言葉は肉において現れる

目次

唯一の神自身 10

神は万物の生命の源である (4)

本日は専門的な事項について話し合っている。あなたがたそれぞれが知り、経験し、理解すべき主要な事項は、主に2つしかないが、その2つとは何であっただろうか。そのうち1つは人間の個人的ないのちの成長であり、もう1つは神を知ることに関するものである。本日は、あなたがたに選択の機会を与えるので、ひとつ選んで欲しい。あなたがたが聞きたい話題は、人間の個人的ないのちの経験に関する話題であろうか、それとも神自身を知ることに関する話題であろうか。このような選択の機会をあなたがたに与える理由は、本日、わたしは、神を知ることに関して、新しい事柄をあなたがたと話し合いたいと考えているからである。いずれにせよ、まずは先述した2つの話題のうちいずれかを、あなたがたに選択してもらうことにしよう。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神に関する認識を話し合う方が良いと思う。)あなたがたは、神を知ることに関して最近わたしたちが話し合っている事柄が達成可能だと思うであろうか。(神が最初に交わりを行われた時は、それが達成可能だとは感じなかった。その後、神は数回の交わりを行われ、最初の交わりを顧みたとき、神が造られた環境のなかで、兄弟姉妹が皆その領域における経験に留意していた。)それは大部分の人々にとって、手の届かない領域にあると言えるであろう。あなたがたは、そうした言葉により確信は得ないかも知れない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。その理由は、以前にわたしが述べた事柄は、わたしがどのように述べたか、どのような言葉を用いたかを問わず、あなたがたがそれを聞いた時、わたしが述べた事柄を、言葉としてまた理論的には認識したが、しかしあなたがたの深刻な問題として、わたしがそのような事柄を述べた理由、わたしがそうした事柄について話をした理由を理解していなかったからである。このことが問題の要点である。このように、その言葉を聞くことにより、神や神の業に関するあなたがたの知識が増し、豊富になったにもかかわらず、あなたがたにとって神を知ることが依然として困難なのは何故であろうか。それは、わたしの話を聞いても、あなたがたのうち大部分の者が、わたしがその話をした理由と、その話と神を知ることのつながりを理解していないからである。そうではないだろうか。その話と、神を知ることのつながりを理解できないことは、何と関連するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。おそらくあなたがたは、このようなことを考えたことが無いであろう。あなたがたがそれらの事柄を理解していないのは、あなたがたのいのちの経験が表面的すぎるからである。神の言葉に関する人間の認識と経験が極めて浅薄な段階のままである場合、神に関する人間の認識は、曖昧で抽象的なもの、初歩的なもの、原理的なもの、理論上のものに留まる。理論上は、論理的で合理的のように思われるが、大部分の人々が発言する神に関する認識は、空虚なものである。それでは、わたしがそれを空虚であると言う理由は何であろうか。それは、事実として、あなたの心中では、神について知ることに関してあなたが発言する言葉が正しいかどうか、正確かどうかが明瞭ではないからである。そうしたわけで、神について知ることに関する情報を、大部分の人々が聞いたことがあるにもかかわらず、こうした人々の神に関する認識は、論理的で曖昧で抽象的な原理の域を超えないものである。

それでは、この問題はどうすれば解決できるであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。ある者が真理を追求しなかった場合、その者は現実を獲得できようか。(獲得できない。)その通りである。その者が現実を知ることが出来ないのは、確実である。ある者が真理を追求しなかった場合、その者には現実が欠如し、したがってその者には神の言葉に関する認識や経験が無いことは確実である。それでは、神の言葉を知らない者は、神を知ることが出来るであろうか。絶対にそのようなことは無い。それら2つの事項の間には、相互に関連性がある。したがって、大部分の人々が「神を知ることは、何と難しいことであろうか。こんなに困難なのは何故だろうか。神に関する認識について、私には何も述べられないのは何故だろうか。」などと言う。自分自身を知ることについては、何時間でも話を出来るが、神を知ることについて述べようとすると、絶句してしまうのである。何か述べることがあったとしても、それには無理があったり、曖昧なものとなってしまったりして、話している本人が聞いても不自然に思われる。これが原因である。神を知ることが困難すぎる、難儀だ、それについて何も話せることが無い、語り合って相手や自分自身に与えることが無い、と感じる場合、それは、あなたが神の言葉を体験したことが無い者であることを示すのである。神の言葉とは何であろうか。神の言葉は、神が持っているものや神が何であるかを表出されたものではないか。神の言葉を体験したことが無い場合、神が持っているものや神が何であるかに関する認識を得ることが出来るであろうか。間違い無く出来ないであろう。これらの事柄は、すべて相互に関連している。神の言葉に関する体験が無い場合、神の心を把握することは出来ず、したがって、神の性質や、神が好む事柄や嫌悪する事柄、人間に対する神の要求、善良な者に対する神の姿勢、邪悪な者に対する神の姿勢を知ることは無く、こうした事柄は全て曖昧で不明瞭なものになることは確実である。そうした不明瞭さにもかかわらず、神を信じている場合、真理を求めて神に付き従っていると言った場合、そうした発言には現実性があるであろうか。そうした発言に現実性は無いのだ。そのことを踏まえて、選択して欲しい。本日の話題として、あなたがたはどちらを選択するであろうか。(いのちの成長と人間の個人的ないのちの経験を選択する。)(いのちの成長を選択する。)いのちの成長に関してあなたがたに欠如しているのは、どの領域の事項であろうか。あなたがたの心が、あなたがたに訴えている事柄は、何かあるだろうか。あなたがたは、まだ知らないであろう。その他の人達は、どちらの事項を選ぶであろうか。神の認識に関する話と、いのちの経験に関する話のうち、どちらを希望するであろうか。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神を知ることに関する話題である。)あなたがたのうち大部分が、神を知ることに関する話題を選択した。それでは、神に関する認識について、話を続けることにする。

あなたがたは皆、本日の事項に関する話を聞くことを熱望しているであろう。本日の話題は、最近話をした事項、「神は万物の生命の源である」にも関連する。「神は万物の生命の源である」に関しては、これまで数回話をしたが、それらの話は、神が造った地球上に万物が存在できるようにするために、神が万物を支配していること、神はどのような手段を用いて万物を支配しているか、どのような原則にしたがって万物を管理しているかを人々に伝える様々な方法や観点を用いることが目的であった。また、神が人間に与える方法、つまり、神はどのような手段で人間に与えるか、神は人間にどのような生活環境を与えるか、神は人間に安定した生活環境を与えるために、どのような手段と推進力を用いるかについても、多くの事柄を話した。神の万物に対する支配、神の万物統治、神の経営の関係については直接的に話をせず、神がこのような方法で万物を統治する理由、そして神がこのような方法で人間に与え、人間を育む理由について、間接的に話をしたが、これらはすべて神の経営に関する事柄である。マクロ的な環境から、人間の基本的な生活必需品や食糧など、それよりも遙かに小さな事柄まで、また神が万物を支配し、規律に従って機能させることから、様々な人間のために神が造った適正な生活環境などに至るまで、話した内容は極めて広範である。この広範な内容は、全て人間が肉にあってどのように生きるかに関連している。つまり、この内容は、たとえば山、川、海、平原など、人間が目で見て感じることができる、物質世界の物事に関連するものである。これらの物は、全て目で見て触れることが出来るものである。わたしが空気や気温について話をする時、あなたがたは呼吸により空気の存在を直接感じ、身体により気温の高低を直接感じることができる。森の中の木々や草、鳥や獣、空を飛ぶものや地を歩むもの、巣穴から出てくる様々な小動物は、すべて人間の目で見て、耳で聞くことのできるものである。こうした物の範囲は極めて広いが、すべて物質世界のみを表すものである。人間の目に見える物は何であろうか。目に見える物は、物質的な物である。物質的な物とは人間が見たり触れたりすることが出来るものである。すなわち、手に触れた時にその物を感じ、目で見た時に脳が人間に映像すなわち図画を与えるものである。物質的な物は、実在する事実であり、人間にとって抽象的では無く、角ばっていたり丸かったり、背が高かったり低かったり、大きかったり小さかったりといった姿形があるものであり、人間に対してそれぞれ異なる印象を与える。これらの物質的な物は、物質世界の物全体の一部を構成するものである。それでは、神にとって、「神による万物の統治」の「万物」には、何が含まれるであろうか。この「万物」には、人間が見て触れることのできる物だけでなく、目に見えず、触れることの出来ない物も含まれる。これは、神による万物の統治の真の意味のひとつである。これらの物事は目に見えず触れることの出来ない物事であるが、これらの物事もまた実在する物事である。神にとっては、その物事が神の目で観察可能であり、かつ神の統治の範囲内にあれば、その物事は実在する。人間にとって、それらの物事は抽象的であり、想像不可能なことであり、目に見えず触れることが出来ないとしても、神にとって、それらの物事は実在する。神が支配する万物のもうひとつの世界は、そのようなものであり、それが神が支配する万物の範囲の、もうひとつの部分である。本日は、この事項について、すなわち神が霊的世界をどのようにして支配し、統治するかについて、話をする。この事項では、神が万物を支配し、統治する方法について話をするので、この事項は物質世界の外部の世界である霊的世界に関連するものであり、したがって人間にとっては、最も理解が必要とされる事項である。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の本当の意味を、真に理解できるようになる。そして、この事項の狙いは、「神は万物を支配し、管理する。」という主題を完結させることである。この事項に関する話を聞いた時、その話が異様である、あるいは信じがたいと感じるかも知れないが、あなたがたがどう感じるかを問わず、霊的世界が、神により支配されている万物の一部である以上、あなたがたはこの事項から何らかの知識を得るべきであることは間違い無い。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の意味を、更に深く理解し、その言葉に関する認識を得るだろう。

