質問6. 恵みの時代に神は受肉なさり、人類のための罪祭となり、人々の罪を贖ってくださいました。終わりの日に神は再び受肉し、真理を表し、人を完全に清め救うために裁きの働きを行っておられます。ではなぜ神は人類を救う働きを行うために二度受肉する必要があるのですか。そして二度の神の受肉の真の意義は何ですか。

回答

どうして神様は人類の救いの働きに二度も受肉されるのか? まず大事な点ですが、人類の救いについて、二度の受肉には深い意味があるんです。なぜなら人類の救いの働きは、それが贖いであろうと、終わりの日における人類の裁きや清めであろうと、人には行えないことだからです。神様ご自身が受肉して、行わなければなりません。恵みの時代に、神様は主イエスとして受肉され、聖霊が聖らかで罪のない肉体を身に纏い、人々の罪を贖うため、罪の捧げものとして、十字架に磔にされました。これは誰もが知っています。しかし、主イエスは終わりの日に、なぜ人の子として受肉して、再臨なさったんでしょうか? ここが分かりにくいんです。もし全能神が真理を説明されておらず、奥義を解き明かされなかったら、誰もこの真理を理解できないでしょう。

中略

恵みの時代に受肉された神様は、贖いをなさっただけでした。十字架を罪への捧げものとすることで、人々を彼らの罪から贖われ、律法の呪いと非難から解放したにすぎません。私たちは罪を告白し、悔い改めれば赦されました。あとは、神様のすばらしい恵みと真理を享受すればよかったんです。これが主イエスの行われた贖いであり、信仰によって救われるということの意味です。主イエスに罪を赦されましたが、まだ罪の束縛から逃れてはいません。人間には、罪深いサタン的な性質がいまだにあるからです。私たちは犯した罪を主イエスに告白し、主から罪の赦しをいただきました。しかし、人は自らの罪深い性質を知りません。罪よりもっと深刻なことに、堕落の自覚すらありません。人間は律法に反する罪と自身の良心が咎める罪は認めることができますが。神様への反抗という重大な罪は見逃してしまっているんです。例えば、神様への反抗の根源は何か。サタン的な性質がどのように生まれたのか。それがどのように形を成していくのか。生まれつきの性質にどんなサタンの毒があるのか。サタン的な思想や理論や規則が、どこから出てくるのか。こうした邪悪なものの認識が、なぜ人にはないんでしょう? 人類の犯した罪が主イエスによって赦されたのなら、なぜ罪の束縛から抜け出せないんでしょうか? なぜ罪を繰り返すんでしょう? 一度罪を赦されたら、その人は清いままでしょうか? 本当に尊いんでしょうか? これは恵みの時代に誰も理解しなかった問題です。信仰によって罪を赦されても、無意識に罪を犯し神様を拒み、裏切っていることがあります。これは誰にでも心当たりがあるはずです。例えば、主を信じるようになっても嘘をついたり、自惚れたり、真理を嫌ったり、悪に味方したり、傲慢で不誠実で、利己的で、貪欲なままです。サタンの堕落した性質に捕らわれているんです。多くの信者が主に尽くすのも、天国に入りたいからにすぎません。主の恵みを受ける時、人々は満足して、熱心に信仰します。しかし苦難に直面したり、家庭に不幸があったとたん、主を誤解したり、非難したり、否定したり、裏切ったりします。神様の働きが自分の観念に合わないと、あの偽善的なパリサイ人のように振る舞い、神様を拒み、非難します。皆さんにも、そんな経験はありませんか? これらは何を意味するんでしょうか。これはたとえ私たちが、主イエスの救いを受け入れて、罪を赦されたとしても、罪が取り除かれて今や清められたわけではないことを示しています。ましてや神様のものとされたわけではありません。ですから、終わりの日に主が再臨して裁きをされる時、宗教者たちの多くが、神様を裁き、非難して、冒涜し、公然と敵対して再び十字架にかけるでしょう。このように神様に反抗する人々が、罪が赦されたからといって天国に引き上げられるでしょうか? 神様を拒む邪悪な勢力が天国に入れますか? 真理を嫌う反キリストが天国に引き上げられるでしょうか? 私たちは、たとえ信仰によって罪を赦されても、罪深さやサタンの影響を取り除けてはいないんです。ましてや神様のものとされてなどいません。ですから、もし人間が罪を取り除いて清められ、神様のものとされたいなら、神様の二度目の受肉の働きによってくまなく清められ、救われねばなりません。

