唯一無二の神自身 X.

神は万物のいのちの源である(4)

今日は特別な事項について話し合います。信者一人ひとりが知り、経験し、理解すべきおもな事項は二つしかありません。その二つとは何ですか。一つは個人のいのちへの入りであり、もう一つは神を知ることに関するものです。神を知るという主題についてわたしたちが最近話し合ってきた事項に関し、それは達成可能だと思いますか。それは大部分の人々にとって、まさに手の届かない領域にあると言えるでしょう。あなたがたはわたしの言葉に納得しないかもしれませんが、わたしがこう述べるのはなぜですか。その理由は、わたしが以前に述べた事柄をあなたがたが聞いたとき、わたしがどのように述べたか、どのような言葉を用いたかにかかわらず、それらの言葉が何を語っているのか、あなたがたは文字どおりの意味においても、理論的にも知ることができたからです。しかし、あなたがた全員にとって、わたしがそのような事柄を述べた理由、そうした主題について話した理由を理解していなかった、というのは深刻な問題です。これがこの件の要点です。したがって、これらの事柄を聞くことにより、神や神の業に関する認識がわずかに増し、豊富になったにもかかわらず、あなたがたは依然として、神を知るには大きな努力が必要だと感じるのです。つまり、あなたがたの大半はわたしの話を聞いても、わたしがその話をした理由も、その話と神を知ることとのつながりも理解していないのです。その話と、神を知ることとのつながりを理解できないのは、あなたがたのいのちの経験があまりに表面的だからです。神の言葉に関する人々の認識と経験がごく浅い段階に留まっていれば、神に関する人間の認識は漠然として抽象的なものになります。どれも一般的で、教義上、および理論上のものになるのです。理論上は論理的かつ合理的なもののように見えたり聞こえたりするかもしれませんが、大部分の人々が口にする神についての認識は、実際には空虚なものです。では、わたしがそれを空虚なものと言う理由は何ですか。それは、神を知ることに関する自分の言葉の真実性と正確さを、自分でもはっきり理解していないからです。そうしたわけで、神について知ることに関する情報や話題を、大半の人々が聞いたことがあるにもかかわらず、こうした人々の神に関する認識は理論の域を超えておらず、また漠然として抽象的な教義の域をも超えていません。それでは、この問題はどうすれば解決できますか。あなたがたはそのことを考えたことがありますか。真理を追求せずして、現実を自分のものにできますか。真理を追求しなければ、その人は間違いなく現実を自分のものにしておらず、それゆえ神の言葉に関する認識や経験が絶対にありません。神の言葉に関する認識をもたない人は、神を知ることができますか。絶対にそのようなことはありません。その二つは相互に関連し合っているのです。したがって、大部分の人々はこう言います。「神を知ることがこれほど難しいのはなぜなのか。自分を知ることについては何時間でも話せるが、神を知ることになると言葉につまってしまう。この件について何か言えたとしても、それは無理やり口にした言葉で、単調なものに聞こえる。自分で聞いても不自然に思われるほどだ」。これが原因です。神を知るのは難しすぎる、たくさんの努力が必要だ、自分には取り上げるべき話題もなく、他人や自分に伝えたり教えたりする現実的な物事が何ひとつ思い浮かばない、などと感じるなら、そのことは、あなたが神の言葉を体験したことがない人であることを証明しています。神の言葉とは何ですか。神の言葉は、神が所有するものと神そのものをあらわすものではないですか。神の言葉を経験したことがないのに、神が所有するものと神そのものについて何らかの認識を得られますか。間違いなくできません。これらの事柄はすべて相互に関連しています。神の言葉に関する経験がなければ、神の旨を把握することはできず、神の性質はどのようなものか、神が好む物事や嫌悪する物事は何か、人々に対する神の要求は何か、善人に対する神の姿勢、悪人に対する神の姿勢はどのようなものかを知ることもありません。そのすべてがあなたにとって漠然としていて、はっきりしないことは間違いありません。そのようにはっきりしない中で神を信じれば、自分は真理を追い求めて神に従う人だと言い張ったところで、そうした主張は現実的でしょうか。現実的ではありません。それを踏まえて、神を知ることについて交わりを続けましょう。

みなさんは、本日交わる事項を聞きたくてたまらないでしょう。本日の話題は、最近話し合った「神は万物のいのちの源である」という主題にも関連しています。「神は万物のいのちの源である」という主題についてはこれまでたくさん話し合いました。その中で、神が造ったこの地球上に、万物が存在できるようにするため、神はあらゆるものをどのように支配しているのか、どのような手段を用いてそうしているのか、どのような原則にしたがって万物を管理しているかについて、様々な方法や観点を用いて伝えました。また、神が人間に施す方法、つまり、神はいかなる手段でそのような施しを与えるか、人間にどのような生活環境を施すか、そして人間に安定した生活環境を与えるうえでどのような手段を用いるか、どこから始めるか、といったことについても多くの事柄を話しました。神による万物の支配および統治と、神による経営(救い)との関係については直接話をせず、神がこのような方法で万物を統治する理由、そして神がこのような方法で人類に施し、人類を養う理由について、間接的に話をしました。これらはすべて神の経営に関係しています。巨視的な環境から、人々の基本的な必需品や食糧など、それよりずっと小さな事柄に至るまで、また神が万物を支配して整然と機能させることから、各人種のために神が造った適正かつ正常な生活環境に至るまで、いままで話してきた内容は極めて広範囲にわたっていました。この広範な内容はどれも、人間が肉体としてどのように生きるかに関連しています。つまりそのすべてが、山、川、海、平原など、人間が目で見て感じることができる、物質世界の物事に関連しているのです。これらはどれも見て触れることができるものです。わたしが空気や気温について話をすると、あなたがたは呼吸によって空気の存在を直接感じ、また身体によって気温の高低を感じることができます。森の中の木々や草、鳥や獣、および空を飛ぶものや地を歩むもの、巣穴から出てくる様々な小動物は、どれも人間の目で見えるもの、人間の耳で聞こえるものです。こうしたものは極めて広範囲にわたっていますが、神が造った万物の中で、それらは物質世界だけをあらわしています。物体とは人間が見たり感じたりすることができるものです。つまり、手で触れたときにそれを感じ、目で見たときに脳があなたに画像を示すものです。それらは実在する現実のものであり、あなたにとって抽象的なものでなく、形があるものです。角ばっていたり丸かったり、背が高かったり低かったりするなど、一つひとつがあなたに異なる印象を与えます。これらの物体はどれも、被造物の物質面を代表しています。それでは神にとって、「神による万物の統治」という言葉の「万物」には、何が含まれていますか。この「万物」には、人間が見て触れることのできるものだけでなく、目に見えず、触れることもできないすべてのものも含まれます。これが、神による万物の統治がもつ真の意味のひとつです。このような物事は、人間には見ることも触れることもできませんが、神にとっては、自らの目で観察することができ、かつ自らの統治の範囲内にある限り、それらは実在しています。人間にとって、それらの物事は抽象的であり、想像不可能であり、さらには目に見えず触れることもできないという事実にもかかわらず、神にとってそれらは実在するのです。これが、神が支配する万物のもうひとつの世界であり、神が支配する万物の範囲の、もうひとつの部分なのです。これが本日交わる事項です。つまり、神が霊界をどのように支配し、統治するかについて話をします。この事項には、神がどのように万物を支配、統治するかが含まれているので、物質世界の外にある世界、すなわち霊界に関連しています。したがって、わたしたちは絶対に理解しなければいけません。この内容について交わり、それを理解して初めて、「神は万物のいのちの源である」という言葉の真の意味を、人は本当に理解できるようになります。それが、この事項についてこれから話し合う理由です。その狙いは、「神は万物を支配し、管理する」という主題を完結させることです。この事項を聞いて、聞き慣れない、あるいは理解しがたいと感じるかもしれません。しかし、あなたがたがどう感じるかにかかわらず、霊界が神によって支配される万物の一部である以上、あなたがたはこの事項について何らかの理解を得なければなりません。いったんこの事項を理解して初めて、「神は万物のいのちの源である」という言葉の意味をさらに深く理解し、認識することができるでしょう。

神が霊界を支配、統治する方法

物質世界では、ある種の物事や現象を理解できなければ、人はそのたびに関連する情報を探したり、様々な方法を使ってそれらの原因や背景を調べたりすることができます。しかし、本日話をするそれ以外の世界、すなわち物質世界の外に存在する霊界について言えば、人間にはそれについて何かを知る手段も方法も絶対にありません。わたしがこう述べるのはなぜですか。わたしがそのように言うのは、人間世界では物質世界のあらゆる物事が人間の物理的存在と切り離せないから、人々は物質世界のあらゆる物事が自分の物理的ないのちと不可分だと感じているから、そして大半の人間は眼前にあって見ることができる物体しか意識していない、あるいは見ていないからです。しかし霊界、すなわちその他の世界のあらゆるものに関しては、大部分の人々が信じないと言っていいでしょう。人にはそれが見えず、それを理解したり知ったりする必要がないと信じ、ましてや霊界が物質世界とまったく違うことについては何ひとつ述べる必要がないと信じているので、そして霊界は神の目から見れば開かれているが、人間に対しては秘密で閉ざされていると信じているので、その世界の様々な側面を理解するにあたり、その方法を見つけるのはとても困難です。これからお話しする霊界の様々な側面は、神の管理と統治だけに関係するものです。わたしは謎を解明するつもりも、あなたがたが知りたい秘密を教えるつもりもありません。それは神による統治、支配、施しだけに関係するものだからであり、したがってあなたがたが知る必要のある部分だけを話すことにします。

まず、あなたがたに質問します。あなたがたの心の中で、霊界とは何ですか。一般的に言うと、霊界とは物質世界の外側の世界であり、人間にとって見ることも触れることもできない世界です。しかし、あなたがたの想像の中で、霊界とはどのような世界でしょうか。霊界は見ることができないので、おそらくそれについて考えることはできないでしょう。しかし、何らかの伝説を聞くと、霊界について依然考え、それを止めることはできません。わたしがこう述べるのはなぜですか。多くの人が幼いころに経験することがあります。誰かが幽霊や亡霊にまつわる怪談をすると、それを死ぬほど怖がるというものです。怖がるのはいったいなぜですか。それは、そうしたことを想像するからです。幽霊や亡霊を見ることはできなくても、自分の部屋、隠れた場所、暗い隅っこなどの至る所にそれらが存在するように感じるので、恐怖のあまり寝ようともしないのです。特に夜中は、恐ろしくて一人で部屋にいたり、庭に出たりすることもできません。それがあなたがたの想像する霊界であり、人間が恐ろしいと考える世界です。事実を言うと、誰もがそれをある程度まで想像し、わずかに感じることができるのです。

