神の働き、神の性質、そして神自身 I.

本日の交わりのテーマは重要なものです。このテーマは神の働きが始まってからずっと議論されてきたものであり、すべての人にとって極めて重要な意味を持ちます。言い換えれば、これは信仰の道を歩むすべての人が直面する問題であり、同時に皆が直面しなければならない問題なのです。これは人間である以上逃れることのできない、重大かつ不可避な問題です。ところで重要なことといえば、神を信じるすべての者にとって最も重要なことは何でしょうか。これについては、神の旨を理解することが最も重要だと思う人もいれば、神の言葉をより多く飲み食いすることが最も重要だと信じる人もいます。また自分自身を知ることこそ一番重要だと感じる人もいれば、神の救いをいかに見出し、いかに神に従い、いかに神の旨を達成するかこそ大切だという意見を持つ人もいます。しかし今日は、こうしたことについては一旦おいておきましょう。では何について話すのかというと、それは「神について」です。これは皆にとって最も重要なテーマでしょうか? 具体的にはどんな内容なのでしょうか。もちろん、このテーマを神の性質、神の本質、神の働きから切り離して語ることはできません。したがって今日は、「神の働き、神の性質、そして神自身」について語り合いましょう。

人は神を信じ始めたときから、この「神の働き、神の性質、そして神自身」というようなテーマに直面してきました。神の働きについては、こんなふうに考える人もいます。「神の働きはわたしたちの上に行われており、それは我々が毎日経験するもので、見知らぬことではない」と。また神の性質については、次のように言う人もいます。「神の性質はわたしたちが生涯をかけて学び、探求し、重視しているテーマなのだから、我々はそれについてよく知っているはずだ」と。また神自身に関しては、こんなふうに言う人がいます。「神自身はわたしたちが従い、信仰を置き、追い求めるその方なのだから、わたしたちが神について無知だということもないはずだ」と。神は世界の創造以来、ずっと働きを続けており、その働きを通してその性質を現し続け、さまざまな方法で神の言葉を表してきました。また同時に、神は自らとその本質を人間に示し続け、人間に対する旨と人間への要求を表しています。そのため文字通りにいえば、これらのテーマについては誰もがよく知っているはずです。しかし神に従う今日の人々は、神の働き、神の性質、そして神自身を、まったくというほど理解していません。これはなぜなのでしょうか。人は神の働きを経験する中で、神との交わりも経験するため、神の性質を理解しているとか、それがどんなものか多少は知っているとか思いこんでいます。そのため、自分が神の働きや神の性質について無知だとは考えていないのです。むしろ自分は神と非常に親しい存在であり、神をよく知っていると思っています。しかし現在の状況を見ると、多くの人が理解している神というものは、彼らが読んだ本の内容や個人的経験、想像といったものの域を出ることはなく、何よりも彼らが自分の目で見ることのできる事実の範囲に限られており、それらはすべて真の神自身から遠くかけ離れています。では、この「遠く」とは、一体どれほど遠いのでしょうか。おそらく皆自分でもよくわかっていないか、うすうす感じているだけなのでしょうが、特に神自身の話になると、人の理解は真の神の本質から気が遠くなるほどかけ離れています。だからこそ、わたしたちはこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについて、系統的にかつ具体的に交わりを持つ必要があるのです。

実際、神の性質というのは隠されているものではなく、誰に対しても明らかになっています。神は何人をも意識的に避けたことはなく、知られたり理解されたりしないようにあえて自らを隠したことは一度もないからです。神の性質とは常に開かれており、一人一人に率直に向き合うというものでした。神の経営(救い)において、神はすべての人と向き合って働き、その働きは一人一人に対して行われます。その働きを行う中で、神は絶えず自らの性質を現し、その本質、神であるもの、神が持っているものを用いて、一人一人を導き、一人一人を養います。どのような時代や段階にあっても、状況の善し悪しにかかわらず、神の性質はいつでも一人一人に明らかにされており、神の所有するものとその存在とは一人一人に対して開かれています。それは神のいのちが絶えることなく人類を養い、支え続けているのと同様です。それにも関わらず、一部の人々にとって神の性質は隠されたままです。それはなぜでしょうか。それはそうした人たちが、神の働きの中で生き神に従ってはいるものの、神を理解しようと努めたり、知りたいと思ったりしたことがなく、ましてや神に近づいたことなどないからです。そうした人たちにとって、神の性質を理解するということは、彼らの終わりの時が近いという前触れであり、まもなく彼らは神の性質によって裁かれ罪に定められるということを意味します。そのため彼らは神やその性質を知りたいと願ったことがなく、神の旨についてのより深い理解や認識を追い求めたこともありません。彼らは意識的に協力して神の旨を理解しようとは思わず、ただ永遠に楽しみを求め、飽くこともなく自分がしたいことだけをしています。彼らが信じているのは自分にとって都合のいい神、自分の想像や観念の中にだけ存在する神であり、日々の生活の中で自分から切り離すことのできない神なのです。しかし真の神自身となると、彼らは完全に拒絶し、理解しようという気もなく、目を向けることもなく、神に近づこうなどとは思いもしません。彼らは神が語った言葉を、ただ自分自身を飾りつけ包み隠すために利用しているのです。彼らにとっては、それで自分はすでに立派な信者なのであり、心から神への信仰を持っていると信じています。しかし実際には、彼らを導いているのは自分自身の想像や観念、さらに自分自身の定義による神なのです。一方、真の神自身は彼らと何の関わりもありません。というのも、もし彼らが真の神とその真の性質とを理解し、神の持てるものとその実質とを理解したら、それは彼らの行動や信仰、そしてその欲求が、罪に定められることを意味するからです。そのため彼らは神の本質を理解しようとせず、神とその旨、その性質をよりよく知るために、自ら積極的に求めたり祈ったりしようとはしないのです。彼らにとっては、むしろ神は作り上げられた存在、中身のない漠然とした存在であるほうがよいのです。彼らが望んでいるのは、神が自分の想像どおりの存在で、自分の思いどおりになり、限りなく与え、いてほしいときにはいつでもそこにいてくれることなのです。彼らは神の恵みを享受したいときには、神にその恵みになるよう求め、神の祝福が必要なときには、神にその祝福になるよう求めます。逆境に直面すると、神が自分たちを励まし、背後の盾となってくれることを求めます。このような人々による神の認識は、恵みと祝福の範囲を出ることがありません。また神の働き、神の性質、そして神自身に関する彼らの理解も、自分の想像や字句と教義上のものでしかありません。しかし中には、神の性質を熱心に追求し、心から神自身を知りたいと願い、神の性質と神の持てるもの、そしてその実質を真に理解しようと努めている人たちもいます。そのような人たちは、真理の現実、神の救いを追い求め、神が自分を征服し、救い、完全にしてくれることを望んでいます。そのような人たちは心から神の言葉を読み、神が自分に与えたすべての人や状況、出来事、そして物事に心から感謝し、誠実に祈り、求めます。彼らが何よりも欲するのは神の旨を知ることであり、神が所有するものと神そのものを理解することです。そうすれば、もう二度と神に背くことなく、経験を通してさらに神の素晴らしさやその真実の側面を知ることができるようになるからです。そしてまさに正真正銘の神が彼らの心に宿り、神が心の中に居場所を確保するため、もはや想像や観念や不明瞭さの中に生きる必要がなくなるからです。こうした人々が神の性質と本質を理解したいとそれほど切実に願うのは、人間の経験の中で神の性質と本質はいつも必要なものであり、一生を通していのちを与えてくれるものだからです。一度神の性質を理解すれば、神をより畏れ、その計画に協力することがより適切に行えるようになり、神の旨にますます配慮し、持てるすべての力を尽くして自分の本分を果たすことができるようになります。これが、神の性質に対する2種類の人々の態度です。一方の人々は神の性質を理解したがらず、口では神の性質を理解し、神自身を知り、神の持てるものとその実質とを目にし、心から神の旨を把握したいと言うものの、心の奥底では神が存在しなければよいと思っています。なぜならこの種の人々は一貫して神に不従順であり、神に反抗しているからです。自分自身の心の中の居場所を神と奪い合い、しばしば神の存在を疑い、それを否定さえしています。彼らは神の性質や真の神自身が自分の心を支配することを望みません。彼らの望みは、自分の欲望や想像、野心が満たされることだけです。つまり彼らは神を信じ、神に従い、さらに家庭や仕事を神に捧げているかもしれませんが、それでも悪の道を進むことはやめていないのです。ひどい場合には献金を盗んだり浪費したり、ひそかに神を罵ったりする者もあれば、自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をし、自分の立場を強化し、人々や地位を神と争うような者もいます。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々を魅了し、支配しようとしています。場合によっては、意図的に人々を欺いて自分自身が神であるかのように思わせ、神のように扱われようとする者さえいます。彼らは自分が堕落しているとは決して言いません。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえず、どれだけ立派にやっていても、すべては神に高められたためであり、ただすべきことをしているだけだ、とは決して言いません。なぜそう言わないかといえば、人々が自分に見向きもしなくなることを深く恐れているからです。だからそのような者は決して神を称賛せず、神に証しすることもありません。彼らは一度も神を理解しようとしたことがないからです。神を理解せずに、神を知ることができるでしょうか。不可能です。そのため、この「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマはシンプルなようですが、人によってその意味するところは異ってくるのです。しばしば神に逆らい、反抗し、神に敵対する者にとっては、この言葉は断罪を意味しますが、真理現実を追い求め、しばしば神の前に出て神の旨を知ろうと努める者は、水を得た魚のようにこの言葉を受け止めます。あなたがたの中には、神の性質と神の働きについての話を聞くと頭が痛くなり、心が抵抗感で満たされ、非常に不愉快に感じる人もいます。しかしまた、このテーマは非常に有益なので、まさに自分が必要としているものだ、と思う人がいます。それはその人のいのちの経験に欠かすことのできない、何物にもまさる最重要課題で、神への信仰の基盤であり、人間が捨て去ることのできないものなのです。このテーマはみなさん全員にとって、近くもあり、遠くもある、そして知らないようで知っている、そんな風に思われるかもしれません。しかしいずれにしても、これはすべての人が聞き、知り、そして理解しなければならないものです。このテーマをどのように扱うにせよ、どのような視点で捉えるにせよ、またどのように理解するにせよ、その重要性は無視することができません。