1.神が霊的世界を支配し、統治する方法

物質世界では、人間が物事や現象を理解できなかった場合、人間は書物を紐解き関連する情報を探したり、様々な方法により、そうした物事などの原因や経緯を調べたりすることができる。しかし、本日話をしている、それ以外の世界、すなわち物質世界以外の霊的世界に関しては、人間にはその内情や真実を知る事ができる方法が無い。わたしがこう述べるのは何故であろうか。人間世界では、物質世界のあらゆる物事が、人間の物理的生活と不可分であり、人間は物質世界のあらゆる物事が人間の物理的な命と不可分であると感じるので、大半の人間は目の前にあり、見ることができる物理的な物事のみを意識し、あるいは見ているのである。しかし、霊的世界すなわちその他の世界に関しては、大部分の人々が信じないと言って良いであろう。それは、霊的世界が人間にとって不可視であり、人間は、霊的世界を理解すること、それについて知ることは不要であり、ましてや霊的世界が物質世界とは全く異なることについて述べることは、一切不要であると考えるからである。神にとって、霊的世界は開かれたものであるが、人間にとって霊的世界は隠されており、開かれたものでは無いので、人間が霊的世界の様々な側面を理解するための経路を探すのは、困難である。霊的世界に関してわたしが述べる事柄は、神の管理と統治に関する事柄のみである。無論、それらの事柄は人間の結末や終着点にも関連する。しかしわたしは謎を解明しているのでも、あなたがたが知りたい秘密を話しているのでも無い。なぜなら、この事柄は神による統治、支配、そして神が与えることに関連するものであり、したがってわたしはあなたがたが知る必要のある部分のみについて話をする。

まず、あなたがたに質問するが、あなたがたの心の中では、霊的世界とは何であろうか。一般的に言うと、霊的世界とは物質世界以外の世界であり、人間にとって見ることも触れることも出来ない世界である。しかし、あなたがたの想像では、霊的世界とはどのようなものであろうか。おそらく、霊的世界は見ることが出来ないので、あなたがたは想像することが出来ないであろう。しかし、霊的世界に関する伝説を聞くと、霊的世界について考えるのを止めることは出来ない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。多くの人々が、幼い頃に経験することがある。誰かが幽霊や亡霊に関する怪談をすると、子供達はそれを怖がる。それでは、子供達はなぜ怖がるのであろうか。それは、子供達が幽霊や亡霊を想像するからである。子供達は幽霊や亡霊を見ることが出来ないものの、自分達の部屋や、隠された場所、暗い場所などの至る所に存在するように感じるので、子供達は恐怖で眠れなくなる。特に夜中は、子供達は部屋や中庭に独りで居ることが出来ない。それが、あなたがたの想像する霊的世界であり、人間が恐ろしいと考える世界である。人間はそれぞれ多少の想像力があり、誰もが何かを感じることができる。

それでは、霊的世界について話をしよう。霊的世界とは何であろうか。わたしが簡潔に説明する。霊的世界とは、物質世界とは異なる重要な場所である。それでは、わたしがそれを重要であると言う理由は何であろうか。これについて詳細に話をする。霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。霊的世界は五感で認識できない領域であるため、それが存在するかどうかを正確に判断できる者は存在しない。霊的世界における出来事は人類の存在と密接に関連し、そのため人間の生き方もまた霊的世界から甚大な影響を受ける。これは神による統治に関連するであろうか、というと、関連する。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由を理解できるであろう。霊的世界は神による統治と管理に関連するから、というのが、その理由である。このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。これらの事柄は、人間が住む物質世界と異なるであろうか、というと、大いに異なる。霊的世界は、物質世界とは全く異なる世界である。天の命令と規則があるため、霊的世界は、神による統治、支配、そして神の性質と神が持っているものや神であるものに関連する。この話を聞くと、あなたがたはわたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じないであろうか。霊的世界の秘密について知りたいと思わないであろうか。霊的世界の概念は、これまで述べた通りである。霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。詳細に関しては、まず霊的世界がどのように人間の生死の周期の働きに関与しているかという問題を取り扱う必要がある。なぜなら、この働きは、霊的世界の存在の働きの大きな部分だからである。

すべての人間を3つの類型に分類する。最初の類型は、信仰の無い人々で、信者以外の者である。これらの者を、信者以外の者という。信者以外の者のうち、大部分は金銭のみを信じ、自分自身の利益のみを追求し、物質主義的であり、物質世界のみを信じ、生死の周期や、神性、幽霊に関する噂は信じない。こうした人々を、信者以外の者と分類し、それを最初の類型とする。2番目の類型は、信仰の無い人々以外で、様々な宗教の信者の人々である。人類のうち、こうした信者を、数種類に大別する。この種の人々は、ユダヤ教徒、カトリック教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の5種類に分類される。信者には、これらの種類がある。3番目の類型は、神を信仰する人々であり、あなたがたに関連する類型である。この種の信者は、現在神に付き従っている人々である。この種の信者は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。そうしたわけで、これらの主要な類型は明確に区別されている。これで、あなたがたは、心の中で人間の類型と階層を明確に区別できる。最初の類型は、信者以外の人々である。信者以外の人々がどのような人々かは、既に述べた。信者以外の人々の多くは、蒼天を信じ、風、雨、雷は、すべてこの蒼天により支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際にこの蒼天に依存しているものの、神の信仰の話になると、反感を抱く。これは神の信仰であると言えるであろうか。こうした人々は信仰の無い人々に含まれる。神を信仰せず、蒼天のみを信じる人々は、すべて信仰の無い人々である。神を信仰することも、神に付き従うことも無い人々は、すべて信仰の無い人々である。2番目の類型は、5大宗教に属する人々であり、曖昧な神を信仰する人々である。3番目の類型は、終わりの日に受肉した実践の神を信じ、神に現在付き従っている人々である。それでは、わたしが全ての人間をこれらの類型に分類したのは、何故だろうか。(それらの類型の人々には、それぞれ異なる終着点と終末があるからである。)それは側面のひとつである。それは、こうした異なる人種や類型の人々が霊的世界へと還る時、人々はそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する異なる法則の対象となるからであり、そのことが、わたしが人間をこうした3つの類型に分類した理由である。

1) 信仰の無い人々の生死の周期

それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。

第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。

大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。

一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。

それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。

あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには報いが無いと思うであろうか。何も起こらないということは、有り得ない。自分のした事は、必ずめぐりめぐって自分に還ってくる、というのは完全に正しい。つまり、神の存在を信じるか如何を問わず、誰もが自分の行動に対する責任を負い、その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。

信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。

一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。

それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。

たった今話した事について、あなたがたはどう思うであろうか。そうした内容はあなたがたにとって新たなものであろうか。また、そのような話を聞いて、どう感じているであろうか。新しいということ以外に、何か感想はあるであろうか。答えて欲しい。(人間は正しく行動する必要があると思った。また神は偉大であられ、畏るべきお方であると感じた。)(神に対する敬意が増した。今後自分に何かあった時は一層注意しようと思う。自分の言動を向上させようと思う。) (神が様々な種類の人間の終わりの時をどのように扱われるかに関する神のお話を聞いて、神のご性質はいかなる反抗をも許されず、神を敬うべきであると感じた。また神が好まれる人間の種類、神が好まれない人間の種類について認識し、神が好まれる人間になりたいと思った。)この範囲に関して神の行動には原則があることを理解できたであろうか。神はどのような原則に従って行動しているであろうか。(神は人間の終わりの時を、その人間のすべての行いにしたがって決められる。) それは今話をした、信仰の無い人々の様々な終わりの時に関する事柄である。信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。