それでは、霊界について話を始めましょう。それは何ですか。簡潔に説明すると、霊界とは、物質世界と異なる重要な場所です。それが重要だと言う理由は何ですか。それをこれから詳しく話し合います。霊界の存在は、人類の物質世界と切り離すことができないつながりをもっています。それは神による万物の統治のうち、人間の生死の周期において重要な役割を担っていますが、そのことが、霊界の存在が重要である理由のひとつなのです。霊界は五感で認知することができない領域なので、それが存在するかどうかを正確に判断できる人はいません。その様々な運動状態は人間の生存と密接に関連し、そのため人類の生活の秩序もまた霊界から大きな影響を受けます。これは神による統治に関連していますか。そう、関連しています。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由がわかるでしょう。霊界は神による統治と管理に関連している、というのがその理由です。人間が見ることのできないこのような世界において、天の命令や法令、行政組織はどれも、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりもはるかに優れており、この世に生きるもののうち、それらに背いたり、反したりしようとする人は一切いないでしょう。これは神による統治と管理に関連していますか。霊界には、明確な行政命令、明確な天の命令、そして明確な法令があります。様々な段階、様々な領域において、担当官は厳密にその任務と規則を遵守します。なぜなら、天の命令に背いたときの報いが何かを知り、神がどのように悪を罰して善に報いるか、神がどのように万物を管理、支配するかを明確に認識しているからです。さらに、神がどのようにして天の命令と法令を実施するかをはっきり理解しています。これらのことは、人類が住む物質世界と異なりますか。そう、大いに異なります。霊界は物質世界とまったく異なる世界なのです。天の命令と法令があるため、それは神による統治と管理、そして神の性質、および神が所有するものと神そのものに関連しています。この話を聞いて、わたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じませんか。それにまつわる秘密を知りたいとは思いませんか。(思います。)いま述べたのが霊界の概念です。霊界は物質世界と共存し、同時に神による管理と統治の対象となっていますが、神による霊界の管理と統治は、物質世界におけるそれよりはるかに厳格なものです。詳細については、まず霊界が人類の生死の周期の働きにどう関与しているかという問題から始めなければなりません。と言うのも、それが、霊界に存在するものが担う働きの主要な部分だからです。

ここですべての人間を三つの種類に分類します。最初の種類は未信者で、宗教的な信仰をもたない人のことです。このような人を未信者と呼びます。未信者の圧倒的大部分は金銭だけを信じ、自分自身の利益だけを追求し、物質主義者であり、物質世界だけを信じています。生死の周期、あるいは神性や幽霊に関する話は何も信じません。これらの人たちを未信者と分類し、それを第一の種類とします。第二の種類は未信者以外の様々な信者の人たちです。人類のうち、こうした信者は数種類に大別されます。一番目はユダヤ教、二番目はカトリック、三番目はキリスト教、四番目はイスラム教、そして五番目は仏教というように、五つの種類があります。様々な信者がいるのです。第三の種類には神を信仰する人々が含まれ、あなたがたもここに入ります。この種の信者は現在神に付き従っている人々で、神の選民と効力者の二種類に分かれます。これらのおもな種類は明確に区別されています。これで、人間の種類と階層を心の中で明確に区別できるようになりました。違いますか。第一の種類は未信者から成っており、それがどのような人かはすでに述べました。天の父を信じる人は未信者に数えられますか。多くの未信者は天の父を信じるだけで、風雨や雷などはすべてこの存在によって支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際に頼るものの、神への信仰の話になると神を信じるのを嫌がります。これを信仰と呼べるでしょうか。こうした人々は未信者に含まれます。わかりましたね。これらの種類を誤解してはいけません。第二の種類は信者の人々で、第三の種類は神に現在付き従っている人々です。では、わたしがすべての人間をこれらの種類に分けたのはなぜですか。(様々な種類の人たちには、それぞれ異なる結末と終着点があるからです。)それは側面のひとつです。これら異なる人種や種類の人々が霊界へと戻るとき、彼らはそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する様々な法則の対象になります。ゆえに、わたしが人間をこれら三つの主要な種類に分けたのは、それが理由です。

1) 未信者の生死の周期

まずは未信者の生死の周期から話を始めましょう。人は死ぬと、霊界の担当官に連れ去られます。では、その人のいったい何が連れ去られますか。連れ去られるのは肉体ではなく魂です。魂が連れ去られた人は、死後間もない人の魂を専門に受け付ける霊界の部局に辿り着きます。(これは死者が死後最初に行く場所であり、その魂にとって未知の場所です)。魂がこの場所に連れて来られると、係員が最初の検査を行い、名前、住所、年齢、そしてすべての経歴を確認します。その人が生前行った物事は残らず帳簿に記録され、それが正確であることが確認されます。それらの確認が完了すると、その人の生前の振る舞いや行動により、懲罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断されます。これが第一段階です。この第一段階は恐ろしいですか。それほど恐ろしいものではありません。なぜなら、その人が暗く馴染みのない場所に到着するだけだからです。

第二段階では、生前多くの悪事を行い、邪悪な所行をなした人は、刑場へと連れられて取り扱いを受けます。それは明らかに、人々を懲罰する場所です。人間が具体的にどう懲罰されるかは、その人が生前犯した罪や、悪事を行った回数に左右されます。これが第二段階で最初に行われることです。中には、懲罰を受けた後に生き返ったとき、つまり物質世界に再び生まれたとき、生前行った悪事や邪悪な所業のせいで、引き続き人間になる人もいれば、動物になる人もいます。つまり、霊界に戻った人は、自分が犯した悪事のために懲罰され、さらにその悪業のため、次に生き返る際、人間ではなく動物として戻ることもあるのです。こうした人が生まれ変わる動物には、牛、馬、豚、犬などが含まれます。中には鳥、アヒル、ガチョウなどに生まれ変わる人もいます。動物として生まれ変わった後に再び死ぬと、その人は霊界に戻ります。そして前回と同じく、霊界はその人の生前の行いに基づき、人間として生まれ変わるかどうかを決めます。大部分の人々はあまりに多くの悪事を犯し、その罪が重すぎるため、七回から十二回は動物として生まれ変わります。七回から十二回とは恐ろしくはありませんか。(恐ろしいです。)あなたがたを恐れさせるのは何ですか。人間が動物になるのは恐怖です。人間にとって、動物となって最もつらいことは何ですか。言葉をもたず、単純な考えしかできず、動物が行う物事を行い、動物が食べるものしか食べられなくなり、動物の単純な精神と身振りによる言葉を用い、まっすぐ立って歩くことも、人間と意思疎通を図ることもできず、また人間の振る舞いや活動は動物とまったく無関係であるという事実があります。つまり、万物の中で動物になったあなたがたは、すべての生物のうち最低の存在となり、そこには人間よりもはるかに多くの苦しみがあります。これが、数多くの悪事を行い、深刻な罪を犯した人に対する、霊界の懲罰の一側面です。懲罰の重さについて言えば、それは人間がどのような動物になるかで決定されます。たとえば、豚になるのは犬になるよりましですか。豚の生活は犬の生活よりましですか、それとも悪いですか。悪いでしょう。人間が牛や馬になったら、豚よりもましに暮らせるでしょうか。(ましに暮らせます。)猫として生まれ変われば、さらに快適でしょうか。動物となるのに変わりはありませんが、牛や馬になるより猫になるほうがずっと簡単でしょう。なぜなら、ほとんどの時間を怠けて寝て過ごすことになるからです。牛や馬になると苦労が増えます。ゆえに、牛や馬に生まれ変わった人は必死に働く必要があり、それは重い懲罰と同じことです。犬になるのは、牛や馬になるより少しだけましでしょう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからです。犬の中には三ないし五年ペットとして飼われたあと、飼い主の言葉の多くを理解できるようになるものもあります。ときには飼い主の気分や要求に合わせることもでき、すると飼い主の扱いがよくなり、食べ物や飲み物もましになり、苦痛を感じると看護してもらえます。そうすれば、犬は幸福な生涯を送るのではないでしょうか。ゆえに、犬になるのは牛や馬になるよりましです。このように、懲罰の重さによって、何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかが決定されます。

中には生前に犯した罪の数が多すぎるため、七回から十二回にわたり動物として生まれ変わるという懲罰を受ける人がいます。十分な回数の罰を受けて霊界に戻ったとき、こうした人々は別の場所へと連れて行かれます。そこにいるのは、すでに懲罰を受けており、人間として生まれ変わる準備をしている様々な霊です。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わってからどのような役割を担うかなどにより、魂が一つひとつ分類されます。たとえば、この世に生まれて歌手になる人がおり、そうした人は他の歌手の中に置かれます。この世に生まれて実業家になる人は他の実業家の中に置かれ、人間として生まれてから科学研究者になる人は、他の科学研究者の中に置かれます。分類された魂は、現在の人々が電子メールを送信するときのように、それぞれ異なる予定日に送り出されます。これで生死の周期の一巡が完了します。霊界に到着したその日から懲罰が終わるまで、あるいは何度も動物として生まれ変わり、人間として生まれ変わる準備をするまで、これは完全な過程なのです。

懲罰を受け終えて動物として生まれ変わることがない人は、すぐに物質世界へと送られて人間として生まれ変わるでしょうか。その人が人間のもとにたどり着くには、どの程度の期間を要するでしょうか。そうなる頻度はどの程度でしょうか。これには時期的な制限があります。霊界で起きるすべての出来事には、正確な時間的制限と規則が適用されるのです。数値で説明すれば理解できるでしょう。短期間のうちに生まれ変わる人については、その人が死んだ際、人間として生まれ変わる準備がすでに行われています。それにかかる期間は最短で三日です。その期間が三ヵ月の人もいれば、三年の人も、三十年の人も、三百年の人もいます。それでは、こうした時期的な規則についてどのようなことが言えますか。また、その規則の詳細はどのようなものですか。それは、物質世界、つまり人間の世界が魂から必要とするものと、その魂がこの世で担うべき役割に基づいています。普通の人間として生まれ変わる場合、大部分の人がごく短期間で生まれ変わります。人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからです。ゆえに、こうした人は三日後、死ぬ前の家庭と完全に異なる家庭へと送られます。しかし、中にはこの世で特別な役割を担う人もいます。「特別な」というのは、人間の世界にはそうした人々に対する大きな需要がないということです。そうした役割を担わなければならない人の数が多くないので、三百年後になる場合もあります。言い換えると、こうした魂は三百年に一度、あるいは三千年に一度しかこの世に現われません。それはなぜですか。その理由は、三百ないし三千年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそれらの魂は霊界のどこかに留められているからです。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼし、その出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を与えました。しかし、そのような人間はどの時代にも必要というわけではなく、したがって孔子は霊界に留められ、生まれ変わるまで三百年、ないし三千年待つ必要があったのです。人間界はこのような人を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要がありました。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、そうした人がなすべきこともほとんどないからです。ゆえに、孔子はほとんどの期間、霊界のどこかに留められ、何もすることなく、人間界が彼を必要とするとき、そこに送られるのをひたすら待ち続けました。大半の人が生まれ変わる頻度について、霊的領域の時間的規則はこのようなものです。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊界にはその生まれ変わりの処理に関する適切な規則と正しい慣行があり、そうした規則と慣行は神から送られたものであって、霊界の担当官やその他の存在が決めたり管理したりするものではありません。これでわかりましたね。

