ある偽善者の悔い改め

シンルイ(韓国)

全能神は言われます。「神に仕えるのは簡単なことではない。堕落した性質が変わらないままの人は、神に仕えることが決してできない。あなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないなら、その性質はいまだにサタンを表しており、あなたが神に仕えているのは善意を見せつけているのだということ、そしてあなたの奉仕がサタン的な本性に基づいていることを証明している。あなたは自分の元来の性格のまま、個人的な好みに沿って神に仕えている。さらに、自分が行おうとすることは神を喜ばせるものであり、自分が行いたくないことは神に憎まれるものだと常に考え、働くときも自分の好みにだけ沿っている。これを神への奉仕と呼べるだろうか。最終的に、あなたのいのちの性質はほんの少しも変わらず、それどころか、自分の奉仕のせいでますます頑固になり、そのため、堕落した性質がさらに深く染みこんでしまう。このようにして、おもに自分の性格に基づいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に沿った奉仕から派生する経験が、あなたの中で形をなす。それらは人間の経験と教訓であり、俗世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教官僚に分類することができる。目を覚まして悔い改めなければ、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストや反キリストになるのだ。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる(『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉のこの一節を読むと、偽善的なパリサイ人と聖職者、それに地位に取り憑かれた悪しき反キリストの連中が頭に浮かんだものです。彼らこそ神がお語りになっている者たちだと、わたしは考えていました。また、神はわたしたち全員の中にあるものを暴いておられ、自分にもその種の堕落した性質があるのだと、原則の上ではわかっていました。しかし本物の自己認識はなく、パリサイ人や反キリスト、あるいは他人を騙す人の要素は、わたしの中からすっかり取り除かれたように思っていました。自分はそんな人間でなく、そこまで至ったことは決してない。長年にわたる信者で、善行を重ね、本分を尽くす中で代価を支払っている。教会にどんな本分を割り当てられても、自分はそれに従い、実行している。それに、指導者になろうと努力しているわけではなく、自分に地位があるかどうかに関係なく本分を尽くしている。どうして反キリスト、他人を騙す人なんかになるだろう? しかし実のところ、わたしは完全に自分の観念と想像の中で生きており、その後事実に直面した際に、そうした自分の観念が頭をもたげたのです。

わたしは町の外で福音を広める働きを教会から任されました。その働きは程なく順調に進み出し、指導者からも高く評価されました。働きのその他の側面について、話し合いや相談を持ちかけられたこともあります。そのうえ、わたしは長年の信者であり、本分のために苦しむこともできたので、兄弟姉妹からも一種の尊敬を受けていました。わたし自身も自分のことを高く評価していました。自分には長年にわたる信仰があり、今は責任者の立場にある。だから他の人たちと同じであってはいけないし、自分のほうが優れているように見えなければならない。みんなよりもひどい堕落を表わすわけにはいかず、みんなのように弱さや消極性を見せてはいけない。さもないと、自分はどう思われるだろう? この人はこんなに長く神を信じているのに、背丈がまだ小さいなどと言われ、見下されはしないだろうか。その後、わたしは本分を尽くす中で原則に背いたために、指導者による取り扱いを受けました。あなたは長年の信者なのに物事を見抜く力がなく、真理の現実に欠けているというのです。わたしは信じられないほどの恥ずかしさと屈辱を感じましたが、自分の堕落と欠点を反省することも、真理を求めて自分に欠けているものを埋め合わせることもしませんでした。それどころか空虚な言葉や教義を並べ立て、自己を認識しているように装い、霊的人物のごとく振る舞うことで、自分に真理の現実が欠けていることを隠そうとしました。

ある日のこと、主を信じている同労者が、真の道を探求したいと言いました。そこで指導者は、すぐに出向いて神による終わりの日の働きを証しするようにと、わたしに告げました。わたしはそうしますと答えましたが、彼には多数の観念があり、解決に時間がかかることがわかりました。しかし、そのときはたまたま忙しく、その仕事をしばらく放置していました。すると数週間後、指導者からこう言われたのです。「今までずっと、彼に証しを伝えなかったのはなぜなの? 真の道を調べたがっていて、主のお戻りを待ち望む多くの信者を率いているのよ。神による終わりの日の働きをまだ証ししてないなんて、いったいどういうわけ?」。わたしは多少の罪悪感を覚え、「別の用事ができたので、無理だったんです」と急いで弁明しました。それを聞いた指導者は激怒し、あなたは本分に対して無責任でいい加減だし、ずるずる引き延ばして福音の働きをひどく妨げたと言ったうえ、厳しくわたしを叱責しました。そのとき、そこに兄弟姉妹が大勢いたので、わたしは顔が燃え上がるように感じました。「面目をすっかり失わせ、こんなに厳しくあたるなんて。自分が間違っていたことはわかってるのだから、今福音を伝えに行けばいいじゃない。これほど厳しく取り扱う必要なんかないわ」。わたしはそのように自己を正当化し、自分は怠け者でなく、毎日朝から晩まで福音を述べ伝えているのに、と思いました。しかし指導者はそれでも、わたしは動作を繰り返しているだけで、無責任だと言います。これ以上どうしろと言うのでしょう? この本分を尽くすのはもう無理だと思いました。集会のあと、わたしは部屋にこもって激しく泣きました。自分は不当に扱われていると思って否定的になり、神への誤解で一杯でした。そして、反逆的な感情がわたしの中でこみ上げてきました。指導者があれほどきつくあたるからには、神はきっとわたしのことを嫌われている。どうしてこの本分を続けられるだろう? たぶん、わたしは責めを負ってぐっと飲み込み、ここを立ち去るべきかもしれない。そうすれば神の家の働きが遅れることはないし、わたしも感謝されない仕事をせずに済む。すっかり泣きはらしたわたしは、自分は正しい状態にないと思いました。長年の信者なのに、多少厳しく取り扱われたとたん、それを受け止められない。神に弁明して神と競い、白旗を上げようとさえ思った。自分に本当の背丈は少しもない。そのとき、たとえ天が落ちてきても本分に忠実であるようにという、神の御言葉が脳裏に浮かびました。それを考えたところ、活力が生まれました。神や指導者からどう思われようと崩れ去るわけにはいかないし、本分がどれほどつらくても困難に向き合う必要がある。そのように考えると、惨めさが薄らぎました。そしてすぐに涙を拭い、兄弟姉妹と話し合うことにしたのです。それから数日後には、その同労者を迎え入れることができました。しかしその後も、わたしは真剣に真理を求めず、問題を反省することもせず、それどころか、ひたすら自分の良心と意志に従って本分を尽くし続けました。自分には多少の背丈と現実性があると思っていたのです。