神はその働きを人間の創造の時からずっと行っています。当初、それはかなり単純な働きでしたが、その単純さにもかかわらず、そこには神の本質や性質が内包されていました。現在、神の仕事は高められ、神は自分に付き従うすべての者に対して膨大な量の具体的な働きを行い、大いなる言葉を語っています。しかし神の本体というものは、常に人間から隠されてきました。神は二度受肉しましたが、聖書の記述から現代に至るまで、神の実体を見たという人はいるでしょうか。あなたがたの理解に基づいて、神の実体を見たことがあるという人はいますか? いませんね。神の実体を見た人がいないということは、誰も真の神自身を見たことがないということです。この点については誰もが同意するでしょう。つまり、神の実体あるいは神の霊というものは、神が創造したアダムとエバや、神が受け入れた義人ヨブも含め、すべての人に対して隠されているということです。彼らですら、神の実体を見てはいません。しかしなぜ、神は意識的にその実体を隠すのでしょうか。これについては、「神は人々を怖がらせたくないのだ」と言う人もいれば、「神がその実体を隠しているのは、人間が小さすぎて、神は偉大すぎるからだ。人間が神を見ることはできない。見れば人間は死んでしまう」と言う人もいます。また別の人は、「神は日々働きを行うのに忙しすぎて、人々の前に現れる時間がないのかもしれない」と言っています。あなたがたがどう信じているにせよ、わたしには1つの結論があります。それは、神は単に人々にその実体を見せたがっていない、ということです。神は故意に、人の目から姿を隠しているのです。言い換えれば、人に神の実体が見えないのは、神の意図によるところなのです。このことはもう皆がはっきり知っていなければなりません。神がその本体を誰にも見せたことがないなら、神の本体は存在すると思いますか?(存在します。)もちろん神の本体は存在します。神の本体が存在することについて、議論の余地はありません。しかし神の本体がいかに偉大なものか、あるいはどのような姿なのか、ということは人間が研究すべき問題でしょうか。いいえ、そうではありません。神の本体というものがわたしたちの探究すべきテーマでないとすれば、わたしたちが学ぶべき問題は何なのでしょうか。(神の性質。)(神の働き。)では正式なテーマについて交わりを持つ前に、先ほど話したことをもう一度おさらいしましょう。神はなぜ、その本体を人に現したことがないのでしょうか。なぜ神はあえてその本体を人間から隠しているのでしょうか。その理由はただ一つ。つまり、神に創造された人類は何千年ものあいだ、神の働きを経験してきましたが、誰一人として神の働き、神の性質、神の本質を知る者はいないからです。そのような人間は神の目から見れば、自らに敵対する存在であり、自分に敵対する者に神がその姿を現すことはありません。これが、神が人間に対してその本体を現さず、意図的に人間からその本体を隠している唯一の理由です。これで、神の性質を知ることの重要性がはっきりしたでしょうか。

神の経営が開始されてから今まで、神は常に全力でその働きを遂行してきました。神はその本体を人間から隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して働きをなし、自身の性質を現し、自身の本質によってすべての人間を導き、その力、知恵、権威を通して一人一人の人間に働きを行っています。こうして神は、律法の時代、恵みの時代、そして現在の神の国の時代を現実のものにしたのです。神は人間から自分の本体を隠してはいますが、その性質、その存在と所有しているもの、そして人間に対する旨は、人間が目にし経験することができるよう、無条件に露わにされています。言い換えれば、人類は神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験する神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということです。それが真実ではないでしょうか。神はどのような方法あるいは見地からその働きを行うにせよ、常にその正体を通じて人間を扱い、自身がすべきことを行い、語るべきことを語ります。どの位置から語るにしても――神は第三の天にいることも、肉を持って存在することも、さらに普通の人として存在することもありますが――神は常に心と思いを尽くして、欺きも隠しもせず人に語りかけてきます。働きを行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして神が所有するものと神そのものを余すところなく現します。そして自身のいのちと神であるもの、神が所有するものを用いて人間を導くのです。こうして人は、人類の揺籃期である律法の時代を、「見ることも触れることもできない」神の導きによって生き抜いてきたのです。

神は律法の時代のあと、初めて受肉し、受肉した人間の姿を三十三年半続けました。人間にとって、三十三年半は長い期間でしょうか。(長くはありません。)通常、人間の寿命は三十数年よりもずっと長いので、三十三年半は長い期間とはいえません。しかし受肉した神にとって、この三十三年半はじつに長い期間でした。神は人間となり、神の働きと委託を行う普通の人となったのです。それは、普通の人では負いきれない仕事を引き受け、普通の人には耐え切れない苦痛にも耐えねばならないことを意味していました。主イエスの働きの始めから十字架にかけられるまでの間、恵みの時代に主イエスがどれほどの苦しみを受けたかは、今日の人間が直接目の当たりにすることはできないにせよ、少なくとも聖書の物語を通して多少は理解できるのではないでしょうか。記録された出来事にどれだけの詳細が含まれているかによらず、全体としてこの期間の神の働きは、困難と苦痛に満ちていました。堕落した人間にとって、三十三年半という期間は長いものではなく、多少の苦しみは大した問題ではありません。しかし聖く汚れなき神が、人間のすべての罪に耐え、罪人とともに食べ、眠り、生きなければならなかったその苦しみは計り知れません。神は創造主であり、万物の主、万物の支配者でありながら、この世にやってきたときは、堕落した人類による抑圧と残忍な行いに耐えねばなりませんでした。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間によって糾弾され、全人類の罪を背負わねばならなかったのです。イエスが経験した苦しみがどれほどのものだったかは、普通の人間が想像したり、理解したりできるものではありません。この苦しみは何を意味するのでしょうか。それは人類に対する神の献身です。これは人類の救いのため、その罪を贖うため、そしてこの段階の神の働きを完了させるために、イエスが被った屈辱と払った代価の象徴なのです。そしてまた、人類が神によって十字架から贖われることも意味しています。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物には決して払うことができないものです。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを有していたため、このような苦しみに耐え、この種の働きを行うことができました。これは神の被造物である者が代わって行える働きではなかったのです。これが恵みの時代における神の働きであり、神の性質の現れです。これで、神の持てるものとその実質について何かが明らかになるでしょうか。それは人間が知ろうとする価値のあるものでしょうか。この時代、人間は神の本体を見ることはありませんでしたが、神から罪のためのいけにえを受け取り、神によって十字架から贖われました。人類は神が恵みの時代に行った働きのことを知っているかもしれませんが、この時代に神が現した性質や旨をよく知っている人は果たしているでしょうか。人間は単に、それぞれの時代にさまざまな手段で行われた神の働きの詳細と、神がその働きを行っていたときにどんなことがあったかという、神に関連する物語を知っているだけです。こうした詳細や物語はせいぜい神に関する若干の情報あるいは伝説であり、神の性質や本質とは関係がありません。人間がどれだけたくさん神の物語を知っていても、それで神の性質や本質について深い理解や認識を持っているということにはなりません。恵みの時代の人々は受肉した神と間近で親密な交わりを経験したものの、律法の時代と同様、彼らの神の性質や本質に関する認識はないに等しかったのです。

神の国の時代、神は再び、一度目と同じように受肉しました。この働きの期間中も、神ははばかることなく言葉を表し、なすべき働きを行い、神が所有するものと神そのものとを現しています。そして同時に、人の不従順と無知にも寛容をもって耐え続けています。神はこの働きの期間にも、自身の性質と旨とを現し続けているではありませんか。つまり、人間が神に創造されてから今日まで、神の性質、神であるものと神が持っているもの、そして神の旨は、常にすべての人に開かれてきたのです。神が自らの本質、性質、その旨を意図的に隠したことは一度もありません。ただ単に人間が、神が行っていることやその旨に無関心なだけで、そのため人間は情けないほど神を理解できていないのです。別の言い方をすれば、神はその本体を隠しつつも、常に人間のそばにいて、その旨、性質、本質を絶え間なく明らかに示しているのです。ある意味では神の本体も人々に対して開かれているものの、人間は無知と不従順のため、神の現れを一切見ることができないのです。それならば、神の性質と神自身を理解することは誰にとっても易しいはずではないでしょうか。これはとても難しい質問ですよね。簡単だ、と言うこともできるでしょうが、神を知ろうと努めている人々も、神を本当の意味で知ったり明確な理解を得たりすることはできず、ぼんやりと曖昧な認識のままになっています。しかし「簡単ではない」、と言ってしまうのもまた正しくありません。人々はこれほど長い間神の働きの対象となってきたのだから、すべての人はその経験を通して、神と純粋に交わってきているはずです。少なくともある程度は、心の中で神を感じたり、神との霊的な触れ合いを経験したりしたことがあるはずで、少なくとも神の性質について何らかの知覚的な目覚めを経験しているか、神について何らかの理解を得ているはずです。人間は神に従い始めてから今日まで、じつに多くのものを神から受け取ってきましたが、人間の能力の限界、無知、反抗心、さまざまな意図などというあらゆる理由で、その多くを失ってもいるのです。神は人間にすでに充分与えたのではないでしょうか。その本体を人間から隠してはいるものの、神は人間に神が所有するものと神そのものを与え、自らのいのちすらも与えています。神についての人間の認識は、もっと豊かであるべきなのです。そのためわたしはこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについて、より深く交わりを持つ必要があると思うのです。その目的は、神が何千年もの間ずっと人間に対して注いできた思いが無駄に終わらないようにすることと、人間が自分への神の旨を真に理解し、それに感謝できるようになることです。それによって人は神の認識の新しい段階へと進むことができ、また神は人々の心の中の本来あるべき場所に戻ることになります。それが、人間が神に対してなすべき義なのです。

神の性質と神自身を理解するには、まず小さなことから始めなければなりません。しかしどの「小さなこと」から始めればいいのでしょうか。手始めとして、わたしは聖書のいくつかの章を選び出しました。以下の内容には聖書の節が含まれており、すべて「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマに関係しています。これらの抜粋は、あなたがたが神の働き、神の性質、そして神自身について知るための参考として特に役立つはずです。これらを見ていくことで、神が過去の働きを通してどんな性質を現わされたか、そして人々が神の本質のどんな側面を知らずにいるかを理解できるでしょう。これらの章は古いかもしれませんが、わたしたちが今扱っているテーマは新しく、人々が知ったことも聞いたこともないものです。そんなことはありえないと思う人もいるかもしれません。アダムとエバを取り上げ、またノアを扱うのは、同じ道程を後戻りすることではないのか、と。しかしどう思われるにせよ、これらの章はこのテーマを扱う上で非常に有益であり、今日のテーマについての教科書、あるいは直接的な資料として利用できます。このテーマについてわたしが話し終わる頃には、わたしがなぜこれらの章を選んだのかがわかるはずです。聖書を読んだことがある人なら、これらの節を読んだことはあるかもしれませんが、本当には理解できていないかもしれません。ではまず一度ざっと目を通してから、それぞれを細かく見ていくことにしましょう。