あらゆる魂にとって、その生まれ変わり、生涯における役割、生まれる家庭、そしてその人生がどのようなものかは、その魂の前世と密接に関連しています。ありとあらゆる人々が人間界に現れますが、その人たちが果たす役割も、行う務めもそれぞれ異なります。それでは、その務めとは何ですか。中には負債を返済するために来た人がいます。過去の生涯で他人からの借入が多すぎた場合、この世でそれらの負債を返済するために来るのです。その一方で、債権を回収するために来る人もいます。こうした人たちは過去の生涯であまりに多くのものや金銭をだまし取られたのであり、結果として霊界に到着した後、公平な扱いを受け、その生涯で債権を回収することが許されるのです。また、恩返しをするために来る人もいます。このような人は前世において、つまり以前の生まれ変わりにおいて誰かの厚意を受けたのであり、この世に生まれ変わるという素晴らしい機会を与えられたおかげで、その恩返しをするために再び生まれたのです。その一方で、人命を奪うために生まれ変わった人々もいます。それでは、こうした人たちは誰の命を奪うのですか。彼らが奪うのは、以前の生涯でそうした人々を殺した者の命です。要するに、各人のいまの人生は、過去の生涯と密接な関わりをもっており、そのつながりを断つことはできません。つまり、各人のいまの人生は、前世によって大きく影響されるのです。たとえば、チャン氏が生前リー氏から巨額の金銭をだまし取ったとしましょう。チャン氏はリー氏に借りがありますか。借りがあるので、当然リー氏はチャン氏の借りを回収すべきです。結果として、両氏の死後には精算されるべき貸し借りが残ります。両氏が生まれ変わった際、チャン氏が人間になったとすれば、リー氏はどのようにしてチャン氏の借りを回収しますか。回収方法のひとつに、チャン氏の息子として生まれ変わるというものがあります。つまり、チャン氏が大金を稼ぎ、リー氏がそれを浪費するのです。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを浪費するというわけです。チャン氏がどれほど多く稼いでも、それで十分ということは決してなく、どういうわけか彼の息子が、父親の金を様々な手段で常に消費してしまうのです。チャン氏は不思議に思ってこう考えます。「なぜ息子はいつもこんな悪運をもたらすのか。他人の息子がこんなに立派なのはなぜなのか。わたしの息子に野心がなく、役立たずで収入を得られず、常にわたしが支援しなければならないのはどうしてなんだ。わたしは息子を支援する必要があるので支援するが、わたしがいくら金銭を渡しても、息子が常にそれ以上の金額を必要とするのはなぜだろうか。息子がまっとうな仕事に就けず、ぶらぶらしたり、飲み食いしたり、風俗や賭博に明け暮れたりするなど、ありとあらゆることをするのはどうしてだ。一体どうなっているんだ」。チャン氏はしばらく考えます。「前世で息子に借りがあるのかもしれない。それなら借りを返そう。わたしが返し終わるまで、これが終わることはないだろう」。やがて、リー氏が借りを返してもらう日が来て、四十代、あるいは五十代になって突然正気に戻るでしょう。そして次のように気づくのです。「自分はこの半生でずっと、善い行いを何ひとつしてこなかった。父が稼いだ金をすべて浪費してしまった。だから、わたしは善人にならなければならない。わたしは決心した。正直な人になって正しい生活を送り、二度と父を悲しませない」。リー氏がこのように考える理由は何ですか。リー氏が突然よい方向に変わるのはなぜですか。その理由は何ですか。(リー氏が貸しを回収したからです。チャン氏は借りを返したのです。)これには因果関係があります。話の発端はずっと以前、両者が現在送っている人生の前にまで遡ります。両者の前世における経緯が現在にまで持ち越されているので、どちらも相手を責められません。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうともしませんでした。しかし借りがなくなった日、息子を諭す必要はなくなり、息子は自然と理解しました。これは簡単な例です。このような例は数多くありますか。(あります。)この例は人々に何を伝えていますか。(人間は善良でなければならず、悪事を行ってはいけないということです。)悪事を行ってはならず、悪業には報いがあるということです。未信者の大半は数多くの悪事を行い、その悪業は報いを受けます。そうですね。しかし、こうした報いは恣意的なものですか。すべての行いについて、それに対する報いには背景と原因があります。誰かから金銭をだまし取っても、自分には何も起こらないと思いますか。その金銭を騙し取った後、何の結果も生じないと思いますか。そのようなことはあり得ません。必ず結果が生じます。自分が誰であろうと、あるいは神がいることを信じようと信じまいと、すべての個人は自分の行動に責任を負い、その行動による結果を背負わなければなりません。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が懲罰を受け、リー氏が借りを返してもらいましたが、これは公平なことではないですか。人間がこのようなことをした場合、こうした結果が生じるのです。このことは霊界の管理と切り離せない関係にあります。たとえ未信者であっても、神を信じない人の存在はこうした天の法令や命令の対象となり、誰もそれから逃れられず、この現実を避けられません。

信仰をもたない人は、人間の目に見えるものはどれも存在し、見ることができないもの、あるいは人間から遠く離れたものは存在しないとよく考えます。そのような人は、「生死の周期」も「懲罰」も存在しないと考えたがり、それゆえためらうことなく罪を犯し、悪業を行います。その後、彼らは懲罰を受け、動物に生まれ変わるのです。様々な未信者のうち大半の人がこの悪循環に陥っています。なぜなら、あらゆる生物の管理について、霊界が厳格であることを知らないからです。信じるかどうかを問わず、この事実は存在します。神の目が届く範囲から逃れられる人や物はなく、神の天なる法令や命令によるきまりや制限から逃れられる人や物も存在しないからです。したがって、神を信じようと信じまいと、罪を犯して悪事を行うことは認められず、すべての行動には結果が伴うということを、この簡単な例は一人ひとりに教えています。他人から金銭をだまし取った人は懲罰を受け、その懲罰は公平です。こうした典型的な行動は、霊界においては罰せられ、その懲罰は神による命令と天の法令によって下されます。ゆえに、強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火といった重大な犯罪や悪事に対しては、それにも増して様々な重さの懲罰の対象となるのです。こうした様々な重さの懲罰にはどのようなものがありますか。期間によって重さが決まる懲罰もあれば、その方法によって重さが決まる罰、あるいは生まれ変わるときの行き先で重さが決まる懲罰もある。たとえば、中には口汚い人がいます。ここで「口汚い」とは何を意味しますか。よく他人に暴言を吐いたり、他人を罵る悪意に満ちた言葉を使ったりすることです。悪意に満ちた言葉が強調しているのは何ですか。それは、その人が悪意に満ちた心の持ち主であることを示しています。そうした人の口からは、他人を罵る汚い言葉がしばしば飛び出ますが、そのような悪意に満ちた言葉は深刻な結果をもたらします。そうした人々は死んで相応の懲罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わるかもしれません。中には生前極めて計算高かった人がいます。そのような人はしばしば他人を利用し、その手口は極めて周到であって、人を傷つけることを数多く行います。こうした人は生まれ変わると、知能や精神に障害がある人として生まれ変わる可能性があります。また、他人のプライベートな物事を頻繁にのぞき見て、見るべきではない内情を山ほど見たり、知るべきではない事柄を数多く知ったりする人もいます。そうした人は結果として、全盲者として生まれ変わるかもしれません。生前短気で喧嘩をすることが多く、邪悪なことを多数行った人もいます。彼らはそのせいで身体や手足に障害を負って生まれ変わったり、片腕をもたずに生まれ変わったりするでしょう。さもなくば、背中や首が曲がった状態、足を引きずって歩く状態、あるいは一方の足が他方よりも短い状態で生まれ変わるかもしれません。これらの場合、その人は生前に行った悪事の程度に基づいて、様々な懲罰の対象とされたのです。斜視の人がいるのはなぜだと思いますか。そのような人は数多くいますか。現在、斜視の人は数多くいます。生前に目を使いすぎてあまりに多くの悪事をなし、そのため斜視をもってこの世に生まれ変わり、深刻な場合は全盲者として生まれる人もいます。これが報いなのです。また中には、生前に他の人々と仲よくできて、自分の親族、友人、同僚、あるいはその他の知り合いに対して多数の善行を重ねる人がいます。こうした人は他人に思いやりと配慮を傾けたり、金銭的に支援したりします。そして人々は彼らを高く評価します。こうした人は霊界に戻っても懲罰を受けません。未信者が何らかの形で懲罰を受けないということは、その人が極めて善人だったことを意味します。こうした人は神の存在を信じず、天の父だけを信じています。自分の頭上に魂があり、あらゆる行いを見ていると信じていますが、その人が信じているのはそれだけです。結果として、その人は極めて行いがよいのです。こうした人たちは親切で思いやりがあり、最終的に霊界へと戻った際、極めて優遇され、すぐに生まれ変わります。彼らは生まれ変わったとき、どのような家庭に生まれますか。そのような家庭は裕福ではないものの、何の害悪もなく、家族は互いに調和しています。生まれ変わった人は安全かつ幸福な日々を送り、誰もが喜びに満ちた素晴らしい生活を送るのです。これらの人たちは成人すると大家族になり、子供たちは才能に溢れて成功し、その家族は幸運に恵まれます。そしてこのような結果は、それらの人たちが送った過去の人生と密接に関係しています。つまり、死んで生まれ変わった人がどこに行くか、男になるか女になるか、その人の使命がどのようなものになるか、人生で何を経験するか、どのような挫折に苦しむか、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、そして我が身に何が起こるかについては、誰もそれらを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたりすることができないのです。すなわち、いったんあなたの人生が定められると、自分に何が起ころうと、そしてあらゆる方法を用いてそれを避けようとしたとしても、神が霊界であなたのために定めた人生の進路から外れることは決してできません。なぜなら、生まれ変わったとき、あなたの人生の運命はすでに決定されているからです。それがよいか悪いかを問わず、誰もがそれに向き合い、前進し続ける必要があります。これは、この世に生きる誰もが避けられない問題であり、これ以上に現実的な問題は存在しません。わたしが言ったことは全部理解しましたね。

これらを踏まえて、未信者の生死の周期について、神が極めて精密かつ厳格な確認と管理を行っていることを、あなたがたはもう理解しましたか。まず、神は霊界における様々な天の法令、命令、組織を定めました。それらはいったん宣言されると、霊界で様々な役務を担当する者により、神が定めた通り極めて厳密に施行され、あえて違反する人はいません。したがって、人間界における人類の生死の周期には、動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについて、その両方に法則が存在するのです。これらの法則は神に由来するため、それに背こうとする人はおらず、背くことができる人もいません。人に見える物質世界が規則正しく整然としたものであるのは、ひとえにこうした神の統治と法則があるからなのです。そして、人間が自分にはまったく見えない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活できるのは、神によるこの統治のためであり、それはどれも神の統治と切り離すことができません。人の肉体的ないのちが死を迎えても、魂にはいのちがあるとすれば、神の管理下になければどうなるでしょうか。その魂はありとあらゆる場所をさまよい、どこにでも侵入し、人間界の生き物を害することすらあるでしょう。こうした危害は人類だけでなく植物や動物にも加えられますが、最初に害を受けるのは人間でしょう。このようになれば、つまりこうした魂が管理されておらず、人間に本当の危害を加え、実際に邪悪な物事を行ったとしたら、この霊は霊界で適切に取り扱われることにもなるでしょう。事態が深刻な場合、その魂はたちまち消滅し、滅ぼされるはずです。可能であれば、どこかに置かれて生まれ変わるでしょう。つまり、霊界における様々な魂の管理は整然としており、様々な段階と規則に従って実行されます。人間の物質世界が混乱に陥らず、物質世界の人間が正常な精神と理性をもち、秩序ある肉体的生活を送っているのは、ひとえにこうした管理があるからです。人類がそうした正常な生活を送って初めて、肉体において生きる人は何世代にもわたって繁栄し、増え続けることができるのです。