事実、指導者はわたしが無責任であること、簡単な道を選ぶこと、そして実際の働きをしていないことを理由にわたしを取り扱いました。これらはどれも本当に深刻な問題です。わたしは福音の働きを率いていたのに、多数の観念を抱える人を見ても、進んで交わりと証しに打ち込もうとせず、何気なく脇にのけて半月を無駄にしました。そのせいで、大勢の人が真の道を調べて主の再臨をお迎えするのを遅らせてしまったのです! 本分に対してここまでいい加減なのは、神に逆らい神の性質に背くことです。わたしは一見怠惰でなく、本分で代価を支払うことができますが、困難に遭遇するたび、真理を求めて問題を解決し、しっかり本分を尽くすことに専念しませんでした。それどころか、尻込みして自分の好きなように物事を行ない、何も考えずに神の委託を脇にのけていたのです。こんな忠誠などあり得るでしょうか? 本分に対するわたしのいい加減で無責任な態度、不実なサタン的性質、そしてわたしがそのようなことをしたのはこれが初めてではないという事実を、指導者は指摘しました。そのうえで、わたしが自己認識し、悔い改めて変われるよう、それを分析してくれたのです。しかし、わたしは心から自分を反省せず、問題の根源がどこにあるのかを確かめようともしませんでした。刈り込みと取り扱いを受け入れたかのごとく振る舞っていたものの、真の自己認識はほんの少しもなかったのです。そのため、集会では空虚な物事や教義を語り、自己認識を得たような振りをしていました。自分は無責任で、神の家の働きを邪魔してひどい害をもたらした、指導者がわたしを叱責したのは実に正しく、わたしの本性の中にある物事とサタン的な性質を明るみに出してくれたけれど、わたしは自分のしたことの善悪を分析できなかった、と言いました。しかし、自分がどこで間違っていたかを交わることはなく、自分の行動の本性と結果、また本分に対するいい加減な態度の中でどのような堕落した性質を表わしていたか、どのような馬鹿げた考えや観念を抱いていたかを交わることもありませんでした。これらの詳細には目をつぶっていたのです。では、わたしは何について話したのでしょうか。どのように神にすがり、肯定的な面から入ったか、です。そうした肯定的な理解をひたすら話し続けました。取り扱われたとき、わたしは否定的になって不満を抱き、白旗を上げようと思ったけれど、神の御言葉を考えることでやる気が生まれ、崩れ去るわけにはいかないと思った、と述べたのです。神はわたしの中でかくも多くの働きをなさり、かくも多くのものを与えてくださった、だからわたしは良心を持つ必要があり、神を失望させるわけにはいかない。なので、どのように刈り込みと取り扱いを受けようとも、そして本分がどれほどつらくても、自分はそれをしっかり尽くさなければならないし、指導者がわたしを取り扱ったのは、自己反省と自己認識をさせ、悔い改めて変われるようにするため。これを聞いた兄弟姉妹は、わたしの問題と堕落を見抜くことができず、わたしが神の家の働きに大きな害をもたらしたとは思っていませんでした。それどころか、指導者はわたしに対して厳しすぎで、働きで小さなミスをしたせいでわたしを刈り込み、取り扱ったのだと思い込みました。そうして心からわたしに同情し、わたしのことを理解したのです。そして、あれほど厳しく取り扱われたあとも否定的にならず、本分を担い続けられるわたしを見て、この人は本当に真理を理解していて背丈があると、みんなは考えました。わたしを見上げて褒め、あれほど厳しく刈り込まれても強さを失わず、引き続き本分を尽くせるのは本当に立派なことだと言う人もいれば、わたしの本分が簡単だということは決してなく、わたしはそこに全力を注いだのみならず、ほんの小さなミスで叱責されたのだと言う人もいました。わたしが涙を拭って本分に戻ろうとするのを見た一同は、自分ならずっと以前に崩れ去っていたし、そんな背丈はないと言いました。そしてわたしの交わりに耳を傾けたのですが、彼らは刈り込みと取り扱いを受け入れることに関する実践の道を理解することも、刈り込みと取り扱いは神の愛と救いであると認識することもありませんでした。それどころか、神を誤解して警戒し、神から距離を置き、ますますわたしに近づいたのです。その後も数回、わたしは取り扱いを受けたのですが、経緯はいつも同じでした。常に教義を文字通りに語り、霊性と自己認識があるかのように装い、背丈と現実性がある振りをし、兄弟姉妹全員を騙していたのです。わたしには自意識がまったくなく、完全に麻痺していて、じっと耐え忍んでいる自分自身を心から誇りに思っていました。信じられないほどの自画自賛で、自分には背丈と真理の現実があると感じていました。わたしはますます傲慢に、そして独りよがりになったのです。