私たちは救いの働きを単純に考えすぎなんです。罪が赦されたとたん問題がなくなるなんて。あとは天国に引き上げられるだけなんて、堕落した人間の何とも子供じみた考えです。人間のバカげた思い込みと想像にすぎません。堕落した人類には、罪だけが問題だったでしょうか? 罪の根っこにある部分は何でしょう? そもそも罪とは何でしょう? 神様が嫌うわけは? 今日まで正しい理解を示した人はいません。サタンによる人の堕落とはどの程度のものなんでしょうか。誰も明言しません。主イエスが十字架にかけられた時、人間の堕落の深さが浮き彫りになりました。多くの真理を表された、憐れみ深い主イエスを磔にするとは、まさに人がサタンの末裔に成り下がってしまった証し。サタンと同類です。人間性そのものを失い、もはや良心や理知のかけらも残っていません。正常な人間性はどこでしょう? 神様に対する、反抗と敵意は、人間が神様と和解できないところまで来た証拠ではないですか? 罪を赦されることで解決するでしょうか? 罪を赦されれば、神様にもう反抗や敵対をしないと、誰が保証できるでしょう? 誰も保証はできません。罪は赦されたとしても、神様に抗う人の本性は赦されるでしょうか? 神様はサタン的な性質を赦されるでしょうか? では、サタンに属するものを神様はどう解決されるか? 言うまでもなく、裁きと刑罰によって解決されます。神様による裁きと刑罰がなくしては、人は神様に勝ち取ってもらえません。深い悔恨を感じることもないでしょう。これこそ神様が裁きの働きのため、受肉されねばならない理由です。終わりの日に、裁きの働きのために受肉された神様について、多くの人々が、疑問視したり、観念をもったりしています。それは人々が自らの完全な堕落に気づいていないからです。だから誰も、終わりの日の神様の裁きについて、理解してはいません。自分たちの思い込みに固執し、真の道を求めもしないんです。それでは、神様の働きにも従えません。

中略

受肉とは神様の霊が肉体を身に纏い、神様の働きを行うために普通の人になることです。受肉した神様は普通の人間性を持ち、その中で働き、語らねばなりません。奇跡を行われる時でさえ、普通の人間としてなさいます。神様の受肉は見た目は普通で、普通の人間のように働かれます。もし、普通の人間性を持たず、普通の人間として働かないなら、神様の受肉ではありません。受肉とは神様の霊が肉体に宿ることです。普通の人間性を持って真理を説き、神様の働きで人を贖い救われます。これが受肉の意義なんです。二度の受肉の意義はもう分かりましたか? それは、おもに神様の二度の受肉が受肉の意義を完成させ、言葉が肉に表れるという働きをなし、人類を救う経営計画が成就したということです。これが神様の二度の受肉の意義です。もうお分かりですね。神様の最初の受肉は贖いの働きをするためでした。それは終わりの日の裁きの下準備だったんです。ですから、一度目の受肉だけでは、受肉の意義は完成しませんでした。二度目の受肉の目的は、終わりの日に裁きの働きを行い、人類をサタンの性質とその邪悪な影響から解放すること、サタンの魔の手から完全に救い出し、人類を神様の元に取り戻し、勝ち取ることです。終わりの日のキリスト・全能神は人類を清め救うために真理を表し、肉における神様の働きを完成させ、肉において現れるべきものはすべて、表されました。肉に現れる言葉をこうして完成されたんです。……神様の二度の受肉は受肉された神様の仕事を完了させ、人類の完全なる救いを成し遂げます。ですから、神様の受肉はこれが最後です。三度目、四度目の受肉は決してありません。神様の肉による働きが、完了しているからです。それゆえ二度の受肉は意義を完成させるというんです。