たったいま聞いたことについて、あなたがたはどう思いますか。新鮮に感じますか。今日の交わりの主題は、あなたがたにどのような印象を残しましたか。新鮮さ以外に何かを感じましたか。(人間は正しく行動する必要があると思いました。また神は偉大でいらっしゃるので、畏れるべき方だと感じました。)(神が様々な種類の人間の結末をどのように采配なさるかについて神のお話を聞いたばかりですが、神の性質はいかなる背きも許さず、神を敬うべきだと感じました。その一方で、神がどのような人を好まれるか、どのような人を好まれないかも認識しました。なので、神が好まれる人間になりたいと思います。)この分野における神の行動に原則があることを、あなたがたは理解しましたか。神はどのような原則に従って行動しますか。(神は人間の結末を、その人のすべての行いに従ってお決めになります。)それは先ほど話した、未信者の様々な結末に関する事柄です。未信者について、神の業の背後にある原則は、善を讃えて悪を懲罰するものですか。例外はありますか。(ありません。)神の業に原則があることを理解しましたか。未信者は実際に神を信じておらず、神の指揮に従うこともありません。加えて神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなどありません。さらに深刻なことに、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を抱いています。神に対する彼らのこの態度にもかかわらず、彼らに対する神の統治は、依然として神の原則から逸脱しません。神は自身の原則と性質に従い、秩序ある形でこうした人々を管理するのです。神はこうした人々の敵意をどのように見なしますか。無知と見なします。結果として、神はこうした人々、すなわち未信者の大部分を、以前に動物として生まれ変わらせたのです。それでは、神の目から見て、未信者とはいったいどのようなものですか。どれも獣です。神は人類だけでなく家畜も管理するので、この種の人に対しても同じ原則があります。これらの人々に対する神の管理中にさえ、やはり神の性質と、神による万物支配の法則が見て取れます。これで、わたしが先ほど触れた、未信者を管理する原則における神の統治を理解しましたか。神の義なる性質がわかりましたか。(わかりました。)言い換えると、神が取り扱う万物のうち、それが何であれ、神は自身の原則と性質に従って業を行うのです。これが神の本質です。神は、こうした人を獣と見なしているからといって、自ら定めた規則や天の法令を軽々しく破ることは決してありません。神は原則に従って業を行いますが、無闇にそうすることは決してありません。そして神の業はいかなる要素にも影響されることが一切ありません。神が何をしようと、それはすべて神自身の原則に従います。神には神自身の本質があるからであり、それはいかなる創造物も有していない神の本質の一側面です。自ら造ったあらゆる物、人、生物の取り扱い、取り組み、経営、管理、支配について、神は誠実で責任をもっており、その点に関して注意を怠ることは決してありません。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない懲罰を与えます。また様々な生物については、人間界におけるその時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で適切な采配を行うので、そうした様々な生物は、それぞれが受け持つ役割に従い、整然と生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊界の間を行き来するのです。

生物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生物が物質世界から霊界へと移動したことを示します。一方、新たな物理的生命の誕生は、生物が霊界から物質世界に来て、その役割を引き受けて果たし始めることを示しています。それが生物の出発であろうと到着であろうと、いずれも霊界における働きと切り離すことはできません。ある人が物質世界に到来した段階で、その人が生まれる家庭、到着する時代と時刻、そしてその人が担う役割について、その人に適した采配と定義が神によってすでになされています。そうしたわけで、その人が送る一生、行う物事、そして進む道は、霊界でなされる采配に従い、一切逸脱せずに進行します。さらに、物理的な生命が終焉を迎える時、そして生命が終わるかたちと場所は、霊界においては明瞭で識別可能です。神は物質世界と同時に霊界も支配し、魂の正常な生死の周期を遅らせることは一切なく、その周期の采配で間違いを犯すことも一切ありません。霊界の各部局に所属する担当者は、神の指示と支配に従ってそれぞれの任務を遂行し、なすべきことを行います。ゆえに人間界では、人が目にするあらゆる物質的現象に秩序があり、混沌は一切存在しないのです。こうしたことは、すべて神による整然とした万物の支配と、神の権威が万物を支配しているという事実の賜物です。神の支配には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊界が含まれます。そうしたわけで、人間がよい生活を願い、好ましい環境の中で暮らすことを望むのであれば、目に見える物質世界全体の施しを受けることに加え、霊界の施しも受けなければなりません。そして、それは誰も見ることができず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、そして整然としたものです。これで、神は万物のいのちの源であると言った際の、「万物」に対する意識と認識が高まったのではないですか。(高まりました。)

2) 各種の宗教を信仰する人の生死の周期

これまでは、第一の種類の人々、つまり未信者の生死の周期について話してきました。ここからは、第二の種類である各種の宗教を信じる人たちの話をします。「各種の宗教を信仰する人の生死の周期」もまた重要な事項であり、これについて理解することは必要不可欠です。まずは、「信仰する人」の「信仰」が何を指すかについて話をしましょう。それは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の五大宗教です。未信者に加え、これら五大宗教を信仰する人が、世界の人口のうち大きな割合を占めています。これら五大宗教では、その信仰を職業とする人は少ないですが、信者は多数存在します。このような人は死ぬと別の場所に行きます。誰とは「別の場所」に行きますか。それは先ほど話した未信者、つまり信仰をもたない人です。五大宗教の信者は、死ぬと他の場所、未信者とは異なる場所に行くのです。しかし、その過程は依然として同じです。霊界では、こうした人たちについても、死ぬまでのすべての行いに基づいて裁きを下し、次いでその裁きに従って処理します。ですが、これらの人たちが別の場所に送られて処理されるのはなぜですか。そこには重要な理由があります。それは何ですか。ひとつ例を挙げて説明します。しかしその前に、あなたがたは「それはおそらく、彼らが少しは神を信じているからだ。完全な未信者ではないからだ」と考えているかもしれません。ですが、それが理由ではないのです。彼らが他の人たちから離されるのには、とても重要な理由があります。

仏教を例にとってあなたがたに事実を述べます。第一に、仏教徒とは仏教に改宗した人であり、その人は自分の信仰が何かを知っています。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世から自分を切り離し、人間界の喧噪をあとにしたことを意味します。こうした仏教徒は毎日読経し、仏陀の名を唱え、精進料理しか食べず、禁欲的な生活を送り、冷たくほのかな行灯の光だけで日々を過ごします。仏教徒はこのようにして一生を送るのです。仏教徒は肉体的人生が終わると、自分の生涯をまとめますが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、結末がどのようになるかは知りません。心の奥底で、こうした事柄についてはっきり認識していないのです。仏教徒は盲目的に一種の信仰を続けるだけで一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いて人間界を去ります。それが仏教徒の肉体的生命の終焉であり、生者の世界を離れるときなのです。その後は霊界の本来の場所に戻ります。この人が生まれ変わって現世に戻り、修行を続けるかどうかは、生前における行いや習慣によって決まります。生涯にわたって過ちを犯さなかった人は、すぐに生まれ変わって現世に戻り、そこで再び僧や尼僧になります。つまり、初回の人生と同じように、この肉体的人生でも修行を行い、その肉体的人生が終わると霊の領域に戻り、そこで検査を受けるのです。そこで問題が無ければ、再び人間界へと戻り、再度仏教に改宗して修行を続けます。仏教徒は三回から七回生まれ変わったあと、肉体的人生が終わるたびに戻っていた霊界へと、もう一度戻るのです。人間界における仏教徒の様々な資格や行動が霊界における天の法令に準じていれば、その時点以降、その仏教徒は霊界に留まります。それ以上人間として生まれ変わることも、地上での悪業について懲罰を受ける恐れもなくなるのです。この仏教徒がこの過程を経ることは二度とありません。むしろ、状況に応じて霊の領域における地位を得ます。それが、仏教徒が言うところの「解脱」です。解脱とはおもに、霊界の役人として成果を挙げ、その後は生まれ変わることも、懲罰を受ける危険もなくなることを意味します。さらにそれは、生まれ変わって人間になることの苦悩がなくなることを意味します。では、仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はありますか。(ありません。)それは、霊界である役割を担い続け、生まれ変わることがなくなることを意味します。これが、仏教において解脱に達することの一例です。解脱に達しなかった仏教徒について言えば、霊界に戻るとすぐ担当する役人によって検査と確認が行われ、生前仏教で定められた通り熱心に修行することもなければ、誠実に読経して仏陀の名を唱えることもなかったのが突き止められ、数多くの悪事を行い、よこしまな振る舞いが数多くあったと判断されます。そして霊界において、その悪事について裁きが下された後、間違いなく懲罰を受けます。これについて例外は一切ありません。そうであれば、このような人が解脱に達するのはいつですか。生涯一度も悪事を犯さなければ、霊界に戻った際、生前に過ちを犯さなかったことが確認されます。そしてその人は生まれ変わり続け、読経をして仏陀の名を唱え、行灯の冷たくほのかな明かりとともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べません。人間界に加わることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と一切言い争いません。この過程の中で、仏教徒はいかなる悪事も犯さず、その後は霊界に戻り、あらゆる行動や振る舞いが検証され、人間の領域に再び送られますが、その過程は三回から七回繰り返されます。この間に一度も悪事を犯さなければ、解脱を成し遂げることに何も影響がなく、それが遅れることもありません。これが、すべての人に関する、生死の周期の特徴です。人は「解脱」を成し遂げて霊界である地位を占めることができます。それが人と未信者の違いです。まず、霊界である地位を占めることができる人は、いまだこの世に生きている間、どのように自分を律しますか。こうした人たちは、悪事を一切行わないようにしなければなりません。殺人、放火、強姦、強奪などを行ってはなりません。詐欺、詐取、窃盗、強盗などを行った場合、解脱に達することはできません。言い換えると、何らかの形で悪事に関与すれば、霊界が下す懲罰から逃れることはできないのです。霊界では、解脱を遂げた仏教徒に対する適切な采配が行われます。仏教を信じ、天の父を信じていると思しき人々を監督する役割を与えられるかもしれません。または裁判権を与えられるかもしれません。あるいは、未信者を担当したり、ごくささやかな職務を与えられたりするだけかもしれません。こうした任命は、その魂がもつ様々な本性に従って行われます。これが仏教の例です。

