交代の後

2022年7月15日

全能神は言われます。「神は一人ひとりの中で働きを行ないますが、その方法が何であれ、力を尽くす中でどのような人や物事を使うのであれ、言葉の調子がどういったものであれ、神の最終目標は一つしかありません。それはあなたを救うことです。あなたを救うのに先立ち、神はあなたを変える必要があります。そうであれば、あなたはどうして少しばかりの苦しみを受けないでいられるでしょうか。あなたは苦しまなければなりません。この苦しみには多くのことが含まれます。あなたが自分自身を認識できるようになるよう、神はあなたの周囲に人や物事を配することがあります。さもなければ、あなたは直接取り扱われ、刈り込まれ、露わにされます。手術台の上の人と同じく、よい結末を迎えるにはいくらかの苦しみを経験しなければならないのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」)。「神の働きを経験する過程において、何度失敗し、倒れ、刈り込まれ、取り扱われ、暴かれようと、これは悪いことではありません。……何であれ、刈り込まれたり、取り扱われたり、暴かれたりするのは、常によいことです。それは断罪ではありません。それは神の救いであり、自分を知る最高の機会なのです。それはいのちの経験を一段加速させます。それなしには、自分の堕落の真相を認識できるようになる機会も条件も背景も得られません。自分の内面にある物事、掘り起こして認識するのが難しい、自身の奥深くに潜む物事の側面をすべて認識できるようになれば、それはよいことです。自分を真に認識できるようになることは、自分の道を正して新しい人になる最高の機会なのです。それは、あなたが新たないのちを得る最高の機会です。いったん自分を真に認識すれば、真理がいのちとなるのは本当に貴重なことだと分かるようになり、真理を渇望して現実に入るようになります。それはかくも素晴らしいことなのです。失敗し倒れるたびに、その機会を捉えて真剣に自分を反省し、自分を真に認識できれば、消極性と弱さのさなかにあっても再び立ち上がることができます。いったんその敷居を跨げば、大きな一歩を踏み出して真理現実に入れるのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」)。神の御言葉を通して分かりました。神が人において働くのは、裁きであろうと、精錬、刈り込み、取り扱い、本分の交代であろうと、すべてその人物が自分自身を振り返って知り、性質を変えるようにするためです。

信仰して数カ月の頃、指導者の趙姉妹は交わりにとても啓きがあり、実際の問題の解決が上手でした。私は彼女を尊敬し、思いました。「私も趙姉妹のように真理の交わりを通して要点をとらえ、兄弟姉妹の問題を解決できれば、とても素晴らしいだろう!」しばらくの間、誰かが指導者や執事に選ばれたと聞けば、気持ちが高ぶり、いつか自分もそうなりたいと思っていました。その後、神の御言葉を飲み食いし、熟考し、ディボーション日記をつけ始めました。教会の仕事にも熱心に取り組みました。

2年後、教会の指導者に選ばれました。劉姉妹と共同で教会の任務を担いました。自分で問題に気付いたり、兄弟姉妹が本分で悩んでいたら、劉姉妹に相談し、真理を求めて解決に努めるのです。数カ月後、教会の仕事に成果が出てきました。同労者の集会では、私の指導者から、皆と学んだことを共有するよう言われました。指導者に評価してもらえ、兄弟姉妹にも尊敬してもらえ、うれしかったです。すると知らず知らずのうちに、集会で自分をひけらかすようになったのです。交わりではいつも、どうやって兄弟姉妹を潤し、支えたか、どうやって問題を解決したか、本分でどんな苦労をして、どんな代償を払ったのか、教会の仕事がどう一歩一歩成功していったのかを話しました。兄弟姉妹の数人が私を尊敬し、問題があれば、祈ったり真理を求めたりする代わりに、私のところに直接来るようになりました。自分に指導者の資質があることをますます実感しました。教会の仕事がうまくいくのは、ほぼ自分の努力のおかげだと思いました。そして、劉姉妹を少し見下すようになり、彼女の提案を聞かなくなったのです。教会の仕事の最終決定権は私にあると。劉姉妹が私のせいで窮屈を感じても、自省はせず、集会では偉そうなことを言いました。「劉姉妹と私が教会の仕事を担当していますが、彼女は本分に消極的で受け身になりがちです。だから私のほうが気にかけなければいけなくて、代償も払っています。劉姉妹がとても心配です。このままだと、教会の仕事に支障が出ます」。兄弟姉妹は、私は本分に責任感があり重荷を背負っていると言ってくれました。これを聞いて、とてもうれしく、彼らの支援と敬意に浸りました。

数日後、ある姉妹が私の問題に気づいて指摘してくれました。「最近、実際の体験について交わりをしていないようですね。問題に直面して暴いた堕落や反抗、どう自省して、自分を知るか、いかに真理を求めて物事を解決するか、最終的にどう変わるかなど、ほとんど交わることがなくなりました。あなたが他人の問題をどう解決し、あなたがどれだけ苦労したかを交わるのが大半で、周りはあなたを尊敬し、崇拝するだけです。正しい道ではありません。これ以上時間を無駄にしないで、ご自身を振り返ってください!」と。でも私は彼女の警告に耳を貸さず、思いました。「私の交わりはすべて自分の実体験についてだ。兄弟姉妹は、私が真理で問題を解決できるから私を認めている。崇拝とか、正しい道ではないとか、なぜそんなことが言えるのか。私のことが羨ましいからそんなことを言うのでは?」と。当時、名声と地位に酔っていました。心はマヒし、かたくなになっていました。次第に暗い気持ちになり、それ以上、他者の状態や本分での困難を理解したり、解決したりできなくなりました。最終的に実務ができなくなり、指導者の役割を降ろされました。

