洗脳との戦い

チャオリャン 中国

19歳のとき、わたしは信仰のために中国共産党警察に逮捕されましたが、わたしが神を拒み、兄弟姉妹を売るように仕向けるべく、警察は60日にわたってわたしを拷問し、洗脳しました。この経験にわたしの心は引き裂かれ、決して忘れることはないでしょう。

その日の朝、集会場所の近くまで来たわたしは、そばに駐まる3台の車に気づき、胸騒ぎを覚えました。普段、ここに車が何台も駐まっていることはありません。集会場所に着いてすぐ、わたしは兄弟姉妹にそのことを伝えました。集会がもはや安全でないことに気づいたわたしたちは、場所を変えることを話し合いました。その直後、見知らぬ人が4人、中庭にやって来て、自分たちは国家保安大隊に所属しており、爆発物がこの家に隠されていないか調査しに来たと言いました。そしてわたしたちを無理矢理ソファーに座らせて身体検査をしたのですが、何も見つからず、わたしともう1人の兄弟を車に乗せました。向かった先は警察署で、警察はわたしたちを地下に連行し、別々の部屋に閉じ込めました。この突然の逮捕劇はまるで夢の中で起きたかのようで、これから警察にどんな扱いを受けるのか、見当もつきません。わたしは恐怖を覚えてひたすら神に祈り、信仰をお授けくださいと願いました。すると、『全能者の超越性と偉大さ』という、わたしたちが何度も歌った神の御言葉の賛美歌の数行が頭に浮かびました。「この世界にあるすべてが、全能者の思いによって、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が一度も聞いたことのない事が、突然到来する一方、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、まして全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることなど到底できない」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)。そして神にこう祈りました。「全能神よ、あなたに感謝し、あなたを称えます! あなたは宇宙の万物を支配されており、わたしの運命はあなたの手中にあります。今日、警察がわたしを逮捕することを、あなたはお許しになりました。どのような拷問を受けようと、どれほど苦しもうと、わたしは証しに立ち、あなたを裏切ってユダになるような真似は決していたしません」。

午後4時になったころ、警察はわたしを離れた場所にある施設へ連行しました。それは空き地に並ぶ4階建ての建物で、外見はホテルのようです。警察は容疑者をホテルに連行し、そこで密かに尋問と拷問を行なっていると、大勢の兄弟姉妹から聞いたことがあります。自分も拷問されるのかと、わたしは考えずにはいられませんでした。そこは人の気配がまったく感じられない場所で、わたしを殺しても、誰にも気づかれることはないでしょう。それを考えるにつれて恐怖が膨らみ、何度も無言で神に呼びかけました。警察はわたしを4階の一室に連行したのですが、そこには刑事警察大隊の隊長がいて、いい人を装いつつ「名前は? どこに住んでいる?」と訊きました。わたしが「なぜ僕を逮捕したんです? どうしてここに連れてきたんですか?」と尋ねたところ、相手はこう答えました。「これは法で定められた教育課程で、信者に教育を施し改宗させることが目的だ。我々は君のことをすべて知っている。だからここに連れてきた。そうでなければ、他の誰かを連れてきただろう。全能神教会は全国的な重点対象で、一掃されねばならん。全能神の信者は必ず逮捕されることになるんだ」。「憲法には信仰の自由がないんですか?」と、わたしは訊きました。すると隊長は薄ら笑いを浮かべてこう答えました。「信仰の自由? それには限度というものがある。信仰では党の言うことを聞き、その規則に従って我々のサポートを受ける必要がある。君は全能神を信じることで、党に反旗を翻しているんだ。逮捕しないわけにはいかないだろう?」。その言葉に、わたしはこう反論しました。「僕らは全能神の御言葉を読み、福音を伝えて神の証しをしているだけです。政治にはまったく関わっていません。僕らが党に反旗を翻しているなんて、どうしてそんなことが言えるんです? 全能神は言われます。『神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神に支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の統治から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神に従い、神を崇拝する人々を神は繁栄させ、神に抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉はとても明快です。神は宇宙を支配し、あらゆる国と人の運命を手中に握られていますが、政治に干渉されることはありません。受肉した神が終わりの日に降臨されたのはおもに、人が真理を理解し、自分の堕落したサタン的性質を捨て去って救われるよう、真理を表わし裁きの働きをなさるためです」。しかし言い終えるより早く、隊長はいらだたしげにそれを遮り、ありとあらゆる全能神教会への冒涜の言葉を吐いたうえで、信仰など捨てろと言いました。相手が何を言おうと、わたしは神の前で冷静を保ち、サタンの策略からお守りくださいと願いました。