先に述べた五大宗教のうち、キリスト教は比較的特殊です。では、キリスト教を特殊なものにしているのは何ですか。彼らは真の神を信じる人たちです。真の神を信じる人たちがここで挙げられているのはなぜですか。キリスト教は宗教の一種だと言うとき、それが信仰にしか関係していないことは確かです。キリスト教は一種の儀式、一種の宗教に過ぎず、真に神に付き従う信仰とはまったく別のものです。わたしがキリスト教を五大宗教のひとつに挙げたのは、それがユダヤ教、仏教、イスラム教と同じ程度まで零落したからです。ここにいる大半の人は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、まして神の実在など信じていません。その代わり、聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて親切にすること、辛苦に耐えること、善行をなすことを人々に諭すだけです。キリスト教はこのような宗教になってしまったのです。つまり、神学理論だけに集中し、人間を経営して救う神の働きとは何ら関係ないのです。それは、神に従いながら、実際には神に認められていない人々の宗教になりました。しかし神には、そのような人たちを扱う原則もあります。未信者に対するのと同じく、クリスチャンを軽々しく取り扱ったり、気の向くままに取り扱ったりすることはありません。神はクリスチャンを、仏教徒と同じように扱います。生きている間に自己鍛錬を行い、十戒を厳しく守り、律法と戒律に従う形で自分の振る舞いを律し、生涯にわたってそれらを遵守することができれば、そのクリスチャンも生死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる「携挙」を真に獲得することができるはずです。この携挙を獲得したあと、クリスチャンは霊界に留まり、そこで何らかの地位を得て役人になります。同様に、地上で悪事を行った場合、つまりあまりに罪深く、数多くの罪を犯した場合、そのクリスチャンは必ずや様々な重さの懲罰や懲らしめを受けることになります。仏教において解脱とは、極楽浄土に入ることを意味します。では、それはキリスト教では何と呼ばれますか。それは「天国に入る」、「携挙」されると呼ばれます。真に携挙された人もまた生死の周期を三回から七回にわたって繰り返し、その後に死ぬと、あたかもそれまで寝ていたかのように霊界へと辿り着きます。そして基準を満たしていれば、そこに留まって何らかの役割を担うことができ、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることも、慣例にしたがって生まれ変わることもありません。

これらすべての宗教において、信者が語り、獲得しようと努めている結末は、仏教で言う解脱の達成と同じです。ただ、その「解脱」を成し遂げる方法は様々です。これらの宗教はすべて似たようなものです。これら宗教の信者のうち、行動において宗教上の教えを遵守できる一部の人に対し、神はそれぞれにふさわしい終着点と目的地を与え、適切に対処します。それはどれも合理的ですが、人々が想像するようなものではありません。ここまで、キリスト教の人々がどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じますか。彼らの苦境は不公平なものだと思いますか。彼らに同情しますか。(多少同情します。)これについてできることはありません。彼らは自分を責めるしかないのです。わたしがそのように言うのはなぜですか。神の働きは真実であり、神は生きて実在し、神の働きは全人類、すべての個人を対象にしています。ならば、彼らがそれを受け入れないのはなぜですか。気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのはなぜですか。彼らは、このような結末を得られるだけでも幸運だと思うべきなのに、あなたがたが彼らを哀れむのはどうしてですか。彼らがこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さを示しています。神に反抗する度合いに基づけば、彼らは滅ぼされるべきです。しかし神はそのようにせず、キリスト教を普通の宗教と同じように扱うだけです。では、その他の宗教についても詳細に踏み込む必要がありますか。これらすべての宗教の理念は、人間がさらに多くの苦難を背負い、悪事をなさず、善行を重ね、他人の悪口を言わず、他人を裁かず、論争を避け、善人となることです。大半の宗教の教えはこのようなものです。ゆえに、これらの人たち、つまり様々な宗教や教派の信者が、宗教上の教えを厳しく守れるなら、地上にいる間は大きな過ちや罪を犯すことがありません。そして三回から七回生まれ変わったあと、宗教上の教えを厳しく守れるこれらの人たちは、概して霊界に留まり、そこで地位を得ます。このような人は数多くいますか。(いません。)その答えの根拠は何ですか。善行を重ね、宗教上の規則や掟を遵守するのは容易なことではありません。仏教では人間が肉を食べることは禁じられていますが、あなたにそれができますか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経し、仏陀の名を唱えなければならないとしたら、あなたにそれができますか。容易ではないでしょう。キリスト教には十戒や戒律や律法がありますが、それらは容易に遵守できるものですか。容易ではありません。違いますか。他人の悪口を言わないこと、というのを例にとりましょう。人々はこの決まりをまったく守れていません。自制できずに他人の悪口を言うのです。そして悪口を言ったあと、それを取り消すことはできませんが、そこで人間はどうしますか。夜になると自分の罪を告白します。他人の悪口を言ったあとも心中に憎しみを抱き、その人をさらに傷つけようと企むことすらあります。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯したり悪事を行ったりすることを避けるのは容易でないのです。ゆえにどの宗教でも、実際に成果を挙げられる人は一握りしかいないのです。極めて多くの人がこれらの宗教に従っているのだから、霊の領域に留まって何らかの役割を果たせる人はかなりの数になるだろうと、あなたは思っているのですか。それほど多くはなく、実際にそうできる人は数名しかいません。人の生死の周期は概してこのようなものです。こうした人々の相違点は成果を挙げられるということであり、それが未信者との違いです。

3) 神に付き従う人の生死の周期

次に、神に付き従う人の生死の周期について話をしましょう。これはあなたがたに関係することなのでよく聞いてください。まず、神に付き従う人がどのように分類されるかを考えましょう。(神の選民と効力者に分類できます。)神に付き従う人は、神の選民と効力者の二つに分けられます。まずは、少数しかいない神の選民について話します。「神の選民」とは誰を指しますか。神が万物を創造して人類が存在するようになったあと、神は自身に付き従う人々の集団を選びましたが、その人たちは単に「神の選民」と呼ばれます。神がその人たちを選ぶにあたっては、特別な範囲と意義があります。その範囲は、神が重要な働きを行うときに来なければならない、選ばれた少数の人に限られていたという点で特別です。その意義は何ですか。その人たちは神に選ばれた集団なので、その意義は大きいものです。つまり、神はその人たちを完全な存在にして完成させることを望み、その経営の働きが終わると、これらの人を自分のものにするのです。この意義は偉大なものではないですか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要な存在です。なぜなら、神はこれらの人たちを自身のものにしようと考えているからです。一方の効力者についてですが、その前に神の予定の話をしばらく中断し、まずは効力者の由来について話をします。「効力者」は文字通り奉仕を行う人です。奉仕を行う人は一時的な存在です。長期的に、あるいは恒常的に奉仕するのではなく、一時的に雇われたり、起用されたりする人たちなのです。効力者の由来ですが、彼らの大半は未信者から選ばれた人たちです。その人たちが神の働きの中で効力者の任務を担うよう命じられたとき、効力者は地上に現われます。前世において動物だったり、未信者だったりすることもあります。これが効力者の由来です。

それでは、神の選民についてさらに話しましょう。神の選民は死んだ際、未信者や様々な宗教の信者とはまったく異なる場所に行きます。そこは、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所です。この場所において、神の選民は自分の目で神を見ることはできませんが、霊界における他のどの場所とも異なっています。それは違う場所に位置しており、神の選民が死後に行く場所なのです。神の選民は死んだときもまた、神の使いによる厳格な調査の対象になります。それでは、何が調査されるでしょうか。神の使いは、これらの人たちが神への信仰において生涯歩んできた道を調べます。つまり、その間神に反抗したり神を呪ったりしたかどうか、重い罪や悪事を犯したことがあるかどうかを調べるのです。この調査により、ある特定の人がそこに留まるのを許されるのか、それとも立ち去らなければならないかが決まります。ここで「去る」とは何を意味しますか。また、「留まる」とは何を意味しますか。「去る」とは、自分の行動に基づき、神の選民の一員として留まるかどうかを意味します。また「留まる」ことを許されるとは、終わりの日、神によって完全にされる人々の中に留まることができる、という意味です。留まる人について、神は特別な采配を行います。つまり働きの各期間において、神はそうした人々を送り、使徒として行動させたり、教会を復興させる、あるいは教会に奉仕する働きをさせたりするのです。しかし、こうした働きを行える人は、何世代にもわたって生まれ変わる未信者ほど頻繁に生まれ変わりません。むしろ、神の働きの必要性と段階に従って地上へと戻るのであって、頻繁に生まれ変わることはないのです。では、選民が生まれ変わる時期には規則がありますか。神の選民は数年ごとに生まれ変わりますか。そうした頻度で現われますか。現われません。それは神の働き、働きの段階、神の必要性に基づいており、決まった規則はありません。唯一の規則は、神が終わりの日に働きの最終段階を行う際、これら選民が全員現れ、その到来が彼らにとって最後の生まれ変わりになる、ということです。それはなぜですか。これは、神による働きの最終段階で実現されるべき結果に基づいています。働きの最終段階において、神はこれらの選民を残らず完全にします。それは何を意味しますか。この最終段階においてこれらの人たちが完全にされるのであれば、それまでのように生まれ変わることはありません。人間として存在する過程、そして生まれ変わる過程が完全に終わるのです。このことは留まる人に関連しています。それでは、留まることができない人はどこに行きますか。留まることを許されていない人には、その人にふさわしい終着点があります。まずは自分の悪事、犯した過ち、そして罪の結果として、彼らも懲罰を受けます。彼らが懲罰を受けたあと、神はその状況に従い、彼らを未信者のもとに送るよう采配するか、様々な人たちの間に行くよう采配するかします。言い換えると、彼らには二つの結果があり得るわけです。その一つは、懲罰を受けて生まれ変わったあと、おそらくある宗教の信者として生きるというものであり、もう一つは未信者になるというものです。未信者になった場合、彼らはすべての機会を失います。しかし、たとえばキリスト教などの信者となった場合は、依然として神の選民に戻る機会があります。このことには極めて複雑な関係が存在しています。簡潔に言うと、神の選民が神に背くことをした場合、その人は他の全員と同様に懲罰されます。以前に話し合ったパウロを例にとりましょう。パウロは懲罰を受けた人の一例です。わたしが言っていることの意味を理解していますか。神の選民の範囲は一定ですか。(ほぼ一定です。)ほぼ一定ですが、わずかに一定でない部分があります。それはなぜですか。ここでは最も分かりやすい理由として、悪事を行うことを挙げました。悪事を行った人を神は望まず、その人を様々な人種や人々の中に放り込みます。すると、その人には望みがなくなり、戻るのが難しくなります。そのすべてが、神の選民の生死の周期と関連しているのです。