生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。

2) 各種宗教を信仰する者の生死の周期

これまでは、最初の類型の人々である、信仰の無い人々の生死の周期の話をした。ここからは、2番目の類型の人々である、各種宗教の信者の話をする。「各種宗教を信仰する者の生死の周期」もまた重要事項であり、これについての知識を得ることは、便宜となる。まずは、「信仰する者」の「信仰」が何を指すかについて話をする。「信仰」とは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の5大宗教を指す。信仰の無い者に加え、これらの5大宗教を信仰する者は、世界人口のうち大きな割合を占める。これら5大宗教では、その信仰を職業とする者、すなわち信者のうち、宗教を専業として従事する者は少ないが、これらの宗教の信者は多数存在する。これらの宗教の信者は、死後に別の場所へ行く。誰と「別」であるか、というと、それは先般話をした信仰の無い者と別、ということである。5大宗教の信者が死ぬと、信仰の無い者とは異なる場所へ行く。霊的世界では、こうした信者についても、死ぬまでの全ての行いに基づいて裁き、それに続いてその裁きに従って処分される。しかし、信者の人々が、別の場所に行き処分されるのは何故であろうか。それには、重要な理由がある。その理由とは何であろうか。ひとつ例を挙げて説明する。

仏教を例に挙げる。あなたがたに事実を述べると、第一に、仏教徒とは、仏教に改宗した者であり、その教義を知る者をさす。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世や、人間の世界の喧噪から遠くはなれて行ったことを意味する。こうした仏教徒は、毎日読経し、精進料理を食べ、苦行を行い、暗いバターランプの僅かな明かりと共に過ごす。仏教徒は、一生をこのようにして過ごす。仏教徒の人生が終わる時、自分の生涯をまとめるが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、生涯がどのように終わるかは知らず、こうした事柄について明瞭に理解していない。仏教徒は、ひたすら信仰のみで盲目的に一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いてこの世を去る。それが、仏教徒の肉体的生涯の終焉であり、その後は霊的世界の自分が生まれてきた場所へと還る。この仏教徒が生まれ変わってこの世に戻り、修行を続行するかどうかは、その者の前世における行いや自己修養により決まる。生涯のうちに誤った行いが無かった者は、すぐに生まれ変わって地上に戻り、そこで再び剃髪して僧や尼僧となる。仏教徒は、3回から7回、僧や尼僧になる。初回時の過程と同様にして、仏教徒の身体は自己修養され、その後死ぬと霊界に戻り、そこで検査が行われた後、問題が無ければ、再び人間の世界へと戻り、自己修養を継続する。すなわち、再び仏教徒として改宗し、自己修養を続ける。仏教徒は、3回から7回生まれ変わった後、肉体の生涯が終わるたびに戻っていた霊的世界へと、もう一度戻る。人間の世界における仏教徒の様々な資格や行動が霊的世界における天の命令に準じている場合、その時点以降、その仏教徒は霊的世界に留まる。その仏教徒がそれ以上人間として生まれ変わることも、地上における悪業に対する罰を受ける恐れも無くなる。この仏教徒がこの工程を経験することは、二度と無い。その代わりに、この仏教徒は状況に応じて霊界におけるある地位を得るが、それが仏教徒の言う永遠の命を得ることである。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。それでは、仏教の「解脱」とは何を指すであろうか。解脱とは、霊的世界の執行官となり、それ以降の生まれ変わりや罰の可能性が無くなることを意味する。さらに、解脱とは、輪廻により人間となることの苦悶が無くなることを意味する。それでは、その仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はあるであろうか。可能性は皆無である。そのことには、どのような意味があるであろうか。それは、霊的世界で、ある役割を継続的に担い、人間として生まれ変わることが無くなることを意味する。これが解脱の一例である。

それでは、解脱に達しなかった仏教徒はどうなるであろうか。こうした仏教徒が霊的世界に戻ると、検査され、担当する執行官により検証が行われ、仏教で定められた通り熱心に修練せず、誠心誠意をもって読経せず、むしろ悪業や不道徳な行いを多数行ったと判断される。こうした仏教徒は、霊的世界に戻った時にその邪悪な行いについて裁きが下された後、罰せられる。これについては、例外は一切無い。それでは、こうした人々が永遠の命を得るのは何時であろうか。こうした人々がその人生において邪悪な事を全く行わなかった場合、霊的世界に戻った後、生前に全く誤った行いが無かったと判断される。よし。仏教徒は生まれ変わり続け、読経を続け、バターランプのほのかな明かりととともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べず、人間の世界に入ることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と言い争うことが一切無い。この過程の中で、仏教徒は邪悪な行いをせず、その後霊的世界に戻り、あらゆる行動や態度が検証され、人間の世界に再び送られるという周期が3回から7回反復される。この間に何も問題が無ければ、永遠の命の獲得には何も影響が無く、成功を収める。これは、信仰のある人々の生死周期の特徴である。信仰のある人々は、永遠の命を得て、霊的世界での地位を獲得することが可能である。信仰のある人々と、信仰の無い人々の相違点は、これである。第一に、霊的世界で地位を得ることの出来る人々が地上で生きている時における行動は、どのようなものであろうか。こうした人々は、悪業を一切行ってはならない。こうした人々は、殺人や放火、強姦、略奪などを行ってはならない。こうした人々が詐欺やごまかし、窃盗、強盗などを行った場合、永遠の命を得ることは出来ない。つまり、悪業に何らかの形で関与した場合、霊的世界の罰から逃れることは出来ない。霊的世界では、永遠の命を得る仏教徒に対する適切な采配が行われる。仏教徒は、仏教と蒼天を信仰しているものと見られる人々を監督し、仏教徒は管轄権を与えられ、信仰の無い人々を管理するか、あるいは下級の執行官となることがある。こうした任命は、その魂の性質に従って行われる。これが仏教の一例である。

先述した5大宗教のうち、キリスト教は少し特殊である。それでは、キリスト教の特殊性とは何であろうか。キリスト教徒は、真の神を信仰する人々である。真の神を信仰する人々がここで挙げられているのは、何故であろうか。なぜなら、キリスト教では、神が存在することを認めているにすぎず、神に反抗し、敵意を抱いているからである。キリスト教徒は、キリストを再び十字架に架け、終わりの日における神の業に敵対する立場を取り、その結果として宗教団体のひとつに零落している。キリスト教は宗教の一種であるため、信仰のみに関連することは確実である。キリスト教は、一種の儀式であり、教派であり、宗教であり、真に神に付き従う信仰とは別のものである。わたしがキリスト教を5大宗教のひとつに挙げたのは、キリスト教がユダヤ教、仏教、イスラム教と同じレベルにまで零落しているからである。大部分のキリスト教徒は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、いわんや神の実在を信じているということは無い。その代わりに、キリスト教徒は、単に聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて人間に対して親切にすること、辛苦に耐えること、善行を行うよう諭すのみである。それがキリスト教という宗教である。つまり、神学的理論のみに集中し、人間を経営し、救う神の業とは全く関係なく、神によって認められていない神に付き従う人々の宗教である。しかし、神には、そうしたキリスト教徒に対する姿勢の原則がある。神が信仰の無い人々と同様に、気の向くままにキリスト教徒を取り扱うことは無い。キリスト教徒に対する神の姿勢は、仏教徒に対する姿勢と同様である。キリスト教徒が生きている間に自己鍛錬を行い、十戒その他の訓戒を遵守し、自らの行動に関してキリスト教徒に求められる律法に従い、それを生涯全体にわたって行う事が出来た場合、キリスト教徒は、生と死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる携挙を真に得ることができる。この「携挙」に達した後、キリスト教徒は霊的世界に留まり、そこで何らかの地位を得て執行官となる。同様に、キリスト教徒が地上で悪業を行った場合、罪深く、多くの罪を犯した場合、様々な重さの罰や鍛錬を受けることは免れない。仏教においては「永遠の命」を得ることは、涅槃に入ることを意味するが、キリスト教では、それを何と呼ぶであろうか。それは「天国に入る」、そして「携挙」されると言われる。真に「携挙」された者もまた生と死の周期を3回から7回にわたりくり返し、その後にあたかも寝ていたかのように死んで霊的世界に辿り着く。こうした者は、基準を満たしていれば何らかの役割を担い、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることは無く、慣例にしたがって単純に生まれ変わることもない。