アダムとエバは人類の祖先です。聖書に登場する人物を挙げるなら、まず出てくるのがこの二人です。次にノアが、人類の第二の祖先です。では第三の人物は?(アブラハム。)アブラハムの物語は、皆さん知っているでしょうか。知っている人もいるでしょうが、よく知らない人もいるかもしれません。では第四の人物は? ソドムの滅びの話の中で出てくる人物です。(ロト。)でもロトは、この話の中には出てきません。出てくるのは誰でしょうか?(アブラハム。)アブラハムの物語でおもに示されているのは、ヤーウェ神が何を言ったかということです。わかるでしょうか。では五人目の人物は?(ヨブ。)神は現段階の働きの中で、ヨブの物語を多く示していないでしょうか。ではあなたがたは、この物語をとても重要だと思っているでしょうか。もし重要と思うなら、聖書のヨブの物語を注意深く読んだことはありますか? ヨブが何を言い、何をしたか知っていますか? この中で一番ヨブの物語を読んでいる人は、何回読んだでしょうか。頻繁に読んでいるでしょうか。香港の姉妹たち、教えてくれませんか。(以前、恵みの時代の話をしたときに、二回ほど読みました。)それ以後は読んでいませんか? それは残念なことです。ここで言いたいのは、神がこの段階の働きの中でヨブに何回も言及しており、それが神の意図を反映しているということです。神がヨブにこれほど頻繁に言及していながら、あなたがたがそれに注意を向けなかったのは、あなたがたが良い人間になることや、神を畏れ悪を避けることに、関心を持っていないということの証明です。なぜなら皆さんは、ただ神が語ったヨブの物語をおおまかに理解しただけで満足しているからです。ただ物語自体を理解しただけで満足し、ヨブという人物の詳細や、神が何度もヨブに言及することの理由については、気にもせず理解しようともしていません。神に称賛されたこのような人物に関心を持たないなら、皆さんは一体何に注意を払っているのでしょうか。このように神が言及する重要な人物を、気にもせず理解しようともしないのなら、それは神の言葉に対する皆さんの態度について、どんなことを示しているでしょうか。それは嘆かわしいことではないでしょうか。それは皆さんの多くが、実践的なことを行っておらず、真理を追求してもいないということの証明ではないでしょうか。もし真理を追求しているなら、神が認めた人々と、その人物について神が語った物語に、相応の興味を抱くはずです。自分がその通りに生きられるかどうか、それらの物語を明らかだと感じるかどうかによらず、とにかくすぐにそれを読んで理解しようとし、その例にならう方法を見つけ、自分にできることを精一杯するはずです。それが、心から真理を求める者の態度というものです。しかし実際には、ここにいるほとんどの人はヨブの話を一度も読んだことがありません。このことが意味するところは大きいものです。

それでは話を元に戻すことにします。この旧約の律法の時代に関連する箇所では、聖書を読んだことがある人ならたいてい誰でもよく知っている、代表的な人物の物語に焦点を当てることにしました。これらの人物の物語を読めば、神が彼らに行った働きや語った言葉は、今日の人々にも等しく通じるものだと誰でも感じることができるでしょう。これらの物語や聖書の記録を見ると、当時神がその働きをどのように行い、どのように人々を取り扱ったかについて、よりよく理解することができます。しかし今日わたしがこれらの章を取り上げることにしたのは、物語自体やその登場人物に集中してもらうためではありません。これらの人物の物語を通して、神の行いや神の性質を見えるようにするためです。それによって神を理解しやすくなり、神の真の側面が見えるようになって、神についての憶測や観念が払拭され、あいまいな信仰に終止符を打てるようになります。確固たる基盤がないまま、神の性質を理解し、神自身を知ろうとしていると、しばしば無力感に途方に暮れることになり、どこから手を付ければよいかさえわからなくなります。このためわたしは、皆さんが神をよりよく理解し、神の旨をより確かに認識し、神の性質と神自身について知り、真に神の存在を感じて、人間に対する神の旨を理解するために役立つ、ある方法とアプローチを作り出そうと考えました。これは皆さんにとって有益なのではないでしょうか。では今、これらの物語と聖書の節を改めて読んでみて、心の中でどんなことを感じるでしょうか。わたしが取り上げた箇所は不適切だと思いますか? 先ほど言ったことをもう一度強調しなければなりませんが、これらの人物の物語を見ていく目的は、神が人々に対してどのように働きを行うのか、そして神の人間に対する姿勢がどんなものであるかを、皆さんに理解してもらうことです。こうしたことを理解するには、何が助けになるでしょうか。それは神が過去に行った働きを理解し、それを現在の神の働きと結びつけることです。それが、神の多様な側面を理解する助けとなります。そうした多様な側面は現実に存在するものであり、神を知りたいと願うすべての者に知られ、理解されなければならないものなのです。

では、アダムとエバの物語から始めることにします。まず聖書を読んでいきましょう。

A.アダムとエバ

1.アダムへの神の命令

創世記2:15-17 ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

この節からどんなことがわかるでしょうか。この箇所を読んでどのように感じますか? なぜわたしが「アダムへの神の命令」を取り上げたのだと思いますか? 皆さん一人一人が、神とアダムの姿を心に描けたでしょうか。想像してみてください……もし自分がこのシーンの中にいるとしたら、内心、神はどんなふうだと思いますか? それを考えてみると、どんな気持ちになりますか? これは感動的な、心温まるシーンです。そこには神と人間しかいませんが、その関係の親密さを見ると、感嘆の念に満たされます。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包み込んでいます。人間は無邪気で純粋で、重荷もなく気ままに、神に見守られながら幸せに暮らしています。神は人間を気遣い、人間は神の保護と祝福の中で生きています。人間の行動と言動は一つひとつすべてが神と密接につながっており、神と切り離すことはできませんでした。

この命令は神が人間を創造した後、最初に与えた命令だったといえます。この命令は何を表しているのでしょうか。それは神の旨ですが、同時に神の人類に対する懸念も表しています。これは神の最初の命令であり、そしてこのとき初めて神は、人間に対する懸念を表しました。すなわち、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を感じていたということです。神の責任とは何でしょうか。それは人間を守り、世話をするという責任です。神は人間が神の言葉を信頼し、従うことを望みました。それは神が人間に抱いた最初の期待でもあります。神はこの期待をもって、次のように言いました。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。この単純な言葉には神の旨が表されています。そしてまた、神が心の中で人間に対する懸念を抱き初めていたことも示されています。万物のうちで、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれた生き物であり、神とともに歩み、神と対話できる存在でした。そのため神はこの命令を人間に与えたのです。神はこの命令の中で、人間が何をしてよいか、そして何をしてはいけないのかを、非常にわかりやすく伝えました。

この単純な言葉から、神の心をうかがい知ることができます。それはどのような心でしょうか。神の心に愛はあるでしょうか。また、懸念はあるでしょうか。これらの節では神の愛と懸念とが認められるだけでなく、それらを強く感じ取ることができます。そう思いませんか? わたしがこう言っても、まだこれらを単なる言葉だと思うでしょうか。結局のところ、この言葉はそれほど単純ではないのではないでしょうか。これまでそのことに気づいていましたか? もし神があなたに直接これらのことを語ったとしたら、どう感じるでしょうか。もしあなたが人間味のない人で、心が冷え切っているなら、何も感じないでしょうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないでしょう。しかし良心と人間味のある人なら、見方は違ったものになります。温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じるでしょう。そうではありませんか。そうしたことを感じたら、神に対してどのように行動するでしょうか。神とのつながりを感じるでしょうか。心の底から神を愛し、敬うでしょうか。心は神に近づくでしょうか。このことから、神の愛が人間にとってどれだけ重要かが見て取れるでしょう。しかしさらに重要なのは、人間が神の愛を認識し、それを理解することです。実際、神は働きのこの段階において、似たようなことを多く語ってはいないでしょうか。今日、神の心を理解している人々はいるでしょうか。皆さんは、今わたしが述べた神の旨を理解できたでしょうか。これほど具体的で明らかに現実に示されている神の心さえ、皆さんははっきりと認識できずにいます。だからわたしは、皆さんが神についての本当の認識と理解を得ていないと言うのです。そうではないでしょうか。しかし今はとりあえず、ここまでにしておきましょう。

2.エバの創造

創世記 2:18-20 またヤーウェ神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そしてヤーウェ神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

創世記 2:22-23 ヤーウェ神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

この箇所には、鍵となる一文があります。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで、すべての生き物に名前をつけたのは誰でしたか? それは神ではなく、アダムでした。この一文はある事実を人類に示しています。神は人間を創造したとき、人間に知性を与えました。つまり、人間の知性は神に由来するものだということです。それは間違いありません。しかし、なぜでしょうか。アダムは神に創造された後、学校へ行ったでしょうか。アダムは字を読むことができたでしょうか。神がさまざまな生き物を造った後、アダムはそれらの被造物をすべて認識することができたのでしょうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのでしょうか。もちろん神は、アダムにそれらの生き物の名前をどうつけたらよいかも教えていません。それは事実です。ではアダムは、どうやってそれらの動物に名前をつけ、またどんな名前をつけばよいか、どのように知ったのでしょうか。これは神が創造の際に、アダムに何を与えたかという問題に関わっています。神が人間を創造したとき、人間に知性を与えたということは、事実によって証明されています。これは鍵となるポイントなので、よく聞いてください。またもう一つ、理解しておかなければならない重要な点は、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということです。なぜこれを言うかというと、そのこともまた神の性質に関わっているからです。この点について、さらに詳しく説明したいと思います。

神は人間を創造し、人に息を吹き込み、自らの知恵と能力の一部、そして神が所有するものと神そのものとを人間に与えました。神が人間にこれらのものをすべて与えた後、人間はいくらかのことを自分で行えるようになり、自分で考えられるようになりました。人間が思いつき行うことが、神の目から見て良いものであれば、神はそれを受け入れ、干渉することはありません。人間の行うことが正しければ、神は人間の思うようにさせておくのです。では、「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。それは、神はさまざまな動物に与えられた名前を変えるべきだとは思わなかったということです。アダムが生き物をどんな名前で呼んでも、神はその名前を認め、それをその生き物の名前としたのです。神はここで何か意見を言ったでしょうか? 一切言いませんでした。このことから何が読み取れるでしょうか。神は人間に知性を与え、人間はその知性を用いて物事を行いました。人間のすることが神の目から見て良いものであれば、神は一切評価や批判をすることなくそれを支持し、認め、受け入れます。これはどんな人間にも、悪霊、すなわちサタンにも絶対にできないことです。ここに、神の性質の現れを見てとることができるでしょうか。人間、堕落した人、あるいはサタンに、誰かが自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるでしょうか。もちろんできません。きっとその自分とは別の人物または勢力と、その立場を争って戦うのではないでしょうか。もちろんそうでしょう。もしあのときアダムと一緒にいたのが堕落した人間かサタンだったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを否定したでしょう。自分が独自に考えられること、独特の見解を持っていることを証明するために、アダムのしたことをすべて否定したはずです。「その名前にしたいと? いや、わたしならその名前にはしない。わたしはこの名前にする。君はトムと名付けたが、わたしはハリーと呼ぶことにする。わたしは自分がどれだけ利口かを示してみせる」といったふうにです。これはどのような本性でしょうか。恐ろしく傲慢ではありませんか。そして神はどうでしょうか。神にそのような性質はあるでしょうか。神はアダムがしたことに、何かおかしな反対をしたでしょうか。そんなことは一切ありません。神が示す性質には、論争、傲慢、独善などは一切見られないのです。それは明らかです。これは些細なことに見えるかもしれませんが、神の本質を理解せず、神がどのように働きどんな態度を持つかを心から知ろうとしていなければ、神の性質を知ることはできませんし、神の性質の表現や明示を見出すこともできません。そうではありませんか。今説明したことに同意されるでしょうか。神はアダムがしたことに対して、「よくやった、お前は正しいことをした、お前に同意しよう」と壮大に宣言したりはしませんでした。ただ心の中でアダムのしたことを認め、受け入れ、褒め称えたのです。これは人間が創造されてから、神の指示によって行った最初のことでした。人間が神の代理として、神の代わりに行ったのです。神の目から見れば、それは自分が人間に与えた知性によって行われたことでした。神はそれを良いこととして、肯定的に捉えました。このときアダムが行ったことは、神の知性が人間を通して現れた最初の出来事であり、それは神の視点から見て優れた現れだったのです。ここであなたがたに伝えたいのは、神がその所有するものと神そのもの、そしてその知性の一部を人間に授けたのは、人間を神の現れとなる生き物にするためだったということです。このような生きる被造物が神の代理として物事を行うことこそ、まさしく神がずっと見たがっていたことだったのです。

