ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識

神によって罰せられたとき、ペテロは祈って言った。「神よ、わたしの肉は従順でなく、あなたはわたしを罰し、裁かれます。わたしはあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたがわたしを求められなくとも、わたしはあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義の性質を目の当たりにします。他の人たちがあなたの裁きの中に、あなたの義なる性質を目にすることができるように、あなたがわたしを裁かれるとき、わたしは満足しています。あなたの性質が示され、あらゆる被造物があなたの義なる性質を見られるようになり、わたしがもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きはよいものであり、それはあなたの恵み深い御旨によるものです。自分にはいまだ反抗的な部分が多く、あなたの御前へ出るのにふさわしくないことは分かっております。過酷な環境と通してであろうと、あるいは大いなる患難を通してであろうと、あなたがわたしをさらに裁いてくださることを望みます。あなたが何をなさろうとも、わたしにとってそれは貴いものです。あなたの愛はかくも深く、わたしは一切不平を言わずに進んで自分自身をあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。現在、あなたがたはすでに征服されているが、この征服は、あなたがたの中でどのように表されているだろうか。中にはこのように言う人がいる。「わたしが征服されたことは、神による至高の恵みと引き上げである。人生は空虚であり、何の意味もないと、今になってやっと分かった。人間は人生を忙しく過ごし、何世代にもわたって子供を産み育てるが、結局何も残らない。神によって征服された今、このように生きるのが無価値なことをようやく知った。それは本当に無意味な人生だ。そのような人生など死んで終わらせたほうがいい」。神によって征服されたこのような人々は、神のものとされ得るだろうか。彼らは型となり模範となれるだろうか。このような人たちは消極性の見本であり、まったく熱意を持たず、向上しようと努力しない。彼らは征服された者の中に含まれるが、このように消極的な人間は完全にされることが不可能である。晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、わたしの余命があと数年あるならば、あなたへのさらに清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。そして十字架にかけられる直前、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたがわたしのために用意された時が来ました。わたしはあなたのために十字架にかけられ、この証しをしなければなりません。わたしの愛があなたの要求を満たし、いっそう清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架にかけられることは、わたしにとって慰めであり、励みでもあります。なぜなら、あなたのために十字架にかけられ、あなたの望みを満たし、自分自身をあなたに捧げ、わたしのいのちをあなたに捧げることができるのは、この上ない喜びだからです。神よ、あなたは本当に愛しいお方です。わたしが生きることをあなたが許されるなら、わたしはあなたを愛することをいっそう望むでしょう。生きている限り、わたしはあなたを愛するでしょう。わたしは、あなたをさらに深く愛することを望みます。あなたはわたしを裁かれ、刑罰を与えられ、わたしを試されます。なぜなら、わたしが不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なる性質が、わたしに対していっそう明らかになります。それはわたしにとって祝福です。なぜなら、わたしはあなたをいっそう深く愛することができ、あなたがわたしを愛されなかったとしても、わたしはあなたをこうして愛することを望むからです。わたしはあなたの義なる性質を喜んで見たいと思います。なぜなら、そうすることにより、有意義な人生を生きることがますます可能になるからです。わたしは今、自分の人生はさらに有意義だと感じています。なぜなら、わたしはあなたのために十字架にかけられており、あなたのために死ぬのは意味のあることだからです。しかしながら、わたしはまだ満足していません。なぜなら、あなたのことをほんの少ししか知らず、あなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんど報いなかったからです。わたしは人生において、自分のすべてをあなたに報いることができず、それに遠く及んでいません。今、振り返ってみると、わたしはあなたに大きな借りがあり、自分のすべての過ちと、いまだあなたに報いていないすべての愛を償うには、今この瞬間しかありません」。

人間は意味のある人生を生きることを追い求めなければならず、現状に満足していてはならない。ペテロの姿を生きるには、ペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深遠な物事を追求しなければならない。神に対するいっそう深く純粋な愛と、価値ある有意義な人生を追い求めなければならない。これだけが人生であり、そうして初めて、人はペテロと同じようになれる。あなたは、肯定的な側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、一時的快楽のために、さらに深遠で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、誰かに追随して引き下がっていてはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を、あなたは見出すべきである。意味のある人生、価値のある人生を生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指すすべての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきだろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは何にも増して、そうした大志と根気を持っていなければならず、気骨のない者、意志の弱い者のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたに神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うのか、どのようにして自分自身を神に捧げるべきなのか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきなのか、そして、神を愛している以上、どのようにしていっそう清く、いっそう美しく、いっそう好ましく神を愛するべきなのかを慎重に考慮することができなければならない。あなたは今、自分が征服されたことに満足するだけでなく、将来歩む道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思っていてはならない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すだろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理と距離を置くからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたのほうが、正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが長年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのであれば、それはいのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生きつつも、光を得られないでいるのなら、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたのもとを去ったからである。