これらの宗教すべてにおいては、信者が議論し、獲得しようとする終焉は、仏教で言う永遠の命の獲得と同じである。ただ、その目的を達成する方法は様々である。これらの宗教は、すべて同種である。これらの宗教の信者のうち、信仰上の教えを遵守して行動できる者、そうした一部の信者に対し、神は相応の終着点を与え、適切に対処する。そうした事柄は、全て合理的であるが、人間の想像とは異なるものである。ここまでキリスト教徒がどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは、キリスト教徒を哀れに思うであろうか。あなたがたは、キリスト教徒に同情するであろうか。(多少同情する。)これについては、何も出来ない。キリスト教徒は自分自身を非難するほかない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。神の業は真実であり、神は生きて実在し、神の業は全て人間それぞれを対象とするものであるが、キリスト教徒がそれを受け容れないのは何故だろうか。キリスト教徒が気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのは何故だろうか。キリスト教徒には、このような終焉があって幸運である。それならば、何故あなたがたはキリスト教徒を哀れむのであろうか。キリスト教徒がこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さの現れである。キリスト教徒が神に反抗する度合いに基づけば、キリスト教徒は滅ぼされるべきである。しかし神はそうせずに、キリスト教を普通の宗教と同様のものとして扱うのみである。さて、その他の宗教についても、詳細を話す必要があるだろうか。その他の宗教の理念は、どのようなものであろうか。それは、人間が思いやりの心を持ち、悪業を行わないことである。それは、多くの苦難を背負い、邪悪を避け、好感の持てる話をし、善行を行い、他人の悪口を言わず、他人に対する偏見を持たず、論争を避け、善行を行い、善人となることである。大部分の宗教の教義は、こうしたものである。そうしたわけで、こうした信仰のある者、すなわち様々な宗教や宗派の信者が、信仰上の教えを遵守することが出来る場合、そうした信者が地上に居る間は大きな過ちや罪を犯すことが無く、3回から7回生まれ変わった後、そうした教えや原則を遵守出来る信者の人々は、概して霊的世界に留まり、ある役割を担うようになる。それでは、こうした人々は大勢居るだろうか。善行を行い、信仰上の規則や掟を遵守することは、容易なことでは無い。仏教では、人間が肉を食べることを禁じているが、あなたはそれが出来るだろうか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経しなければならないとしたら、あなたにそれが出来るだろうか。それは容易でないだろう。キリスト教には十戒その他の訓戒があるが、それらの訓戒等は容易に遵守できるものだろうか。それは容易ではない。他人の悪口を言わないこと。人間は、この定めを守ることが出来ないであろう。人間は自制できず、他人の悪口を言う。そして悪口を言った後は、それを取り消すことは出来ないが、そこで人間はどうするだろうか。人間は夜になると、自らの罪を告白する。人間は自制して他人の悪口を言わないでいることが出来ないので、悪口を言った後も心中に憎しみが残り、その上に他人を傷つけることを企む。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯さず、邪悪な行いを避けることは容易ではない。そこで、全ての宗教において、永遠の命を得ることが出来る者は僅かしか居ない。極めて多くの人々がこれらの宗教を信仰しているのだから、霊的世界に留まり何らかの役割を得ることの出来る人間が多いだろうと、あなたは考える。しかし、永遠の命を得ることが出来る者はそれほど多くは居らず、ごく僅かしか居ない。信仰のある人々の生死周期の概要については、以上である。こうした人々と信仰の無い人々との相違点は、信仰のある人々は永遠の命を得ることが出来る、ということである。

3) 神に付き従う者の生死の周期

次に、神に付き従う人々の生死周期について話をする。これはあなたがたに関連する事柄なので、注意して聞いて欲しい。まず、神を信じる人々は、どのような種類に区分することができるかを検討しよう。神を信じる人々は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。まずは、限られた人数しか居ない、神の選民について話をする。「神の選民」とは何を指すであろうか。神が万物を創造し、人類が現れた時、神は神に付き従うひとつのグループの人々を選び、その者達を「神の選民」と呼んだ。神がこれらの者を選ぶ際には、特別な範囲と意味がある。その範囲とは、神が重要な業を行う時、神の選民はそこに現れる必要がある。これが、神の選民の、ひとつ目の特別な部分である。それでは、神の選民の意味は何であろうか。神によりこれらの者が選ばれたということは、神の選民に大きな意味があることを意味する。つまり、神はこの者達を完全な存在とすることを望み、この者達を完璧な存在とし、神が経営の業を完了した後、神はこの者達を自身のものとする。この意味は偉大では無かろうか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要である。なぜなら、神はこれらの者を自身のものとしようと考えているからである。これに対し、奉仕者については、神の予定説の話を中断し、まず奉仕者の由来について話をする。「奉仕者」という言葉の意味は、奉仕を行う者である。奉仕を行う者は、長期的に、あるいは恒常的にではなく、一時的にその役割に起用された者である。奉仕者の大部分が、信仰の無い者のうちから選ばれる。奉仕者が地上に現れる時は、その者が神の業において奉仕者としての任務を命じられた時である。奉仕者は、前世において動物であった者である場合や、信仰の無い者であった場合もある。これが奉仕者の由来である。

それでは、神の選民の話に戻る。神の選民は、死んだ時に信仰の無い者や様々な宗教の信者とは全く異なる場所へ行く。その場所は、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所である。この場所において、神の選民は自らの目で神を見ることは出来ないが、その場所は霊的世界において他のどの場所とも異なる場所である。そこが、神の選民が死後に行く場所である。神の選民が死んだ時もまた、神の使いによる厳格な調査の対象となる。それでは、何が調査されるのであろうか。神の使いは、神の選民の生涯全体について、神の選民が神に反抗したり神を呪ったりしたことや、重度の罪や悪業を行うことが無かったかを調査する。この調査により、その者がそこを去るか、そこに留まるかが決定される。ここで「去る」、とは何を意味するであろうか。また、「留まる」、とは何を意味するであろうか。「去る」とは、彼らの行動に基づき、神の選民として留まることができるかどうかを意味する。「留まる」とは、終わりの日に、神により完全な存在となる人々として留まることができる、ということを意味する。留まる者について、神は特別な采配を行う。神の業の各期間において、神はそうした人々を送り、使徒としての役割を担わせるか、あるいは教会を復活させるか、教会に奉仕させる。しかし、こうした業を行う事が出来る人々は、何度も生まれ変わる信仰の無い人々ほど頻繁に生まれ変わらず、そうした人々は神の業の必要性と段階に従って地上へと戻り、頻繁に生まれ変わることは無い。それでは、選民の生まれ変わりの時期には、規則があるだろうか。神の選民は数年ごとに生まれ変わるか、神の選民は、そうした頻度で生まれ変わるか、というと、そうしたことは無い。それは何に基づくものであろうか。それは神の業や、業の段階、神の必要性に基づき、規則は無い。唯一の規則は何であろうか。神が終わりの日に業の最終段階を行う時、神の選民は、全員人間の世界に現れる。選民が全員現れたとき、それは選民が最後に生まれ変わるときである。それは何故であろうか。これは、神の業の最終段階において実現されるべき結果に基づく。この業の最終段階において、神はこうした選民達を、全員完全な存在とする。それは何を意味するであろうか。もし、その最終段階において選民が完全な存在にされるのであれば、選民は従前のように生まれ変わることは無い。人間として存在する過程と生まれ変わりは、完了する。このことは、留まる者に関連する。それでは、留まることの出来ない者は、どこへ行くのであろうか。留まることの出来ない者は、その者に適切な場所へ行く。まず、他の者と同様、こうした者も、自分の邪悪な行いや犯した過ちや罪の結果として罰を受ける。こうした者が罰せられた後、神はこうした者を信仰の無い人々の所へと送り、状況に応じて信仰の無い者や様々な宗教の信者と同じ所へと送る采配を行う。つまり、こうした者には2つの選択肢がある。その1つは、罰を受けた後、ある宗教の信者として生きること、もう1つは、信仰の無い者となることである。信仰の無い者となった場合、こうした者は全ての機会を失う。しかるに、たとえばキリスト教などの信者となった場合、こうした者には依然として神の選民に戻る機会がある。このことには、極めて複雑な関係がある。簡潔に言うと、神の選民が神に反する行為を行った場合、こうした者は他の者と同様に罰せられる。たとえば、先述したパウロは、罰を受けた者の例である。わたしが言っていることの意味が理解できるであろうか。神の選民の範囲は、一定であろうか。(ほぼ一定である。)ほぼ一定であるが、わずかに一定でない部分がある。それは何故であろうか。それは、選民が悪業を行ったからである。ここでは最も分かりやすい例として、悪業を行うことを挙げた。こうした選民が悪業を行うと、神はその選民を獲得したいと思わなくなり、そうなった時、神はその選民を様々な人々と一緒にし、その選民には望みが無くなり、選民にとって戻ることが困難となる。これは、神の選民の生死周期と関連することである。

