて恵みの時代を終わらせます。真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを行ない、罪とサタンの勢力から人類を完全に救い、勝利者の一団を完成させます。その後は大災難を降らせ、悪を罰して善に報い、暗く邪悪な古い時代を終わらせて、キリストの国が地上で実現します。これは黙示録の預言を完全に成就します。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』(ヨハネの黙示録 1:8)。「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる(ヨハネの黙示録 19:6)

全能神は言われます。「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の御言葉は明快です。ヤーウェ、イエス、全能神は、唯一の真なる神の名で、律法、恵み、神の国の各時代に異なる名を名乗ります。時代と共に働きと名が変わり、異なる形で出現しても、神の実質は決して変わらず、神の性質、神が所有するものと神そのものも変わりません。永遠に1つの神、1つの霊で、その働きで人類を導き、贖い、完全に救います。終わりの日、神は全能神として受肉し、イエスとは呼ばれず、普通の人のように見えるものの、人類を清めて救うすべての真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを行ないます。御言葉で人を裁いて暴き、サタンによる根深い堕落とサタン的本性を明かし、清めと救いに必要な真理の全側面を示します。神の選民は御言葉を日々飲み食いし、御言葉による裁き、刑罰、取り扱い、試練、精錬を受け入れ、堕落した性質が徐々に清められ、変化し、次第に悪とサタンの勢力から逃れ、神に完全に救われます。災難に先立ち、全能神はすでに勝利者の一団を完成させ、神の知恵と全能を完全に示しました。全能神による働きの間、サタンの共産党政権は残酷な迫害と逮捕をひたすら続け、宗教界の反キリスト勢力も必死に断罪し、冒涜しますが、全能神の国の福音は東から西へ広まり、全地球を横切ります。神の偉大な働きが完了し、全能神がサタンに打ち勝ち、すべての栄光を得るとわかります! 大災難はすでに始まり、宗教界は混乱に陥っていますが、その大勢はあくまで主イエスの名にしがみつき、雲に乗って来るのを待ち、全能神がいかに多くの真理を表そうと、働きがいかに偉大でも、受け入れようとせず、全能神の出現と働きを必死に断罪し、逆らいさえします。メシヤの名に固執し、必死に主イエスに抵抗したパリサイ人とどこが違うでしょう? 神を十字架にかけるも同然ではないでしょうか? 主イエスの名に空しくしがみつき、狂ったように全能神に逆らい、断罪する。どんな結末が待っていると思いますか?

まとめとして、全能神の御言葉の動画を観ましょう。全能神は言われます。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の実質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのち真理を追い求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。あなたがたに訊くが、これほど愚かで頑固で無知な人々が神の祝福を得るなど、どうしてあり得ようか。彼らがメシアを見るなど、どうしてあり得ようか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみな、ただメシアの名前に固執しながら、できる限りのことをしてメシアの実質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人の実質は頑固で、傲慢で、真理に従うものではなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものだった。この信仰は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにさらに問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを拒み、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け取らず、白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)

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