終わりの日のキリストから発せられる言葉(選集)

目次

神を愛することだけが本当に神を信じることである

今日、あなたが神を愛し、知ろうとする時、ある意味であなたは困難と純化に耐えなければならず、別の意味では、代償を払わなければならない。神を愛することから学ぶ教訓ほど意味の深い教訓はなく、人々が生涯抱き続けた信仰から学ぶ教訓は、いかに神を愛するかであると言える。つまり、神を信じるなら、神を愛さなければならない。神を信じるだけで、神を愛さず、神についての認識を獲得しておらず、心の底から湧き上がる本当の愛で神を愛したことがなければ、神に対するあなたの信仰は無益である。神を信じていても神を愛さなければ、あなたは無駄に生きていることになり、あなたの全人生はあらゆる人間の人生の中で最も低いものになる。あなたが生涯を通じて神を愛することも、神に満足してもらうこともなかったら、あなたが生きていることの意味は何なのだろう。あなたが神を信じることの意味は何なのだろう。それは無駄な努力ではないだろうか。つまり、人々が神を信じ、愛するつもりならば、代償を払わなければならない。何らかのやり方で外へ向かって行動しようとするよりはむしろ、彼らは自分の心の奥底にある本当の見識を求めるべきである。あなたが歌やダンスに夢中になっていても、真理を実践することができなければ、あなたが神を愛していると言えるだろうか。神を愛するには、あらゆる事において神の心を求めることが必要で、しかもあなたに何かが起きた時には心の中で深く探り、神の心を把握し、この件に関する神の心は何か、神はあなたに何を達成して欲しいのか、どのように神の心を覚えるべきかを知ろうとしなければならない。例えば、あなたが困難に耐えなければならない何かが生じたら、その時、あなたは神の心が何であるか、どのように神の心を大切にするかを理解するべきである。自分自身を満足させてはならない。まず自分自身のことは脇へどけておきなさい。肉体ほど卑しむべきものはない。あなたは神に満足してもらおうとしなければならないし、あなたの本分を果たさなければならない。そのように考えていれば、神はこの件に関してあなたに特別な啓発を与え、あなたの心も安心するだろう。大きくても小さくても、あなたに何かが起きた時、あなたはまず自分自身は脇にどけて、肉体はすべての物事の中で最も卑しいものとみなさなければならない。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体はますます勝手な行動をとる。今回肉体を満足させると、次回はさらに欲望が大きくなり、このまま続くと、あなたは肉体をさらに愛するようになる。肉体はいつも途方もない欲望を持っており、いつもあなたに肉体を満足させることを要求する。それが食べ物や着る物に関することだろうと、自制心を失わせ、自身の弱さや怠惰に付け込むことであろうと、あなたが心の中でそれを満足させることを要求する。あなたが肉体を満足させればさせるほど、その欲望は大きくなり、肉体はますます堕落して、ついには人々の肉体は一層深い概念を心に抱き、神に背き、得意になり、神の働きに疑いを持つようになる。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体の弱点は大きくなる。あなたはいつも、だれも自分の弱点に同情してくれないと感じ、あなたはいつも、神のやり方は行き過ぎたと決めつけ、次のように言う。「どうして神はそのように厳しいのだろう。なぜ神は人々に休息を与えないのだろう。」人々が肉体に甘くなりすぎ、あまりにも大切に扱うと、彼らは自分自身を失う。あなたが本当に神を愛し、肉体を満足させたりしなければ、神の行いのすべては正しく、優れており、あなたの反抗に対する神の呪いやあなたの不正に対する神の裁きは正当であることがわかるだろう。神があなたを懲らしめたり罰したりする時や、あなたを鍛える環境を作りあげて、あなたを神の前に立たせる時があるだろう――そしてあなたはいつも神が行っていることは素晴らしいと感じるだろう。従って、あなたは、あまり苦痛はないかのように感じ、神はとても愛に満ちていると感じるだろう。あなたが肉体の弱点に迎合し、神のやり方は行き過ぎたと言うなら、あなたはいつも苦痛を感じ、いつも意気消沈していて、神の働きのすべてについて曖昧になり、あたかも神は人の弱点にはまったく同情せず、人の困難には気付かないかのように感じられる。したがって、あなたはあたかもひどい不正に苦しんでいるかのように、みじめで孤独な気分になり、この時不平を言い始めるだろう。