あるとき、本分にいくつか問題があると兄弟から指摘されたわたしはそれを受け入れようとせず、この人は問題を見つけてあら探ししていると不満に思い、心底腹を立てました。しかし、長年の信者なのにまったく傲慢だと見られ、悪く思われることを恐れました。それに、指導者にこのことを知られ、あなたは真理を受け入れることができず、だからそうしているように装い、不満を抑え込んでいると言われるのが不安でした。そこで冷静を装い、その兄弟にこう言ったのです。「ここで見た問題を全部話してちょうだい。一つずつ話し合っていきましょう。解決できなければ、指導者に相談すればいいわ」。兄弟は問題を一つひとつ挙げ、わたしはそれぞれに反論しました。そして最後には、彼の挙げた問題の大半をきっちり説明したのです。問題は解決されたものと思い、わたしは満足しました。しかし兄弟は納得いかない様子で、指導者に相談しに行きました。彼が挙げた問題の中には本当に深刻なものもあり、それを知った指導者はみんなの目の前でわたしを取り扱い、刈り込みました。その上で、このように言ったのです。「あなたは他の人の意見を受け入れようとせず、本分も原則に沿っておらず、これほど長く信仰しているのに真理の現実がまったくない。現実の問題を一切解決できず、闇雲に傲慢になって、ほんの少しも理性的でない」。耳の痛い言葉でしたが、わたしはまったく納得していませんでした。「わたしは傲慢で、独りよがりになることもあるけれど、意見を受け入れることはできる。それほど傲慢なわけじゃない」。

その直後、わたしは再び会議において暴かれました。わたしが担当する働きをぐずぐず引き延ばしていることを知った指導者は、わたしをこう問い詰めました。「この件だけど、働きがこんなに成果を挙げていないのはどうして? 何が問題なの? もっと成果を挙げられる?」。わたしはそれに「いいえ、無理です」と答えました。指導者はわたしたちの実情を理解しておらず、高望みしすぎだと思ったのです。その後、指導者はわたしたちに神の御言葉をいくつか読んだ上で、福音を広めることの意義について交わりました。そして、時間が本当に足りないのだから、もっと効率を上げる必要があると言ったのですが、わたしは指導者の言うことを少しも受け入れていませんでした。自分の観念と経験にしがみつき、「効率を上げるなんて本当に無理だわ」と思ったのです。そして隣の兄弟姉妹に「できると思う?」とこっそり訊きました。その質問の裏には、彼らを味方につけてわたしと同じことを言わせ、指導者をひるませてペースを遅らせようという動機がありました。そんなことは明白ですが、わたしはまったく気づいていなかったのです。しかし彼らには、見抜く力がありませんでした。見抜こうとしなかったと言ったほうがいいでしょう。そのため全員わたしの側につき、わたしに同調したのです。

その後、本分において傲慢かつ無能で、チームの働きをしっかり管理しなかっただけでなく、その邪魔をしたということで、わたしは本分から外されました。しかし驚いたことに、チームリーダーを選ぶときになって、兄弟姉妹はそれでもわたしに投票しただけでなく、全員一致で選出したのです。中には、わたしを解任したことでチーム全体がばらばらになったし、他に誰がこのチームを率いられるだろうと言う人もいました。そのとき、自分には深刻な問題があり、あんな働き方をしたのに、みんながわたしの声に耳を傾け、支持していると思いました。指導者に解任されたにもかかわらず、全員がわたしに投票し、公正に扱うようにとわたしのために戦ってくれさえした。自分は本当に兄弟姉妹を迷わせてしまった。