次のテーマは効力者の生死の周期に関するものです。効力者の由来については先ほど話しました。つまり、こうした効力者は以前の生涯で未信者や動物になってから、生まれ変わったのです。働きの最終段階が始まると、神は未信者の中からこうした人の一団を選びますが、この集団は特別な存在です。神がこれらの人たちを選ぶのは、彼らを神の働きに奉仕させるのが目的です。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでもありませんが、わたしたちはその対象となる人に目を向けるべきです。神の効力者の存在には特別な意義があります。効力者は神に選ばれた人たちなので、その役割を果たせる人は他にいません。では、これら効力者の役割は何ですか。それは神の選民に奉仕することです。大半の場合、効力者の役割は神の働きに奉仕し、それと協調し、神が選民を完全なものにするのを助けることです。効力者が働いているか、何らかの側面の働きを行っているか、ある種の任務を遂行しているかを問わず、神がこれら効力者に対して要求しているのは何ですか。神は効力者に多くのことを求めていますか。(いいえ、神は効力者が忠実であることしかお求めになりません。)効力者もまた忠実でなければなりません。あなたの由来や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは神に忠実でなくてはならず、また神があなたに託した使命、あなたが担当する仕事、そしてあなたが尽くす本分に対しても、忠実でなければなりません。忠実で神を満足させられる効力者について、その結末はどのようなものになりますか。こうした効力者は留まることができます。留まる効力者であることは祝福ですか。留まるとは何を意味しますか。その祝福の意義はどのようなものですか。効力者の地位は神の選民の地位と異なるように思われます。しかし実際には、効力者がその生涯において享受するものは、神の選民が享受するものと同じではないのですか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じです。それは否定できませんね。神の発する言葉、神の恵み、神の施し、そして神の祝福を享受しない人がいるでしょうか。誰もがそうした豊かさを享受します。効力者の身分は奉仕する人ですが、神にとっては自ら造った万物のひとつに過ぎず、単にその人の役割が効力者であるというだけです。効力者と神の選民はいずれも神の創造物ですが、両者の間に何らかの違いはありますか。事実上、違いはありません。名目上は違いがあり、その本質、そしてその人が果たす役割において違いがあるのですが、神はこの人々の集団を不公平に扱いません。それでは、これらの人々が効力者に定められているのはなぜですか。それについて、あなたがたは理解しなければいけません。効力者は未信者から生じます。効力者は未信者から生じると話したとたん、効力者はよくない背景をもっていることが明らかになります。彼らはみな無神論者であり、過去においてもそうでした。彼らは神を信じず、神、真理、そして肯定的なすべての物事に敵意を抱いていました。神を信じることも、神の存在を信じることもなかったのです。それならば、効力者は神の言葉を理解できますか。大まかに言えば、理解できないと言って構いません。動物が人間の言葉を理解できないように、効力者は神が何を言っているのか、何を求めているのか、なぜそのような要求をするのかが理解できないのです。これらのことは効力者にとって理解不能であり、依然として啓かれていないままです。そのため、これらの人たちはこれまで語ってきたいのちをもっていません。いのちなくして、人は真理を理解できますか。真理を備えていますか。神の言葉に関する経験や認識がありますか。(ありません。)これが効力者の由来です。しかし、神はこうした人々を効力者とするので、神の効力者に対する要求にはやはり基準があります。神は効力者を無下にすることも、いい加減に扱うこともありません。効力者は神の言葉を理解できず、いのちがないにもかかわらず、神は依然として効力者を親切に扱い、また効力者に対する神の要求には基準があります。その基準は先ほど話したとおりです。つまり、神に忠実であること、神の言葉に従うことです。奉仕を行うにあたっては、必要とされる場所で奉仕しなくてはならず、最後まで奉仕しなければなりません。あなたが忠実な効力者になって最後の最後まで奉仕することができ、また神から託された使命を果たせるなら、あなたは価値のある人生を送ります。価値ある人生を送れるなら、あなたは留まることができます。それに加えてもう少し努力し、懸命に試み、神を知ろうとする取り組みを強化し、神を知ることについて多少は語ることができ、神の証しをすることが可能で、さらには神の旨について何かしら理解し、神の働きに協力でき、神の旨を多少なりとも心に留めることができるなら、効力者であるあなたは運命の変化を経験するでしょう。では、その運命の変化とは何ですか。単に留まれるだけではなくなるのです。あなたの行動、そして個人的な熱意と追求に応じ、神はあなたを選民の一人にします。これがあなたの運命の変化です。効力者にとって、この変化による最大の利益は何ですか。それは、神の選民になれるということです。神の選民になることは、未信者のように動物として生まれ変わることがもはやなくなることを意味します。これはよいことではありませんか。これはまたよき知らせでもあります。それは、効力者が形作られることを意味するのです。奉仕するよう神によって定められた効力者が、永遠にそうし続けるということはありません。必ずしもそうではないのです。神はその人の行いに適した形で、彼らを扱い、彼らに対処します。

とは言え、最後まで奉仕できない効力者もいます。奉仕の途中で諦め、神を捨てる人もいれば、複数の悪事を犯す人もいるのです。さらには、神の働きに甚大な害と損失を与える人、神を呪う効力者さえいます。そうした取り返しのつかない結果は、何を指し示しますか。こうした邪悪な行いは、奉仕の中断に結びつきます。奉仕における行いがあまりに悪く、度が過ぎたので、あなたの奉仕が基準以下であることを知った神は、あなたから奉仕する資格を剥奪し、これ以上あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の眼前、神の家から排除します。あなたは奉仕したくないのですか。絶えず悪事を犯したがっているのではないですか。一貫して不忠ではないのですか。そうであれば、簡単な解決策があります。あなたから奉仕する資格を剥奪するのです。神にとって、効力者から奉仕する資格を剥奪することは、その効力者が終わりを宣告されたことを意味します。こうした効力者はもはや神に奉仕する資格をもたず、神はその人の奉仕を必要としなくなり、その人がいかに美辞麗句を並べても無駄なのです。物事がここまで達すると、状況を元通りにするのは不可能です。そうした効力者は後戻りできないのです。では、神はこうした効力者をどのように取り扱いますか。単に奉仕をやめさせるだけですか。そのようなことはありません。単に留まらせないようにするだけですか。あるいは、そうした人たちを一箇所に集め、改心するのを待ちますか。それも違います。実のところ、相手が効力者になると、神はそこまで愛情深くありません。ある人が神に奉仕する際にそうした態度をとる場合、神はその態度の結果として、その人から奉仕する資格を剥奪し、再び未信者の中に放り込みます。それでは、未信者の中に放り込まれた効力者の運命は、どのようなものですか。その運命は未信者のそれと同じであり、動物として生まれ変わり、霊界で未信者と同じ懲罰を受けます。さらに、神はその人の懲罰に対し、個人的な関心を示しません。なぜなら、そのような人はもはや神の働きと何の関係もないからです。それは、その人にとって神を信仰する生活の終焉となるだけでなく、その人自身の運命の終焉であり、その人の運命の宣告でもあります。ゆえに、効力者の奉仕がよくなければ、その人は自分自身でその結果を背負わなければならないのです。効力者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その人は未信者の中に放り込まれます。そうなれば、その人は家畜と同じように、あるいは知性や理性のない人々と同じように扱われます。このように説明すれば、あなたがたにも理解できますね。

以上が、神の選民と効力者の生死の周期を神が取り扱う方法です。それを聞いて、あなたがたはどう感じますか。わたしが以前にこの事項を話したことはありますか。神の選民と効力者という主題を語ったことはありますか。実はあるのですが、あなたがたは覚えていません。神は、神の選民と効力者に対して義です。あらゆる点で神は義なのです。そのことに疑問の余地はありますか。中には、「神が選民に対してこれほど寛容なのはなぜか。また神が効力者に対し、少ししか寛容でないのはなぜか」と言う人がいるのではないでしょうか。効力者の肩を持ちたい人はいますか。「神は効力者にもっと時間を与え、もう少し寛容であることができないのか」と疑問の声をあげるのは正しいことですか。(正しくありません。)どうして正しくないのですか。(効力者にされただけでも、わたしたちに厚意が示されたからです。)効力者は奉仕することを許されただけでも、厚意を示されたのです。「効力者」という呼び名も、効力者が行う働きもなかったとしたら、それらの人々はどこにいるでしょうか。未信者の中にいて、家畜とともに生き、そして死ぬでしょう。神の前、神の家に来ることが許されている効力者は、今日何と大きな恵みを享受しているのでしょう。これは並外れて大きな恵みです。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会が一切なかったはずです。少なくとも、あなたが仏教徒であって、解脱を成し遂げたとしても、せいぜい霊界の使い走りとなる程度です。神に会うことも、神の声や言葉を聞くこともなく、神の愛と祝福を感じることもなければ、神と対面することもまずできないでしょう。仏教徒には単純な任務しかありません。仏教徒はとうてい神を知ることができず、ただ服従するだけですが、効力者は働きのこの段階においてとても多くのものを得ます。まず、効力者は神と対面し、神の声と言葉を聞き、神が人々に授ける恵みと祝福を体験することができます。さらに、効力者は神から授けられる言葉や真理を享受することができます。効力者は実に多くのものを得るのです。したがって、あなたが効力者として正しく力を尽くすことさえできなければ、神はあなたを効力者として留めることができますか。神はあなたを留めておけません。神はあなたに多くを求めないのに、あなたは神が求めていることを何一つ正しく行わず、自分の本分を遵守したこともありません。ゆえに、神は疑問の余地なくあなたを留めておくことができないのです。これが神の義なる性質です。神があなたを甘やかすことはありませんが、あなたを差別することもありません。神はこれらの原則に従って行動します。神はすべての人と被造物をこのような形で扱うのです。

霊界では、様々な生物が誤ったことをしたり、自分の仕事を正しく行わなかったりした場合、神はそれに対応する天の法令と命令でもってそれらを取り扱います。これは絶対的なことです。したがって、神の数千年にわたる経営の働きの期間においては、過ちを犯した担当官の一部は一掃され、一部は今日に至るまで拘留されて懲罰を受けています。これは、霊界にいるあらゆるものが直面しなければならないことです。何か間違ったことをしたり悪事を犯したりした場合、その人は罰せられますが、それは神の選民や効力者に対する神の姿勢と同じでする。ゆえに、霊界か物質世界かを問わず、神が業を行う原則は変わりません。あなたが神の業を見られるかどうかにかかわらず、その原則が変わることはないのです。あらゆるものに対する神の姿勢、および万物に対する神の処遇には、一貫して同じ原則があります。これは不変です。未信者のうち比較的真面目に生活している人に対し、神は親切であり、また各宗教の信者のうち、行いが正しく悪事を犯さない人の機会を神は守り、神が経営しているすべての物事において役割を担うこと、そしてなすべきことをなすことを許しています。同様に、神に付き従う人、そして神の選民についても、神は自身の原則に従い、誰一人として差別しません。神は心から神に従えるすべての人に対して親切であり、またそのような人を愛します。未信者、様々な宗教の信者、そして神の選民など、様々な種類の人々について、神が授ける物事は異なるということなのです。未信者を例にとりましょう。未信者は神を信じておらず、神はこうした者を獣と見なしていますが、彼らの一人ひとりに食べるべき食糧、自分の居場所、そして通常の生死の周期があります。悪事を行う人は罰せられ、善い行いをする人は祝福されて神に親切にされます。そうではありませんか。信仰のある人について言えば、生まれ変わるたびに宗教上の教えを厳しく守れるなら、それら生まれ変わりのあと、最終的に神から宣言が与えられます。同様に、今日のあなたがたについても、神の選民であろうと効力者であろうと、神は自ら定めた規則と行政命令にしたがい、あなたがたをそれと同調させるとともに、あなたがたの結末を決めます。様々な種類の人のうち、各種の宗教の信者、つまり様々な宗教に属する人たちに対し、神は生きるべき空間を与えてきましたか。ユダヤ教徒はどこにいますか。神が彼らの信仰に介入したことはありますか。ありません。では、キリスト教はどうですか。神はこちらにも介入したことがありません。これらの人々がそれぞれの手続きに従うことを神は許し、彼らに語りかけたことも、何らかの啓きを与えたこともなく、さらには何一つ明らかにしたこともありません。それが正しいと思うなら、そのように信じなさい。カトリック教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じています。それがカトリック教徒の信仰の形です。神が彼らの信仰を正したことはありますか。神は彼らの自由にさせ、彼らに注意を払わず、一定の生活空間を与えています。イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同じではないですか。ここでも神はそれぞれの信仰に口出しせず、彼らのために境界を設け、各々の生活空間をもつことを許しています。すべてが整然としているのです。では、これらのことから何がわかりますか。神には権威があるが、それを濫用することはない、ということがわかります。神は完全なる秩序の中で万物を采配し、秩序正しくそれを実行しますが、そこには神の知恵と全能があるのです。