追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生においてまったく勇気がなく、闇の勢力に対抗する霊がないとしか言えない。あなたは弱過ぎるのだ。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことだけを望んでいる。あなたが成し遂げるべきは、征服されることの追求であり、それがあなたに課された本分である。征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払う。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、またより多くの真理を得るために、さらに多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたのなすべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、自分の一生の尊厳や人格を失ってはならない。あなたは、の美しく素晴らしいすべてのこと、またいっそう有意義な人生の道を追求すべきである。このような俗悪な生活を送り、何の目的も追い求めないのであれば、あなたは人生を無駄にしているのではないか。そのような人生から何が得られるのか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、わずかばかりの享楽のためにすべての真理を投げ捨ててはならない。このような人には品位も尊厳もなく、その存在には何の意味もない。

神が人間を罰して裁くのは、そうすることが神の働きに必要であり、またさらに、人間にとって必要だからである。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、そうして初めて神への愛に達することができる。現在、あなたがたは完全に納得しているが、小さな挫折に直面するだけで窮地に陥ってしまう。あなたがたの霊的背丈はまだ小さ過ぎるので、いっそう深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きをもっと経験しなければならない。現在、あなたがたはある程度神を敬い、神を畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛はなく、まして純粋な愛になど達していない。あなたがたの認識は浅過ぎ、あなたがたの霊的背丈はいまだ不十分である。ある環境にまさしく直面するとき、あなたがたはやはり証しに立つことがなく、積極的な入りはほとんどなく、どう実践すべきかを知らずにいる。大半の人は消極的で活発でない。心の中で密かに神を愛するだけで、実践する術がなく、自分の目標が何であるかを理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけでなく、良心の尺度を超え、良心の基準よりも高い真理も備えている。自分の良心で神の愛に報いるのみならず、それ以上に、神を知っており、神が愛しい存在であること、人間の愛を受けるのにふさわしいこと、また神には愛すべき物事が数多くあることを理解している。人は神を愛さずにはいられないのだ。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的な大志を満たすためのものである。その愛は自発的な愛、見返りを求めない愛であり、取引ではない。そうした人が神を愛するのは、神に関する自身の認識のゆえに他ならない。このような人は、神が自分に恵みを授けるかどうかを気にせず、神を満足させればそれで十分である。神と取引することがなく、「あなたに与えられたから、それに応じてあなたを愛する。あなたが与えないのであれば、それに応じて与えるものは何もない」というように、神への愛を良心で測ることもない。完全にされた者は常にこう信じている。「神は創造主であり、わたしたちに対して働きをなさっている。わたしには完全にされる機会と状況、そして資格があるのだから、有意義な人生を生きることを追求し、神を満足させねばならない」。これはまさにペテロが経験したことと同様である。つまり、ペテロは、自分が最も弱かったとき、神に祈ってこう言った。「神よ、時間や場所に関係なく、わたしが常にあなたを覚えていることを、あなたは知っておられます。時間や場所に関係なく、わたしがあなたを愛したいと思っていることを、あなたは知っておられます。しかし、わたしの霊的背丈はあまりに小さく、わたしは弱く無力過ぎ、わたしの愛はあまりに限られていて、あなたに対するわたしの誠実さは乏し過ぎます。あなたの愛に比べると、わたしは生きるのにまったくふさわしくありません。わたしが望むのは、自分の人生が無駄にならないこと、そしてあなたの愛に報いるだけでなく、それ以上に、自分が持つものをすべてあなたに捧げられることだけです。あなたに満足いただけるなら、被造物であるわたしは心安らぎ、それ以上何も求めないでしょう。今のわたしは弱く無力ですが、あなたの訓戒と愛を忘れることはないでしょう。今、わたしはただあなたの愛に報いる以外に何もしていません。神よ、わたしは惨めに感じます。心の中の愛をあなたにお返しし、全力を尽くしてあなたの望みを満たし、わたしが持つすべてのものをあなたに捧げるには、いったいどうすればよいのでしょうか。あなたは人間の弱さを知っておられます。いったいどうすれば、わたしはあなたの愛を受けるにふさわしい者となれるでしょうか。神よ、わたしの霊的背丈が小さいこと、わたしの愛が乏し過ぎることを、あなたはご存じです。わたしはこのような環境の中で、どうすれば最善を尽くせるでしょうか。わたしは、自分があなたの愛に報いるべきこと、自分が持つすべてのものをあなたに捧げるべきことは知っていますが、現在のわたしの霊的背丈は小さ過ぎます。あなたに捧げる純粋な愛をさらに備え、自分が持つすべてのものをもっとあなたに捧げられるよう、わたしに強さと確信を与えてくださることを願います。そうすれば、あなたの愛に報いることができるだけでなく、あなたの刑罰、裁き、試練、そしていっそう厳しい呪いをもっと経験することができるでしょう。あなたのおかげで、わたしはあなたの愛を見られるようになったので、あなたを愛さずにはいられません。また現在、わたしは弱く無力ですが、どうしてあなたのことを忘れられましょうか。あなたの愛、刑罰、そして裁き。これらのすべてによって、わたしはあなたのことを知るようになりましたが、それでもなお、あなたの愛に応えることができないと感じています。なぜなら、あなたは極めて偉大であられるからです。いったいどうすれば、わたしは自分の持つすべてのものを創造主に捧げられるでしょうか」。これがペテロの願いだったが、それでもペテロの霊的背丈は不十分に過ぎた。ペテロはこのとき、あたかも自分の心がナイフでえぐられているかのような苦痛を感じた。そうした状態で、ペテロはどうすればよいか分からなかったが、それでも祈り続けてこう言った。「神よ、人間は霊的背丈が幼く、人間の良心はひ弱で、わたしが成し遂げられるのは、あなたの愛に報いることだけです。現在、どのようにしてあなたの願いを満たせばよいのか、わたしには分かりません。そこで、わたしが唯一願うのは、自分にできるすべてのことを行い、自分の持てるすべてのものをあなたに渡し、自分の持てるすべてのものをあなたに捧げることです。あなたの裁きや刑罰、またあなたがわたしに何を授けられるか、あなたがわたしから何を奪うかにかかわらず、あなたに対する不平がわたしに一切ありませんように。あなたがわたしを罰し、裁かれたとき、わたしは何度も愚痴をこぼし、純粋さに至ることも、あなたの願いを満たすこともできませんでした。あなたの愛にわたしが報いようとしたのは、強いられたからそうしたのであり、そのときわたしは自分をますます憎みました」。ペテロがこのように祈ったのは、いっそう純粋な神への愛を求めていたからである。ペテロは求め、懇願し、さらには自分自身を非難し、自らの罪を神に告白した。ペテロは神に対して借りがあると感じ、自己嫌悪を覚えつつ、いくぶん悲しみも感じ、消極的だった。彼はいつもこのように感じていたが、それはあたかも、神の願いに対して自分が不十分であり、最善を尽くせないかのようだった。そうした状況において、ペテロはいまだヨブの信仰を追い求めていた。ヨブの信仰がどれほど偉大だったかを、彼は理解していた。