神様は二度の受肉で、その意義を完成されます。終わりの日の神様の働きを経験していない人々には理解しにくいでしょう。恵みの時代の贖いを経験した人々は、主イエスが神様の受肉だと知っています。ただ一握りの人しか、その働きが贖いだけだと理解していません。肉に現れる言葉の働きはしていないんです。主イエスは受肉された神様による人類の救いの真理を完全には表されなかったんです。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。主イエスは人の子として、肉となり戻られました。終わりの日のキリスト・全能神です。いま神の家から裁きを始められ、人類を救うための真理を表しておられます。それがこの本に書かれているんです。受肉された神様は全宇宙にその存在を知らしめ、御言葉を宣言されています。人類を救う経営計画を示し、神様の御心と、神様が人類に求めること、そして人類の終着点を表されるんです。

全能神がどう説明されているか読みましょう。「創世以来、神がすべての人類に話しかけたのはこれが初めてだと言っても過言ではない。神がかくも詳細に、またかくも系統立てて、被造物である人類に話したことはかつてなかった。もちろん、全人類にこれほど多くのことを、かくも長きにわたって話したのもこれが初めてである。それはまったく前例のないことなのである。そのうえ、これらの言葉は人類のあいだで神が発した初めての文章であり、神はその中で人々を暴き、導き、裁き、心を通わせて語っている。それはまた、神が人々に自身の足跡、横たわる場所、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の考え、そして人類に対する神の懸念を知らしめる最初の発言でもある。これらは、創世以来神が第三の天から人類に語りかけた最初の発言であり、神が本来の身分を使って言葉の中に現われ、心の声を人類に表現した最初の例だと言える(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、序論」〔『言葉』第1巻〕)

それは、わたしがこの世に人類の最後をもたらし、その時から、わたしの性質をすべて人類の前にあらわにするからである。そうして、わたしを知る人みな、そしてわたしを知らない人もみな、その目を喜ばせ、確かにわたしが人間の世界に、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これがわたしの計画であり、人類の創造以来の唯一のわたしの『告白』である。あなたがたは、わたしの一挙一動を集中して見守るように。わたしの杖が再び人類に向けて、わたしに敵対する者すべてに向けて迫りつつあるからである(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)