本日は新たに特別な事項、すなわち霊界に関する事柄について触れてきましたが、それは神による霊界の管理と支配の一側面をあらわしています。これらのことを理解していないと、あなたがたはこのように言うかもしれません。「それに関する事柄はどれも奥義であり、わたしたちのいのちへの入りとは関係ない。こうしたことは、人が実際どのように生活するかとは切り離されており、理解する必要もなければ聞こうとも思わない。こうしたことは神を知ることと絶対に関係ない」。さて、こうした考え方に問題があると思いますか。これは正しいですか。(正しくありません。)こうした考え方は正しくないうえ、深刻な問題をはらんでいます。と言うのも、神がいかに万物を支配するかを理解したければ、単に自分の目に見える物事と、自分の考え方で把握できる物事を理解するだけでは不可能だからです。自分の目に見えないながらも、目に見えるこの世界と不可分の関連性がある別の世界についても、あなたはいくらか理解する必要があるのです。このことは神の統治と、「神は万物のいのちの源である」という本日の事項にも関連しており、それに関する内容です。この内容がなければ、神は万物のいのちの源であるということに関する人々の認識には、誤りや不足があるはずです。したがって、本日話した事柄は、前回までの各事項を締めくくるとともに、「神は万物のいのちの源である」の内容をも締めくくるものであると言えるでしょう。これを理解したうえで、あなたがたはいま、この内容を通じて神を知ることができますか。それより重要なのは、本日、わたしがあなたがたに、効力者に関する極めて重要な情報を伝えたことです。あなたがたがこうした事項に喜んで耳を傾け、真剣に考慮していることはわたしも知っています。では、わたしが本日話したことに満足していますか。(満足しています。)中にはあまり強い印象を残さなかった事柄もあるでしょうが、効力者について語ったことは、あなたがた全員の魂に触れるものなので、ひときわ強く印象に残ったはずです。

人類に対する神の要求

1) 神自身の身分と地位

ここで「神は万物のいのちの源である」、そして「神は唯一無二の神自身である」という主題は終わりを迎えましたが、そうするにあたってまとめを行う必要があります。どのようなまとめをしなければいけませんか。それは神自身に関する結論です。そうであれば、それは神のあらゆる側面と、人々が神をどう信じているかに必ずや結びついていなければなりません。そこで、まずあなたがたに質問します。ここまでの説教を聞いて、あなたがたの心の目に見える神は誰ですか。(創造主です。)心の目に見える神は創造主です。それ以外に回答はありますか。神は万物の主である。それは適切な言葉ですか。(適切な言葉です。)神は万物を支配し、管理している存在です。神は存在するすべての物事を造り、管理し、支配し、それらに施します。これが神の地位であり、また神の身分です。万物、そして存在するすべての物事について、神の真の身分はあらゆる被造物の創造主であり、支配者なのです。それが神の所有する身分であり、神は万物にあって唯一無二の存在なのです。神の被造物のうちひとつとして、人類の中にあるか、あるいは霊界にあるかを問わず、何らかの方法や言い訳を使って、神の身分と地位を装ったり、神の代理となったりすることができる人はいません。なぜなら、被造物を支配する身分、力、権威、そして能力をもつ存在はただひとつだけであり、それは唯一無二の神自身だからです。神は万物の中で生き、動いています。神は万物のうえ、最も高い場所へと昇ることができます。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人々と向き合って苦楽を共にすることもできます。それと同時に、神は存在するすべてのものを支配し、その運命と進む方向を決定するのです。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導きます。このような神は、あらゆる生物が崇め、付き従い、知るべき存在です。したがって、人類のうちどの集団、どの種類に属しているかを問わず、あらゆる個人、あらゆる生物にとって、神を信じ、神に付き従い、神を畏れること、また自分の運命に対する神の支配と神の采配を受け入れることが、唯一かつ必然の選択肢なのです。神が唯一無二の存在であることの中に、人は神の権威、義なる性質、そして神の本質を理解し、神が万物に施す方法がどれも完全に独自のものであることを理解します。また神が唯一無二の存在であることにより、神自身の真の身分と地位が決定されるのです。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊界や人間界に存在する生物が神の代わりになろうとしても、それが成功することはあり得ず、また神になりすまそうとする試みがうまく行くこともあり得ません。これは事実です。神自身の身分、力、そして地位をもつこのような創造主、支配者が、人類に要求することは何ですか。これは誰もがはっきり理解し、覚えておくべきことであり、神と人間の両方にとって極めて重要なことです。

2) 神に対する人類の様々な態度

人が神に対してどのような態度をとるかによって、その人の運命が決まるとともに、その人に対する神の態度と取り扱いも決まります。ここで、人が神に対してどのような態度をとるか、その例をいくつか挙げます。神の前における各々の振る舞いが正しいかどうか、じっくり耳を傾けて確かめてください。まずは次に挙げる七種類の人間の行動について考えましょう。

(1)神に対する態度がことさら不条理な種類の人々がいます。こうした人たちは、神は菩薩、あるいは民話に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食後に香を焚かなければならないと考えています。結果としてこうした人たちは、神の恵みを心の底からありがたいと思い、神に感謝するたび、このような衝動を感じるのです。この人たちは、いまの自分が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、自分たちのやり方、すなわち神と会うとき三回礼をし、食後に香を焚くというやり方を受け入れられることを強く願っています。

(2)神のことを生き仏と見なし、あらゆる生物を苦しみから引き上げ、救うことができると考えている人がいます。彼らは神のことを、苦しみの海から自分たちを救い出せる生き仏として見ているのです。こうした人々の神に対する信仰には、神を仏陀として崇めることが伴っています。彼らは香を焚くことも、叩頭することもなく、捧げ物もしませんが、神はまさに仏陀のような存在であって、自分たちが親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、正直に見える人生を送り、悪事を行わないよう求めているだけだと思っています。神は自分たちにこれしか求めていないと信じているのです。これが、こうした人々が心に抱く神なのです。

(3)神を偉人や有名人のごとく崇拝する人がいます。たとえば、その偉人が好む話し方、語る口調、用いる言い回しや語彙、その語調、手振り、意見、行動、そして態度がどのようなものであろうと、こうした人たちはそのすべてを模倣しますが、それらは神を信仰する中で、完全にできるようにならなければならない事柄なのです。

(4)神を君主と見なす人がいます。こうした人たちは、神は誰よりも高位にあり、あえて神に逆らおうとするものはおらず、逆らった場合、その人は刑を科されると感じています。彼らがこのような君主を崇めるのは、自分の心のある部分がその君主に占められているからです。君主の考え、振る舞い、権威、本性、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分たちが理解すべきこと、考慮すべき問題となっているのです。結果として、こうした人たちは神を君主として崇拝しています。このような形の信仰は馬鹿げています。

(5)神の存在についてある特定の信仰をもち、その信仰が深遠かつ揺るぎないものである人がいます。しかし、こうした人たちの神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、神を偶像として崇拝するのです。この偶像が彼らの心中における神であり、畏れ、服従し、付き従い、模倣しなければならないものだと思っています。彼らは神を偶像と見なし、生涯にわたって付き従わなければならないものだと考えています。こうした人たちは神の口調を模倣し、神が好む人々の外見を真似します。純粋無垢で正直に見えることを頻繁に行い、決して離れられない仲間、あるいは道連れであるかのように、偶像に付き従うことさえします。これがこの種の人たちによる信仰の形です。

(6)神の言葉を数多く読み、説教を大量に聞いたにもかかわらず、心の奥底で、絶えず神にこびへつらうこと、あるいは非現実的な形で神を讃美することが、神に対する自分の振る舞いにおける唯一の原則だと思っている類の人がいます。こうした人たちは、自分がこのように振る舞うよう神は求めていると信じています。さらに、自分がそれを怠ると、いつ何時神の怒りを招いたり、神に対して罪を犯したりするかもしれず、その罪のせいで神に懲罰されると信じています。これが、こうした人たちが心の中で抱いている神なのです。

(7)そして次に、神の中に精神的な施しを見出す人がいますが、そのような人は大半を占めています。それは、この世で生活しており、平和も幸福もなく、慰めを見出すこともできないからです。こうした人たちはいったん神を見つけ、神の言葉を聞いて理解すると、心の中で密かな幸福と高揚感を抱き始めます。それは自分の魂が幸福になる場所と、精神的な支えをもたらす神を、ようやく見つけ出したと信じているからです。神を受け入れ、神に付き従い始めると、彼らは幸福になり、生活が満たされます。もはや未信者のように振る舞うことはなく、あたかも動物のようにあてどなくさまようこともなくなり、人生に期待できるものがあると感じます。ゆえにそうした人たちは、この神が自分の精神的な必要性を大いに満たし、精神と魂の両面において自分に大きな幸福をもたらせると考えているのです。彼らは無意識のうちに、こうした精神的な支えを与え、自分の精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れられなくなります。神への信仰は精神的な支えさえもたらせばよいと信じているのです。

以上、神に対する様々な態度に触れてきましたが、あなたがたの中にそうした態度の人がいますか。(います。)神への信仰において、心の中にこうした態度のいずれかがある場合、その人は真に神の前に来ることができますか。心の中にこうした態度がある人は、神を信じていますか。そのような人は唯一無二の神自身を信じていますか。(信じていません。)唯一無二の神自身を信じていないのであれば、あなたは何を信じているのですか。信じているのが唯一無二の神自身でないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中にいる仏陀を崇拝している可能性があるのです。さらに、あなたは普通の人を信じている可能性もあります。要するに、様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人は自分が認識している神を心に据え、神に自分の想像を押しつけるとともに、神に対する自分の態度と想像を唯一無二の神自身と同列に位置づけ、それを高く掲げて神聖なものにしているのです。神に対してこうした不適切な態度をとることは、何を意味しますか。それは真の神自身を捨て、偽の神を信仰していることを意味すると同時に、神を信じながら神を捨て、神に反抗していること、そして真の神の存在を否定していることを示しています。こうした形の信仰にしがみつくとしたら、その人にはどのような結果が待ち受けていますか。このような形の信仰によって、神の要求を少しでも満たすことができますか。(できません。)それとは逆に、自分の観念や想像のせいで、神の道からさらに遠ざかるだけです。なぜなら、そうした人たちが求める方向性は、神が彼らに求める方向性と正反対のものだからです。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがありますか。これはまさに、志と行動が相反する「南轅北轍」であると言えます。こうした滑稽な形で神を信じるなら、必死に試みれば試みるほど、神から遠ざかってゆくことになります。そこで、あなたがたに次のように忠告します。何よりも先に、自分が本当に正しい方向へと進んでいるかどうかを識別しなければなりません。集中して努力し、必ずこのように自問しなさい。「自分が信じている神は、万物の支配者だろうか。自分が信じている神は、精神的な支えを与えるだけの存在に過ぎないだろうか。それは単に自分の偶像ではないのか。自分が信じている神は、わたしに何を求められているのか。わたしが行うすべてのことを、神は認めていらっしゃるだろうか。自分の行動と追求はどれも、神を知るよう求めることに則しているだろうか。それらは、神がわたしに求められることに則しているだろうか。わたしが歩んでいる道を、神は認め、称賛してくださるだろうか。神はわたしの信仰に満足していらっしゃるだろうか」。あなたは何度も繰り返し、これらを自問しなければなりません。神に関する認識を求めたいのであれば、神に満足してもらう前にまず、はっきりとした意識と目標をもたなければなりません。