3.神がアダムとエバのために皮の着物を作られる

創世記 3:20-21 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

ではこの三番目の節を見ていきましょう。ここではアダムがエバに与えた名前に、実際に意味があるということが語られています。これはアダムが、創造された後に自分の考えを持ち、多くのことを理解していたことを意味します。ただここでは、彼が何をどのくらい理解していたかということについては掘り下げません。それはこの第三の節で取り上げたい点ではありません。ではここで取り上げるポイントとして、次の箇所を見てみましょう。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところです。今日、この聖句の意味するところを掘り下げなければ、あなたがたはもしかすると一生、この聖句の深い意味合いに気づかないかもしれません。まず、いくつかのヒントを出します。想像を膨らませて、アダムとエバが住んでいるエデンの園をイメージしてみてくだい。そこへ神がやって来ましたが、彼らは裸だったので隠れます。彼らの姿が見えないため、神が呼びかけると、「お目にかかることができません、わたしたちは裸ですから」という答えが返ってきました。彼らは裸だったため、神に会おうとしなかったのです。このときヤーウェ神は彼らに何をしたでしょう。原文にはこう書いてあります。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。ここから、神が何の素材で人間の服を作ったかわかるでしょうか。神は動物の皮を使って人間の服を作りました。つまり神は毛皮のコートを作り、人間に服として着せたのです。これが、神が人間のために最初に作った服です。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着られるものではありません。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか」と聞かれたら、「毛皮のコート」と答えればよいでしょう。「誰がその毛皮のコートを作ったのか」と聞かれたら、「神が作られた」と答えればよいのです。これがここでの重要なポイントです。この服は神によって作られたものでした。これは注目に値することではないでしょうか。説明を聞いて、心にイメージが浮かんだでしょうか。少なくとも大まかには想像できたと思います。今日このことをお話しするのは、人間の最初の衣類が何だったかを伝えるためではありません。では要点は何でしょうか。それは毛皮のコートではなく、神がここでの行いによって表されたような、神の性質、神が所有するもの、神そのものを、人がどうやって知るかということなのです。

「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。ここで、アダムとエバと共にいる神は、どんな役割を果たしているでしょうか。人間が二人しかいないこの世界で、神は自らをどのように現しているでしょうか。それは神という役割でしょうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれませんか。(親としての役割。)では韓国の兄弟姉妹よ、神はどのような役割で現れていると思いますか。(家族の長。)台湾の兄弟姉妹は、どう思いますか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割。)すると、神がアダムとエバの家族の一員として現れていると思う人もいれば、家族の長として現れているという人も、また親として現れていると思う人もいるわけですね。そうした答えはいずれも適切です。しかし、わたしが言わんとしていることは何だかわかるでしょうか。神はこの二人の人間を創り、二人を自身の友として扱いました。二人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、食物や衣類、住居の世話をしたのです。ここでは神は、アダムとエバの親として現れています。このとき、人は神がどれだけ高尚であるかを目にせず、神の至高、その神秘、そして特にその怒りや威厳を見ることはありませんでした。人が見たのは、神の謙遜、慈しみ、人間への思い、そして人間に対する責任感と配慮です。神の態度やアダムとエバの扱い方は、親が自分の子供を気遣うのに似ています。また親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのにも似ており、その情は本物で目に見える具体的なものです。神は自らを高尚な威厳ある者として位置付けるのではなく、自分で動物の皮を使って人間のために衣服を作ったのです。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためであったか、寒さから守るためであったかは問題ではありません。重要なのは、人間の体を覆うこの衣服を、神が自らの手で作ったということです。神は人間が想像するように、ただ思考だけで衣服を生み出したり、その他の奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ人が神にはできない、すべきでないと考えるような方法で作ったのです。これは些細なことに見えるかもしれず、あえて語る必要もないと思う人もいるかもしれません。しかし神に従いながらも、神について曖昧なイメージしか持てずにいた人たちは、この箇所を見ることで、神の純粋さや魅力を知り、その誠実さと謙遜を見てとることができます。そして自分が偉く力のある存在だと考えているどうしようもなく高慢な人たちは、神の純粋さと謙遜の前に恥じ入り、自惚れていたその頭を下げることになります。さらにここで現されている神の純粋さや謙遜を通して、人は神の魅力を知るようになるのです。それに比べると、人が心に抱いている「強大な」、「愛すべき」、「全能の」神は、矮小で醜い、吹けば飛び散る塵のようなものになってしまいます。この節を読み、この物語を聞いて、皆さんはこんなことをした神を見下すでしょうか。そういう人もいるかもしれませんが、その他の人々にとってはまったく逆で、神が真実で愛すべきものに思えることでしょう。人々の心を動かすのは、まさに神の純粋さと愛すべき性質なのです。人は神の真実の側面を知れば知るほど、神の愛の実在、心の中に存在する神の重要性、そして神がどんなときも自分に寄り添ってくれることを、強く認識できるようになるのです。

ではここで、話を現在とつなげてみましょう。神がこのような初期に、自らが創造した人間に対し、このようにさまざまな小さなこと、人間がまったく考えも予想もしなかったようなことまでしてくれるのなら、今日の人々に対しても、神はそんなことができるのでしょうか。「もちろんだ!」と言う人もいるでしょう。それはなぜでしょうか。それは神の本質が偽物ではなく、神の魅力も偽物ではないからです。神の本質は真に存在しており、他者によって付け足されるものではなく、時間や場所、時代によって変わるものでも決してないからです。神の純粋さや魅力は、人間が注目に値するとも重要だとも思わない行為によってのみ、真に表されるのです。それは非常に些細なことで、神がするとはとても思えないようなことです。神は偉ぶってはいません。神の性質や本質の中には、誇張、偽装、高慢、傲慢などというものは存在しません。神は決して自慢することなく、自身が創造した人間を愛し、配慮し、世話をし、忠実に誠意をもって導きます。人々がどれほどこのことを認識し、感じ、理解していなかろうとも、神は間違いなくそうしています。神がそんな本質を持っていると知ることで、人々の神への愛に影響があるでしょうか。神への畏れに影響があるでしょうか。わたしはあなたが神の本当の側面を理解することで、神にますます近づき、神の人間への愛と配慮をより深く理解できるようになるとともに、神に心を捧げ、神に対する疑いもいぶかりも持たなくなることを願っています。神は人間のためにすべてのことを静かに行っており、すべてを誠意と忠実と愛を通して無言で行っています。しかし自らの行うことについて、不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らの見返りを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ありません。神がこれまでに行ったすべてのことの唯一の目的は、人間の真の信仰と愛を受け取ることです。これで、1つ目のテーマを終わりにしたいと思います。

これらの話は役に立ったでしょうか。どのように役立ちましたか?(神の愛についてより深く知り、理解することができました。)(このような交わり方は、将来わたしたちが神の御言葉をよりよく認識し、神の持っておられた感情と、神が語られた言葉の背後にあった意味を深く理解し、そのとき神がどんなふうに感じていたのかを感じ取るのに役立つと思います。)こうした言葉を読んで、神の実際の存在がさらに強く感じられるようになった人はいますか? 神の存在がもう虚ろでも曖昧でもなくなったと感じますか? そう感じるようになったなら、神があなたの傍らにいることを感じられるでしょうか。もしかすると、今はまだその感覚がはっきりしなかったり、まだ感じることができなかったりするかもしれません。しかしいつの日か、心に神の性質と本質についての深い理解と本物の認識を持てるようになると、神が自分の傍らにいることを感じられるようになります。単にこれまでは一度も、心の中に神を真に受け入れてこなかっただけです。それが真実なのです。

このような交わり方をどのように思うでしょうか。ついて来れていますか? 神の働きとその性質というテーマでのこのような交わりは、とても重いと思われるでしょうか。どのように感じますか。(とてもよいです。わくわくします。)何がよいと感じたのでしょうか。なぜわくわくするのでしょうか。(エデンの園に戻って、神の側にいるようでした。)「神の性質」というのは実際、皆にとってあまり馴染みのないテーマです。普段あなたが想像したり、本で読んだり、交わりの中で聞いたりすることは、盲人が象を触るような気分にさせることが多いからです。つまり手探りするだけで、実際あなたの目では何も見ていないということです。闇雲に手探りするだけでは、神について大まかに理解することもできず、ましてやはっきりした概念を持つことなどできません。ただますます想像をかき立てられ、神の性質や本質を正確に定義することはできなくなります。そして想像から生まれる不安は、必ず心を疑いで満たします。何かについて確信が持てず、それでもそのことを理解しようとするとき、心にはいつも矛盾と葛藤が生まれ、時には混乱すら生じ、困惑して途方にくれることになります。神を追い求め、神を知り、神をはっきり見たいと願いつつも、永遠に答えが見つからないように感じるのは苦痛なことではないでしょうか。もちろんこうした言葉は、畏れつつ神を崇め、神を満足させることを願う人々だけに向けたものです。そうしたことにまったく関心のない人たちには、実際これは問題ではありません。彼らにとっては、神の現実性と存在とは単なる伝説や幻想であることが最も望ましいからです。そうであれば自分のしたいことが何でもできるし、自分が最も偉大で重要な存在となれるだけでなく、結果を気にせず悪事を行うことができるし、懲罰を受けたり責任をとったりする必要もなく、神が悪を行う者について言うことさえ自分たちには当てはまらなくなるからです。そのような人々は、神の性質を理解する気はありません。彼らは神を知ろうとすることや神に関するすべてにうんざりしており、神が存在しないほうがよいと思っています。このような人々は神に敵対しており、淘汰される者たちなのです。

では次は、ノアの物語と、それがこの「神の働き、神の性質、そして神自身」とどのように関係するかを見ていきましょう。

この聖書の箇所で、神はノアに何をしているでしょうか。おそらくここにいる全員が、少しはそれを読んだことがあるでしょう。神はノアに箱舟を作らせ、その後洪水によって世界を滅ぼしました。神はノアに箱舟を作らせてノアの八人の家族を救ったため、彼らが生き残り、次世代の人類の祖先となったのです。では聖書を読んでいきましょう。

B.ノア

1.神が世界を洪水で滅ぼそうと考え、ノアに箱舟を作るように命じる

創世記 6:9-14 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい」。

創世記 6:18-22 「ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。ノアはすべて神の命じられたようにした。