3日目の正午ごろ、わたしは会議室に呼ばれました。すると警官の1人が、自分は国家保安大隊の隊長で、教育と改宗も担当していると自己紹介し、わたしの名前と住所に加え、教会の情報を尋ねました。わたしが答えるのを拒否したところ、相手はわたしの左手を掴んでテーブルに置き、手のひらを上にしたかと思うと、吸っていた煙草の灰をわたしの手に落としながら、このように言いました。「お前が話そうと話すまいと、今日の技術があれば突き止められるんだぞ。お前は馬鹿なのか? せっかくチャンスをくれてやったのに。煙草の先端はおよそ摂氏430度だ。どんな感覚か、思い知らせてやろうか?」そして煙草をわたしの手に2度押しつけました。赤く光る先端が手のひらについた瞬間、焼ける感覚がわたしを襲い、苦痛で手を引っ込めたところ、別の警官がわたしの腕を無理矢理押さえました。煙草の先端を何度も押しつけられ、手のひらが鋭い痛みとともに焼けていきます。額から汗が流れ、弱気になったわたしは自分の名前を言いました。そこで警官たちは拷問をやめたのですが、全能神教会を断罪・冒涜する動画を見せ、邪説を読ませました。

5日目の正午ごろ、警察は山東招遠事件に関する報道を見せてから、どう思うかと訊きました。それにわたしはこう答えました。「彼らは全能神教会の人間じゃありません。僕の教会に所属する人は誰も、あんなことはしません。福音の伝道には原則があります。神がいらっしゃることを信じる優しい心の人にだけ伝えるのであって、悪人には伝えません。張立冬のような悪人は、僕らが福音を伝える基準をまったく満たしていません。神はそのような人を信者と見なさず、教会が認めることもありません」。わたしの信仰が揺るいでいないことを見て取ったその警官は、こう言いました。「我々はお前らの指導者全員を逮捕した。そいつらへの尋問で何もかも明らかになるから、お前に時間を無駄遣いする必要はない。お前はまだ若い。だから助けたいんだ」。わたしは内心こう思いました。「みんな嘘だ。僕に神を裏切らせようとしているだけなんだ。こいつらが何を言おうと、兄弟姉妹を売るものか。神を裏切るものか!」その日の午後7時過ぎ、洗脳クラスを受け持つ心理学者が、教育課程の感想文を書かせたのですが、わたしはこう記しました。「招遠事件は全能神の信者による仕業ではありません。それは邪悪な悪魔の仕業です。その行ないのために、神に懲罰されるでしょう」。

9時を回ったころ、国家保安大隊の隊長が姿を見せました。わたしが書いた内容にとても腹を立てており、部屋に入るなり片手でわたしを椅子から立たせ、別の手で何度も平手打ちしてから、床に蹴り倒しました。そして寝台まで引きずり、わたしを殴り始めました。数回殴った後、隊長は木のハンガーを手に取ってわたしの全身を殴りつけ、教会の情報を聞き出そうとしましたが、わたしは無言を貫きました。これに激怒した隊長は、服をすべて脱げと命じました。その狂ったような形相に恐怖を覚えたわたしは無言でひたすら神に祈り、信仰と力をお授けくださいと願いました。すると隊長はわたしをぐいと引っ張り、無理矢理服を脱がせたあと、ハンガーでさらに数回殴り、教官2名に命じてわたしを寝台に押さえこませました。この教官は警察に雇われているけれど良心があり、警察に命じられるまま10代のわたしを拷問することはないと思っていましたが、それは間違いでした。2人はわたしをしっかり押さえつけ、動きを完全に封じたのです。すると国家保安大隊の隊長は、まるで狂人のごとく、手にした煙草をわたしの乳首に押しつけました。すぐさま乳首が焼けただれ、皮膚の燃える匂いが部屋に立ちこめます。わたしは苦痛で汗まみれになりながら、両脚をひたすらばたつかせました。すると隊長は「言うのか、言わないのか!」と叫びながら、今度は性器に煙草を押しつけました。わたしは痛みに絶叫しながらも、頭の中は「神を裏切るわけにはいかない」という考えで一杯でした。心の中で絶えず神に祈り、この悪しき警官による拷問を耐えられるよう、どうか力と信仰をお授けくださいと懇願しました。