と言うのも、自分の物はすべて神から授けられたのであり、神がそのすべてを自分から奪うのは当然であること、また神は、相手が誰であれ、自身が望む者に対して与えるのであって、それが神の義なる性質であることを、ヨブは理解していたからである。ヨブは一言も不満を言わず、なおも神を讃美することができた。ペテロもまた自分を知っていたので、心の中でこう祈った。「今日、わたしは、自分の良心であなたの愛に報いること、また、わたしがあなたにお返しする愛の多さに満足するべきではありません。なぜなら、わたしの思いは堕落し過ぎており、あなたを創造主として見ることができないからです。わたしはいまだあなたを愛するのにふさわしくないので、自分の持てるすべてのものを、自ら進んであなたに捧げる能力を養わなければなりません。あなたがわたしを通して大いなる栄光を得られるように、わたしは選り好みせず、あなたが行ったすべてのことを知らねばならず、またあなたの愛を見て、あなたを讃美する言葉を話し、あなたの聖なる御名を讃えることができるようにならなければなりません。わたしはあなたのために、喜んでこの証しに揺るぎなく立ちます。神よ、あなたの愛は極めて貴く、美しいものです。悪しき者の手中で生きることを、どうしてわたしが望みましょうか。わたしはあなたに造られたのではありませんか。どうしてサタンの支配下で生きられるでしょうか。それならばむしろ、自分の全存在があなたの刑罰の中で生きるほうを望みます。わたしは悪しき者の支配下で生きることを望みません。わたしが清くされ、自身のすべてをあなたに捧げることが可能ならば、わたしは進んで自分の身体と心を、あなたの裁きと刑罰に捧げます。なぜなら、わたしはサタンを忌み嫌い、その支配下で生きることを望まないからです。わたしに対する裁きを通して、あなたはご自身の義なる性質を示されます。わたしは幸せであり、不満は一切ありません。わたしが被造物としての本分を尽くせるのであれば、わたしの一生にあなたの裁きが伴うことを喜びます。それを通して、わたしはあなたの義なる性質を知り、悪しき者の影響から脱することができるでしょう」。ペテロはいつもこのように祈り、このように求め、比較的高い領域へと達した。彼は神の愛に報いることができたばかりでなく、さらに重要なこととして、被造物としての本分も尽くしたのである。彼は自分の良心の呵責に苛まれなかっただけでなく、良心の基準を超越することができた。彼の祈りは神の前へと昇り続け、彼の志はさらに高くなり、神への愛はますます大きくなった。彼は激しい苦痛に襲われながらも、神を愛することを忘れず、神の旨を理解できるようになることを求め続けた。そして祈りの中で、次の言葉を発した。「わたしは、あなたの愛に報いること以外に何も成し遂げていません。サタンの前であなたを証ししておらず、自分自身をサタンの影響下から解放しておらず、依然として肉の中で生きています。わたしは自らの愛でサタンを打ち破り、辱め、それによってあなたの願いを満たすことを望みます。自分のすべてをあなたに捧げ、たとえ一部でもサタンに捧げないことを望みます。なぜなら、サタンはあなたの敵だからです」。このように追求すればするほど、ペテロはますます感動し、そうしたことに関する認識がいっそう高まっていった。自分をサタンの影響から解放し、完全に神へと立ち返るべきであることを、無意識のうちに知るようになったのである。これが、ペテロが達した領域だった。彼はサタンの影響を超越し、肉の快楽と悦楽から脱し、神の刑罰と裁きの両方を自ら進んでいっそう深く経験した。ペテロは言った。「わたしはあなたの刑罰と裁きのただ中で生きていますが、それに伴う苦難にかかわらず、わたしはサタンの領域下で生き、サタンの策略に陥ることを望みません。あなたの呪いの中で生きることを喜び、サタンの祝福の中で生きることに痛みを感じます。あなたの裁きの中で生きることにより、わたしはあなたを愛し、それが自分に大いなる喜びをもたらします。あなたの刑罰と裁きは義にして聖いものであり、それらはわたしを清め、またそれ以上に、わたしを救うためのものです。あなたの配慮の下で暮らせるよう、わたしはあなたの裁きの中で生涯を送るほうを望みます。わたしは一瞬たりともサタンの支配下で生きたくありません。あなたによって清められることを望み、たとえ苦難を受けるとしても、サタンに利用され、欺かれることは望みません。わたしというこの被造物は、あなたに用いられ、所有され、裁かれ、刑罰を与えられるべき存在です。あなたから呪われるべき存在でさえあります。あなたがわたしを祝福しようとなさるとき、わたしの心は喜びます。なぜなら、あなたの愛を見たからです。あなたは創造主であられ、わたしは被造物です。わたしはあなたを裏切ってサタンの支配下で生きてはならず、サタンに利用されるべきでもありません。サタンのために生きるくらいなら、あなたの馬となり、牛とならねばなりません。物質的な悦楽なしに、あなたの刑罰の中で生きるほうを選びますし、たとえあなたの恵みを失ったとしても、そうして生きることがわたしに喜びをもたらすでしょう。たとえあなたの恵みがなくても、わたしはあなたの刑罰と裁きを受けることを喜びます。それは、あなたの最高の祝福であり、最大の恵みなのです。あなたはわたしに対して常に威厳があり、怒りに満ちておられますが、それでもなお、わたしはあなたから去ることができず、あなたをどれほど愛しても愛しきることができません。わたしはあなたの家に住み、あなたに呪われ、刑罰を受け、打たれることを望み、サタンの支配下で暮らすことも、ただ肉のために忙しく奔走することも望まず、ましてや肉のために生きることなど望みません」。ペテロの愛は純粋な愛だった。これこそが完全にされる経験であり、完全にされることの最高の領域であって、これ以上に有意義な人生はない。ペテロは神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を大切にしたが、ペテロに関することで、それ以上に貴いことはなかった。彼は言った。「サタンはわたしに物質的な享楽を与えるが、わたしはそれを貴ばない。神の刑罰と裁きがわたしの上に臨む――わたしはそこから恵みを受け、喜びを見出し、祝福される。仮に神の裁きがなかったとしたら、わたしは決して神を愛さず、依然としてサタンの支配下で暮らし、サタンに支配され、操られていることだろう。そうした場合、わたしは決して真の人間になれないはずだ。なぜなら、神を満足させることができず、自分のすべてを神に捧げることがなかったからだ。たとえ神がわたしを祝福されず、あたかも自分の中で火が燃えているように、心に慰めがないままになって、平安も喜びもなかったとしても、また神の刑罰と懲らしめが決してわたしから離れなくとも、神の刑罰と裁きの中に、神の義なる性質を見ることができる。わたしはそれに喜びを感じるし、人生において、それ以上に貴いことも有意義なこともない。神のご加護と慈しみが容赦ない刑罰と裁き、呪いと打ちのめしとなったが、それでもなお、わたしはこれらを嬉しく思う。なぜなら、そうしたことはわたしをさらに清めて変化させることができ、わたしを神に近づかせ、わたしがますます神を愛するようにして、神に対するわたしの愛をいっそう清くすることができるからだ。これにより、わたしは被造物としての本分を尽くすことができるようになり、神の御前へと導かれ、サタンの影響から遠ざけられるので、サタンに仕えることはもはやない。サタンの支配下で生活しておらず、自分の持てるすべてのものと、自分にできるすべてのことを、何の躊躇もなく神に捧げることができる時こそ、わたしが完全に満足する時だ。わたしを救ったのは神の刑罰と裁きであり、わたしの一生は神の刑罰と裁きから切り離せない。地上におけるわたしの生活はサタンの支配下にあるので、神の刑罰と裁き、すなわち神による慈しみと加護がなかったとしたら、わたしはいつまでもサタンの支配下で生きていただろうし、それに何より、有意義な人生を生きる機会も術もなかったはずだ。神の刑罰と裁きが決してわたしから去らない場合にのみ、わたしは神によって清くされ得る。神の厳しい御言葉と義なる性質、そして神の威厳ある裁きによってのみ、わたしは最高の加護を得て、光の中で生きるようになり、神の祝福を得たのだ。清くされ、自分をサタンから解放し、神の支配下で生きることができるのは、現在における我が人生最大の祝福なのだ」。これが、ペテロが経験した最高の領域である。