この二つのくだりを読んで、ノアという人物についてはほぼ理解できたでしょうか。ノアはどのような人物でしたか? 聖書にはこう書かれています。「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」。現代の人々の理解からして、当時の「正しい人」とはどんな人だったのでしょうか。正しい人とは、完全な人であるはずです。その完全な人というのは、人間の目から見て完全なのでしょうか、それとも神の目から見て完全なのでしょうか。ここでいう完全な人とは間違いなく、神の目から見て完全な人であり、人の目から見て完全な人ではありません。それは確かなことです。なぜなら人間は盲目で見ることができず、神だけが全地を見渡し人間一人一人を見ているのであり、神だけがノアが完全な人だと知っていたのです。したがって、洪水で世界を滅ぼすという神の計画は、神がノアを召し出したときから始まっていたのです。

その時代、神はノアにとても重要な仕事をさせようと考えました。なぜそうしなければならなかったのでしょうか。それはそのとき、神の心の中に計画があったからです。その計画とは洪水で世界を滅ぼすことでした。なぜ世界を滅ぼすのでしょうか。聖書にはこう書かれています。「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」。この「暴虐が地に満ちた」という部分から、何が見て取れるでしょうか。それは世界とそこに住む人々がこれ以上ないほど堕落していたという事実であり、それが「暴虐が地に満ちた」という当時の状況です。今日の言葉で言えば、「暴虐が満ちた」とはすべてのことがおかしくなっているということです。人間にとっては生活のあらゆる側面で、秩序らしきものがすべて失われており、すべてが混沌として手がつけられなくなっていたのです。そして神の目から見れば、それは世の人間が堕落しすぎていたということです。どれほどの堕落だったのでしょうか。それは神がもはや目も当てられないほど、忍耐の限界を超えるほどの堕落であり、神が滅ぼそうと決めたほどの堕落です。神は世界を滅ぼすと決めたとき、誰かに箱舟を作らせることを計画しました。そしてその人物としてノアを選び、ノアに箱舟を作らせました。なぜ神はノアを選んだのでしょうか。神の目にはノアは正しい人であり、神がどんな指示を出してもそれに従いました。つまりノアは、神の言うことなら何でも進んで行ったのです。神はそのような人を見つけて、自分と共に働かせ、委ねた仕事を完了させて、地上での自らの働きを完成させたいと思っていました。当時、ノア以外にこのような仕事を成し遂げられる者がいたでしょうか? まったくいませんでした。ノアが唯一の候補者であり、神が委ねた仕事を完成させることのできる唯一の人間だったため、神はノアを選んだのです。しかし今日、人々を救うにあたっての神の制限や基準は、当時のものと同じでしょうか。その答えとしては、間違いなく違いはあります。なぜこの質問をするのかというと、当時ノアは神の目から見て、「唯一の」正しい人間でした。それはつまり、彼の妻も息子たちも息子の妻たちも、誰一人正しい者ではなかったことを意味しますが、それでも神はノアのために彼らを生かしました。神は今日の人々に対するような要求を彼らにつきつけることはせず、ノアの八人の家族全員を生かしたのです。ノアの家族は、ノアの義のために神の祝福を受けました。ノアがいなかったら、誰も神が委ねた仕事を全うすることはできなかったでしょう。したがって、本来はノアだけが世界の破滅を逃れられる者だったのであり、他の者は単にそのおこぼれに与ったのです。このことから、神が正式に経営の働きを開始する前の時代には、神が人間を扱った原則と基準、そして人間に求めた原則と基準が、相対的に緩いものだったことがわかります。今日の人々からすれば、ノアの家族に対する神の扱いは公平さに欠けるように見えます。しかし神が今日の人々に対して行っている膨大な働きと、現在伝えている膨大な量の言葉に比べれば、ノアの八人家族に対する扱いは、単に当時の神の働きを背景とする働きの原理に従ったものでした。ノアの八人の家族と今日の人々を比較した場合、どちらがより多くを神から受けとっているでしょうか。

ノアが召し出されたことは単純な事実ですが、わたしたちの話の要点、すなわちこの聖書のくだりに現れている神の性質、神の旨、神の本質は、それほど単純なものではありません。これらの神の側面を理解するためには、まず神が召し出したいと思うのはどんな人物なのかを理解してから、それを通して神の性質、旨、そして本質を理解しなければなりません。このことは非常に重要です。では神の目から見て、召し出される人物とはどんな人物だったのでしょうか。それは神の言葉を聞くことができ、指示に従うことができる人物に違いありません。また同時に、責任感があり、神の言葉を自分の果たすべき責任かつ義務とみなして遂行できる人物であるはずです。ではその人物は、神を知っている必要があるでしょうか。そうではありません。当時ノアは、神の教えをあまり聞いておらず、神の働きも経験していませんでした。そのためノアは神のことをほとんど知らなかったのです。この聖書のくだりには、ノアが神と共に歩んだとありますが、ノアは神の本体を見たでしょうか。まったく見ていません。なぜならこの時代には、神の使いだけが人々の中にやって来たからです。使いたちは言葉や行いの中で神を表すことはできましたが、ただ神の旨とその意図を伝えているに過ぎませんでした。神の本体が人間に対して直接明らかにされることはなかったのです。この聖書のくだりに見ることができるのは、基本的にこのノアという人物に与えられた仕事が何だったのか、そして神のノアに対する指示はどんなものだったのかということだけです。では、ここで現された神の本質とはどんなものだったのでしょうか。神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。では、当時と今の違いは何でしょうか。それもまた、神の心を最も悲しませていることであり、おそらくあなたがたの誰も理解できないことなのです。

神が洪水で世界を滅ぼしたとき、神はノアを召し出し、箱舟を作らせ、備えをさせることができました。神はノアという一人の人間を召し出し、自らのためにこのような働きをさせることができました。しかし今の時代には、神が召し出せる者は誰もいません。なぜでしょうか。ここにいる人たちは皆、その理由をよくわかっていることと思います。説明が必要でしょうか。あえて言葉にすれば、あなたがたの顔をつぶし、悲しませてしまうかもしれません。人によってはこのように言うかもしれません。「わたしたちは神の目にあって正しい者ではなく、完璧な者でもないが、それでも神がわたしたちに何かを命じるなら、その命令を実行する力はある。以前、神が大災害が来ると言われたとき、わたしたちはその時に備えて、食料など必要なものを準備し始めた。これはすべて、神の要求に応えたことではないのか。わたしたちは本当に神の働きに協力していなかったのか。わたしたちがしたことは、ノアのしたこととは比べられないのか。わたしたちが行ったことは真の従順ではないのか、神の命令に従ったのではないのか。わたしたちは神の言葉を信じているからこそ、神の言うとおりにしたのではないか。だとすればなぜ、神はまだ悲しんでいるのか。なぜ神は、召し出せる者がいないと言われるのか」と。では、あなたがたが行ったこととノアが行ったことに違いはあるでしょうか。どのような違いがあるでしょうか。(来る災害に備えて食べ物を準備したのは、自分自身の意思でした。)(ノアは神の目から見て正しい人でしたが、わたしたちの行いは「正しさ」には届きません。)あなたがたの言ったことは、さほど外れてはいません。ノアが行ったことは、今日の人々がしていることとは実質的に異なります。ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知りませんでした。神が何を成し遂げようとしているのかを知らなかったのです。神はただノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、ノアは大した説明も受けず、ただ言われたとおりに実行しました。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたりせず、神に抗ったり、不誠実になったりもしませんでした。ただ純粋で無垢な心で、神の指示に従ったのです。神がノアにするよう告げたことを、ノアはすべて行いました。神の言葉を聞きそれに従順に従うことは、ノアがその行いに信念を持っていることを証明していました。ノアはそのようにまっすぐにかつ単純に、神に委ねられたことを行いました。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、自分の個人的な利益や損得を考えることもありませんでした。そしてさらに、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつかと聞いたり、物事がどうなるのかと尋ねたりせず、もちろん神がどのように世界を滅ぼすのかも聞きませんでした。ノアはただ、神が命じたことをそのとおりに行ったのです。箱舟を何でどのように造るかについても、ただ神の指示通りにし、しかも即座にとりかかりました。ノアはただ神を満足させたい一心で、神の指示に従ったのです。自分が災害から逃れるためにそうしたのでしょうか? いいえ。あとどのくらいで世界が滅ぼされるのかと神に尋ねたでしょうか? いいえ、そんなこともしませんでした。箱舟を作るのにどれくらい時間がかかるかと神に尋ねたでしょうか、またはそれを知っていたでしょうか? ノアはそれも知りませんでした。彼はただ従い、耳を傾け、言われた通りにしたのです。今日の人々はそうではありません。神の言葉から少しでも情報が漏れたり、風の中で木の葉の擦れる音が聞こえたりしただけで、彼らは即座に行動を起こします。何があろうと、どんな代価を払おうと、災害後に必要な食べ物や飲み物その他を準備し、災害が来たときの避難経路さえ計画します。さらに興味深いのは、このような重大なとき、人間の脳は非常にうまく「仕事を成し遂げる」ものなのです。神が何の指示も与えていない状況では、人間はすべてを非常に的確に計画できます。そのような計画については「完璧」という言葉も大げさではないほどです。しかし神の言うことや神の意図が何であるか、神が何を望むかについては、誰も気にかけず、知ろうともしません。これこそがノアと、今日の人々の最大の違いではないでしょうか。

このノアの物語から、神の性質の一部を見て取ることができるでしょうか。人間の堕落、汚れ、そして暴虐に対する神の忍耐には限界があります。その限界に達すると、神はもう耐えることはせず、新しい経営と新しい計画を開始し、しなければならないことをし始め、神の偉業とその性質のもう一つの面を現すのです。神のこの行いは、人が神を決して怒らせてはいけないとか、神が権威と怒りに満ちているということを示すためではなく、神が人間を滅せると示すためでもありません。ただこのような人間が自らの前で、自らの支配の下で生きていることを、神の性質とその聖い本質がそれ以上許せず、それ以上耐えることもできないのです。つまり、すべての人間が神に敵対したとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのです。こうした神の行動は神の性質によるところなのです。それは必然の結果であり、神の支配の下にあるすべての被造物がこれに耐えなければなりません。このことから、神はこの現代において、自らの計画を全うし救いたい人々を救うのを待ちきれずにいるとわかるのではないでしょうか。このような状況で、神が最も気にしていることは何でしょうか。それは神にまったく従わない者たちやいずれにせよ反抗する者たちが、どのように自身を扱い抵抗するかということでもなければ、人間がどのように神を中傷しているかということでもありません。神が気にかけているのはただ、自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が完成されているかどうか、満足できる者になっているかどうかということなのです。神に付き従う者以外に対しては、ただ時々多少の懲罰を与えてその怒りを示すだけです。これがたとえば津波、地震、火山噴火などです。そして同時に、神は自分に従う者たちと、まもなく救われる者たちを強く保護し見守っています。神の性質とは、自分が完全にしようとしている人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、可能な限り待ち続けることができる一方で、自分に付き従わず敵対するサタン的な輩は激しく忌み嫌うというものです。神はそうしたサタン的な輩が自分に従ったり崇拝したりするかどうか気にはしませんが、それでも彼らを忌み嫌っており、同時に心の中では彼らに対する忍耐を持っています。そしてこうしたサタン的な輩の最後を決定しつつ、自らの経営計画の新たな段階が到来するのを待っているのです。