次に、奉仕者の生死周期について話をする。奉仕者については話をしたが、奉仕者の起源は何であるだろうか。(信仰の無い者が起源であったり、動物が起源であったりする。)こうした奉仕者は信仰の無い者や動物から生まれ変わる。業の最終段階となると、神は信仰の無い者から奉仕者達を選択するが、その奉仕者達は特別な存在である。神が奉仕者を選ぶのは、奉仕者を神の業に従事させることを目的とする。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでも無いが、その対象となる者を検討する必要がある。神の奉仕者の存在には、特別な意味がある。奉仕者は神により選択された者であるので、その役割を果たせるものは他には居らず、そのことに奉仕者の存在の意味がある。それでは、奉仕者の役割は何であろうか。それは、神の選民に奉仕することである。奉仕者の役割は、主に神の業のために仕え、協調し、神の選民を完全な存在とする神の業に協力することである。奉仕者が働いているか、業を行っているか、任務を遂行しているかを問わず、神が奉仕者に対して要求するのは何であろうか。神の奉仕者に対する要求事項は多いであろうか。(神は奉仕者が忠実であることを要求される。)奉仕者もまた忠実である必要がある。あなたの起源や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは忠実である必要がある。あなたは、神や、神があなたに託した事柄、あなたが担当する業や行う任務に対して忠実である必要がある。奉仕者が忠実であり、神を満足させることが出来る場合、その奉仕者の終わりは、どのようなものとなるであろうか。こうした奉仕者は、留まることができる。留まる奉仕者たることは、祝福ではなかろうか。留まるということは、何を意味するであろうか。その祝福は何を意味するであろうか。奉仕者の地位は、神の選民と異なるように思われる。しかし、実際には、その生涯において奉仕者が享受するものは、神の選民と同じではなかろうか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じである。それについては異論が無いであろう。神の言葉、神の恵み、神に与えられたもの、神の祝福などを享受しない者は居るであろうか。全ての人々が、そうしたものの豊かさを享受する。奉仕者の身分は奉仕者であるが、神にとって、奉仕者は神が造った万物のひとつであり、単にその者の役割が奉仕者であるというだけである。あなたに尋ねるが、神に造られたものとして、奉仕者と神の選民との間に相違点はあるだろうか。事実上、そうした相違は無い。名目上、両者が果たす役割については相違があり、本質にも相違があるが、神は両者を差別しない。それでは、これらの人々が奉仕者に定められているのは何故だろうか。それを理解する必要がある。奉仕者は、信仰の無い者に由来する。信仰の無い者に関する話によれば、そうした者の従前は好ましくない事が分かる。奉仕者は全員かつて無神論者であり、神を信じず、神や真理、肯定的な物事に敵意を抱いていた。過去において奉仕者は神を信じず、神が存在することを信じていなかったが、それならば、奉仕者は神の言葉を理解できるだろうか。大まかに言えば、奉仕者は理解できないと言える。ちょうど動物が人間の言葉を理解できないように、奉仕者は神の言葉や神の要求、神がそうした要求をする理由などを理解できず、こうした事柄は奉仕者にとって理解不能であり、奉仕者はそうした物事を知らないままである。そのため、奉仕者はわたしたちの言ういのちを持っていない。いのち無くして、人間は真理を理解できるであろうか。奉仕者は真理を得ているであろうか。奉仕者には神の言葉の経験や認識があるであろうか。無論そのようなものは無い。これが奉仕者の由来である。しかし、神はこうした人々を奉仕者とするので、やはり神には奉仕者に対する必要条件の基準がある。神は奉仕者を無下にすることも、いい加減な姿勢を取ることも無い。奉仕者は神の言葉を理解できず、いのちも無いにもかかわらず、神は依然として奉仕者を親切に扱い、また奉仕者に対する神の必要条件の基準が存在する。そうした基準は、たった今話をした通り、神に対して忠実であること、神の言葉に従うことである。奉仕を行うにあたっては、必要に応じて行わなくてはならず、また、最後まで続けて行わなくてはならない。あなたが最後まで奉仕可能であり、忠実な奉仕者であり、最後まで続けて奉仕可能であり、かつ神により託された物事を完遂できる場合、あなたは価値のある人生を送り、留まることが出来るであろう。それに加えてもう少し努力し、神を知る取り組みを倍増させ、神に関する認識を多少話すことが可能で、神を証しすることが可能で、更には神の心に関して何かしら理解し、神の業に協力可能であり、神の心を多少心に留めることが可能である場合、その奉仕者の運命は変わるであろう。それでは、その運命の変化とは何であろうか。こうした奉仕者は、留まることができるのみでは無くなる。あなたの行動と個人的な熱意と追求に基づき、神はあなたを選民とするであろう。これが、その運命の変化である。奉仕者にとって、この変化による最大の利益は何であろうか。それは、神の選民となることが可能であることである。それでは、神の選民となることに、どのような意味があるであろうか。それは、信仰の無い者のように、動物として生まれ変わる必要が無くなる、ということである。これは良いことではないか。これは良い知らせである。つまり、奉仕者は鍛錬される。奉仕者は、神が奉仕するよう定められた場合に永遠に奉仕を続ける、ということは、必ずしも無い。個人の行動に基づき、神はあなたを異なる方法で扱い、対応する。

しかし、最後の時まで奉仕出来ない奉仕者も居る。途中で諦めて神を捨てる奉仕者、悪業を多数行う奉仕者、さらには神の業に対して甚大な害を与える奉仕者、神を呪う奉仕者さえも居る。そして、そうした取り返しのつかない悪影響の結果は、どのようなものとなるであろうか。こうした邪悪な行動の結果、その奉仕者の任務を解除される。つまり、奉仕中における行動が極めて悪く、度が過ぎた場合、あるいはあなたの奉仕が基準以下であることを神が知った場合、神はあなたの奉仕者としての資格を剥奪し、あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の前、神の家から消滅させる。あなたは奉仕したくないのではないのか。常に邪悪な行動をしたいと願っているのではないのか。常に不忠ではないのか。そうであれば、簡単な解決策が実施される。それは、あなたが奉仕する資格が、剥奪される、ということである。神にとって、奉仕者から奉仕する資格を剥奪することは、奉仕者の終わりの時が宣告されることを意味し、したがってこうした奉仕者は神に奉仕する資格が無くなり、神はそうした者の奉仕を必要としなくなり、こうした者がいかに美辞麗句を並べても無駄である。このような事態となった場合は、そうした状況から回復することは不可能となり、そうした奉仕者は元に戻ることが出来なくなる。それでは、神はこうした奉仕者をどのように扱うであろうか。神は単にこうした者の奉仕を停止するだけか、というと、そうではない。単にこうした者を留まらせないようにするだけか、あるいはこうした者を一箇所に移動させ、改善するのを待つか、というと、そのようなことは無い。実のところ、神は奉仕者に対し、そこまでの愛情をかけない。したがって、神に奉仕する際にそうした態度である場合、神は、その態度の結果として、その者が奉仕する資格を剥奪し、その者を再び信仰の無い者の所へと戻す。それでは、信仰の無い者の所に戻された奉仕者の運命は、どのようなものであろうか。その運命は信仰の無い者と同じであり、動物として生まれ変わり、霊的世界において信仰の無い者の罰を受ける。神はその罰に対し、個人的な関心を示さない。なぜなら、その者は神の業との関係が無くなったからである。それは、その者にとって神を信仰する生活の終焉となるのみならず、その者自身の運命の終焉であり、その者の運命の宣告であるので、奉仕者が劣悪な奉仕を行った場合、その者は自分自身でその報いを受ける必要がある。奉仕者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その者は信仰の無い者の所に戻される。信仰の無い者の所に戻された場合、その者は家畜や知性や理性の無い人々と同様に扱われる。このように説明すれば、あなたがたにも理解できるであろう。

これが、神の選民と奉仕者の生死の周期を神が取り扱う方法である。こうした話を聞いて、あなたがたはどう感じているであろうか。今話をした、神の選民と奉仕者に関する事項を、嘗てわたしが話したことはあっただろうか。実は、嘗て話をしたことがあるが、あなたがたは覚えていない。神は、神の選民と、奉仕者に対して義である。あらゆる面において、神は義であるが、それについては何も疑う余地が無い。おそらく、「それならば、神が選民に対して寛容であるのは何故か。また神が奉仕者に対し、少ししか寛容でないのは何故か。」と言う者が居るであろう。誰か奉仕者の肩を持ちたい者は居るだろうか。「神は奉仕者に対して追加で時間を与え、もう少し寛容であることが出来ないだろうか。」こうした発言は正しいであろうか。(誤っている。)何故それは誤っているのであろうか。(奉仕者とされたことだけでも、その厚意を示すものであるから。)実際には、その者が奉仕できることだけでも、その厚意を示すものであるからである。「奉仕者」という言葉も、奉仕者の働きも無かったとしたら、そうした奉仕者は、どこに居るはずであったであろうか。その場合、奉仕者は、信仰の無い者の所で、家畜同様に生き、死んでいたはずである。神の前、神の家に来ることが許されている奉仕者達は、何と大きな恵みを享受していることであろう。これは極めて大きな恵みである。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会は一切無かったであろう。少なくとも、あなたが仏教徒であって、永遠の命を得たとしても、せいぜい霊的世界の使い走りとなる程度であり、神に会うことも、神の声や言葉を聞くことは無く、また神の愛と祝福を感じることも、神と対面することも、まず出来ないであろう。仏教徒には、単純な使命があるのみである。仏教徒は神を知る事が出来ず、盲目的に服従するのみであるが、奉仕者はこの段階の業において多くの物事を得る。まず、奉仕者は、神と対面し、神の声や言葉を聞き、神が人間に与える恵みと祝福を体験することができる。さらに、奉仕者は神に与えた言葉や真理を享受することができる。奉仕者が得るものは、実に多い。したがって、もしあなたが奉仕者として正しい取り組みを行えなかったとしたら、神はあなたを奉仕者として留めるであろうか。神があなたに要求することは、極めて少ない。神はあなたを留めることが出来ない。あなたは神が求めている事柄を何も正しく行わず、自分の本分を尽くすことも無かったならば、神があなたを留めておくことが出来ないのは、当然である。これが神の義なる性質である。神があなたを甘やかすことは無いが、あなたを差別することも無い。神はこのような原則に従って行動する。神は、あらゆる人間や被造物に対して、このように行動する。