これがまさに、完全にされた後、人間が到達すべき状態である。そこまで達することができないなら、有意義な人生を生きることはできない。人は肉の中で生きているが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰がなければ、人間はサタンと同様に汚れている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間にとって最高の加護、そして最も素晴らしい恵みだと信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい懲らしめは、人間をサタンの支配から解放し、自分の狭い世界から解放するとともに、神の臨在が放つ光の中で生きられるようにする。刑罰と裁き以上に優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたがわたしを罰し、裁かれる限り、わたしを見捨てていないことを、わたしは知るでしょう。たとえわたしに喜びや平安を与えられず、わたしを苦しみの中で生活させ、わたしに無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたがわたしを見捨てない限り、わたしの心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きはわたしにとって最高の加護であり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたからわたしに授けられた恵みが、わたしを守っているのです。あなたが現在わたしに授けられる恵みは、あなたの義なる性質の表れであり、それは刑罰と裁きでもあります。さらに、それは試練であり、また何よりも、苦難の生活です」。ペテロは肉の喜びを脇へ置き、いっそう深い愛といっそう大きな加護を求めることができた。なぜなら、神の刑罰と裁きから、極めて多くの恵みを得たからである。人生において、清められて性質の変化を成し遂げ、有意義な人生を生き、被造物としての本分を尽くそうと望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れなければならず、神の懲らしめと打ちのめしが自分から去らないようにし、そうすることで、サタンによる操作と支配から逃れて、神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光、人間の救いの光であり、人間にとってそれ以上の祝福と恵みと加護はないことを知らなければならない。人間はサタンの支配下で生活し、肉の中に存在する。清められず、神の加護を受けなければ、人間はますます堕落する。神を愛したいと望むのであれば、清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたがわたしを優しく扱われるとき、わたしは喜び、安らぎを感じます。あなたがわたしに刑罰を与えられるとき、わたしはそれにも増して喜びと安らぎを感じます。わたしは弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、わたしの不従順さと弱さのゆえであることを、あなたは知っておられます。わたしが泣くのは、自分があなたの望みを満たせないからであり、わたしが悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかしわたしは、自ら進んでその領域へと到達しようとしており、あなたを満足させるためなら、自分にできることをすべて行います。あなたの刑罰はわたしに加護をもたらし、最高の救いを与えてくれました。あなたの寛容さと忍耐も、あなたの裁きの前ではかすんでしまいます。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしがあなたの憐れみと慈愛を享受することはないでしょう。現在、あなたの愛が天を超越し、他のあらゆるものを凌いだことを、わたしはいっそう理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけでなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、わたしは多くのものを与えられました。あなたの刑罰と裁きがなければ、誰一人清められず、創造主の愛を経験できることもないでしょう。わたしは数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありますが、それらのおかげであなたを真に知り、至高の救いを得ることができました。あなたの刑罰、裁き、そして懲らしめがわたしのもとを離れてしまえば、わたしは闇の中、サタンの支配下で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きがわたしのもとを離れてしまえば、それはまるで、あなたの御霊がわたしを見捨て、もはやあなたがわたしと共におられないようなものでしょう。だとしたら、わたしはどうして生きてゆくことができましょうか。あなたがわたしに病を与え、わたしの自由を奪われても、わたしは生き続けることができますが、あなたの刑罰と裁きがわたしのもとを去ってしまえば、生きてゆくことは決してできないでしょう。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしはあなたの愛を失っていたでしょう。あなたの愛は非常に深く、それを表現するなどわたしにはできなせん。あなたの愛がなければ、わたしはサタンの支配下で生き、あなたの栄えある御顔を見ることができないでしょう。わたしはどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、わたしにはとても耐えられません。あなたがわたしと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうしてわたしがあなたから去ることができましょうか。わたしはあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、わたしの最大の慰めを奪わないよう懇願し、乞い願います。わたしはすでにあなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうしてわたしがあなたを愛せずにいられましょうか。わたしはあなたの愛ゆえに、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活はさらに有意義であり、もっとわたしを豊かにし、ますますわたしを変化させ、被造物が持つべき真理をわたしがいっそう得られるようにすることができると、常に感じております」。

人間はサタンの支配下で生涯を送り、サタンの支配から自力で逃れられる者は一人もいない。人間はみな汚れた世界で、堕落と空虚さの中、意義や価値が少しもないまま生きている。このような人は、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配から自分をどう解放すればよいのか分からずにいる。いつの時代も、この秘密を発見して理解した者は稀である。このように、人間はサタンを憎み、肉を忌み嫌っているが、サタンの支配という罠から逃れる方法を知らない。現在、あなたがたは依然としてサタンの支配下にいるのではないか。あなたがたは自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分が汚れており、反抗的であると感じることなどない。神に反抗した後、あなたがたは安心し、大いに落ち着くことさえある。あなたの落ち着きは、堕落していることが原因ではないのか。こうした安心は、あなたの不従順から生じているのではないか。人は人間地獄の中で生き、サタンの闇の支配下で生きている。あらゆる地で幽霊が人間と共に暮らし、人間の肉に侵入している。地上では、あなたは美しい楽園に住んでいるのではない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間地獄であり、冥府である。清められなければ、人は汚れた存在である。神によって守られず、神の気遣いを受けていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。裁きや刑罰を受けていないのであれば、サタンの闇の支配による圧迫から逃れる術はない。あなたが依然としてサタンの支配下で生きていることは、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分証明できる。