すると、神の御言葉のこの一節が頭に浮かんだのです。「あなたがた全員に関する限り、ある地区の各教会があなたがたに委ねられたとして、六ヶ月のあいだ誰もあなたがたを監督する人がいなければ、あなたがたは迷いだすでしょう。一年間誰にも監督されなければ、人々を連れ去って道に迷わせるでしょう。二年経っても監督する人がいなければ、人々を自分の前に連れてくるでしょう。これはなぜでしょうか。この問題についてこれまでに考えたことがありますか。あなたがたはこのようになることがあり得ますか。あなたがたの認識では人々に一定期間糧を与えることしかできません。いつまで経っても同じことを言い続けていれば、それに気づく人が出てきます。その人は、あなたがあまりにうわべだけであり、深みに欠けると言うでしょう。あなたには教義を説くことで人々を惑わそうとするしか選択肢がありません。このようなことを常に続けていれば、あなたの下にいる人たちはあなたの方法や手順、信仰の仕方、そして言葉や教義を経験して実践に移す仕方を真似ます。最終的に、あなたがひたすら説教を続ける限り、彼らは残らずあなたを手本とするようになります。あなたが他人を指導する中で教義を語ると、下にいる人たちはあなたからそれを学び、物事が進むにつれてあなたは間違った道を進んでしまいます。あなたがどんな道を進もうと、あなたの下にいる人たちは同じ道を進み、何事もあなたから学び、あなたに従います。するとあなたは、『今やわたしは強力だ。だから多くの人がわたしに耳を傾け、教会もわたしの意のままだ』と感じます。人間の内側にあるこうした裏切りの本性は、無意識のうちに神を単なる看板へと変えることにつながり、あなた自身が何らかの教派を組織することになります。様々な教派はどのようにして生まれますか。このようにして教派が生まれるのです。各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『わたしたちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。この人たちはパウロの同類です(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」)。わたしはまさに神が暴かれるところのパリサイ人で、この不実で悪しきサタン的性質があるだけでなく、自分の振るまいが他人を惑わせて操り、神を脇にのけるまでになっていたことが、神の御言葉からわかりました。そして、教義について話すばかりで、懸命に働いているように見せかけて人々を騙す、これら偽善的なパリサイ人や聖職者のことを考えました。彼らは、自分は神に借りがあると言い、本当に謙虚で自意識があるように見えますが、自分が主のためにどのくらい多くを諦めたか、どれほど苦しみ、どれだけ多くの働きをなしたかを、いつも見せつけています。結果として、信者は彼らを崇め、この人の言うことはどれも主の御旨にかなっていると思います。信者に彼らを見抜く力はありません。彼らに従うことは主に従うことだと考えすらします。これは、主の御名こそ信じているものの、実際には聖職者に付き従っているのです。わたしが歩んでいた道とパリサイ人や聖職者の道は、いったいどこが違うのでしょう?わたし自身も教義や表向きの犠牲ばかり強調し、そのため兄弟姉妹は、わたしが本分に献身していると思い込んでいました。取り扱いを受けたとき、わたしは真理を求めることも、心から自分を反省することもありませんでした。一見正しいことを言って人を惑わすばかりで、それによって誰もが、わたしは取り扱いに服従しており、背丈があると考え、わたしを仰ぎ見て、わたしの言うことに耳を傾けました。さらにわたしは、彼らがわたしと一緒に神の要求に逆らうようにさせたのです。これは権力者に他なりません。反キリストとどこが違うでしょう? わたしは指導者でなく、高い地位には就いていません。指導者による監督の下、2人の姉妹と働きの責任を分担していますが、そうだとしても、わたしの問題はここまでひどくなってしまったのです。より高い地位に就いて一人で責任を負うようになれば、どんな悪事を犯していたでしょう? そんなことは考えるのも嫌です。自分は長年の信者で、どんな困難や試練に直面しても本分を尽くし続けてきたのだから、とても優れた人間性の持ち主だし、それに指導者になろうと争ったこともないので、自分がパリサイ人や反キリストになるなどあり得ないと思っていました。しかし、事実を突きつけられて唖然とし、言うべき言葉が見つかりませんでした。自分の観念がいかに馬鹿げていて有害か、自分の性質がいかに邪悪で恐ろしいかがやっとわかったのです。わたしは信者でありながら真理を追い求めず、神による裁き、刑罰、取り扱い、そして刈り込みを受け入れようとせず、それに従おうともしませんでした。神の御言葉に照らして自己反省することも、自分のサタン的本性を認識することもありません。表面的に服従し、言葉の上で認めることに満足していたのです。しかし、表面的にどれだけ優れていて、規則に従順であろうとも、機会が訪れた瞬間、神に逆らうサタンの本性が前面に出て、知らぬ間に悪事を犯し、それに気づきさえしませんでした。まさに、「あなたがたがわたしを裏切る可能性はいまだに100パーセントである」と神がおっしゃる通りです。