霊的世界については、様々な生き物が誤った行動を取った場合、あるいは任務を適切に遂行しなかった場合、神はそれに応じた天の命令と規則をもってそうした生き物に対処する。これは絶対的な事柄である。したがって、神の数千年にわたる経営の業の期間においては、過ちを犯した執行官の一部は排除され、一部は現在も拘留されて罰を受けている。これは、霊的世界において、生ける全てのものにとって不可避なことがらである。ある者が何かしらの過ちを犯したり、邪悪な行動を取った場合、その者は罰せられるが、これは神の選民や奉仕者に対する神の姿勢と全く同じである。したがって、それが霊的世界であるか、物質世界であるかを問わず、神が業を行う原則は変わらない。あなたが神の業を理解できるかどうかを問わず、その業の原則は変わることが無い。神の万物に対する姿勢と処遇には、一貫して同じ原則がある。これは変わることが無い。神は、信仰の無い者のうち、比較的真面目に生活している者に対しては親切であり、また様々な宗教の信者のうち、行いが正しく、悪業を行わない者から機会を奪われることは無く、こうした者は神が経営している全ての物事において役割を担うこと、なすべき事を行うことを許されている。同様にして、神に付き従う者、神の選民についても、神は差別すること無く、神の原則に従う。神は、心から神に従うことの出来る者全てに対して親切であり、またその者を愛する。ただし、信仰の無い者、様々な宗教の信者、そして神の選民といった様々な種類の人々について、神が与える物事は異なる。たとえば信仰の無い者については、こうした者は神を信じておらず、神はこうした者を家畜と考えているにもかかわらず、そうした者それぞれに食糧や住居、通常の生死周期などを与えている。邪悪な行いをする者は罰せられ、善い行いをするものは祝福されて神の親切を受ける、といった状況である。信仰のある者については、生まれ変わる度に、信仰上の教訓を遵守する事が出来る場合、神はそうした数回の生まれ変わりの後、最終的に神の宣言を与える。同様にして、この場に居る者各人についても、神の選民であるか、奉仕者であるかを問わず、神はその者に同じ指針を適用され、神が定めた規則と行政命令に従ってその終わりを決定する。様々な種類の人々のうち、各種宗教の信者の人々について見ると、神はそうした人々に生活環境を与えているであろうか。ユダヤ教はどこに存在するであろうか。神は嘗て、ユダヤ教を妨げたことがあっただろうか。そうしたことは一切ない。それでは、キリスト教はどうであろうか。神は少しも妨げたことは無い。神はこうした信徒の人々が独自の手続に従うことを許し、そうした信徒に言葉を述べたことも、導き示したこともなく、さらには何も明示したことも無く、「それが正しいと思うのであれば、そう信じなさい。」という姿勢でいる。カトリックの教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じている。それがカトリックの教徒の信条である。それでは、神は嘗て、カトリックの信仰を正したことがあっただろうか。神はこうした信徒に行動の自由を与え、こうした人々に全く留意することなく、こうした信徒に一定の生活空間を与えている。それでは、イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同様であろうか。神はそれぞれの信仰を阻害せず、そうした信徒にも領域を設け、その生活空間で生活することを許している。全て十分な秩序がある。それでは、これらのことから何が分かるであろうか。それは、神には権威があるが、神はその権威を濫用することが無い、ということである。神は万物の秩序を完璧に調整し、系統的であり、そこには神の知恵と全能性がある。

本日は新たに特別な事項、すなわち霊的世界に関する事項について話をしているが、それは神の霊的世界に対する管理と支配に関する一側面である。こうした事を理解していないと、「それに関する事柄は、全て神秘であり、私達がいのちに入ることとは無関係である。こうしたことは人間が実際にどのように生活するかとは切り離されており、理解する必要がなく、聞きたくない。こうしたことは神を知ることとは全く関連性が無い。」などと言うかもしれない。あなたがたは、こうした考え方に問題があると思うだろうか。これは正しいであろうか。こうした考え方は正しくない上、深刻な問題がある。それは、神が万物を支配する方法を理解したいと思うのであれば、単に目に見える物事と考えただけで得ることが可能な物事だけを理解するだけでは不十分だからである。それには目に見えないながらも、目に見える世界と不可分の関連性がある世界も理解する必要がある。このことは、神の統治と、本日話をしている事項「神は万物の生命の源である」にも関連し、それらに関する情報である。この情報が無ければ、神が万物の生命の源であるのは何故かに関する人々の認識には、誤りや不足がある。したがって、本日話をした事項は、従前話をした内容、また「神は万物の生命の源である」の内容を締めくくるものである、と言えるであろう。これを理解した上で、この内容により神を知ることが出来るであろうか。それよりも重要な事は何であろうか。本日、わたしは、奉仕者の秘密という、極めて重要な情報をあなたがたに伝えた。あなたがたはこうした事項の話を好み、真剣に考慮していることは知っているが、本日話をした事に満足しているであろうか。(満足した。) その他の物事に対して強い印象を受けないかも知れないが、特に奉仕者に関する話は、あなたがたの魂に触れるので、強く印象に残ったであろう。

2.神の人間に対する要求

1) 神自身の身分と地位

これで、「神は万物の生命の源である」と、「神は唯一の神自身である」という主題は終了する。この主題の終わりにあたり、まとめを行う必要がある。このまとめは、何に関するものであろうか。神自身についてである。この主題は神自身に関するものであるので、まとめは神のあらゆる側面と、人間の神に対する信仰の形態に関連するものである必要がある。そこで、まずあなたがたに質問する。ここまでの話を聞いて、あなたがたの心の目に見える神は、誰であろうか。(創造主である。)心の目に見える神は創造主である。それ以外に回答はあるだろうか。神は万物の主である。万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。神は万物の中で生き、動いている。神は万物のうち最も高い場所へと昇ることができる。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人間と対面して苦楽を共にすることも可能である。それと同時に、神は万物に命じ、万物の運命や方向性を決定する。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導く。このような神は、あらゆる生き物が崇め、付き従い、知るべき存在である。したがって、どの種類の人間に属するかを問わず、神を信じ、付き従い、敬うこと、またあなたの運命に対する神の支配と神の采配を受け容れることのみが、あらゆる人間や生き物にとって、必然の選択肢である。神の唯一性により、人間は神の権威、神の義なる性質、神の本質を理解し、そして神が万物に施す方法が全て独自のものであることを理解する。また神の唯一性により、神自身の真の身分と神の地位が決定される。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊的世界や人間の世界に存在する生き物が神の代わりとなろうとした場合、それは不可能であり、また神になりすますことも不可能である。これは事実である。神自身の身分、力そして地位を持つこのような創造主であり支配者が人間に要求することは何であろうか。このことは、今ここに居るあなたがた全員がはっきりと理解し、覚えておくべき事であり、神と人間の両方にとって極めて重要なことである。

2) 神に対する人間の様々な姿勢

人間の神に対する姿勢により、その人間の運命が決まり、その人間に対する神の姿勢と対処方法が決まる。ここで、人間の神に対する姿勢の例を数件挙げる。人間の神に対する様々な行儀と姿勢が正しいかどうかについて話をする。次に挙げる7種類の人間の行動について検討する。

A: 神に対する姿勢がことさらに不条理なタイプの人々が居る。こうした人間は、神が菩薩あるいは伝説に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食事の後に香を焚かねばならないと考えている。したがって、こうした人間は、心中で神に感謝し、神の恵みに対する感謝の気持ちを頻繁に抱く場合、次のような衝動を感じる。こうした人々は、現在自分達が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、神と会うときに3回礼をし、食後に香を焚くという神に対する自分達の行動を受け容れることが出来ることを願っている。