わたしが無言を貫いたので、隊長は悪意に満ちた口調でこう言いました。「もっときつくしなければ、お前は言うことを聞かないようだな」。そして振り向いて魔法瓶を手に取り、コップ1杯の熱湯をわたしにかけました。わたしが痛みに絶叫したところ、隊長は冷たく「言う気になったか?」と訊きました。しかしわたしが「何も知らない!」と恐れもせずに答えたので、激怒した隊長はさらに2杯の熱湯を、今度は腹にかけました。しかし、さっきほど痛がっていないことを見て取り、そこでわたしの腹に触れたのですが、ぬるくなっていると大声で言いました。そして振り返り、水を湧かせと命令してから顔に邪な笑みを浮かべ、「沸騰した湯を浴びる感覚がどんなものか、すぐに味わえるからな」と言いました。それを聞いてわたしは恐怖を覚えずにはいられず、さっきのお湯がぬるかったことを考えました。沸騰したお湯を本当にかけられたら、自分は耐えられるだろうか? 不安と恐怖の中、わたしは無言で神に祈りました。「全能神よ、どうか信仰と力をお授けください。わたしは証しに立ち、あなたを裏切ることも、兄弟姉妹を売ることもいたしません」。祈りのあと、神の御言葉が頭に浮かびました。「信仰とは一本の丸太橋のようなもので、卑屈に命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを犠牲にする覚悟のある者は自信を持って不安なく渡ることができる(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉を考えるうち、恐怖に囚われ臆病な考えを持つことは、サタンの策略の餌食になることだと気づき、自分には神に対する真の信仰がないのだとわかりました。どんなときも生命を危険に晒して神にすがり、証しに立たなければなりません。これを理解したことで、自分を待ち受ける拷問に向き合う信仰が生まれました。

そのとき、隊長が煙草に火を点け、2度深く吸い込んでからわたしの前に立ち、邪悪な笑みを浮かべて「じっとしてろ、もうすぐ湯が沸くからな」と言いました。そう言いながら煙草の先端を、熱湯でやけどした部分に押しつけます。わたしは必死で痛みをこらえました。それから7分か8分が経ち、湯が沸騰しました。熱湯が泡立ち、やかんから湯気が吹き出ているのを見て、頭皮がざわざわし始め、わたしは身震いしました。全身の毛も逆立っています。隊長はやかんを持ってきてふたを開き、わたしに近づきました。湯気が身体を包むのが感じられます。すると隊長は熱湯の入ったやかんをわたしの腹に押しつけました。引き裂くような痛みを感じ、わたしは思わず絶叫しました。隊長はそのチャンスをとらえ、話す気になったかと再度訊きましたが、わたしが無言のままなので、コップを手にして熱湯を注ぎ、それをわたしの腹にかけました。わたしは苦痛のあまり飛び上がりましたが、隊長はやかんが空になるまで熱湯を浴びせました。震えが止まらず、身体の正面が火傷の水ぶくれだらけになりました。一番大きいのは卵ほどのサイズがあります。教官はこの光景に耐えられず、部屋から出ようとしましたが、それを見た隊長はすぐさまドアに向かって鍵をかけ、「ここから出るな! 残って見ていろ。こいつに思い知らせてやるんだ!」と大声を上げたうえで、もっと湯を沸かすよう命じました。わたしはそれを聞いて、恐怖を抑えることができませんでした。「まだ終わりじゃないのか。最初の熱湯でこんな有様だ。さらに火傷ができたらどうなるだろう? 気力を保てるだろうか?」。ひたすら神を呼び求め、信仰と力をお授けくださいと願いました。すると、神のこの御言葉が頭に浮かんだのです。「権力を持っている者たちは、外側から見ると悪質に見えるかもしれないが、恐れることはない。それは、あなたがたの信仰があまりに僅かだからである。あなたがたの信仰が成長する限り、難しいことは何もない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十五章」〔『言葉』第1巻〕)。警察が僕を拷問しているのは、神のお許しを得て起きていること。神は僕の信仰を完全になさりたいんだ。警察がどんなに邪悪で残忍でも、やはり神の手中にある。神に祈ってすがる限り、神はきっと僕を導き、サタンの拷問に勝利させてくださる。わたしは先ほどまでの恐怖を感じず、拷問に向き合う信仰を与えられました。