このようにあなたが肉体の弱点に迎合すればするほど、ますます神のやり方は行き過ぎた感じ、ついに事態は悪化し、神の働きを拒絶し、神に反対し始め、まったく不従順になる。したがって、あなたは肉体に反抗しなければならず、迎合してはならない。あなたの夫、妻、子供たち、将来の見通し、結婚、家族―これらはどれも問題ではない。あなたは次の決意をする必要がある。「私の心の中には神しかいない。私は神に満足していただくために最善を尽くさなければならず、肉体を満足させてはならない。」あなたがこのような決意をいつも持っていれば、真理を実践し、自分自身は脇にどけておこうとする時、あなたはほんの少しの努力でそれが実践できるだろう。昔、路上で凍って硬直している蛇を見た一人の農夫の話しがある。農夫は蛇を拾い上げ、抱きしめたが、蛇は息を吹き返すと農夫をかみ殺してしまった。人の肉体はこの蛇に似ており、本質は人のいのちに害を与えることである――肉体が好き放題になれば、あなたのいのちは取り上げられてしまう。肉体はサタンに属している。肉体の中には途方もない願望があり、肉体は己のことだけを考え、快適さを享受し、余暇を大いに楽しむことを望み、怠慢と無為にふけるので、ある程度まで肉体を満足させると、あなたは最後には肉体に食べ尽くされてしまう。つまり、あなたが今回肉体を満足させるなら、次回はもっと要求するだろう。肉体はいつも途方もない欲望と新しい要求を持っており、あなたが肉体に迎合するのを利用し、あなたが肉体を一層大事にし、肉体の快適さの中で生きるように仕向ける――あなたが 肉体に打ち勝たなければ、あなたは最後には自分自身を失うだろう。あなたが神の前でいのちを得られるかどうか、あなたの最終的結末はどうなるか、それはあなたが肉体にどのように反抗するかにかかっている。神はあなたを救い、選び、運命づけたが、その一方で、あなたが神に満足してもらうことを嫌がり、真理を実践することを嫌がり、神を本当に愛する心を持ってあなた自身の肉体に反抗することを嫌がるならば、最後にはあなたは身を滅ぼし、従って極度の痛みに耐えることになるだろう。あなたがいつも肉体に迎合していると、サタンが次第にあなたを内側から食べ尽くし、あなたを完全にいのちのない、あるいは霊との接触のない状態のままにしてしまい、ついにはあなたの心の中が完全に暗黒になる日が来る。あなたが暗黒の中で生きていると、サタンのとりこになり、もはや神を持たなくなり、その時あなたは神の存在を否定し、神を離れる。従って、あなたが神を愛したいなら、痛みの代償を払い、困難に耐えなければならない。熱心さや困難を表立って示すことも、読書量を増やしたり、さらに走り回ったりする必要はなく、それどころか、あなたは自分の心の中にあるもの、つまり、途方もない考え、個人的利益、あなた自身の判断、概念、動機付けなどを脇にどけるべきである。これが神の心である。

人々の外面的性質を取り扱うことも神の働きの一部である。例えば、人々の外面の異常な人間性、あるいはライフスタイルや個人的習慣、生活様式や慣習、ならびに外面的実践や熱心さなどを、神は取り扱う。しかし、神が人々に真理を実践し、性質を変えるよう要求する時、主に取り扱われるのは彼らの心の中の動機付けと概念である。あなたの外面的性質を取り扱うだけなら難しくはない。それはあなたに好きなものを食べるなと要求するようなもので簡単である。しかし、あなたの心の中の概念に触れるものを取り除くのは簡単ではない。そのためには、あなたは肉体に反抗し、代償を払い、神の前で苦しまなければならない。これは人々の動機付けに関し特に当てはまる。神を信じた時から今日まで、人々は多くの間違った動機付けを心に抱いてきた。真理を実践していない時、あなたは自分の動機付けのすべては正しいと感じているが、自分に何かが起こると、あなたは自分の中には間違った動機付けがたくさんあることがわかる。従って、神が人々を全き者にする時、神は彼らの神に関する認識を妨害する概念が彼らの中にはたくさんあることに気付かせる。動機付けが間違っていることを認めた時、あなたは自分の概念や動機付けに従って実践するのをやめることができ、神へ証しをすることができ、そして自分に起こるすべてのことにおいて自己の立場を守ることができるなら、これはあなたが肉体に反抗したことの証明となる。あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の概念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや概念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人々の中の動機付けは、その多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人々の概念と食い違っているので、人々が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、最後に神を満足させる決心をする前に、舞台裏で人々は悲しみの涙を数えきれないほど流すだろう。人々が苦しみや純化に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、あなたが本当に神の側に立つことができれば、あなたは神に満足してもらうことができる。真理を実践する過程で苦しむことは避けられない。人々が真理を実践する時、彼らの心の中のすべてが正しかったら、彼らは神によって全き者にされる必要はなく、戦いもなく、彼らは苦しまないだろう。人々の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人々は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これは神が受難と呼ぶもので、神と共に経験することを神は人に要求した。あなたが困難に出会ったら、急いで神に次のように祈りなさい。「おお、神様。私はあなたに満足して頂きたいのです。私はあなたの心が満足するために最後の困難に耐えたいです。そして私が出会う挫折がどんなに大きくても、私はあなたに満足して頂かなければなりません。たとえ私の全人生を諦めなければならないとしても、私はあなたに満足して頂かなければなりません。」この決意を持って、あなたが祈る時、あなたは固く証しに立つことができる。人々が真理を実践するたびに、試練を受けるたびに、試されるたびに、そして神の働きが彼らに及ぶたびに、人々は激しい痛みに耐える。このすべては人々に対する試練であり、そのため彼らすべての心の中では戦いがある。これは彼らが支払う実際の代償である。神の言葉をさらに読み、さらに走り回ることは多少の代償である。それは人々がしなければならないこと、彼らの本分、彼らが果たすべき責任であり、心の中にあって脇にどけておく必要のあるものは、どけなければならない。さもなければあなたの外面的苦しみがいかに大きくても、どんなにあなたが走り回ろうとも、すべては無駄になるだろう。つまり、あなたの心の中を変えることだけがあなたの外面的困難に価値があるかどうかを決定することができる。あなたの内面的性質が変わり、あなたが真理を実践した時、あなたの外面的苦しみは神の承認を得られる。あなたの内面的性質に変化がまったくなければ、いかに苦しみに耐えようとも、外面から見ていかに走り回ろうとも、神からの承認はない――そして神が確認しない困難は無駄である。従って、あなたが払う代償に価値があるかどうかは、あなたの心の中で変化があったかどうか、あなたが真理を実践して、神の心の満足を獲得し、神に関する認識や神に対する忠誠心を得るためにあなた自身の動機付けや概念に反抗するかどうかによって決定される。どんなにあなたが走り回ろうとも、自分自身の動機付けに決して反抗せず、外面的行動や熱心さを追い求めるだけで、あなたのいのちに全く注意を払わなければ、あなたの受難は無駄なことになるだろう。一定の環境下であなたには何か言いたいことがあっても、心の中でそれは正しくなく、あなたの兄弟姉妹のためにならないし、彼らを傷つけるかもしれないと感じているなら、あなたはそれを言わず、むしろ自分の中で苦しんでいるほうを好むだろう。これらの言葉は神の心を満足させることはできないからである。この時、あなたの中では戦いがあるだろうが、あなたは進んで痛みに苦しみ、あなたが愛するものを断念し、神を満足させるためにこの困難に進んで耐えるだろう。あなたは心の中で痛みに苦しむだろうが、肉体に迎合することはなく、神の心は満たされるので、あなたも癒されるだろう。これが本当に代償を払っていることであり、神が希望する代償である。あなたがこのように実践すれば、神は必ずあなたを祝福するであろう。これを達成できなければ、あなたがどんなに理解しても、いかにうまく話すことができようと、すべては無益である。神を愛する道を歩んでいる途上で、神がサタンと戦う時にあなたが神の側に立つことができ、サタンの方へ後戻りしないならば、あなたは神への愛を獲得し、固く立って証しをするだろう。