神様の二度の受肉がその意義を完成させることについて、理解できない人もいます。経験がないので、聞いても分からないんです。では、二度の受肉でなされた働きを詳しく学びましょう。最初の受肉で神様が贖いの働きをされ、数々の奇跡を起こされたことは、皆さんご存じですね? 5千人を養いました。嵐を鎮めました。ラザロの復活ね。荒野で40日間の断食もされました。水の上を歩かれたりもしました。また奇跡を行われたり、山上で変容されたりしたので、人から見れば、主イエスは受肉されていてもなお、超常的な要素があったわけです。普通の人とは違い、奇跡がついて回りました。また、主イエスが行われたのは贖いの段階だけ贖いの真理を説かれただけです。示されたのは神様の憐れみと愛でした。裁きと救いの真理はすべてを表されていません。神様の義にして聖なる犯しがたい性質は明かされませんでした。ですから、一度目の受肉によってその意義が果たされたとは言えません。全能神は言われています。「イエスが行なった働きの段階は、『言は神と共にあった』という言葉の実質を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である(『神の出現と働き』「実践(4)」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日の受肉は、一度目の受肉とはわけが違うんです。二度目の受肉の時は、神様は奇跡を行われず、超常的ではありません。外見では、普通の人と何ら変わりなく、実践的かつ現実的に人々に語られます。真理を表し、人を裁き、清め、完全にするためです。全能神は神様の経営計画を明かされ、神様の義であり、聖なる性質や神様の存在そのもの、その御心、そして人間への要求を示されているんです。同時に、神様を拒む人間のサタンの堕落した性質を裁いて暴かれます。それによって人々を選別し、勝ち取ったり完成させたり、排除したりするんです。終わりの日に神様が人に明かす真理はすべて、肉にある普通の人間性にて表されます。超常的ではありません。見た目は普通の人が御言葉を話し、働きを行います。しかし、キリストの御言葉はすべてが真理であり、権威と力を持ち、人間を清め、救えるんです。堕落した人間の性質を裁いて、暴く、キリストの御言葉からどのようにして、神様が人の心を見抜き、本質を理解されるかがうかがい知れます。また神様の義にして、聖なる犯しがたい性質も理解できます。人間に対するキリストの戒めと勧告からは、神様の憐れみと配慮を感じ取ることができます。キリストが語り、働きかける多くの方法から、神様の全能性、そして知恵が分かります。さらに心から人類を救おうするご意志と、人類に対する真の愛と救いが分かるはずです。またキリストが人や物事を扱う様子を見れば、神様の喜び、そして怒り、悲しみ、楽しみはすべて肯定的なものの現実であって、キリストの御言葉と働きから、神様がいかに偉大な権威をお持ちか、いかに謙虚かを知り。私たちは神様の性質と真の御顔をうかがい知ることができるでしょう。それによって私たちは真理を求め、神様を敬い、心から愛し、従うようになります。これが二度目の受肉における、神様の御言葉と働きがもたらす効果なんです。二度目の受肉の御言葉と働きは人間が神様の受肉を見られるだけでなく、御言葉が肉において現れることも示しています。その御言葉はすべてを成し遂げます。何の変哲もない肉こそが真理の霊の化身なんです。受肉した神様こそ、真理であり、道であり、命です。唯一の真の神の出現です。受肉の意義の完成は全能神の出現と働きがあってこそです。

中略

神様の二度の受肉がどのようにその意義を完成させるのか。理解していただけたはずです。皆さんももうお分かりですね。人類の救いは神様の受肉の働きによって成し遂げられるんです。主イエスは贖いの働きをされたのみ、表された真理は限られていました。ですから、それを体験しただけでは、私たちの認識も微々たるものです。全能神は終わりの日の裁きを行いに来られ、人間の堕落に対する神様の義なる裁きの真理を表されました。これにより人間は神様の性質を知り、その義にして聖なる本質に触れられます。すなわち、終わりの日の受肉によって肉の働きはすべて完了したということです。肉において表されるべき真理はすべて表されました。言葉は肉において現れました。こうして神様の二度の受肉によって、その意義は完成されたんです。神様の受肉は二度あってこそ完結するものです。ゆえに神様は一度しか受肉されないことも、三度四度と受肉を繰り返されることもありません。なぜなら、二度の受肉によって、神様の救いの働きが完成しているからです。人類を救う真理のすべては、神様の受肉によって、すでに表されました。ですから、二度の受肉によって、受肉の意義は完成されたと言えます。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)

前へ: 質問5. 堕落した人類は受肉した神に救っていただかなければならないと言われるのはなぜですか。これはほとんどの人が理解していないことです。この点について教えを分かち合って下さい。

次へ: 質問7. 神の二度の受肉は、キリストが真理であり、道であり、いのちであることを証ししました。キリストが真理であり、道であり、いのちであるということをどのように理解すべきでしょうか。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

キリストと融和する道を探せ

わたしは人々の間で多くの働きをしてきた。わたしがその間に発した言葉は数多くある。これらの言葉は人間の救済のためで、人間がわたしと融和するようにと発したものである。しかし、わたしと融和する者は、地上ではほんの数名しか得ていない。だから、人間はわたしの言葉を重んじないとわたしは言う…

堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である

神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をそ…

質問 2:全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

設定

  • 文章
  • テーマ

単色

テーマ

フォント

文字サイズ

行間

行間

ページ幅

目次

検索する

  • 表示テキスト内検索
  • 全文検索