程なくして、2つ目のやかんの湯が沸騰しました。隊長はそれを手にしてコップに熱湯を注ぐと、わたしの前に持ってきて、性器にかけ始めました。わたしは苦痛のあまり絶叫し、たじろがずにはいられませんでした。隊長はさらに数歩前に出て、わたしへの尋問を続けましたが、それでもわたしは返事をしませんでした。熱湯が一杯に入ったコップをわたしの性器の下で持ち、「言うのか、言わないのか?」と問い詰めますが、わたしは一言も発しません。すると隊長がコップをまっすぐ持ち上げたので、わたしの性器全体が熱湯に浸かってしまいました。わたしはその痛みに叫び声を上げ、全身を激しく震わせながら本能的に身を退きました。これ以上は到底耐えられそうになく、ひたすら神に祈り、自分に力を授けて神を裏切らないようにさせてくださいと求めました。そのとき、主イエスの御言葉が脳裏に浮かびました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう(マタイによる福音書16:25)。肉体の苦しみを避けるために他の人たちを売り、神を裏切ってしまえば、それは神の性質に背くこと。地獄に行って永遠に苦しむ。それを理解したわたしは、どれほど苦しくても歯を食いしばり、神を決して裏切るまいと決意しました。邪悪な警官はさらにコップ2杯の熱湯をわたしの性器にかけ、尋問を続けます。視線を下ろすと、性器の外皮が焼けただれているのが見えました。2人の教官もわたしを見るのに耐えられず、懇願するように「頼むから話してくれ。こんなに苦しんで何になる?」と言いました。しかしわたしは一言も発しませんでした。そのとき、隊長の副官が部屋に入ってきましたが、わたしの姿を見て一瞬ぎょっとしました。そして横を向きながらわたしのほうに近づき、こう言いました。「自白するんだ。我々はお前らの仲間を大勢捕まえた。お前が話さなくても誰かが話す。チャンスを与えているんだぞ」。けれどわたしは下を向いたまま、何も言いませんでした。わたしが沈黙しているのを見て、隊長は怒りも露わに「お前らは下がってろ! どれだけ耐えられるか確かめてやる!」と怒鳴りました。そしてコップに熱湯を注ぐと、再びわたしの腹にかけました。わたしは苦痛のあまり絶叫し、その場に飛び上がりました。熱湯をかけられるうち、身体の水ぶくれが弾けだし、皮膚が貼りつきます。そのうち新しい水ぶくれができ始め、その痛さはとても耐えられません。わたしはだんだん弱っていきました。「大勢の兄弟姉妹が捕らえられた。僕が話さなくても、たぶん誰かが話すだろう。どうしてこれに耐える必要がある? 少しだけ話せば、こんな風に苦しまなくて済むんだ」。隊長にやめるつもりがないことを見て取ったわたしは、これから先の拷問に耐えられるかどうか、見当もつきませんでした。しかし話してしまえばユダになる。まさにそのとき、神のこの御言葉が頭に浮かびました。「患難の時にわたしに全く忠誠を示さなかった者にわたしはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみはそこまでしか届かないからである。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者と係ることを望まない。それが誰であれ、これがわたしの性質である(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)。自分の友の利益を得るような人間と、神は関係を持ちたがらない。自分が口を割ってしまえば、それは神を裏切ったということではないだろうか。何も言うわけにはいかない。絶対にだめだ。そこで、わたしは無言でこう祈りました。「神よ、わたしを啓き、兄弟姉妹を売らせなかったことに感謝いたします。どれほど苦しもうと、決してユダにはなりません」。