神が自身の寛容さの結果、先に述べたこれら不適切な態度をしぶしぶ受け入れることはあり得るでしょうか。神がこのような人の態度を称賛することがあり得るでしょうか。(あり得ません。)人間、そして神に付き従う人に対する神の要求は何ですか。神は人々にどのような態度をもつよう求めていますか。あなたがたはそれをはっきり理解していますか。ここまで、わたしは多くの物事を述べてきました。神自身、神の業、神が所有するものと神そのものという主題について、数多くのことを語ってきたのです。これで、神が人間から何を得たいと望んでいるかがわかりましたか。神があなたに何を求めているかがわかりましたか。意見を述べてください。経験と実践からの認識が依然なかったり、あったとしてもごく表面的な場合、それらの言葉に関する自分の認識を述べても構いません。あなたがたは、その概要を認識していますか。神は人間に何を求めていますか。(これまで数回の交わりのなかで、わたしたちが神を知り、神の業を知り、神が万物のいのちの源であることを知り、神の身分と地位を知るよう、神はわたしたちに強く求められました。)神が人間に対し、神を知るよう望んでいる場合、その最終的な結果はどのようなものになりますか。(人間は、神が創造主であり、人間が被造物であることを理解します。)人がそうした認識を得た際、その人の神に対する態度、本分の尽くし方、そしていのちの性質に、どのような変化が生じますか。あなたがたはそれについて考えたことがありますか。神を知って理解した人は善良な人間になると言えるでしょうか。(神への信仰に、善良な人間になろうと求めることは含まれません。むしろそれは、基準を満たす神の被造物、正直な人になろうと追求することです。)他にありますか。(真に、そして正しく神を知ると、わたしたちは神を神として扱えるようになり、神がいつも神でいらっしゃること、わたしたちは被造物であって神を崇拝すべきであること、そして正しい立場に留まるべきであることを知るようになります。)素晴らしい。他の意見も聞きましょう。(わたしたちは神を知り、最終的には真に神に従い、神を畏れ、悪を避ける人間になることができます。)その通りです。

3) 神が人類にもつよう求める神への態度

実際のところ、神は人間にさほど多くを求めておらず、少なくとも人間が想像するほど多くを求めてはいません。神が何の言葉も発することなく、自身の性質や業を表わしていなければ、あなたがたが神を知ることは極めて難しくなるでしょう。なぜなら、人は神の意図と旨を推測しなければならず、それは非常に難しいことだからです。しかし、神は自身の働きの最終段階において、数多くの言葉を語り、多くの働きを行い、人間に数多くのことを求めてきました。自身の言葉と数多くの働きにおいて、神は自身が何を好むか、何を嫌悪するか、そして人間はどうあるべきかを人々に対して知らせてきました。これらの事柄を理解した人は、神の要求に関する正確な定義を心の中でもてるはずです。なぜなら、漠然とした状態の中で神を信じることがなく、漠然とした神を信じることも、漠然とした状態の中で、あるいは虚無の中で神へのこともなくなるからです。むしろ、神の発する言葉を聞き、神の要求の基準を理解し、それを達成することができるのであって、神は人間の言葉を用いて、人間が知って理解すべきことを人に伝えます。現在、神とは何か、神は自分たちに何を求めているのか、人はなぜ神を信じるべきなのか、あるいは神をどのように信じ、神にどう接するべきかを人が依然として認識していなければ、そこには問題があります。たったいま、あなたがた一人ひとりが、ある特定の分野について述べました。それが具体的であるか、一般的であるかを問わず、あなたがたは何かを認識しているのです。しかしわたしは、神の人類に対する、正確で、完全で、具体的な要求について話をしたいと思います。それはわずか数語の単純なものです。あなたがたはそれをすでに知っているかもしれません。人類、そして神に付き従う人に対して神が要求することを以下に述べます。神は自身に付き従う人に対し、以下の五つを要求しています。つまり真の信仰、忠実な追随、絶対的服従、真の認識、そして心からの畏敬です。

この五つの事柄の中で、神は人々に対し、これ以上神を疑わないこと、そして自分の想像や、漠然とした観点によって神に付き従わないことを求めています。人々は想像や観念をもとに神に付き従ってはいけないのです。神は自身に付き従う一人ひとりに対し、忠実に付き従い、気持ち半分、あるいは無責任に付き従わないことを求めています。神があなたに何かを求めたり、あなたを試したり、裁いたり、取り扱って刈り込んだり、あるいは懲らしめて打ちすえたりしても、あなたは神に完全に服従するべきです。理由を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや理屈をこねたりしてはいけません。あなたの服従は完全なものでなければなりません。人間に最も足りないのは神に関する認識です。人間は神と何ら関係のない諺、発言、そして言葉をしばしば神に押しつけますが、そうした言葉が神に関する認識の最も正確な定義だと信じているのです。人間の想像に由来するこれらの諺、および人間自身の理論や知識は、神の本質とまったく無関係ですが、人はそのことをほとんど知りません。したがって、神が人々にもつよう望んでいる認識について言えば、神はあなたが神を認識し、神の言葉を認識することを求めているだけでなく、神に関するあなたの認識が正確であることを求めているのです。たとえひと言しか述べられなかったり、ほんの少ししか知らなかったりしても、そのわずかな認識は正確であり、真実であり、神自身の本質と一致しているということです。神は見当違いだったり無分別だったりする讃美や賞賛を嫌悪するからです。そのうえ神は、人間が神を空気のように扱うことを忌み嫌います。人が神に関する事柄を話すとき、事実と無関係な発言をしたり、何のためらいもなく適当に話したり、思いのままに語ったりするのを、神は忌み嫌います。また、自分は神を知っていると思い込み、神に関する認識を吹聴し、何ら気兼ねなくみだりに神に関する事柄を論じる人を、神は忌み嫌います。前述した五つの要求のうち最後のものは、心からの畏敬です。これは、神に付き従う者全員に対する神の最終的な要求です。神に関する正確かつ真の認識があれば、その人は真に神を畏れ、悪を避けることができます。この畏敬はその人の心の底から生まれるものであり、自ら進んで与えられたものであって、神による圧力の結果ではありません。神はあなたに対し、好感のもてる態度や行動、あるいは外面的な振る舞いといった贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇め、畏れることを求めます。このような畏敬は、あなたのいのちの性質が変化し、神に関する認識と神の業に関する理解を得て、神の本質を理解するようになり、自分が神の被造物の一つであるという事実を認めることで実現されます。ゆえに、わたしがここで「心からの」という言葉を用いて畏敬を定義づけるのは、神に対する畏敬は心の底から生じなければならないものであることを、人間が理解できるようにするというのが目的なのです。

ここで、この五つの要求について検討します。あなたがたの中に、最初の三つを達成できる人はいますか。最初の三つとは、真の信仰、忠実な追随、そして絶対的服従です。あなたがたの中にこれらのことができる人はいますか。五つすべてとなると、あなたがたの誰もそれができないのは確かですが、その数を三つに減らしました。自分がその三つを達成したかどうか考えてください。「真の信仰」は簡単に成し遂げられますか。(簡単ではありません。)それは簡単ではありません。と言うのも、人間はよく神に対して疑念を抱くからです。では、「忠実な追随」はどうですか。この「忠実」とは何を指しますか。(半信半疑ではなく一心に、ということです。)半信半疑ではなく一心に、ということ。まさにその通りです。それでは、あなたがたはその要求を達成することができますか。あなたがたはもっと努力する必要があります。違いますか。目下のところ、あなたがたはこの要求を達成していません。「絶対的服従」についてはどうですか。あなたがたはそれを成し遂げましたか。(成し遂げていません。)あなたがたはこの要求も成し遂げていません。あなたがたはよく不従順になって反抗することがあり、耳を貸さず、従おうとせず、聞こうとしないことも度々あります。これらは、いのちへの入りを成し遂げた人が達成する最も基本的な三つの要求ですが、あなたがたはこれらの要求をいまだ成し遂げていません。それでは、現時点において、あなたがたには高い潜在能力がありますか。本日わたしの言葉を聞いて不安に感じていますか。(感じています。)あなたがたが不安を感じるのは正しいことです。不安を避けようとしてはいけません。わたしがあなたがたに代わって不安を感じます。残る二つの要求については立ち入りません。それらを達成できる人がいないのは確かだからです。あなたがたは不安です。では、あなたがたは自分の目標をすでに決めていますか。あなたがたはどのような目標をもって、どちらに向かって追求し、努力すべきですか。あなたがたには目標がありますか。わかりやすく説明しましょう。この五つの要求をすべて達成すれば、あなたがたは神を満足させたことになります。その一つひとつが、いのちへの入りを成就させたことの指標であり、また最終的な目標なのです。これらの要求から一つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに達成するよう求めたとしても、それは簡単なことではないでしょう。ある程度の困難に耐え、ある程度努力する必要があるのです。あなたがたはどのような心構えをもつべきですか。それは、手術を待つがん患者と同じ心構えです。わたしがこう述べるのはなぜですか。あなたが神を信じることを望み、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の苦痛に耐え、ある程度の努力をしない限り、それらを達成することはできません。あなたがたは多くの説教を聞いてきましたが、単にそれを聞いただけでは、その説教を自分のものにしたことにはなりません。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させなければなりません。それを自分のいのちに同化させ、自分自身の生とし、それらの言葉と説教を人生の指針にするとともに、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものにしなければならないのです。そのときこれらの言葉は、あなたが聞くだけの価値があるものになります。わたしの語る言葉があなたの人生を何ら向上させず、あなたの存在に何の価値も加えないなら、あなたがわたしの話を聞く意味はありません。これについては理解しましたね。それを理解したなら、次に何が起きるかは自分次第です。あなたがたは努力しなければなりません。あらゆることに真剣でなければなりません。混乱してはいけません。時が経つのは早いのです。あなたがたの大半は、十年以上にわたって神を信じてきました。その十年を振り返って、あなたがたはどれほど多くのものを得ましたか。そして、あなたがたの人生はあと何十年残されていますか。それほど多くの時間は残されていません。神の働きが自分を待っているかどうか、神が自分に機会を残したかどうか、神が同じ働きを再びするかどうかは忘れなさい。そのようなことを話してはいけません。あなたは人生の時計の針を十年戻せますか。一日経過して一歩進むごとに、あなたに残された時間は一日ずつ少なくなります。歳月人を待たず、です。神への信仰から益を得られるのは、食糧や衣服などよりも、自分の人生において何より大切なものとして、神の信仰に取り組んだ場合だけです。時間がある時だけ信仰し、自分の意識を残らず信仰に捧げることができず、いつも混乱に捕らわれていたら、あなたは何も得られません。これについては理解しましたね。本日はここで終わります。ごきげんよう。

2014年2月15日

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