わたしがサタンにどれほど深く堕落させられているか、どれほど麻痺して頑固かを、神はご存じでした。自分のことを多少認識するだけでは、変化するなど不可能です。そのため、わたしは兄弟姉妹によって後に暴かれ、取り扱われました。ある日のこと、姉妹からずばりとこう言われたのです。「今、あなたのことが少し見抜けました。あなたは心の奥の考えを交わることも、自分の堕落を明らかにすることもほとんどありません。肯定的な入りや理解を多少話すだけで、堕落はすっかり解消してなくなったと言わんばかりです」。さらに彼女は、自分はこれまであなたを尊敬していたのに、と言いました。真理を理解している長年の信者で、多くの物事をどう経験すべきか知っていて、本分で苦しみ、代価を支払うことができるし、特に厳しい取り扱いや刈り込みを受け入れることができる、というのです。そのためわたしを仰ぎ見ていたのでした。わたしの言うことはどれも正しく、いつもそれに耳を傾けていて、おかげで心の中に神の居場所を得られた、と。とりわけ、あなたを神のごとく見るようになったと言うのを聞いて、わたしは雷に打たれたような気がしました。心底怖くなり、そんな馬鹿なと思ったのです。「それが本当なら、わたしは反キリストになったんじゃない? どうしてそんな馬鹿なことを言うの? 見抜く力がないんじゃないの? わたしもサタンに堕落されているなんて、どうしてそんな見方ができるの?」。それから数日はひどく落ち込みました。彼女の言葉を思い出すたびに打ちのめされ、何か恐ろしいことが自分に迫っているという、恐怖に似た奇妙な感情を覚えたのです。これはわたしに対する神の怒りであり、神の義なる性質が自分に降りかかろうとしていて、自分はそうした悪事の結果を受け入れる必要がある、ということはわかっていました。また、神の義なる性質が一切の背きを許さないことも知っていたので、自分はすでに神によって断罪されていると感じ、そのため自分の信仰の道は終わりを迎えたと考えました。そう考えると涙が止まりません。一見悪事を犯さず、ひどいこともしていないこのわたしが、ここまで深刻な状態になるなんて、想像もしていませんでした。わたしは教義で人々を惑わせただけでなく、あたかも神であるかのように崇めさせたのです。これは神をお飾りにする行為であり、神の性質にひどく背いています。本当に否定的な気分になり、自分の過ちと悪行が心の中で燃え上がっているように感じました。自分はパリサイ人にして反キリストであり、サタンに属する者、いずれ淘汰される効力者に過ぎないと思ったのです。どうしてそんなことになったのか、まるでわかりません。後悔の中、わたしは神の御前に出て悔い改めました。「神よ、わたしはひどい悪事を犯しました。あなたの性質に背いたわたしは呪われ、懲罰されるべきです! あなたのお赦しは求めません。自分のサタン的本性を理解し、サタンによる堕落の真相がわかるよう、わたしを啓いてくださればそれで結構です。神よ、わたしは悔い改め、誠実かつ率直になりたいです」。

それからは、自分がここまでひどい状態に至った理由と、問題の根源がどこにあるのかを反省し始めました。そしてあるとき、デボーションでこの御言葉を読んだのです。「では、反キリストはどのような仮面を被っていますか。誰の真似をしていますか。彼らが真似をするのは、当然ながら地位と評判のためです。そういうものから離れることができないのであり、さもなければ、そんな振りをすることは到底あり得ません。そのような愚かな真似をするはずはないのです。そうした振る舞いが非難すべきであり、忌々しく不快だと見なされるのに、それでも彼らがそうするのはなぜですか。そこに自身の狙いや動機があることは間違いなく、意図や動機が関わっています。反キリストが人の心の中で地位を得ようとするなら、人から高く評価されなければなりません。では、何が人にそうさせますか。反キリストは人に尊敬されるべく、人の観念において善と思われている振る舞いや表現を真似ることに加え、人が立派だと思う振る舞いやイメージも模倣します(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(10)」)状況がどうであろうと、どこで本分を尽くしていようと、反キリストは弱ることがなく、神への至高の愛を持ち、神への信仰で一杯で、消極的になることが決してないように見えつつ、真理について、また神について、心の奥底で抱く本当の態度や見方を、他の人から隠しています。実際のところ、彼らは心の奥底で、自分は全能だと本当に信じているのでしょうか。自分に弱さはないと本当に信じているのでしょうか。いいえ、信じていません。では、自分には弱さや反抗心、堕落した性質があると知りながら、他人の前でそのような言動をするのはなぜですか。彼らの狙いは明らかです。それは単に、他人のあいだにおける自分の地位を守ることです。他人の前であからさまに消極的になったり、弱気なことを公然と言ったり、反抗心を示したり、自己認識について話したりすると、自分の地位と評判が傷つけられてしまい、それは損失であると、彼らは信じています。そのため、自分は弱く消極的で、完璧ではなく、普通の人に過ぎないと言うくらいなら死んだほうがましだと考えるのです。彼らは、自分に堕落した性質があり、自分は普通の人、取るに足らないちっぽけな人だと認めると、人の心の中での地位を失ってしまうと思っています。それゆえ何があろうと、その地位を手放すことができず、代わりに全力でそれを守ろうとするのです。そうした人は問題に遭遇するたびに前進しますが、自分は暴かれ、人に見抜かれるかもしれないと見て取ると、すぐに身を隠します。策略を働かせる余地があったり、自分を誇示する機会や、このことについて知識と理解があり、この問題を解決できる専門家を装う機会が依然あったりすると、その機会に飛びつき、他の人に認められ、自分がこの分野で優れていることを知ってもらおうとします(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(10)」)。「反キリストは霊的人物の役割を演じ、兄弟姉妹のあいだで傑出した、真理を備えて理解している人、霊的背丈が未熟で弱い兄弟姉妹を助けられる人になりたがっています。では、その役割を演じる狙いは何ですか。第一に、自分はすでに肉を超え、俗世の問題から超然としていて、正常な人間性の弱さから脱却し、正常な人間性の肉の必要を克服したのだと彼らは信じています。自分は神の家で重要な仕事を担え、神の旨に配慮でき、心が神の言葉で満たされた人だと信じているのです。彼らは、神の要求をすでに満たして神を満足させ、神の旨に配慮でき、神自身の口から約束された美しい終着点を得られる人の振りをします。それゆえ独善的になるのが常で、自分は他人と違うのだと考えます。自分が覚えている、頭の中で理解できる語句を用いて人を叱責、非難し、人のことを決めつけます。さらに、自分の観念による想像から生まれた言動を常用して人のことを決めつけ、人を指導し、自分の言動に従わせ、兄弟姉妹のあいだで望む地位を獲得します。適当な語句や教義を言い、標語をいくつか叫び、神の家でささやかな責任を負い、多少の重要な仕事を引き受け、進んで主導権をとり、集団の秩序を維持できる限り、自分は霊的で、地位は安泰だと考えます。ですから、霊的な振りをし、霊性を自慢しつつ、自分は全能で何でもできる完璧な人間であるかのように振る舞い、何でもでき、あらゆることに優れていると考えます(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(10)」)