わたしの沈黙を見た国家保安大隊の隊長は煙草に火を点け、悪意に満ちた笑みを浮かべつつ、わたしの鼻先に煙草を吹きかけながら「急ぐことはない。時間はたっぷりあるからな」と言いました。そしてコップを手に取り、熱湯をわたしの頭に浴びせました。わたしは本能的に身を退きましたが、熱湯が右耳から背中に伝い落ちます。背中が燃えるように感じられ、苦痛に絶叫しました。すると隊長はさらに何杯かの熱湯を腹にかけ、太ももにも浴びせました。熱湯を被ったところが、たちまち水ぶくれになっていきます。やかんが空になったので、隊長は教官たちに再度熱湯を沸かすよう命じました。それから数分後、お湯が再び沸騰しました。やかんから立ち上る湯気を見て、身震いせずにはいられません。隊長は笑みを浮かべながらやかんを手に取り、「完璧だ!」と口にすると、それを再びわたしの身体にかざし、悪意も露わに「それで、話す気になったのか?」と言いました。わたしが答えないでいると、隊長は次々と熱湯をかけました。わたしは苦痛に圧倒されつつ、隊長にやめる気などないことを見て取りました。いつまで耐えられるか見当もつきません。耐えがたい苦痛の中、いっそ死んでしまいたいと思いました。そうすればこの苦痛にこれ以上耐えなくて済むし、肉体の弱さのせいで誰かを売ることもないはず。部屋を見回し、自ら命を絶つのに使える固い物体を探しましたが、室内にはテーブルしかなく、壁も木でできています。頭を一度ぶつけただけで死ぬとは思えないし、そうなればさらに拷問を耐えなければならない。今のところは素直に従おう。そうすれば、警察は他の人の自宅を特定すべく、僕を外に連れ出すだろうし、外に出たら車から飛び降り、命を絶てばいい。そう考えていると、話す気になったかとひたすら問い詰められたので、わたしはうなずきました。自宅を特定すべくすぐに自分を連れ出すと思ったのですが、隊長は教会について話せと言ったのです。すると階下から、10名以上の警官がやって来たので、わたしはいささかたじろぎました。自分はただうなずいただけ。何も言わなければ、さらに残酷な拷問が待っているのだろうか? 教会の名前と、そのだいたいの場所さえ言えばいいと思いました。ところが驚いたことに、わたしが1を話すと、隊長は10を求めてきたのです。教会に関する質問をさらに浴びせかけたので、わたしはサタンに譲歩したことを心から後悔しました。このままいけば、自分はユダにならないか? 他のことについて訊かれたときは、何も知らないと言い張りました。わたしからこれ以上何も引き出せないと見て取った隊長は、わたしを自室に戻しました。その部屋の中で、わたしはこう自問しました。「どうして自分は死のうとしたんだ? 神は僕が死ぬことを望んでいらっしゃるのか? それは弱さのしるしじゃないのか?」。そのとき、『あなたの苦しみがどんなに大きくても神を愛することを求めよ』という神の御言葉の賛美歌を思い出しました。「今日、大半の人はそのような認識をもっていない。そうした人たちは、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、自分は神に愛されておらず、将来の見込みは暗いと信じている。中には苦しみが極限に達し、死を考えるようになる人がいる。それは神に対する真の愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力がなく、弱くて無力なのである。……したがって、あなたがたは終わりの日に神への証しをしなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで歩まなければならず、最後の一息になってもなお神に対して忠実であり続け、神に身を委ねなければならない。これだけが真に神を愛するということであり、またこれだけが鳴り響くような強い証しなのである」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。神の御言葉をじっくり考えるにつれ、自分がいかに臆病で弱く、無能かがわかりました。肉の弱さのせいで、また苦しみを恐れるせいで死にたいと思った。それでは神を称えられず、真の証しではない。逮捕される前、たとえ中国共産党に捕らえられ、迫害されることになっても、他の兄弟姉妹のように証しに立とうと、自分は神の御前で決意した。決して神を裏切らず、ユダにはなるまいと。ところが、自分の身に何かが起き、警察の拷問に直面すると、どうすればこの状況を乗り切れるかばかり考え、証しに立って神に満足いただくにはどうすればいいかなど考えなかった。自分には真の信仰も神への服従もないと、わたしは気づいたのです。わたしが神を裏切り、証しを失うように仕向けようと、警官たちはわたしを拷問しています。死によってそれを逃れたら、サタンの笑いものにならないでしょうか? そう考えた瞬間、わたしは自分の弱さに対する後悔で一杯になりました。どうして自分の舌を緩めてしまったのだろう? 証しに立つ機会を神から与えられたのに、自分はそれをしっかり掴まえなかった。これは神を傷つけ、失望させることです。警察から自宅を特定するよう求められても、自分は決して行くまいと決意を固めました。どのように拷問されようと、神にすがって証しに立とう!