では次の箇所を見ていきましょう。

2.神が洪水後にノアに与えた祝福

創世記 9:1-6 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。

この箇所からどんなことがわかるでしょうか。なぜわたしがこの箇所を選んだのだと思いますか? なぜ、ノアとその家族の箱舟での生活の様子を抜粋しなかったのでしょうか。それは今日のテーマが、箱舟の生活の様子とはあまり関係がないからです。今わたしたちは神の性質に注目しています。箱舟での生活についての詳細を知りたければ、自分で聖書を読んでみてください。ここではその話はしません。今日ここで扱うおもな点は、神の行いをどのように知るか、ということなのです。

ノアが神の指示を受けて箱舟を作り、神の洪水による世界の滅びを生き抜いた後、ノアの八人家族は全員生き延びました。ノアの家族八人を除いては、すべての人間が滅ぼされ、地上のすべての生き物も滅ぼされました。神はノアに祝福を与え、ノアとその息子たちにいくつかのことを語りました。その言葉は神がノアに授けたものであり、ノアへの祝福でもありました。それは神の言葉に耳を傾け、その指示を受け入れることができる者に与えられる祝福と約束であり、また神が人々に報いる方法でもあります。つまり、ノアが神の目から見て完全な人だったか、または正しい人だったかに関わらず、そしてノアが神についてどれだけ知っていたかにも関わらず、端的に言えばノアと三人の息子たちは皆ただ神の言葉を聞き、神の働きに協力し、神の指示に従ってするべきことをしたのです。その結果として彼らは、世界が洪水によって滅ぼされた後、人間とさまざまな生き物を神のために生き長らえさせ、それによって神の経営計画の次の段階に大きく貢献したのです。神はノアが行ったすべてのことのために、彼を祝福しました。今日の人々にとって、ノアがしたことは語るにも価しないかもしれません。人によっては、「ノアは何もしなかった。神はノアを生き残らせるよう決めていたのであって、彼はいずれにせよ助かることになっていたのだ。ノアが生き延びたのは彼自身の貢献によるものではない。人間は受動的なのだから、ただ神がそうしようと思っただけのことだ」とさえ思うかもしれません。しかしそれは、神が考えていたこととは違います。神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神の声を聞き、神の指示と委ねられる任務に従い、神の働きと旨と計画に協力し、神の旨と計画が円滑に達成されるようにできるなら、その行いは神に記憶され、神の祝福を受けるに値するのです。神はそのような人々を大切にし、彼らの行動や神への愛と思いを慈しみます。それが神の姿勢です。なぜ神はノアを祝福したのでしょうか。それは神が、人のこのような行動と従順をそのように扱うからです。

ノアに対する神の祝福については、次のように言う人もいるでしょう。「人が神に従い、神を満足させるなら、神は人を祝福するだろう。それは当たり前のことではないか」と。そのように言えるでしょうか? 「そうは言えない」と言う人もいます。なぜでしょうか。「人間は神の祝福を享受するに値しないからだ」と言われることがありますが、それは完全には正しくありません。なぜなら神が委ねるものを人が受け入れたとき、神はその人の行動の良し悪しと、その人が従ったかどうか、神の旨を満足させたかどうかを判断する基準を持っており、そして彼らの行いがその基準を満たすかどうかを判断するのです。神が問題とするのはその人の心であり、表面的な行動ではありません。人が何かをしさえすれば、どのようなやり方をしようと祝福されるべきだということはありません。それが人々の神に対する誤解です。神は物事の最終結果だけを見ているのではなく、むしろ物事の経過の中で人の心がどうであるか、その態度がどうであるかということに重きを置き、彼らの心に従順、配慮、そして神を満足させたいという願いがあるかどうかを見ているのです。当時、ノアは神についてどれほど知っていたでしょうか。今皆さんが知っているのと同じくらい、多くの教義を知っていたでしょうか。神の概念や認識などという真理の側面についていえば、ノアはあなたがたほど潤され、導かれていたでしょうか。そうではありませんでした。しかし否定できない事実がひとつあります。今日の人々の意識や精神、さらに心の奥底にある神の概念や神への態度というものは、ぼんやりとした曖昧なものです。一部の人々は神の存在についてさえ消極的な態度をとっています。しかしノアの心との意識の中では、神の存在は絶対的であり、疑う余地のないものでした。そのためノアの神への従順は混じりけがなく、試みに耐えうるものだったのです。ノアの心は純粋で、神に対して開かれていました。ノアは大した教義の知識も求めることなく、神の一つひとつの言葉にただ納得して従い、また神の存在を証明する多くの事実も必要とせずに、ただ神が委ねた任務を受け入れ、神が与える仕事は何でも行いました。これがノアと今日の人々の根本的な違いです。そしてまた、これこそが神の目から見て完全な人とはどんな人かの真の定義なのです。神が欲するのはノアのような人々です。ノアは神が称賛する類の人であり、まさしく神が祝福する類の人なのです。このことから何らかの啓きを受けられたでしょうか。人はうわべで人を判断しますが、神は人の心と本質とを見ています。神は人が自らに対していい加減な心や疑いを持つことを許さず、いかなる方法で自らを疑うことも試みることも許しません。そのため今日の人々は、神の言葉と直接向き合っており、神と直接向き合っているとさえ言えるかもしれませんが、その心の奥底にあるものとその堕落した本質の存在、そしてその神に敵対する態度のため、神への真の信仰を持つことが妨げられており、神に従順になれずにいるのです。そのために、ノアに授けられた祝福と同じ祝福を得ることは非常に難しいのです。

次に、神が人間との契約のしるしとして虹を見せたというくだりを見ていきましょう。

3.神が人間との契約のしるしとして虹を見せる

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

ほとんどの人は虹が何かを知っていますし、虹に関係する物語をいくつか聞いたことがあります。聖書の虹についての物語は、信じる人もいれば伝説として捉える人もあり、まったく信じていない人々もいます。いずれにしても、虹に関係して起こったすべての出来事は神の働きであり、神による人の経営の過程で起こったことです。これらの出来事は聖書に明確に記述されています。そうした記述には、当時神がどんな気持ちだったのかや、それらの言葉の背後にある神の意図については説明されていません。そしてさらに、神がそれらの言葉を言ったとき何を感じていたかは誰にもわかりません。しかしこの出来事全体に関する神の心境は、行間に現れています。まるで神の当時の考えが、その一つひとつの言葉や言い回しを通してページから飛び出てくるようです。

人々は神の考えを心に留めるべきであり、最優先に知ろうと努めるべきです。なぜなら神の考えは人間による神の理解と密接に関係しており、人間による神の理解は、人間によるいのちの入りと切り離すことができないからです。それでは、これらの出来事が起こったとき、神は何を考えていたのでしょうか。

当初、神は人間を、神の目から見て非常に良く、自らと親密なものとして創造しました。しかし人類は神に反抗し、洪水によって滅ぼされました。そのような人間がこのように一瞬で消えてしまうことは、神を悲しませたでしょうか。もちろんです。では神によるこの苦痛の表現はどんなものだったでしょうか。聖書の記述にはどうあるでしょうか。聖書には次のようにあります。「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。このシンプルな文章が、神の思いを表現しています。この世界の破壊は神に大きな苦痛を与えました。人間の言葉で言えば、神はとても悲しかったのです。想像してみてください。かつて生命で満ち溢れていた地上は、洪水によって滅ぼされた後どんな姿だったでしょうか。かつて人で満ちていた地上は、当時どんな姿になったでしょうか。人の住居もなく、生物もなく、地は水で満ち、水面はひどい惨状です。そんな光景が、世界を創造した当初、神が思い描いたものだったでしょうか。もちろん違います。神の当初の考えは、地の至るところに生命が溢れ、自らが創造した人間が自分を崇拝する世界を見ることでした。ノアだけが自分を崇拝し、ノアだけが自分の召し出しに応えて委ねられた任務を全うできるような世界ではありませんでした。人類が一掃されたとき、神が見たものは自らが当初意図したものではなく、それと真逆のものでした。これで神の心が痛まないことがあるでしょうか。そのため神は、自身の性質を現し自身の感情を表したとき、ある決断をしました。それはどんな決断だったのでしょうか。人間との契約として、雲の中に弧(つまりわたしたちが見る虹)をかけたのです。それは神が二度と洪水によって人類を滅ぼさないという約束でした。そして同時に、神が一度世界を洪水によって滅ぼしたことを人間に伝え、なぜそんなことをしたのかを永遠に思い出させるためでもありました。

当時の世界の滅びは、神が望んだことだったでしょうか。それは決して神が望んだことではありませんでした。わたしたちは世界が滅んだ後の地上の痛ましい光景をわずかに想像できるかもしれませんが、当時それが神の目にどのように映ったかは、想像の及ぶところではありません。当時の人にも今日の人にも、神がその光景、すなわち洪水で滅んだ後の世界を見たときの感情を、想像したり理解したりできる者は誰もいないでしょう。神は人間の不従順のためにそうせざるを得なかったのですが、この洪水による世界の滅びによって引き起こされた神の心の痛みは、人間には計り知れないものです。そのため神は人間と契約を結び、神が一度このようなことをしたことを思い出させるとともに、二度とこのような方法で世界を滅ぼすことはしないと彼らに誓ったのです。この契約から、神の心を見てとることができます。神が人類を滅ぼしたとき、その心が痛んでいたということを。人間的な言い方をすれば、神が人類を滅ぼして地上から人間が消えるのを見たとき、神の心は嘆き、血を流したのです。これが最適な表現ではないでしょうか。こうした言葉は人が人の感情を表すために用いるものですが、人間の言葉は不十分すぎるため、それを用いて神の感情を説明してもさほど悪くはなく、行き過ぎでもないと思います。少なくとも当時の神の心境がどんなものだったかについて、非常に生き生きとした適切な理解を得ることができるでしょう。今後また虹を見たとき、皆さんは何を思うでしょうか。少なくとも、神が洪水で世界を滅ぼしたときにどれほど悲しんだかを思い出すことでしょう。神がこの世界を憎み、人間を忌み嫌いはしたものの、自らの手で創造した人間を滅ぼしたときどれほど心が痛み、滅ぼすことを惜しみ、ためらい、耐え難く感じたかを思い出すことでしょう。神の唯一の慰めはノアの八人家族でした。ノアの協力があったからこそ、神の丹精込めた万物の創造は無駄にならずにすんだのです。その事実は、神が苦しんでいたとき、その痛みを和らげることのできる唯一のものでした。それ以降、神は人間へのすべての期待をノアの家族に託し、彼らが神の呪いではなく祝福の下で生きるように、二度と世界が洪水で滅ぼされるのを見ないように、そして彼ら自身も滅ぼされないようにと望んだのです。