わたしがいつも偽善的で、交わりで自分のよい面だけを示しつつ、自分の醜く悪い面は懸命に隠し、誰にも見られないようにしていた理由を、神の言葉は示していました。それは、わたしが人々の心の中で占める地位を守り、長年の信者という自分のイメージを保つためだったのです。そうすれば、長年神を信じているわたしは特別な存在で、他の兄弟姉妹とは違っており、真理を理解して背丈があるとみんな考えるでしょうし、わたしを仰ぎ見て尊敬するはずです。わたしはなんて傲慢で、邪悪で、不実なのでしょう! 長年の信者であり、多少の教義を理解していると思い込み、高い場所に立って霊的な人物の振りをし始めた。真理の現実がなく、真理の探求と追求に専念していなかった。教義と善行、それに多少の表面的な犠牲を使って、自分には真理の現実が欠けているという醜い現実を隠そうとするばかり。刈り込みと取り扱いを受けても反省せず、自己認識することもなく、自分の問題と堕落を分析することもなかった。自分の醜い動機と堕落した性質を覆い隠して誰にも見つけられないようにし、自分の地位とイメージを守ろうとした。これらの偽善的な現われは、主イエスに反抗したパリサイ人のそれといったいどこが違うのでしょう? 主イエスはこのように言ってパリサイ人を叱責されました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである(マタイによる福音書23:27-28)。「盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる(マタイによる福音書23:24)。わたしもまさにこれと同じではないでしょうか? 自分の経験について交わっているように見えながら、誰でもわかる物事や空虚な教義を話すばかりで、自分の本当の思いや、自分の中にある堕落した悪しき物事は隠し、触れることはありませんでした。そのため、この人には堕落と反抗心があるけれど、他の人たちよりはずっと優れていると、みんな考えるようになりました。わたしはぶよをこしながら、らくだをのみ込んでいたのです。外面的には謙虚に見えても、内側では自分の名誉と地位を守り、他人が抱く自分のイメージを保とうとしていました。あまりに偽善的で、いい加減で、不実です。兄弟姉妹を全員騙していたのです。わたしは正直な善人ではなく、被造物の場所に留まることもしていませんでした。それに、サタンに深く堕落させられた人の視点から神の働きを経験しておらず、わたしの堕落を取り除く、神の裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いを受け入れてもいませんでした。それどころか本分を利用して自分を誇示し、自己を確立させて他人を惑わし、神の選民を巡って神と争っていました。これは神に逆らう道、反キリストの道ではないでしょうか? これは神によって断罪される道です。長年の信者であることを別にすれば、わたしは素質や真理の追求に関して、他の人たちの足元にも及びません。こんなに長く神を信じていても真理の現実がなく、いのちの性質も変わってはいませんでした。傲慢で尊大なサタンの生き写しで、原則に沿って本分を尽くすこともありませんでした。神の御旨を思いやり、神を高められなかっただけでなく、福音の働きを妨げました。長年の信者であるのを考えると、本当に恥ずかしいことです。しかしわたしは、その資本を使えば自分を高め、他の人たちに仰ぎ見てもらえると思っていました。あまりに理知のない恥知らずです!