翌日の午前6時半、わたしの怪我のひどさを見た市の邪教取締局の局長は、自分たちが責任を問われる事態を防ぐため、部下に命じてわたしを病院に移送させました。病院に向かう途中、局長は悪意も露わにこう警告しました。「病院では一言も言うなよ。さもないとひどい目に遭うからな!」。それを聞いてわたしは心から激怒しました。あれほどひどい怪我をさせたあとでも、こいつらは僕を脅し、真実を言わせない気だ。邪悪で卑劣だ! この火傷はどうしてできたのかと医師から訊かれましたが、本当のことを言ったところで、この人には何もできないとわかっていました。そこで、魔法瓶が割れて火傷をしたと答えました。すると医師は信じられないといった口調で、「魔法瓶が割れてこんなことになったのか?」と言いました。その一言に、警官は医師を脇に連れて何かを素早くささやきました。そして医師はわたしの火傷に包帯を巻きながら、入院する必要があると言ったのですが、これは特殊な状況で入院はだめだと警官が口を挟み、すべての責任を認める書類に署名させたうえで、すぐに洗脳センターへ連れ戻しました。火傷は深刻でクラスに出るのも無理でしたが、警察はそれが気に食わず、2人の警官を送ってわたしを見張らせ、毎日洗脳を行なわせました。2人は硬軟取り混ぜた戦術を使って、わたしの信仰を捨てさせようとしました。

17日後、火傷もまだ癒えないうちに、警察はわたしを再びクラスに出席させました。そこには大学教授と心理学者がいて、2人とも友好的な態度を装い、聞き心地のよいことを言ってわたしに近づき、話を引き出そうとしました。そこでわたしは何度も神を呼び求め、サタンの罠からお守りくださいと願う一方、2人に神の証しを伝えました。わたしが騙されないでいるのを知った教授たちは腹を立て、それから数日にわたり、わたしたちの教会を冒涜する自分の著書を読ませたり、神を汚すビデオを見せたりしました。2人がでっち上げた嘘にわたしは怒りと吐き気を覚え、彼らの言うことにまったく耳を貸しませんでした。

ある日の朝、幹部職員が数名の教官を連れてわたしの居室に乱入しました。それに恐怖を覚えたわたしは無言で神に祈り、この恐ろしい警官たちに向き合えるよう、どうか知恵をお授けくださいと願いました。するとその幹部職員は脅すようにこう言いました。「昨日、『全能神教会に対する100日間闘争』の会議があった。刑期は厳しいものになるだろう。お前もそうだが、独身の若者にとってはなお悪いことになる。特にお前のように意見を変えない奴は、銃殺隊のところに直行だ。頭を吹っ飛ばされ、脳が飛び散るぞ」。それを聞いて少しパニックになりましたが、主イエスの御言葉が頭に浮かびました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう(マタイによる福音書16:25)。神のために殉教するのは名誉なことであり、神に称えていただけると、わたしはわかっていました。しかし死を恐れて神を裏切れば、神の性質に背き、神の嫌悪を招くことになるでしょう。たとえ肉体は生き続けても、神の目から見れば死人なのです。わたしの魂は神によって淘汰され、地獄で懲罰を受けるに違いありません。各時代を通じ、無数の信者が迫害され、殉教しました。彼らはみな神の証しに立ったのです。殉教するというのは、神がわたしを引き上げてくださること。進んで神の采配に従い、たとえそれが死を意味するとしても、証しに立とうと思いました。わたしが無言のままでいると、幹部職員が「家に帰りたいか、それとも刑務所に行きたいのか」と言ってわたしを脅しました。家に帰りたくてたまりませんでしたが、その代償として改悛の情を示す文書に署名し、教会との繋がりを絶たなければなりません。わたしは断固たる口調で、「刑務所だ!」と答えました。すると相手は怒りで目を大きく見開くと、わたしを指さし「まだ懲りないようだな!」と言って、激怒しながらその場をあとにしました。