あなたの心と思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在はいまだサタンの領域に操られ、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操作され、あなたの存在全体がサタンの手により支配されているのだ。現在、自分がペテロの基準からどれほどかけ離れているか、あなたは果たして知っているのか。そのような素質があなたにあるのか。現在の刑罰と裁きについて、あなたはどの程度知っているのか。ペテロが知るに至ったことを、どの程度自分のものにしているのか。現在知ることができないのであれば、将来その認識を獲得することができるだろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が刑罰と裁きを知ることは、まったく不可能である。あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、清められる術など一切なく、最後にはサタンのところへ戻される。なぜなら、あなたが生きているのはサタンであり、肉だからである。現状、多くの人はいのちを追い求めていないが、それは、彼らが清められることにも、より深いいのちの経験へと入ることにも注意していないことを意味する。そうであれば、完全にされることがどうしてあり得ようか。いのちを追い求めない者には、完全にされる機会など一切なく、神についての認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。宗教を信じる者や、儀式に従い定期的な礼拝に参加するだけの者と同じく、神に関する自分の認識や、性質の変化への入りについて真剣ではないのである。これでは時間の無駄ではないか。人が、神への信仰の中で、いのちに関する問題を真剣に考えず、真理に入ることを求めず、自分の性質の変化を追求せず、ましてや神の働きに関する認識など追求しないのであれば、その人が完全にされることはあり得ない。自分が完全にされることを望むのであれば、神の働きを理解しなければならない。特に、神の刑罰と裁きの意義と、この働きが人間に対して行われる理由を理解しなければならない。あなたは受け入れることができるのか。この種の刑罰において、ペテロと同等の経験と認識に達することができるのか。神についての認識と、聖霊の働きについての認識を追求し、自分の性質の変化を追い求めるのであれば、あなたには完全にされる機会がある。

完全にされる者については、征服されるこの段階の働きこそが不可欠である。人間は征服されて初めて、完全にされる働きを経験できる。征服される役割をただ演じることに大きな価値はなく、それによって、あなたが神に使われるのにふさわしいと見なされることはない。あなたには、福音を宣べ伝える役割を果たす手段がないのである。なぜなら、いのちを追い求めることがなく、自分を変えて一新させることを追求しておらず、そのため、いのちの実経験がないからである。この段階的な働きにおいて、あなたは効力者や引き立て役としての役割を果たしたことがあるが、最終的にペテロのようになることを追求せず、あなたの追求が、ペテロが完全にされた道に沿うものでないならば、当然、あなたが性質の変化を経験することはない。完全にされることを追求する者ならば、証しをしてこのように言うはずだ。「神によるこの段階ごとの働きにおいて、わたしは神の刑罰と裁きの働きを受け入れた。また、わたしは大いなる苦しみに耐えてきたが、神がどのようにして人間を完全にされるかを知り、神による働きを自分のものにし、神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。神の義なる性質がわたしの上に臨み、祝福と恵みをもたらした。わたしを守り、わたしを清めたのは神の裁きと刑罰である。仮にわたしが神による刑罰と裁きを受けておらず、神の厳しい御言葉がわたしの上に臨んでいなければ、わたしは神を知らず、救われることがなかったはずだ。今ではわかる。被造物たる者、創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に大事なこととして、神の性質は人間が享受するに値するのだから、あらゆる被造物は神の義なる性質と義なる裁きを享受しなければならない。サタンに堕落させられた被造物として、神の義なる性質を享受すべきだ。神の義なる性質には刑罰と裁き、そしてそれ以上に、大いなる愛がある。現在、わたしは神の愛を完全に得ることができないものの、それを見る幸運に恵まれており、そのことにおいて、わたしは祝福されている」。これこそが、完全にされた者の歩む道であり、彼らが語る認識である。このような人はペテロと同じであり、ペテロと同様の経験がある。このような人はまた、いのちを得た者でもあり、真理を有する者である。彼らが最後まで経験するとき、神の裁きのさなかに、必ずやサタンの影響を自分から一掃し、神のものとされるだろう。

征服された後も、人には鳴り響くような証しがない。単にサタンを辱めただけで、神の言葉の現実を生きてはいない。あなたはいまだ第二の救いを得ていない。罪の捧げ物を得たに過ぎず、完全にされてはいない――これは大きな損失である。あなたがたは、自分が入るべきこと、実際に生きるべきことを理解し、それらの中に入らなければならない。最終的に、完全にされることを成し遂げなければ、あなたは真の人間でなく、後悔で一杯になるだろう。最初に神によって造られたアダムとエバは、聖なる人間だった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、汚れがなかった。またヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、サタンの影響による妨害を受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、汚されることも、肉に囚われることも一切なく、ヤーウェを畏れていた。その後、サタンに誘惑された彼らは蛇の毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの支配下で生きた。最初、彼らは聖く、ヤーウェを畏れていた。この状態においてのみ、彼らは人間だったのである。その後、サタンに誘惑された後、彼らは善悪の知識という木の実を食べ、サタンの支配下で生きるようになった。サタンによって次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心に悪は一切なかった。当時、人間は本当の意味で人間だったのだ。サタンによって堕落させられた後、人間は獣となった。人間の考えは悪と汚れで満たされ、善や聖さはまったくなかった。それはサタンではなかろうか。あなたは神の働きの多くを経験したが、変化しておらず、清められてもいない。依然としてサタンの支配下で暮らし、いまだ神に服従しない。これは、すでに征服されてはいるが、まだ完全にされていない者である。それでは、このような人がいまだ完全にされていない者だと言われるのはなぜか。それは、その人がいのちを求めず、神の働きに関する認識も追い求めず、肉の快楽や束の間の慰めを無闇に欲するからである。その結果、彼らのいのちの性質はまったく変化せず、神に造られたときの、人間の本来の姿を取り戻していない。このような人は生ける屍であり、霊のない死人である。霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることに満足しているだけの者、そして神の言葉によって生きられず、聖なる人になれない者――このような者たちはみな救われていない人々である。なぜなら、真理がなければ、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立てる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを追い求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられる。この救いは、神によって救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得ることだけを意図しているのではない。