ある日のデボーションで、わたしは神の御言葉のこの一節を読みました。「真理を追い求めなければ、その人は決して真理を理解しません。字句と教義を一万回唱えることができても、それらはやはり字句と教義に過ぎません。中には『キリストは真理であり、道であり、いのちである』としか言わない人もいます。この言葉を一万回繰り返したところでやはり役には立たず、あなたがその意味を理解することもありません。キリストは真理であり、道であり、いのちであると言われるのはなぜですか。経験から得たそれに関する認識を説明することはできますか。あなたは真理、道、いのちの現実に入りましたか。神が言葉を発したのは、あなたがたがそれを経験し、認識を得るようにするためです。単に字句や教義を述べるのは無意味なのです。神の言葉を理解してそれに入ったあとでなければ、自分を認識することはできません。神の言葉を理解していなければ、あなたは自分を認識することができないのです。真理があるときにだけ識別でき、真理がなければ識別できません。真理があるときにだけ物事を完全に理解することができ、真理がなければ何も理解できません。真理があるときにだけ自分を認識することができ、真理がなければ自己認識は不可能です。真理があるときにだけ自分の性質を変えることができ、真理がなければ性質は変わりません。真理を得て初めて神の旨にかなう形で奉仕することができ、真理がなければ神の旨にかなう形で奉仕するのは不可能です。真理を得て初めて神を崇拝することができ、真理がなければあなたの崇拝は宗教的儀式を執り行なっているに過ぎません。こうしたことはすべて、神の言葉から真理を得ることにかかっているのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。これを読んだおかげで、パリサイ人のように神に逆らう間違った道を歩んだ理由が、さらにはっきりわかりました。それは、長年にわたって真理を追い求めることも、それを実践することもなく、神の御言葉を読んだところで、その文字通りの意味にしか注意しなかったからです。御言葉に入ることも、それを実践することもしておらず、真理に関する現実的な理解は一切ありませんでした。そのため当然ながら、文字通りの教義を細かく述べることしかできなかったのです。わたしは信仰の中で真理を愛したり、神の御言葉を渇望したりせず、神の御前で心を落ち着け、御言葉をじっくり考えることもありませんでした。それは例えば、真理のどの側面がその一節で明かされているか、自分はどれだけ理解し、実践し、入ったか、神の御旨は何か、自分の中に御言葉の成果がどれだけあるか、といったことです。何かあっても、わたしは神の御言葉に照らして自分の状態を考えようとせず、自分自身の問題を反省し、自分がどのような堕落を表わしているのか、どのような間違った観念を抱いているかを検証しようと試みることもありませんでした。パウロのように絶えず忙しくしているばかりで、働きのために苦しみ、自分の野望を満たすことばかり考えていたのです。終わりの日の受肉した神は数多くの真理を表わし、真理のありとあらゆる側面について事細かに交わってくださいました。それは、わたしたちが真理を理解し、サタンによる堕落の真相を認識し、悔い改めて変われるようにするためです。しかし、わたしは神の御言葉を軽く扱っていました。それらを熟慮することも探求することもせず、その実践や入りを考えることもしませんでした。これは人類を救う神の御旨に真っ向から反してはいないでしょうか? 宗教界のパリサイ人や牧師たちが歩む道とまったく同じではないでしょうか? パリサイ人が気にするのは、説教すること、働きの中で苦しむこと、そして自分の地位を守ることだけです。彼らは決して神の御言葉を実践せず、神の御言葉に関する自分の経験や理解を伝えることもできません。人々を真理の現実に導くなど無理であり、文字通りの聖句、知識、そして教義で人を惑わすことしかできません。そのため人々を、神に逆らう者にしてしまうのです。わたしも信仰の中で真理を実践しようとせず、多少の規則に従うばかりでした。ひどい悪事や間違ったことはしておらず、表面的には立派に振る舞い、集会でも正しいと思われることを伝えていたので、自分は信仰の中でちゃんとやっていると思っていました。しかし、自分は偽善者に過ぎないのではないかと気づきました。それがどうして神への真の信仰でしょう? このような信仰を続けて真理の現実を持たず、堕落した性質にも変化がなければ、最後は淘汰されてしまうのではないでしょうか? わたしは後悔で一杯になり、神に祈りました。「わたしはもう偽善者でいたくはありません。真理を求め、あなたの裁きと刑罰を受け入れてそれに従い、自分自身を変えたいのです」。