その後、牧師がわたしを洗脳しに現われたのですが、部屋に入ったとたんこう言いました。「息子よ、君はまだ若い。いいかね、君は間違った道を歩んでいるんだ」。そして聖書の『マタイによる福音書』24章23~24節を開き、こう話を続けました。「主はもう戻られたと君は言うが、聖書にはこう記されている。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう』。主はもう来られたと言う人は、みな間違っている。それに従ってはだめだ」。わたしは聖書を手に取り、こう反論しました。「主が終わりの日に戻られるとき、偽キリストや偽予言者が大いなるしるしと奇跡を行ない、人を惑わそうとすると、主イエスはわたしたちに警告なさり、気をつけるようにと言われたんです。主の到来の知らせはすべて間違いだというなら、主ご自身の再臨の事実を否定していることになりませんか? 偽キリストには真理がありません。しるしや奇跡で人を惑わすだけです。全能神はそうした物事をお示しにはなりません。人類を完全に清めて救うべく、真理を表わし裁きの働きをなさるだけです。全能神は再臨された主イエス、唯一の真なる神なんです」。わたしを騙せなかったことを見て取った牧師は、ありとあらゆる冒涜の言葉を吐きました。それにわたしは腹が立ち、「この世でも来世でも、聖霊の冒涜は赦されませんよ」と応じました。すると牧師はこう言いました。「君は本当に頑固な若者だ。息子よ、正気を取り戻しなさい。警察が望んでいることを話し、自白すればそれでいいんだ。本当に刑務所行きになったら後悔するぞ!」。「僕は後悔しない。あなたも真の道を求めなさい。神への抵抗はやめるんだ。恐ろしい罪を犯したら、もう手遅れになりますよ」。牧師は憤慨してこう言いました。「君には望みがない。この頑固者め」。そして腹を立てながら立ち上がり、部屋をあとにしました。

数日後、刑事警察大隊の隊長が、神を否定して冒涜する言葉を、わたしに無理矢理言わせようとしました。わたしが拒否すると、相手は挑発するようにこう言いました。「報復が怖いのか? 神はいないんだから、どこから報復されるというんだ? 信仰を捨てた奴らだって、うまくやっているんじゃないか?」。わたしはこう答えました。「しばらく死ななかったからといって、よい結末だとは言えない。神が人をすぐに懲罰されることはないんだから」。すると隊長は腹を立ててわたしを掴み、何度か平手打ちしましたが、わたしは何一つ言わず、主イエスの御言葉をひたすら考えていました。「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない(マタイによる福音書12:31)。これらの言葉に力づけられ、わたしはまったく揺るぎませんでした。わたしが無言のまま数時間が経ったころ、隊長は怒りも露わにわたしの髪を掴んで居室へ引きずり、悪意に満ちた口調で「口を割るまで食事をやるな」と言いました。わたしは心の中で神に祈りましたが、主イエスのこの御言葉が脳裏に浮かびました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである(マタイによる福音書4:4)。神の御言葉はわたしたちのいのちの糧です。食べ物がなくても、神がお許しにならない限り死ぬことはありません。すると驚いたことに、夜になって清掃担当の女性が饅頭をこっそり渡してくれたのです。人の心と霊は神の手中にあるのだと、わたしは実感しました。その後、警察に命じられて毎日事務室を清掃することになったのですが、机の上に『言葉は肉において現れる』があるのに気づきました。清掃中にそれを密かに読んでいると、神の御言葉に信仰と力を与えられました。警察は絶えず無神論の誤謬をわたしに吹き込みましたが、神の御言葉に導かれていたわたしは、まったく影響を受けませんでした。