B: 神のことを生きている仏陀であり、あらゆる生き物の辛苦を解消して救うことが出来ると考えている人々が居る。こうした人々は、神を生きている仏陀であり、自分達を様々な困難から救うことが出来ると考えている。こうした人々の神に対する信仰は、神を仏陀として信仰することである。こうした人々は、香を焚くことは無く、叩頭せず、捧げ物もしないが、心の中では、自分達が信じる神は仏陀のような存在であり、自分達が親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、誠実と思われる人生を送り、悪業を避けることができることだけを求める。これが、こうした人々の心の中の神である。

C: 神を偉人や有名人として崇拝する人々が居る。たとえば、こうした人々は、この偉人の話しかたの嗜好、すなわちこの偉人の発音や言い回し、語彙、語調、身振り、意見、行動、態度などを、全て模倣し、それがこうした人々の神に対する信仰の中で完全に実現させるべきこととなっている。

D: 神を君主と考えている人々が居る。こうした人々は神が誰よりも高位にあり、敢えて神に逆らおうとするものは居ないが、逆らった場合、自分達は刑を科されると感じている。こうした人々は、その君主を崇拝するが、それは自分達の心の一部にその君主が留まっているからである。君主の考え、作法、権威、性質、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分達が理解すべき事柄となり、考慮すべき問題となるので、こうした人々は神を君主として崇拝している。このような形態の信仰は滑稽である。

E: 神の存在について、高尚かつ確固とした特定の信仰がある人々がいる。こうした人々の神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、こうした人々は神を偶像として崇拝する。こうした人々の心の中では、この偶像が神であり、自分達が畏れ、服従し、付き従い、模倣すべきものである。こうした人々は、神は偶像であり、生涯を通して付き従う必要のあるものと考えている。こうした人々は神の口調を模倣し、神が好む人々の外観を模倣する。こうした人々は、純粋無垢で正直と考えられる行為を頻繁に行い、決して離れることの出来ない仲間のように、この偶像に付き従う。これがこの種の人々の信仰形態である。

F: 神の言葉や説教を大量に聞いたにもかかわらず、神に対してこびへつらう、あるいは神を非現実的に讃美する必要がある、ということを原則とする姿勢の人々が居る。こうした人々は、神が自分達にこうした態度を要求していると考え、またそれを怠ると、神の怒りを買う可能性がある、それを怠ることが神に対する罪であり、罪の報いとして神が自分達を罰すると考えている。これが、こうした人々の心の中の神である。

G: 神が精神的な支えであると考えている人々が居るが、こうした人々は大部分を占めている。こうした人々は、この世で生活しているので、平和や幸福が欠如しており、慰めを見出すことが出来ない。こうした人々は、神の言葉を聞いて理解し、神を見出した後、心の中で密かな幸福を感じ、快活になる。それは何故であろうか。こうした人々は、幸福が与える場所、そして精神的な支えを与える神を、遂に見出したと考えている。それは、神を受け容れ、神に付き従い始めた後、幸福になり、生活が満たされ、あたかも動物のように人生を夢遊病の中で彷徨う信仰の無い者のような状態では無くなり、将来の人生に期待があると感じるからである。このように、そうした人々は神が自分の精神的な必要性を満たし、精神と魂の両方に大いなる幸福をもたらすことができると考えている。こうした人々は、無意識のうちに、この精神的な支えを与え、精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れることが出来なくなる。こうした人々は、神への信仰から、精神的な支えをもたらすこと以外に何も求めることは無い。

こうした神に対する様々な姿勢があなたがたの中に存在するであろうか。(存在する。) こうした人々の信仰において、誰かの心にこうした姿勢のいずれかがある場合、こうした人々は真に神の前に来ることができるであろうか。心の中にこうした姿勢がある者は、神を信仰しているであろうか。こうした人々は唯一の神自身を信仰しているであろうか。唯一の神自身を信仰していないのであれば、あなたは何を信仰しているのであろうか。あなたが信仰しているのが唯一の神自身ではないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中で仏陀を崇拝している可能性がある。さらに、あなたは普通の人間を信仰している可能性もある。要するに、人々の様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人々は心の中で自分自身が認識する神を心に据え、神に自分の想像を強要し、自分の神に対する姿勢と想像を、唯一の神自身と同じ位置づけとして信奉している。神に対してこうした不適切な姿勢をとるということは、何を意味するであろうか。それは、真の神自身を否定し、偽の神を信仰していること、そして神を信じると同時に神を否定し、神に反抗していること、さらに真の神の存在を否定していることを意味する。もし人々がこうした信仰を続けたとしたら、こうした人々にはどのような結末が待ち受けているであろうか。こうした人々は、このような形態の信仰によって神の要求を少しでも満たすことが出来るだろうか。それとは反対に、そうした人々は概念や想像が原因となって、神の道から遠ざかってゆくだけであろう。なぜなら、そうした人々の方向性は神が求める方向性とは正反対のものだからである。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがあるだろうか。こうした人々は、まさに志と行動が相反する「南轅北轍」であると言える。こうした滑稽な方法で神を信仰した場合、信仰をすればするほど神から遠ざかってゆくであろう。そこで、あなたがたに忠告する。信仰を開始する前に、あなたの方向性が正しいかどうかを判断する必要がある。狙いを定めて努力し、必ず「自分が信仰している神は、万物の支配者であろうか。私が信仰している神は、単に精神的な支えを与えるのみの存在ではないだろうか。私が信仰している神は偶像ではないだろうか。私が信仰している神は、私に何を求めているだろうか。神は、私の行動すべてを認めているだろうか。私の行動と追求は、全て神を知ることを追求するものであろうか。私の行動は、神の私に対する要求に則しているだろうか。私が進んでいる道は、神により認識され認められているものだろうか。神は私の信仰に満足しているだろうか。」と自分自身に問い質すように。あなたは、常に、そして何度も、自分自身に対してこうした質問を問い質す必要がある。神に関する認識を追求することを望むのであれば、神に満足してもらうため、明確な意識と目標を持つ必要がある。

神が寛容であるため、先に述べたようなこれらの不適切な姿勢を神がしぶしぶ受け容れることは、あり得るであろうか。神がこのような人々の姿勢を称賛することがあり得るだろうか。人間そして神に付き従う人々に対する神の要求は何であろうか。神が人間に対して求める姿勢について、あなたがたは明瞭に理解しているであろうか。本日は、神自身や神の業、神が持っているものや神が何であるか、多くの事柄を話した。これで、あなたがたは神が人間から何を得る事を望んでいるかを認識したであろうか。神があなたに対して求めている事柄を知っているであろうか。意見を述べて欲しい。あなたがたの経験や実践から得た認識が無い場合や表面的である場合は、それらの言葉に関するあなたがたの認識を述べてもよい。あなたがたは、その概要を認識しているであろうか。神は人間に何を要求しているであろうか。(忠誠と服従を要求されている。)忠誠と服従以外に、何を要求しているであろうか。その他の兄弟姉妹の意見も聞こう。(これまで数回の話のなかで、神は、神、神の業、神が万物の生命の源であることを要求し、神の身分と地位、そして神の創造物としての人間の本分を人間が知ることを要求されている点を説明された。神は人間が全ての努力を何に捧げるべきか、神が人間に要求されている物事、神が好まれる人間、神が嫌悪される人間について明確にされた。)神が人間に対し、神を知る事を望んでいる場合、それは最終的にどのような結果となるであろうか。(人間は、神が創造主であり、人間は造られたものであることを知る。)人間がそうした認識を得た時、人間の神に対する態度、行動、実践方法、いのちの性質は、どのように変化するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。人間は、神を知り、理解した後に善良な人間になる、と言えるであろうか。(神の信仰は善良な人間となることを追求するものではない。)それでは、こうした人々は、どのような人間であるべきであろうか。(こうした人々は、条件を満たした、神の被造物であるべきである。)(こうした人々は誠実で無ければならない。)それ以外に回答はあるだろうか。(神の采配に服従し、神を真に信仰し、愛することが出来る人間になるべきである。)(良心と分別を持ち、真に神に従うことが出来る必要がある。)その他の回答はあるだろうか。(真に正しく神を知ると、人間は神を神として振る舞うことができるようになり、その後永遠に神が神であること、人間が被造物であり、人間は神を崇拝すべきであることを知り、その身分を堅持するようになる。)素晴らしい。その他の者の意見を聞こう。(神との交わりにより、人間は万物を支配する神の権威を知り、神が万物の支配者であられることを確認することが可能となり、それによって日々神が人間のために用意された環境に従い、神が人間に与えられた使命に真に従うことが可能となる。)(人間は神を知っており、したがって最終的には真に神に従い、敬い、邪悪を避ける人間となることができる。)それは正しい。