ここからわたしたちは、神の性質のどんな面を知るべきでしょうか。神は人間が自らに敵意を抱いたため、人間を忌み嫌いましたが、その心の中にある人間への思い、配慮、憐れみは変わることがありませんでした。人間を滅ぼしたときでさえ、神の心は変わらなかったのです。人間が堕落に満ち、嘆かわしいほど神に不従順だったとき、神は自らの性質と本質のため、そして自らの原則を守るために、その人間を滅ぼさなければなりませんでした。しかしその本質のため、神はそれでも人間を憐れんでおり、人間が生き続けられるよう、さまざまな方法で人間を救いたいとすら願っていました。しかし人間は神に反逆し、神に背き続け、神の救いを受け入れることを拒みました。つまり、神の善意を受け入れることを拒んだのです。神がどれほど人間に呼びかけ、言い聞かせ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解も感謝もせず、注意を払いもしませんでした。神は苦しみつつも、最大限の寛容さを与えることを忘れず、人間が心を改めるのを待ちました。そして限界に達したとき、神は自らが行わねばならないことを迷いなく行ったのです。言い換えれば、神が人間を滅ぼすことを計画したときから、実際に人間を滅ぼす働きを始めるまでには、一定の期間と過程があったということです。この過程は人間に心を改める機会を与えるためにあったもので、神が人間に与えた最後のチャンスでした。では神は、実際に人間を滅ぼすまでの期間、何をしていたのでしょうか。神は人間に言い聞かせ忠告するために、非常に多くの働きをしていたのです。心にどれほどの痛みと悲しみを抱えていようとも、神は人間を配慮し、気遣い、溢れるほどの憐れみを注ぎ続けたのです。このことから何がわかるでしょうか。疑いもなく、神の人間に対する愛が本物であり、口先だけのものでないことが見て取れます。その愛は実在し、明らかに感じ取ることができるもので、偽物ではなく、混じりけもなく、欺きも飾り気もないものです。神は騙したりイメージを繕ったりして、自らを愛すべき者のように見せることは決してありません。偽証によってその魅力を人々に見せることも、その魅力や聖さを誇示することもないのです。このような神の性質は、人間の愛に値しないでしょうか。崇拝に値しないでしょうか。大切にするに値しないでしょうか。ここでわたしは皆さんに尋ねたいのです。こうしたことを聞いて、皆さんは神の偉大さというものが、単に紙に書かれた空虚な言葉だと思うでしょうか。神の魅力はただの虚しい言葉でしょうか。いいえ違います。絶対に違います。至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛など、神の性質と本質のさまざまな側面における一つひとつの詳細は、神が働きを行うたび実際に現れ、神の人間に対する旨の中に具現化されており、さらにすべての人間の中に実現され反映されてもいるのです。これまでにあなたがそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神はあらゆる方法ですべての人に思いをはせ、その誠実な心と知恵とさまざまな方法を用いて、一人ひとりの心を温め、一人ひとりの霊を呼び覚ましているのです。これは議論の余地のない事実です。ここに何人の人がいるにしても、一人ひとりがそれぞれ神の寛大さ、忍耐、愛らしさを経験し、それぞれの感情を持っています。こうした神の経験と、神に対する感情や認識といったもの、すなわちそうした肯定的なものはすべて、神に由来しています。そのような神に関する皆の経験と認識を統合し、それらを今日読んだ聖書のくだりと結びつけることで、神についてのより現実的で正しい理解を得ることができたでしょうか。

この物語を読み、この出来事を通して現された神の性質の一部を理解したところで、神についてどんな新しい認識が得られたでしょうか。神とその心について、より深い理解を得られたでしょうか。今改めてノアの物語を読むと、以前とは違った思いを抱くでしょうか。皆さんの意見では、これらの聖書の節について交わりを持つことは不要だったでしょうか? この交わりを持ってみて、これは必要なかったと思うでしょうか。いえ、間違いなくこれは必要なことでした。わたしたちが読んでいるのは一つの物語ですが、それは神が行った働きの真の記録です。わたしの目的は、こうした物語や登場人物の詳細を皆さんに理解してもらうことでも、登場人物について学んでもらうことでもなく、もちろん聖書を改めて勉強してもらうことでもありませんでした。わかるでしょうか。これらの物語は、神について知るための助けになりましたか? この物語によって、神の理解がどのように深まりましたか? 香港の兄弟姉妹よ、教えてくれませんか。(神の愛は、わたしたち堕落した人間が誰も持っていないようなものだとわかりました。)韓国の兄弟姉妹たち、教えてくれませんか。(神の人間への愛は本物だとわかりました。神の人間への愛は、神の性質を現すものであり、神の偉大さ、聖さ、至高、寛大さを現していることがわかりました。このことは、より深く理解しようと努めるだけの価値があります。)(先ほどの交わりを通して、神の正しく聖い性質を見ることができただけでなく、人間への懸念や憐れみが感じられたうえ、神の行いとその考えや思いにはすべて人間への愛と配慮が現われているということがわかりました。)(わたしは以前、神は人間が嘆かわしいほど邪悪になったため洪水によって世界を滅ぼし、人間を嫌悪していたため人類を滅ぼしたかのように思っていました。今日、神がノアの物語について語り、神の心が苦しみに満ちていたことを知って初めて、神は実際には人間を滅ぼすことをためらっていたと知りました。ただ人間が不従順すぎたために、人間を滅ぼすしかなかったのですね。事実、神の心は当時、悲しみに満ちていました。このことから、神の性質の中に人間への思いと配慮を見て取ることができます。これはわたしが今まで知らなかったことです。)素晴らしいです。次の方もどうぞ。(わたしは今日の話を聞いてとても感動しました。これまで聖書を読んだことはありましたが、今日のように、わたしたちがもっと神を知れるよう、神がこれらのことを直接掘り下げてくださるという経験は初めてです。神がこのようにわたしたちを導き、聖書を理解させてくださったことで、人間が堕落する以前の神の本質は人類への愛と配慮であったことがわかりました。人間が堕落してから現代の世の終わりに至るまで、神の性質は義でありつつも、人間への愛と思いは変わっていません。このことから、神の愛の本質が、世の創造から現在に至るまで、人間の堕落ぶりにも関わらず、決して変わらないことがわかります。)(今日わたしは、神の本質がその働きの時や場所によって変わらないことを理解しました。そしてまた、神が世界を創造するにせよ、あるいは人間の堕落の後に滅ぼすにせよ、神のすることにはすべて意味があり、そこには神の性質が内包されているということも理解できました。そのため神の愛が無限で計り知れないことがわかり、他の兄弟姉妹たちが言ったように、神が世界を滅ぼしたときの人間に対する配慮と憐れみについても知りました。)(わたしは今までこんなことを知りませんでした。今日の話を聞いて、神は本当に確かな信頼できるお方で、信仰するに価し、実際に存在されるのだと感じました。神の性質と神の愛は、これほどまでに揺るぎないものなのだと心から感じます。今日の話を聞いてそう感じました。)素晴らしいです。皆さん、今日の話をしっかりと心に受けとめてくれたようですね。

皆さん、今日話した節を含む聖書のすべての節から、ある事実に気づかれたでしょうか。神は自分の考えを表現したり、人間への愛と配慮を説明したりするために、独自の言葉を用いたことがあるでしょうか? 神がどれだけ人間を思い愛しているかを、平易な言葉を使って表した記録があるでしょうか。一切ありません。違いますか? 皆さんの多くが、聖書や聖書以外の本を読んだことがありますが、そのような言葉を見たことのある人はいるでしょうか。まったくいませんよね。つまり、神の言葉や神の働きの記録を含む聖書の記述の中で、神はどの時代にもどの期間にも、独自の方法でその感情を説明したり、人間への愛や思いを表現したりしたことはなく、言葉や行動を用いて自らの気持ちや感情を伝えたこともない――これが事実ではないでしょうか。なぜここでこれを言わなければならないかというと、それはこの事実もまた、神の魅力と神の性質を具体的に表しているからなのです。

神は人間を創造しました。そして人間が堕落していようといまいと、自らに従おうと従うまいと、神は人間を自分のもっとも大事な愛する者として、人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接しており、玩具のように扱うことはありません。神は自らが創造主で人間はその被造物だと言っており、そこにはやや格の違いがあるように聞こえるかもしれませんが、実際には神が人間のために行ったすべてのことは、そのような関係をはるかに超えるものです。神は人間を愛し、思いやり、配慮してくれるだけでなく、常に絶えることなく人間を養ってくれています。そして心の中でそれを余分な仕事と感じたり、多くの称賛に値すると思ったりもしません。また人間を救い、与え、すべてを授けることを、人類への大きな貢献だとも思っていません。神はただ静かに独自のやり方で、自らの本質と所有するもの、そして神そのものを通じて、人間を養ってくれるのです。人間が神からどれだけの備えと支援を受けようとも、神はそれを手柄と考えたり、手柄をたてようと思ったりもしません。これは神の本質によるものであり、同時にまさしく神の性質の真なる表現でもあります。そのためわたしたちは、聖書にせよその他の本にせよ、神が自らの考えを表わすのを目にすることもなければ、神が人間に感謝させたり自らを称賛させたりする目的で、なぜそんなことをするのかやなぜそれほど人間を思いやっているのかを説明したり表明したりするのを、見かけることは一切ないのです。神は傷ついているときや心がひどく痛んでいるときでさえ、一人静かにその傷や痛みに耐えながら、人間に対する責任と思いを決して忘れずにいます。そしてこれまでいつもしてきたとおり、人間を養い続けるのです。人間は神をしばしば賛美したり証しをしたりしますが、そうした行為はどれも神に要求されたものではありません。なぜなら神は、人間に感謝されたり見返りを得たりするために、人間によいことをしているのではないからです。他方、神を畏れ悪を避けることができる人々、誠をもって神に従い、神の言葉を聞き、忠実に服従できる人々は、神の祝福をしばしば受けることになり、神はそのような祝福を惜しみなく与えます。そしてさらに、人が神から受ける祝福はしばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えています。神の祝福を享受しているとき、神の行っていることを気にかける人はいるでしょうか。神がどのように感じているかを気遣う人はいるでしょうか。神の痛みを理解しようとする人はいるでしょうか。まったくいません! ノアを含む全人類の中に、当時神が感じた痛みを理解できる者が一人でもいるでしょうか。神がなぜあのような契約を打ち立てたのかを理解できる人はいるでしょうか。それは人間には理解できません。人間が神の痛みを理解しないのは、神の痛みを理解できないからではなく、また神と人間の差のせいでも、立場の違いのせいでもありません。ただ単に、人間が神の感情を一切気にかけていないからです。人間は神が独立した存在だと思っているため、人が神を気遣ったり、理解したり、配慮したりする必要はないと考えています。神は神であって、痛みも感じなければ感情もなく、悲しむこともないし、嘆くこともなく、泣くことすらない。神は神なので、感情の表現は一切必要なく、感情的な慰めも一切必要としない。もしも状況によってそんなものが必要になれば、そのときは神が自ら解決できるし、人間の助けなど必要としないだろう。逆に神の慰め、施し、励ましを必要としているのは、弱く未熟な人間のほうであり、人間にはいつでもどこでも神の慰めが必要なのだ。このような考えが、人間の心の奥底に隠れています。弱いのは人間のほうなので、あらゆる面で神の世話が必要であり、人間は神のあらゆる配慮にふさわしく、自分のものにしなければならないと感じるあらゆるものを神に要求する必要がある。神は強く、すべてを持っているのだから、人間の守護者となり祝福を授ける存在でなければならない。神はすでに神なのだから、全能であり、人間からは何も必要としないのだ、と。