その後のデボーションで、わたしは神の御言葉のこの一節を読みました。「例えば、ひとたび地位を得たら、権威のある語り方をして、自信を持って話す必要があると、あなたは考えています。これは間違った考え方だと気づいたら、それを捨てるべきです。その道を歩んではなりません。このような考え方をしているなら、その状態から抜け出し、そこに囚われないようにしなければなりません。ひとたびそこに囚われてしまい、そうした考えや見方が自身の中で形をなすと、あなたは自分を偽り、うわべを装うようになり、また信じられないほど完璧にそうするので、誰もあなたのことを見抜けず、あなたの心や思いがわからなくなります。あなたはあたかも仮面を被っているかのように、他の人と話をしているでしょう。すると相手は、あなたの心を見られません。自分の心を他の人に見てもらい、その人に心を開き、近づくことを学びなさい――あなたはひたすら逆の取り組み方をしています。それが原則ではないのですか。それが実践への道ではないのですか。まずは自分の考えと意識の中から始めなさい。自分がうわべを装っていると感じた瞬間、次のように祈るのです。『ああ、神よ! わたしは再びうわべを装い、またしても企みと欺瞞に手を染めようとしています。わたしは悪魔です! あなたを強く嫌悪させています! 今、わたしは自分を嫌悪しています。どうかわたしを懲らしめ、お叱りになり、懲罰してください』。あなたは祈り、自分の態度を明るみに出さねばなりません。これには、あなたの実践の仕方が関わってきます。この実践は、人間のどの側面に向けられていますか。それは、人がある問題について明らかにする思いや考え、意図、また人が歩む道と進む方向に向けられています。つまり、そうした考えが浮かび、それを行動に移したくなったら、すぐにその考えを抑えて分析するべきです。考えを抑えて分析したとたんに、その考えを表わし、行動に移すことがずっと減るのではありませんか。さらに、内なる堕落した性質も抑えられませんか(『終わりの日のキリスト講話集』の「堕落した性質を解決するには、具体的な実践の道がなければならない」)。神の御言葉はわたしに実践の道を指摘してくれました。自分の偽善、不実で邪悪なサタン的性質を解消するには、真理を実践して誠実な人になり、神に心を開いて他の人たちと心からの交わりを行ない、また問題に直面したときは、自分の本当の見方と考えを伝える必要があります。再び率直さを失いそうになったら、神に祈って自分を捨て、それと正反対のことをしなければなりません。心を開き、自分の堕落を明らかにして分析し、自分のサタン的性質を抑え込まなければなりません。すると、神の御言葉が頭に浮かんだのです。「共有するのを躊躇するような秘密を数多く持っているなら、自分の秘密、つまり自分自身の困難を光の道を求めるために他者の前に明かすのがどうしても嫌だというなら、あなたは簡単には救いを得られない人であり、暗闇から簡単には脱せない人であるとわたしは言う(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。そのとき、誠実な人でいることがいかに大事か実感しました。わたしは神を信じてからずっと、これほど基本的な真理を実践したことも、それに入ったこともありませんでした。実に哀れです! そこでわたしは神に祈り、進んで悔い改めて真理を実践し、誠実な人になろうとしました。

それ以降は、真理を理解していて背丈があると誰かに言われるたび、本当に気まずく恥ずかしい思いをするようになりました。以前には見られなかったことです。あるとき、わたしが長年の信者で本分のために苦しめることを聞いて、わたしのことを心から崇拝している姉妹に出会いました。彼女は面と向かってこう言ったのです。「あなたはずっと昔から信仰していて、多くの説教を聞き、多くの真理を理解していますよね。本当にあなたを尊敬します」。わたしはそれを聞いて恐ろしくなり、鳥肌が立ってしまいました。そしてすぐに本当のことを説明し、こう言ったのです。「それはまったく違います。表面ばかり見ていてはいけません。わたしは長年神を信じているけれど、素質に欠けているし、真理を愛することも追い求めることもしていません。長年にわたる信仰でずっと、表面的な犠牲を払っただけです。多少の善行をして代価を支払えますが、原則に沿って本分を尽くしておらず、いのちの性質もさほど変わっていません。神から託された本分を引き受けることができずにいます。神の御旨を考慮せず、神を称えることもなく、それどころか神に逆らい、神に恥をもたらしているんですよ」。続けて、彼女にこう説きました。「あなたの視点は真理に沿ったものではありません。無闇に人を褒めそやしてはいけませんし、神の御言葉の真理を基に人や物事を見なさい。神は人をどうご覧になりますか? 何年信じてきたか、どれほど苦しんで道を整えてきたか、いかに多くのことを説教できるかなど、神は気にされません。その人が真理を追い求められるかどうか、性質が変化したかどうか、本分で証しを行なえるかどうかを、神は気にされます。新しい信者の中には、真理を追い求めることができ、実践と入りに集中している人がいます。そうした人はすぐに進歩しますし、わたしよりもずっと優れています。あなたは、長年の信者で苦しみを受けているからといってわたしを尊敬するのでなく、そうした人たちの真理の追求における熱心さと努力を尊敬すべきです。信仰の年月は神によって定められるもので、尊敬すべきことではありません。長年の信者でも、真理を追い求めず、いのちの性質も変わっておらず、多少の表面的な善行をするだけなら、その人はやはり他人を惑わすパリサイ人です。だからこそ、真理を追い求めて性質の変化を成し遂げることが何より重要なんですよ」。この交わりをしたあと、心がずっと軽くなりました。その後の集会では、教義を述べたり自慢したりすることをやめ、神の御言葉に照らしながら自分自身の経験を伝えました。また、このように言いました。「わたしには自己認識がほとんどありません。いまだ変わっていませんし、その実践も入りもまだです」。表面的な交わりでしたが、心は落ち着いていました。

経験を通じてわかったことが一つあり、わたしはそれを深く経験しました。つまり、信者になってからの年月がいかに長くても、どれほど優れているように見えても、振る舞いがいかに立派でも、またどれほど苦しみ、働きを行なっているとしても、真理を追い求めず、神の裁き、刑罰、刈り込み、および取り扱いを受け入れてそれに服従せず、問題が起きたときに自己を認識し、神の御言葉の現実に入ろうとせず、サタン的性質がいまだ変化していないなら、その人はパリサイ人と反キリストの道を歩んでいる、ということです。正しい状況が訪れた瞬間、彼らは反キリスト、人を惑わす者になります。このことに疑いの余地はなく、避けられない結果です。救われて性質の変化を変えるため、真理を実践し、神による裁きと刑罰と取り扱いを受け入れ、それに服従することが、人にとっていかに大事かがわかりました。神に感謝します!

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