その目的は、あなたがたが神によって得られることであり、神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたに以上の言葉を語り、あなたがたはそれを聞いたのだから、これらの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこれらの言葉を通してあなたがたを得る瞬間である。それと同時に、あなたがたもこれらの言葉を得ている。つまり、この至高の救いを得ているのだ。ひとたび清められれば、あなたがたは真の人間になるだろう。真理を生きることができず、完全にされた者の姿を生きることもできなければ、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるだろう。なぜなら、あなたには真理がなく、それはつまり、ヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後でも証しをすることは可能だが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、霊を持った生者とはなっていない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果、自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い自分自身のままであり、いまだサタンに属しており、清められた者ではない。完全にされた者にしか価値はなく、このような人だけが真の人生を得たのである。いつの日か、誰かがあなたにこう言うだろう。「あなたは神の働きを経験したのだから、神の働きがどのようなものか、話してくれないか。ダビデは神の働きを経験し、ヤーウェの御業を目の当たりにし、モーセもまたヤーウェの御業を目の当たりにしたので、両者ともヤーウェの御業を説明し、その不思議について語ることができた。終わりの日、あなたがたは受肉した神の働きを目の当たりにしたのだから、神の知恵について話せるだろうか。神の働きの不思議について話せるだろうか。神はあなたがたに何を要求され、あなたがたはそれをどのように経験したのか。あなたがたは終わりの日に神の働きを経験した。あなたがたの最も大いなるビジョンは何か。そのことについて話せるのか。神の義なる性質について話せるのか」。このように質問されたとき、あなたはどう答えるだろうか。あなたが、「神はまさしく義であり、わたしたちに刑罰と裁きを与えられ、わたしたちを容赦なく暴かれる。神の性質は、人間による背きを決して容赦しない。神の働きを経験した後、わたしは自分の獣のような側面を知り、神の義なる性質を真に目の当たりにした」と言うなら、相手は続けて、「それ以外に、あなたは神について何を知っているのか。人はどのようにしていのちへと入るのか。個人的な熱意があなたにあるのか」と尋ねるだろう。あなたは、「サタンに堕落させられた後、神の被造物は獣となり、ロバ同然だった。現在、わたしは神の御手の中で生きているので、創造主の願いを満たし、創造主の教えることには何でも従わなければならない。わたしには、そうする以外に選択肢はない」と答えるはずだ。あなたがこうした一般的な話をするだけなら、その人はあなたが言っていることを理解しないだろう。あなたには神の働きに関してどのような認識があるのかと尋ねるとき、相手はあなた自身の経験のことを指しているのだ。あなたが神の刑罰と裁きを経験した後、それらについてどのような認識があるのか、と尋ねているのであり、それはあなた自身の経験のことを言っているのであって、真理に関するあなたの認識について話をするよう求めているのだ。そうしたことについて話せなければ、それはあなたが現在の働きについて何も知らない証拠である。あなたはいつも、もっともらしい言葉、あるいは広く知られている言葉ばかり語る。具体的な経験はなく、ましてあなたの認識には内容がなく、真の証しも一切ないので、他の人たちがあなたに納得することはない。受動的に神に付き従う者となってはならず、自分の好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、いずれ自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう。真理を得て、それを生きることができるように、このような消極性と受動性を取り除き、肯定的な物事の追求と自分の弱さの克服に熟達しなければならない。自身の弱みについて、あなたが恐れることは一切なく、自身の欠点があなたの最大の問題なのではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなたがた全員の最大の問題は、臆病な精神によって現状に満足し、ただ受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、真理の追求における最大の敵である。わたしの話す言葉が極めて深遠だからという理由だけで服従するのであれば、あなたは真に認識を有しておらず、真理を大切にしてもいない。あなたが持っているような従順さなど証しではなく、わたしはそうした従順さを認めない。誰かがあなたに、「あなたの神はいったいどこから来るのか。あなたの神の本質は何なのか」と尋ねるかもしれない。それにあなたは、「神の本質は、刑罰と裁きである」と答えるだろう。するとその人は「神は人間に対して思いやりがあり、愛情があるのではないか。あなたはそれを知っているのか」と続けて言うだろう。あなたは、「それは他の者たちの神である。それは宗教の人々が信じている神であって、わたしたちの神ではない」と言うだろう。あなたのような人々が福音を広めると、真の道はあなたによって歪められる。そうであれば、あなたは何の役に立つというのか。どうして他の人たちがあなたから真の道を得られようか。あなたには真理がなく、真理について話すことができず、まして真理を生きることなどできない。どうしてあなたに神の前で生きる資格があるだろうか。あなたが他の人に福音を広め、真理について交わり、神を証しするとき、他の人を説得できなければ、彼らはあなたの言葉を論破するだろう。あなたは無駄に場所を取っているだけではないか。あなたは神の働きを数多く経験してきたが、真理について話をすると、まるで意味不明である。あなたはまったくの役立たずではないか。あなたが何の役に立つというのか。あなたがたは神の働きを数多く経験しながら、どうして神に関する認識が少しもないままでいられるのか。神に関してどのような真の認識を持っているのか他の人に訊かれると、あなたは言葉を失うか、あるいは、神は全能であり、自分が授かった大きな祝福は、まさしく神による称揚であって、自身の目で神を見られる以上の特権はないなどと、まるで関係のないことを答える。そんなことを言って何の価値があるのか。それは役に立たない空虚な言葉だ。神の働きを数多く経験してきたにもかかわらず、あなたが知っているのは、神による称揚が真理であるということだけなのか。あなたは、神の働きを知らねばならず、そうして初めて本当に神を証しするようになる。真理を得ていない者が、どうして神を証しできようか。

これほど多くの働きや言葉が、あなたにまったく効果がないのであれば、神の働きを広める時が来た際、あなたは自分の本分を尽くすことができずに辱められ、屈辱を感じるだろう。この時、あなたは神に対して多くの借りがあり、神に関する自分の認識は極めて表面的だと感じるはずだ。神が働きを行う間、現在あなたが神に関する認識を追い求めないのであれば、後で手遅れになるだろう。最終的に、あなたには話すべき認識が一切ない――あなたには何もなく、空虚なままとなってしまう。あなたは何を用いて神に申し開きをするだろうか。厚かましくも神を見上げるだろうか。あなたは今こそ懸命に追求しなければならない。それにより、最終的にはペテロのように、神の刑罰と裁きが人にとっていかに有益かを知り、神の刑罰と裁きがなければ、人間が救われることはなく、汚れた地の汚泥へとますます深く沈むしかないということを知るだろう。人々はサタンによって堕落させられ、互いに陰謀を企て、互いを踏みつけ、神への畏れを失っている。彼らの不従順はひど過ぎ、人間の観念は多過ぎ、誰もがサタンに属している。神の刑罰と裁きがなければ、人間の堕落した性質を清めることはできず、人間が救われることもない。受肉した神の肉における働きによって表されることは、まさに霊によって表されることであり、神が行う働きは、霊が行う働きに沿って実行される。現在、この働きに関する認識があなたになければ、あなたは極めて愚かであり、実に多くのものを失ったのである。