人間は神が明らかにすることのいずれにも注意を払わないため、神の悲しみも痛みも、喜びも感じたことはありません。しかし神は逆に、人間の感情表現をすべて自分のもののようによく知っています。神はどこにいても常に皆の必要を満たし、一人ひとりの考えの変化を見て、彼らを慰め、励まし、導き、光を灯します。神が人間に対して行ってきたすべてのことと、人間のために払ったすべての代価について、聖書のくだりやこれまでに神が語った言葉の中に、人間に何かを求めると明らかに述べたものはあるでしょうか。一切ありません。逆に、人々がどれだけ神の考えを無視しようと、神は人間を繰り返し導き、何度でも与え、助けてくれており、そうすることで人間が神の道に従い、神が用意した美しい終着点へとたどり着けるようにしてくれます。神について言えば、神が所有するものと神の存在そのもの、神の恵みと憐れみ、そしてそのすべての報いは、神を愛し従う人々に惜しみなく与えられます。しかし神は、自らが抱えた痛みやその心境を誰にも明かすことはなく、誰かが神に配慮せずその旨を知らないからといって、不満を言うことも一切ありません。ただすべてを静かに耐え、人間が理解できるようになる日を待っているのです。

なぜここでこのようなことを話したと思いますか? わたしが話したことから、どんなことがわかったでしょうか。神の本質と性質の中には、非常に見落とされやすく、そして神だけが持っているものがあります。それは人々に偉大だとか善人だとか思われている人想像した神のようだと思われている人も含め、どんな人間も持つことができないものです。それは何かといえば、神の無私の心です。無私について話すと、あなたは自分も非常に無私だと思うかもしれません。なぜなら自分の子供について言えば、子供とは一切交渉などせず気前良く与えているし、また自分の両親のことを考えても、自分は非常に無私だと思うかもしれません。どう思うにせよ、少なくともあなたは「無私」という言葉の意味を理解していて、それを肯定的な言葉と捉え、無私であることはとても立派なことだと思っていますよね。自分が無私であれば、あなたは自分自身を高く評価するでしょう。しかし、人々や出来事、物事、そして神の働きを含む万物に認められる、神の無私の心を見ることができる人は誰もいません。なぜでしょうか。それは、人間があまりに自己中心的だからです。なぜこう言うかというと、人間は物質的な世界に住んでいます。あなたは神に付き従っているかもしれませんが、神がいかにあなたを養い、愛し、気遣っているかを見たり理解したりすることはありません。では何を見ているのでしょうか。それはあなたを愛してくれる、可愛がってくれる肉親です。あなたは自分の肉にとって有益なものに目を留め、自分が愛している人々や物事に心を配っています。それが人間の言うところの無私です。ところがそのような「無私」な人々も、自分にいのちを与えてくれる神のことはまったく気にかけません。神の無私とは対照的に、人間の無私は自己中心的で卑劣なものになります。人間が信じる無私とは、空虚で非現実な、汚れた、神とは相容れないものであり、神とは関係がありません。人間の無私は自分自身のためであり、一方神の無私は、神の本質の真の現れです。人間が常に神によって養われているのは、まさに神が無私であるからです。皆さんはわたしが今日話しているこのテーマにそれほど深く感動せず、ただ頷いているだけかもしれませんが、心の中で神の心を理解しようとすると、いつの間にか気づくことになります――この世で知覚できるすべての人々、出来事、そして物事の中で、ただ神の無私だけが真実で揺るぎないものなのだと。なぜなら神のあなたに対する愛だけが、無条件で汚れがないからです。神以外には、誰のいわゆる無私もすべて見せかけの表面的なものであり、真実ではありません。それは目的や特定の意図を含み、交換条件付きで、試みに耐えることはできず、汚れた卑しむべきものとさえ言えます。皆さんはこうした言葉に同意されるでしょうか。

皆さんはこうしたテーマに馴染んでおらず、よく理解するには少し時間がかかることでしょう。こうした問題やテーマに馴染みがないほど、あなたがたの心の中にそのテーマが存在していないということの証明になります。もしわたしがこれらのテーマについて話さなかったら、皆さんが少しでもそれを知ることはあるでしょうか。一切ないと思います。それは間違いありません。皆さんがどれだけ理解できるとしても、わたしが話したこれらの話は端的に言って、人々が最も知らず、そして最も知らなければならないことなのです。これらのテーマはすべての人にとって非常に重要で、尊く、いのちであり、これから先へ進むために知っていなければならないものです。これらの言葉の導きと、神の性質と本質の理解がなければ、神について常に疑問を抱えていくことになります。神を理解もせずに、どうやって神を正しく信じられるでしょうか。神の感情、その旨、心境、考えていること、悲しむこと、そして喜ぶことについて、あなたは何も知りません。それでどうやって、神の心に配慮することができるでしょうか。

神が悲しむ時はいつでも、自らにまったく気を留めない人間、つまり神に従い神を愛しているとは言うものの、神の感情を完全に無視している人間と対峙します。神の心が傷つかないことがあるでしょうか。経営の働きの中で、神は一人一人に対して誠実に働きを行い、語りかけ、堂々と隠し事もせず皆と向き合います。しかし逆に、神に従うすべての人間は神に対して閉鎖的で、積極的に神に近づいたり、神の心を理解したり、その感情に気を留めたりする者はいません。神の知己になりたいと望む者でさえ、神に近づこうとは望まず、神の心に配慮しようとも、神を理解しようともしません。神が喜んでいるとき、その喜びを分かち合える者は誰もいません。神が人々に誤解されているとき、神の傷ついた心を慰める者は誰もいません。神の心が痛んでいるとき、神が打ち明ける思いに耳を傾けようとする者は誰一人いません。この数千年に及ぶ神の経営の働きの中で、神の気持ちを知る者や、深く理解し感じる者は一人もおらず、ましてや神に寄り添ってその喜びや悲しみを分かち合う者などいませんでした。神は孤独です。孤独なのです。それはただ堕落した人間が神に敵対するからだけではなく、それ以上に、霊的であろうと努め、神を知り理解しようと努力している者、さらに神に人生のすべてを捧げようと思っている者でさえ、神の考えを知らず、その性質や感情を理解しないからなのです。

ノアの物語の最後で、神が当時普通とは違った方法で自身の感情を表したことがわかります。その非常に特別な方法とは、人間と契約を結び、洪水による世界の破壊の終了を宣言することでした。一見、契約を結ぶというのは実に普通のことのように思えます。それはただ言葉を用いて二者を拘束し、合意に違反することを戒めて、両者の利益を保護することでしかありません。形式上は非常に普通のことなのですが、この契約はその背後にある動機と、神がそれを行った意図からして、神の性質と心境とを真に現しているのです。これらの言葉をただ軽んじ無視するなら、そしてわたしが物事の真実を伝えなければ、人間は決して神の考えを知ることはないでしょう。あなたの想像の中で、神はこの契約を結んだとき微笑んでいたかもしれず、また真剣な表情だったかもしれません。しかし神のもっとも普通の表現をどう想像するにせよ、神の心やその痛み、ましてやその孤独を知ることのできる人はいません。神に自分を信頼させられる人間や、神の信頼に値する人間などおらず、神が自らの考えを表したりその痛みを打ち明けたりできる人間もいません。そのため神は、このようなことをするしかなかったのです。表面上、神は簡単にかつての堕落した人間と決別し、過去の問題を終結させ、自らが起こした洪水による世界の破滅を完璧に決着させたように見えます。しかし神はこの瞬間から、自身の痛みを心の奥深くにうずめたのです。心を打ち明けられる者の一人もないまま、神は人間と契約を結び、二度と洪水で世界を滅ぼすことはしないと告げました。虹が出るのは、かつてこのようなことがあったと人々に思い起こさせ、悪を行わないように警告するためでした。そのような痛みの中でも、神は人間のことを忘れず、非常に多くの配慮を示し続けました。これが神の愛であり、無私無欲ではないでしょうか。しかし人間は、苦しんでいるとき何を考えるでしょうか。そのようなときが神を最も必要とするときではないでしょうか。そのようなとき、人はいつも神を引きずり出し、慰めてもらおうとします。どんなときでも、神は人々を落胆させることなく、いつも苦境から抜け出させ、光の中で生きられるようにしてくれます。神はそのように人間を養ってくれるにも関わらず、人間の心の中で神は単なる鎮静剤か気付け薬程度のものでしかありません。神が苦しんでいるとき、神の心が傷ついているとき、被造物や誰かがそばにいて慰めてくれるなどということは、神にとっては高望みでしかないのです。人間が神の感情に一切気を留めないので、神は一切誰かに慰めを求めたり期待したりもしません。ただ独自の方法で、自らの気持ちを表現するだけです。人は神がちょっとした苦しみを経験することを、大した苦難だとは考えません。しかし神を真に理解しようと努め、神のすべての行いに内在するひたむきな意図を真に理解できるようになると、初めて神の偉大さと無私とを感じとれるようになります。神は虹を用いて人間と契約を結びましたが、なぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っておらず、つまり自らの本当の思いを誰にも話していません。それは、自ら創造した人間に対する神の愛の深さを真に理解できる者は誰もおらず、そして人間を滅ぼしたときにどれほど神の心が痛んだかを理解できる者もいないからです。そのためもし神が自分の思いを人間に伝えようとしても、人間はその神の信頼に応えることができないのです。神は痛みを感じつつ、働きを次の段階へと進めています。神は常に自らの最善の側面と最善のものを人間に与えながら、自身はすべての苦しみを静かに背負っています。神がこうした苦しみを公然とさらすことは一切なく、神はただそれらに耐えながら、静かに待っています。神の忍耐は冷たく無感覚で無力なものではなく、弱さの顕れでもありません。むしろ、神の愛と本質は常に無私でした。これは神の本質と性質との自然な現れであり、真の創造主たる神の身分の確かな具現化でもあるのです。

このように言うと、わたしの意図を誤解し、「神の感情をこのようにこと細かく、煽動的に説明するのは、神に対して心苦しく感じさせるつもりなのか」と考える人がいるかもしれません。それがわたしの意図だと思うでしょうか。(違います。)このような話をしたのは、ただ皆さんが神をよりよく知り、神の無数の側面を理解し、その感情を理解するようになってほしいからです。そして神の本質と性質が、人間の空虚な言葉、字句や教義、空想などによって描かれたものと逆に、確実に少しずつ、その働きを通して表されていることを知ってもらいたいからです。つまり、神とその本質というものは実際に存在するのです。それは絵画でも想像でもなく、人間が造り上げたものでも、もちろん人間が捏造したものでもありません。そのことが理解できたでしょうか。理解できたとすれば、今日のわたしの目標は達成されたことになります。

今日わたしたちは3つのテーマについて話し合いました。皆さんがこの3つのテーマに関する交わりを通して、多くを学んでくれたものと信じています。間違いなく言えることは、この3つのテーマを通して、わたしが説明した神の考えやその性質と本質が、神に関する人々の想像や理解を変え、神に対する信仰も変化させ、さらに皆が心の中で崇めていた神のイメージをも変化させたということです。いずれにせよ、今日この2つの節で神の性質について学んだことが皆さんの役に立ち、そして帰宅後、さらに考えを深めてもらえることを願っています。今日の集会はこれで終了します。さようなら。

2013年11月4日

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