3) 神が人間に対して要求する、人間の神に対して取るべき姿勢

実際、神が人間に対して求めていることは、それほど多くは無く、少なくとも、神は人間が想像するよりも多くの物事を要求しては居ない。神の言葉すなわち神の性質、業、言葉の表出が全く無かったとしたら、人間が神を知る事は極めて困難となるであろう。なぜなら、人間は神の真意や心を推測しなければならず、それは人間にとって困難だからである。しかし、神の業の最終段階に関して、神は数多くの言葉を語り、多くの業を行い、人間に対する要求を多数行っている。神の言葉と数多くの業において、神は、神が好む事柄、嫌悪する事柄、人間がどうあるべきかを人間に対して知らせている。こうした物事を理解した後、人間は心の中で、神の求める事柄に関する正確な定義を知ることが出来るはずである。なぜなら、人間は曖昧さや抽象性の中では神を信じず、曖昧な神を信じず、曖昧さや、抽象性、虚無のなかで神に付き従わないからである。むしろ、人間は神の言葉を聞き、神の要求する基準を理解し、それを達成し、神は人間の言葉を用いて人間が知り、理解すべきことを人間に伝える。現在において、人間に対する神の要求や、神が何であるか、何故人間が神を信仰するのか、人間が神をどのように信じ、神に対してどのような姿勢を取るべきかを人間が認識していない場合、それは問題となるであろう。たった今、あなたがたは皆、ひとつの領域に関して述べた。具体的であるか、一般的であるかを問わず、あなたがたはある程度何かを認識している。だがわたしは神の人間に対する、正確で、完全で、具体的な必要条件について話をしたい。それは、数語で述べることが可能な、分かりやすいものである。あなたがたは、そうした言葉を既に知っているかも知れない。人間そして神に付き従う者に対して神が要求する正確な条件を、次に述べる。神に付き従う者に対し、神は真の信仰、忠実な追随、完全な服従、真の認識、そして心からの崇敬という5つの事柄を要求する。

この5つの事柄において、神は人間に対して、神を疑わないこと、想像や、曖昧で抽象的な観点により神に付き従わないこと、想像や概念により神に付き従わないことを求めている。神は、神に付き従う者全員に対し、忠実に付き従い、気持ち半分あるいは曖昧な姿勢で神に付き従わないことを要求している。神があなたに必要条件を提示する場合、あるいはあなたを試し、裁き、取り扱い、刈り込み、あるいは鍛錬し、打つ場合、あなたは神に対して完全に服従する必要がある。あなたは、その原因を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや根拠を述べたりしてはならない。あなたの服従は、完全なものでなければならない。人間に最も足りない領域は、神を知ることである。人間は、神とは無関係な諺、発話や言葉が神に関する認識に関する最も正確な定義であると考え、神に対して、そうしたものを強要することが往々にしてある。こうした人間の想像や人間の勝手な理由付け、人間の知性に由来する諺には、神の本質に全く無関係であるということについて、人間は殆ど知らない。したがって、神が求めている人間の認識において、神は、神とその言葉を認めることを求めているだけでなく、神に関する人間の認識が正確であることを求めている。それは、たとえ人間がひと言だけしか述べられない場合や、ほんの少ししか知らない場合であっても、その僅かな認識が正確であり、真実であり、神自身の本質と一致するものである、ということである。なぜなら、神は、人間の見当違いで無分別な讃美を嫌悪するからである。さらに、神は人間が神のことを空気のように扱うことを忌み嫌う。神に関する事柄を話す時、人間が軽率な発言をしたり、何の躊躇も無く思いのままに適当な発言をしたりするのを、神は忌み嫌う。また、神を知っていると思い込み、その認識をうそぶき、何ら気兼ねすることなくみだりに神に関する事柄を語る者を、神は忌み嫌う。最後となる5つめの必要条件は、心からの崇敬である。これは、神に付き従う者全員に対する最終的な必要条件である。ある者に、神に関する正確な真の認識がある場合、その者は真に神を敬い、悪を避けることができる。この崇敬は、その者の心の底から生まれるものであり、神がその者に強要したからではなく、自発的なものである。神は人間に対し、好感の持てる態度や行動などの表面的な贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇敬し、畏れることを求める。この崇敬は、人間のいのちの性質が変化することで実現される。なぜなら、その人間は神の認識を得ており、神の業を理解しており、神の本質を理解しており、自分が神の被造物であるという事実を認識しているからである。そうしたわけで、わたしが「心からの」という言葉を用いて崇敬を定義づける目的は、神に対する人間の崇敬は人間の心の底から生まれたものである必要があることを、人間が理解できるようにすることである。

それでは、この5つの必要条件について検討する。あなたがたのうちに、そのうち1番目から3番目までを達成できる者は居るであろうか。1番目から3番目とは、真の信仰、忠実な追随、完全な服従である。あなたがたのうちに、これらの事柄が出来る者は居るであろうか。5つすべてと言うと、あなたがたのうちには誰も居ないことは確実だが、3つに減らした。自分がその3つを実現しているかどうかを検討して欲しい。「真の信仰」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) それは容易ではない。なぜなら、人間は神に対して頻繁に疑念を抱くからである。「忠実な追随」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) ここで「忠実」とは何をさすであろうか。(半信半疑ではなく、一心に、ということである。)その通り。半信半疑ではなく、一心に、ということである。まさにその通りである。それでは、あなたがたはその必要条件を満たすことが出来るであろうか。あなたがたは、もっと努力する必要がある。目下あなたがたはこの条件を満たしていない。「完全な服従」についてはどうであろうか。あなたがたはこの条件に達しているであろうか。(未達である。)あなたがたはこの条件も満たしていない。あなたがたは何度も不従順で反抗することがあり、聞こうとしないこと、従おうとしないこと、聞きたいと思わないことが多々ある。これら3つの条件は、人間がいのちに入った後に達成する最も基本的な必要条件であるが、あなたがたはこれらの条件を満たしていない。それでは、現在あなたがたには高い潜在性があるだろうか。あなたがたは、本日わたしの言葉を聞いて不安を感じるであろうか。(感じる。)確かにあなたがたは不安を感じている。わたしはあなたがたが不安であると感じる。残り2つの条件は説明しない。なぜなら、それらを達成出来る者は居ないことが確実だからである。あなたがたは不安である。それでは、あなたがたは自分の目標を既に決めているであろうか。あなたがたが追求し、努力すべき目標と方向性は何であろうか。あなたがたには目標があるだろうか。(ある。)あなたがたの目標は何であろうか。答えて欲しい。(真理を追求し、神の言葉にある神の認識を追求し、最終的に神に対する崇敬と服従を達成することである。)分かりやすく言い換えると、あなたがたがこの5つの必要条件を全て満たした場合、あなたがたは神を満足させたのである。この5つは、いずれも人間が十分に成熟していのちに入ること、そしてこの最終目標を示す指標である。これらの必要条件から1つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに要求したとしても、それを達成するのは容易ではないであろう。人間はある程度の困難に耐え、ある程度の努力をする必要がある。それでは、あなたがたはどのような心構えであるべきであろうか。それは、手術を待つがん患者と同様の心構えである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなたが神を信仰すること、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の困難に耐え、ある程度の努力をすること無くして、それらを得ることは出来ない。あなたがたは多くの説教を聞いてきたが、それを聞くことは、その説教を身に付けたことを意味するものでは無い。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させ、それを消化して自分のいのちとし、自分自身の存在とし、こうした説教の言葉を自分の人生の指針とし、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものとしなければならず、そうした後に、この説教が聞くだけの価値があるものとなる。わたしの話により、あなたの人生に何も向上されたことが無く、あなたの存在にとって無価値であったとしたら、あなたにとって、わたしの話は聞く価値が無い。これについては理解したであろう。そのことを理解した上で、それ以外の事柄については自分次第である。あなたがたは努力する必要がある。あなたがたは、あらゆる事に真剣である必要がある。時が経つのは早いので、混乱を避ける必要がある。あなたがたのうち大部分の者が、10年以上にわたり信仰を続けている。10年以上の信仰を振り返って、あなたがたが得たものは、どの程度であろうか。しかるに、あなたがたの人生は、あと何十年残されているであろうか。それほど多くの時間は残されていない。神は、業においてあなたを待っている、あなたのために機会を残しておく、などと言ってはならない。神が戻って来て同じ業を繰り返すことは、絶対に無い。あなたは、現在から10年前へと戻ることが出来るだろうか。1日経過し、時間が進んでゆくごとに、あなたに残された時間は1日ずつ減ってゆくであろう。歳月人を待たず、である。神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。時間がある時だけ信仰し、自分の意識をすべて捧げることができず、常におざなりで混乱していたとしたら、あなたが得るものは無いであろう。これについては理解したであろう。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。(神に感謝します。)

2014年2月15日

脚注:

a. 原文では「こうした者が人間になる」が省略されている。

b. 原文では「そうした人々が生まれ変わるのは~年後」が省略されている。