神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。例えば、あなたが兄弟姉妹に対して偏見を持っているなら、あなたには言いたい言葉――神にとって不愉快かもしれないとあなたが感じる言葉―― があるだろうが、心の中ではあなたにとって言わずにいるのは難しいことである。そしてこの時、あなたの心の中には戦いが始まる。私は話すべきか否か。これは戦いである。従って、すべての中に戦いがあり、あなたの心の中に戦いがある時、あなたの実際の協力と実際の苦しみのおかげで、神はあなたの中で働く。結局、心の中であなたは問題を脇にどけておくことができ、怒りは当然消滅する。それが、あなたが神に協力した結果である。あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。あなたには洞察力がないし、能力は乏しいが、神があなたを全き者とすることによって、あなたは神に満足してもらうことができ、神の心に留意することができる。他の人々は、最も能力の乏しい人々に神がとても偉大な働きを行ったことがわかるだろう。人々は神を知るようになり、サタンの前で克服者になり、ある程度神に忠実になる。この一群の人々ほど気骨を持っている人はいないだろう。これが最大の証しである。あなたは偉大な仕事をすることはできないが、神に満足してもらうことはできる。他の人々は自分の概念を脇にどけておくことができないが、あなたにはできる。他の人々は自分が実際に経験している間、神に証しをすることはできないが、あなたは実際の背丈と行動を使って神の愛に報い、神に対するはっきりとした証しをすることができる。これだけが実際に神を愛することとみなされる。これができなければ、あなたは家族の前で、兄弟姉妹の前で、あるいは世間の人々の前で証しをすることはできない。あなたがサタンの前で証しができなければ、サタンはあなたを笑い、あなたを冗談、おもちゃとして扱い、しばしばあなたをばかにし、頭をおかしくさせる。将来、大きな試練があなたに起こるかもしれない――しかし、今日、あなたが本心で神を愛すなら、これから先の試練がどんなに大きくても、あなたに何が起ころうとも関係なく、あなたは固く証しに立つことができ、神に満足してもらうことができ、あなたの心は癒され、将来遭遇する試練がどんなに大きくても恐れることはないだろう。あなたは将来何が起こるか知ることはできない。今日の状況で神に満足してもらうことができるだけである。あなたは大きな仕事をすることはできないが、現実の生活で神の言葉を経験することによって、また、サタンを辱める強力ではっきりした証しをすることによって、神に満足してもらうことに集中するべきである。あなたの肉体は満たされないままで、苦しんでいても、あなたは神に満足してもらい、サタンを辱めることができるだろう。あなたがいつもこのように実践していれば、神はあなたの前に路を開いてくれるだろう。いつか、大きな試練が来たら、他の人々は倒れるだろうが、あなたはしっかり立っていられるだろう。あなたが払った代償のために、神はあなたを守るので、あなたはしっかり立っていることができ、倒れない。通常、あなたが真理を実践することができ、神を本当に愛する心で神に満足してもらうことができれば、神は将来の試練の間、必ずあなたを守るだろう。あなたは愚かで能力はわずかで、資質に乏しいけれど、神はあなたを差別しないだろう。要はあなたの動機付けが正しいかどうかである。今日、あなたは神を満足させることができ、その場合、あなたは些細な詳細にまで気を配り、すべての事柄において神を満足させ、本当に神を愛する心を持ち、本当の心を神に捧げ、あなたが理解できないことがいくつかあっても神の前に来て、あなたの動機付けを修正し、神の心を求めることができ、あなたは神を満足させるために必要なすべてのことを行う。おそらく、あなたの兄弟姉妹はあなたを見捨てるだろうが、あなたの心は神を満足させるだろうし、あなたは肉体の喜びを切望しないだろう。あなたがいつもこのように実践していれば、大きな試練が訪れてもあなたは守られるだろう。