あなたが神の救いを得ていないのであれば、あなたの信仰は宗教的信仰であり、あなたは宗教に属するクリスチャンである。あなたは死んだ教義に固執しているので、聖霊の新たな働きを失った。神への愛を追求する他の者たちは、真理といのちを得られるが、あなたの信仰は神の承認を得られない。その代わりに、あなたは悪を行う者、破滅的な忌むべき行動を取る者、サタンの悪戯の標的、サタンの虜となってしまった。神は、人間が信じるべき存在ではなく、人間が愛し、追い求め、崇めるべき存在である。今日、あなたが追い求めないならば、いつかこのように言う日が来るだろう。「あの時、わたしはどうして神に正しく付き従い、神をきちんと満足させ、いのちの性質の変化を追求しなかったのだろう。あの時、神に服従できなかったこと、神の御言葉についての認識を追求しなかったことを、わたしはどれほど後悔しているか。あの時、神は多くのことを言われた。わたしはなぜ追求できなかったのだろう。わたしは本当に愚かだった」。あなたは、自分をある程度憎むだろう。あなたは現在、わたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全体を目にするとき、あなたは後悔し、唖然とするだろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではないか。現在、神の働きの次なる段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが生きるよう求められていることに、例外的なものは一切ない。働きと真理は非常に数多くあるが、あなたがそれらを知る価値などないのではないか神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのか。あなたはサタンの支配下で、平安と悦楽、そして少しばかりの肉の享楽を持ちながら暮らすことに満足しているのか。あなたはあらゆる人の中で最も卑しい者ではないのか。救いをその目で見ておきながら、それを得ようと追求しない者以上に愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。神に対する自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいはわずかな苦難も招かないことを、あなたは望む。そうした無価値なものを常に追い求め、いのちの価値を一切認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値もない。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚や犬とのあいだに、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちはみな、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちはみな、生ける屍ではなかろうか。あなたがたのあいだでどれほど多くの言葉が語られたのか。あなたがたのあいだで行われた働きは、ほんの少しなのか。あなたがたのあいだで、わたしはどれくらい与えたか。それなのに、あなたがそれを得ていないのはなぜなのか。あなたは何が不満なのか。肉を愛し過ぎているので、何も得られなかったということではないのか。そしてその原因は、あなたの考えが突飛過ぎるからではないのか。また、あなたが愚か過ぎるからではないのか。これらの祝福を得られなければ、自分が救われなかったことを神のせいにできるのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか。豚は人生も、清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは依然それを得ていない。つまり手ぶらである。このような生活、つまり豚の生活を続けることを、あなたは望んでいるのか。このような人々が生きていることの意味は何か。あなたの生活は軽蔑すべきもの、恥ずべきものであり、あなたは汚れと放蕩の中で暮らし、何の目標も目指していない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのか。このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求によって決まる。人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神はまさに義なのだから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に付き従うなら、神が人間を見捨てることがあり得ようか。わたしはすべての人間に対して公平であり、すべての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、すべての人間は誰であろうと、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどういったものか、どれだけ長くその資格を保持しているかなど気に留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるかどうか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、わたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意することも配慮することもなく、ただ付き従うだけであれば、わたしはその時、あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するだろう。その際、あなたは何と言うだろうか。神は義でないと、あなたは言えるだろうか。現在、わたしが語った言葉に従っているなら、あなたはわたしに認められる類いの人である。あなたは、自分は神に付き従いながら常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に付き従い、よい時も悪い時も神と共にしてきたと言うが、神によって語られた言葉を生きておらず、神のために日々奔走して自分を費やすことばかり望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたは、このように言う。「とにかくわたしは、神は義だと信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、気づかれていないにもかかわらず、懸命に努力してきた。神はきっとわたしのことを覚えてくださるはずだ」。神は義であるというのは本当だが、その義はいかなる不純物にも汚されていない。そこに人間の意志は一切含まれておらず、肉や人間の取引に汚されてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者はみな懲罰を受け、誰も赦されず、誰も容赦されない。中には「今日、わたしはあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたはわたしに少しばかりの祝福を与えてくださるでしょうか」と言う人もいる。そこで、わたしはあなたに「わたしの言葉に従ったのか」と尋ねる。あなたの言う義は、取引に基づくものである。あなたは、わたしが義であり、すべての者に公平で、最後までわたしに付き従う者は確実に救われ、わたしの祝福を得るとしか考えていない。「最後までわたしに付き従う者は確実に救われる」というわたしの言葉には、内なる意味がある。つまり、最後までわたしに付き従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされる者なのだ。あなたが満たした条件は何か。あなたが満たしたのは、最後までわたしに付き従うことだけだが、他に何を満たしたというのか。あなたはわたしの言葉に従ったのか。五つあるわたしの要求のうち、あなたは一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりはまったくない。最も単純で容易な道を見つけ、幸運を得られればそれでいいという態度でその道を追い求めるだけである。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであって、悪を行う全員への義なる懲罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで付き従ったとしても、みな必ず懲罰を受ける。