ある日、2人の大学教授が連れてこられたのですが、彼らはあの手この手でわたしを洗脳し、惑わそうとしました。「改心して3枚の文書に署名しなければ、禁固5年を言い渡される。そうなればお嫁さんを見つけるのも難しくなるぞ。青春をそんな風に無駄にしちゃだめだ。それだけの価値があるのか?」。その言葉はこたえました。自分はまだ若い。本当にここで何年も苦しむのか。そう考えていると、自分がサタンの罠にはまりつつあると気づいたので、急いで祈りを唱えました。「ああ、神よ! サタンの罠にはまるところでした。証しに立てるよう、どうかわたしをお守りください」。祈ったあと、神の御言葉の賛美歌にある数行が頭に浮かびました。「若者たちは真理を持たないでいることなく、偽善や不義を隠し持つことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく、正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきである(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「若者たちが追い求めるべきもの」より)。真理を得るため、どんな苦痛をも耐えられるようにならなければならないのだと、わたしはわかりました。束の間の安楽のために神を裏切ることはできません。警官がわたしに何をしようと、証しに立って神に満足いただかなければならないのです。わたしが何も言おうとしないので、2人の教授は何もできずに立ち去りました。その日の午後、例の牧師が戻ってきて、陰険な笑みを浮かべてこう言いました。「刑務所行きになるそうだね。それはだめだぞ。刑務所では人間のように暮らせない。君のような若者に耐えられると思っているのか?」。そして携帯電話を取りだし、虐待されたクリスチャンの画像を何枚か見せてから、こう続けました。「彼らを見ろ。禁固10年の者もいれば、20年の者もいる。刑務所で命を落とした者だっている。君が真の信者なのはわかる。とりあえずは警察の言う通りに署名して、ここを出たら信仰を実践すればいいじゃないか。こんな風に苦しむ必要なんかないんだ! 署名しなさい。わたしからも君のために言っておくから。そうしないと望みはないぞ」。わたしは不安を覚えました。本当に禁固刑を宣告されたら、警察は刑務所でどんな拷問でもできるだろう。はるかに苦しむのは間違いない。恐怖を感じずにはいられませんでしたが、あれらの文書に署名してしまえば神を裏切ることになり、獣の烙印を押されてしまいます。心の中で祈って神を呼び求め、証しに立てるよう信仰をお授けくださいと願いました。そして牧師に、「署名はしません」と言いました。すると牧師はどうしようもないというように、部屋をあとにしました。

市の邪教取締局の局長も3枚の文書に署名させようとして、怒りも露わにこう言いました。「2ヵ月経ったが何一つ変わっていない。いい加減に態度を変えてもらいたいな。もう神を信じないと言えば家に帰れるが、信じるというなら刑務所に直行だぞ! それでもお前は神を信じるのか?」。わたしは心から葛藤しました。神を信じると言えば刑務所行き。どんな拷問が待ち受けているかわからない。けれど信じないと言えば、神を裏切ることになる。神に祈り、勇気をお授けくださいと願ったところ、証しに立つ覚悟ができました。まさにそのとき、神の御言葉の賛美歌が頭に浮かんだのです。「イエスが神の任務、すなわち全人類を贖う働きを完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、自分自身のためには一切計画を立てたり準備をしたりしなかったからである。イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。『父なる神よ。あなたの心にかなうとおりに成し遂げてください。わたしの望みどおりにではなく、あなたの計画どおりに行なってください。人は弱いかもしれませんが、あなたが人のことを気遣うべきでしょうか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮に価することがありえるでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行う業を、あなたが望むとおりに行えることです』(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「主イエスにならいなさい」より)。主イエスは十字架に向かう道中で苦しまれた。主には肉の弱さがあったけれど、神の使命を果たすことに専念できた。肉体の苦痛の中でも、神の采配に従えた。またペテロは、神への愛のために進んで死を受け入れ、神のため逆さ十字架にかけられた。自分のささやかな苦しみが何だというのだろう? 神の御言葉がわたしの信仰をかき立て、もはや恐怖を感じなくなりました。たとえ刑務所に行くことになっても、神の証しに立とうと決意したのです! わたしは断固たる口調で「それなら刑務所に行きます」と答えました。すると局長は激怒し、「荷物をまとめろ。明日刑務所に送る」と言って乱暴に扉を閉め、憤然と去って行きました。すると驚いたことに、それから2日後、地元の警察署から4名の警官がやって来て、わたしを家に帰すというのです。その瞬間、わたしは神の働きがいかに不思議かを感じ、わたしへの加護と慈悲を実感しました。警察はわたしを町へ連れ戻すと、口頭での供述を録音した上で、週に一度警察署に出頭するよう言いました。しかし神のお導きのもと、わたしは後にこの地域から逃れ、再び本分を尽くせるようになりました。

警察による逮捕と拷問のせいでわたしは深く傷つき、共産党がいかに野蛮で人間性がないかを目の当たりにしました。神に逆らうその本質を余すところなく見たのです。わたしは心からあの悪魔どもを憎みます。また、神の御言葉の力と権威も経験しました。試練と苦難を通じ、神はひたすら御言葉を用いてわたしを導き、信仰と力を授けてくださったのです。神だけがわたしたちを愛し、神の御言葉だけがわたしたちのいのちになれるのだとわかり、神に対する信仰がますます大きくなりました。全能神に感謝します!

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