これらの試練は、人々の心の中のどのような状態に狙いを定めているのだろう。それらは、神に満足してもらうことのできない人間の反抗的性質を対象としている。人々の心の中には汚れたものや偽善的なものがたくさんある。だから神はそれらを清めるために試みに遭わせるのである。だがもし今日、あなたが神に満足してもらうことができれば、将来の試練はあなたを全き者とするためのものとなる。今日、あなたが神を満足させることができなければ、将来の試練はあなたを誘惑し、あなたは無意識のうちに倒れてしまう。その時、あなたは自分自身を助けることはできないだろう。それはあなたが神の働きについていくことができず、本当の背丈を持っていないからである。そこで、あなたが将来しっかり立っていることができ、神にさらに満足してもらい、最後の最後まで神に従うことを望むなら、今日、あなたは強い基礎を構築し、すべてのことにおいて真理を実践することによって神を満足させ、神の心を心に留めておかなければならない。あなたがいつもこのように実践していれば、あなたの中に基礎ができ、神はあなたに神を愛する心を生じさせ、あなたに信仰を与えるだろう。いつか、試練が本当にあなたに降りかかった時、あなたは多分、多少の痛みに苦しみ、ある程度まで不当に扱われていると感じ、死ぬかと思うほどの痛烈な悲しみに苦しむだろう――しかし、あなたの神に対する愛は変わらず、一層深くなるだろう。それが神の祝福である。神が今日語り、行うすべてのことをあなたが従順な心で受け入れることができるならば、あなたは必ず神に祝福され、それであなたは神に祝福された人となり、神の約束を受ける人になるだろう。今日、あなたが実践しなければ、いつか試練が降りかかる時、あなたには信仰も、愛する心もなく、その時、試練は誘惑になるだろう。あなたはサタンの誘惑の真っただ中に投げ込まれ、脱出する手段はない。今日、小さな試練が降りかかる時、あなたはしっかり立っていられるかもしれないが、いつか大きな試練が降りかかる時、必ずしもしっかり立っていることはできないだろう。うぬぼれていて、自分達はすでに完成に近づいていると考える人々もいる。そのような時、あなたが深刻にならず、現状に満足したままでいると、あなたは危険に陥るだろう。今日、神は大きな試練の働きは行っておらず、外見上、すべてはうまくいっているように見えるが、神があなたに試練を課す時、あなたは自分に欠けているものがあまりにも多いことに気付くだろう。というのも、あなたの背丈はあまりにも取るに足らないので、あなたは大きな試練に耐えることができないからである。今日、あなたが着実に進歩せず、同じ場所にとどまっているならば、大風が吹いた時、あなたは倒れるだろう。あなたは自分の背丈が取るに足らないものであることをしばしば見つめるべきである。そうして初めてあなたは進歩するのである。あなたが自分の背丈が取るに足らないものであること、自分の意志の力がとても弱いこと、あなたの中に本質的なものはほとんどないこと、あなたは神の心には適さないことを知るのが試練の間だけであるなら――そしてあなたがこれらのことにその時になってようやく気付くのであれば、遅すぎるだろう。

神の性質を知らなければ、あなたは試練の最中に必ず倒れるだろう。なぜならあなたは神がどのように人々を完全にするか気づいていないし、どのような手段で神が人々を完全にするか、いつ神の試練があなたに降りかかり、それらがあなたの概念に合わないかを気付かないので、しっかり立っていることができないからである。神の本当の愛は神の全性質であり、神の全性質があなたに示される時、これはあなたの肉体に何をもたらすだろう。神の義である性質があなたに示される時、あなたの肉体は必然的に多くの痛みに苦しむだろう。あなたがこの痛みに苦しまなければ、あなたは神によって全き者とされないし、本当の愛を神に捧げることもできないだろう。神があなたを全き者とすれば、神は必ずその全性質をあなたに示すだろう。天地創造の時から今日まで、神は全性質を見せたことはなかった――しかし、終わりの日の間、神は運命づけて、選んだこの人々の一群に神の性質を明らかにし、人々を全き者とさせることによって神の性質をさらけ出し、それによって人々の一群を完全にする。それが人々に対する神の本当の愛である。人々に対する神の本当の愛を経験するには、激しい痛みに耐え、高い代償を払うことが要求される。この後ようやく人々は神のものとされ、彼らの本当の愛を神に還元することができ、そうして初めて神の心は満ち足りる。人々が神により全き者とされることを望むなら、また、神の意志を実行し、彼らの本当の愛を十分に神に捧げることを望むなら、彼らは多くの苦しみとたくさんの苦痛を周囲の状況から経験しなければならず、死よりもひどい痛みに苦しむためには、結局彼らは本当の心を神に還元することを強いられる。本当に神を愛しているかどうかは困難と純化の期間に明らかにされる。神は人々の愛を清めるが、これも困難と純化の真っただ中でしか達成されない。