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の懲罰において表されるとき、人間は唖然とし、神に付き従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「そのとき、わたしは神に付き従いつつ、少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。どのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外に選択肢はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよ、わたしは最後まで付き従ったのだから、あなたがわたしに刑罰を与えられたとしても、それはあまりに過酷な刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたはわたしを欲されるでしょう。あなたが義であられ、わたしを永遠にそのように扱われないことを、わたしは知っています。結局、わたしは一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、わたしの刑罰はそれよりも軽いでしょう」。義なる性質は、あなたが言うようなものではない。自分の罪を告白するのに長けている者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の背きを許さない性質である。ゆえに、汚れたものや変化していないものはすべて、神の嫌悪の対象である。神の義なる性質は、法ではなく行政命令である。それは神の国における行政命令であり、その行政命令は、真理がなく変化していないすべての者への義なる懲罰であって、そこに救いの余地はない。人間が一人ずつ種類ごとに分類されるとき、善良な者は報われ、邪悪な者は罰を受ける。その際、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行うすべての者に報復がもたらされる。ある人たちは言う。「神は、自身の傍らにいつもいる者をみな覚えている。神はわたしたちを一人として忘れない。わたしたちは神によって完全にされることを保証されている。下にいる者たちのことを、神は覚えておらず、彼らのうち完全にされる者の数は、いつも神と顔を合わせているわたしたちよりも少ないことが保証されている。わたしたちのうち、神が忘れられた者は一人もおらず、全員が神に認められており、神によって完全にされることが保証されている」。あなたがたの全員がこのような観念を抱いている。これは義だろうか。あなたは、真理を実践したことがあるのか、それともないのか。実のところ、あなたはそのような噂を広め、何も恥じることがない。

現在、神に用いられることを追求する人もいるが、そのような人が征服された後に直接用いられることはない。現在語られている言葉について言えば、神が人々を用いるとき、あなたがそれらの言葉をいまだに成し遂げられないのであれば、あなたは完全にされていないのだ。言い換えると、人間が神に淘汰されるか、それとも神に用いられるかは、人間が完全にされる期間の最後に決定される。征服された者たちは、消極性と否定的な物事の実例に過ぎない。彼らは見本であり模範であるが、一つの対比に過ぎない。いのちの性質が変化し、内面でも外面でも変化を成し遂げて初めて、その人は十分完全にされたことになる。現在、あなたは、征服されることと、完全にされることのうち、どちらを求めるのか。どちらを成し遂げたいのか。あなたは完全にされるための条件を満たしたのか。いまだ欠けている条件はどれか。あなたは、どのように自ら備え、不足を補うべきなのか。完全にされる道へと、どのように入るべきなのか。どのようにして完全に服従すべきなのか。あなたは完全にされることを求めているが、それなら聖さを追求しているのか。あなたは、神に清めてもらえるよう、刑罰と裁きを経験することを求めている人なのか。清められることを追求しているなら、刑罰と裁きを喜んで受け入れるか。あなたは神を知ることを求めているが、神の刑罰と裁きに関する認識があるのか。現在、神があなたに対して行う働きのほとんどは刑罰と裁きである。あなたに対して行われたこの働きについて、あなたの認識はどのようなものか。自分が経験した刑罰と裁きにより、あなたは清められたのか。それによって変化したのか。それによって何か効果があったのか。あなたは、呪い、裁き、暴露など、現在の多くの働きに疲れ果てているのか。それとも、そうした物事は自分にとって大きな恩恵であると感じているのか。あなたは神を愛しているが、その理由は何か。あなたが神を愛しているのは、多少の恵みを受けたからか。それとも平安と喜びを得た後に、神を愛しているのか。あるいは、神の刑罰と裁きによって清められた後に、神を愛しているのか。あなたはいったいなぜ、神を愛しているのか。ペテロは完全にされるために、どういった条件を満たしたのか。ペテロが完全にされた後、そのことが表現された重要な方法は何か。ペテロが主イエスを愛したのは、主を切望していたからなのか。それとも主に会えなかったからなのか、あるいは責められたからなのか。それとも、患難の苦しみを受け入れ、自分の汚れと不服従を知り、主の聖さを認識するようになったから、主イエスをいっそう愛したのか。神に対するペテロの愛がいっそう清くなったのは、神の刑罰と裁きのゆえなのか、それとも別の理由のためなのか。いったいどちらなのか。あなたが神を愛するのは、神の恵みのゆえであり、現在あなたにわずかばかりの祝福を与えたからである。これが真の愛なのか。あなたは、どのように神を愛するべきか。神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を目の当たりにした後、完全に確信して神についての認識を有するようになるほど、真に神を愛せるようになるべきか。ペテロのように、神をどれほど愛しても十分ではないと言えるだろうか。あなたが追求するのは、刑罰と裁きの後に征服されることか、それとも、刑罰と裁きの後に清められ、守られ、世話されることか。あなたが追求しているのはどれなのか。あなたの人生は有意義なものか、それとも意味も価値もないものか。あなたが欲するのは肉か、それとも真理か。あなたが望むのは裁きか、それとも快楽か。神の働きを数多く経験し、神の聖さと義を目の当たりにしてきたあなたは、どのように追求すべきか。どのようにしてこの道を歩むべきか。神への愛をどのように実践すべきか。神の刑罰と裁きは、あなたの中で何らかの効果を上げたのか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を生き、どの程度神を愛しているかに左右される。あなたの唇は、自分は神を愛していると言うが、実際に生きているのは、古い堕落した性質である。あなたに神への畏れはなく、ましてや良心などない。そのような人は神を愛しているのか。そのような人は神に対して忠実なのか。神の刑罰や裁きを受け入れる者なのか。あなたは神を愛し、信じていると言うが、自分の観念を捨てていない。あなたの働き、入り、語る言葉、そして生活において、神に対するあなたの愛は一切表されておらず、神への畏敬がまったくない。これが刑罰と裁きを得た者なのか。こうした者がペテロのようになれるだろうか。ペテロのような者たちが、認識を持っているだけで、それを実際に生きないということがあるだろうか。現在、人間が真の人生を生きるのに必要な条件は何か。ペテロの祈りは、単に口から出た言葉に過ぎなかったのか。それは、ペテロの心の奥底から出た言葉ではなかったのか。ペテロは祈るだけで、真理を実践しなかったのか。あなたの追求は誰のためなのか。神の刑罰と裁きの際に、あなたはどのようにして加護と清めを受けられるようにすべきだろうか。神の刑罰と裁きは、人間にとってまったく無益なものなのか。裁きはすべて懲罰なのか。人間のいのちに有益なのは、平安と喜び、物質的な祝福、束の間の快楽だけなのか。人間が快適かつ楽な環境の中で、裁きの生活なしに生きるのであれば、その人は清められるだろうか。変化することと清められることを望むなら、完全にされることをどのように受け入れるべきか。現在、あなたはどちらの道を選ぶべきだろうか。

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