その後、無力なのを感じ、現実を直視したくありませんでした。とても悲観的になり、集会にすら参加したくありませんでした。兄弟姉妹に会わせる顔がなくて。以前は集会をリードし、交わりを与えていたのに、今は受ける側です。他者にどう見られているか心配でした。考えれば考えるほど、苦しくなりました。集会に集中できず、居眠りすることすらありました。私は弱く、悲観的で、神に見捨てられたような気がしました。たまらず涙があふれ、ひざまずいて神に祈りました。「神様! とてもつらいです。こんな状態で過ごしたくありません。神様、導きと救いをください。自分を心から振り返り、知りたいのです」。

祈りの後、神の御言葉を読む動画を観ました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。……あなたがたは今や信者であり、働きのこの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇にのけていない。自分の地位が高ければしっかり追求するが、地位が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことが常に心の中にあるのだ。大半の人が自分から消極性を取り除けないのはなぜか。その答えは常に、将来の見込みが厳しいせいではないか。……あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉は、信仰で地位を求める私の動機と意図を暴いてくれました。信仰を始めたばかりのころを思い出しました。指導者たちのことを心から尊敬し、いつか自分も指導者になって尊敬されたいと思ったものでした。実際に指導者になると、朝から晩まで、どんなに疲れても喜んで本分を尽くしました。自分の指導者に評価され、兄弟姉妹から尊敬されると、さらにやる気になりました。集会では、いつも自分をひけらかし、どれだけ飛び回って働いたか、どれだけ苦労したかを誇示し、劉姉妹を侮辱して自分を高め、崇拝されようとすらしました。指導者を降ろされて地位を失うとすぐに落ち込んで、はい上がることができませんでした。事実に直面し、自分は信仰で真理を求めず、本分を尽くしていなかったことが分かりました。私が求めたのは地位でした。地位があるときは意欲があっても、失えば後ろ向きになります。自分には希望がないと決めつけてさえいて、地位を求める気持ちがどれだけ強いかを知りました。このような探求では、真理と神の救いを得られるはずがありません。昔は自分のことを良く思い、いくらか真理を分かっていて、指導者に適格だと思っていました。交代してから、そこまで後ろ向きになるとは思ってもみませんでした。その時、真理の現実も霊的背丈も自分にはなかったことを知りました。中身のない言葉と道理を話しただけで、自分のことは全く知らず、自分への洞察もありませんでした。指導者を降ろされていなかったら、自分を振り返り、知ることはなかったでしょう。その代わり、地位を追い求め、神に抵抗する道にいたはずです。それは神の家の働きと兄弟姉妹のいのちの入りを邪魔するだけでした。ようやく分かりました。指導者を降ろされたことは神の義なる裁きであり、私は守られていたのだと。神は地位を求める心を取り扱い、悔い改めることができるように、誤った道にいることを気づかせてくれたのです。これが分かると心が解放されました。

その後、名声と地位を求める人を暴く神の御言葉をさらに読むと、ある2つの節が深く心に残りました。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。「自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をし、自分の立場を強化し、人々や地位を神と争うような者もいます。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々を魅了し、支配しようとしています。場合によっては、意図的に人々を欺いて自分自身が神であるかのように思わせ、神のように扱われようとする者さえいます。彼らは自分が堕落しているとは決して言いません。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえず、どれだけ立派にやっていても、すべては神に高められたためであり、ただすべきことをしているだけだ、とは決して言いません。なぜそう言わないかといえば、人々が自分に見向きもしなくなることを深く恐れているからです。だからそのような者は決して神を称賛せず、神に証しすることもありません(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)

神の御言葉が表したのは、人はいつも名声と地位にこだわり、神をたたえたり、証しをしたりしないということ。自分をひけらかし、崇拝され、人を集めることばかり考えているのはサタン的性質がゆえで、そのせいで神に呪われ、懲罰されるということです。パウロがいい例ですね。パウロは地位と権威に憧れ、自分の地位と評判ばかり考えていました。彼は書簡で、自分がどれだけの仕事をしたか、どれだけ主のために苦労したかを証しすることが多く、自分は他の使徒に劣らないとしました。彼の努力と代償は真理を求めるためでも、被造物の本分を尽くすためでもなく、自分の野心を満たし、他者に尊敬され、最終的に見返りと冠を得ることが目的でした。だから、彼のいのちの性質は何年努力しても変わらず、最後には、あまりにも傲慢なために理知を失い、彼にとって生きることとはキリストであると証しをしたのです。彼には主イエスの地位に取って代わり、すべての人を従わせたい、自分を真似させたいという夢物語があり、神の性質をひどく侵しました。パウロには、非常に傲慢でうぬぼれたサタンの本性があったのです。することすべてが、野心を叶えるためで、神に敵対していました。神に対抗する反キリストの道を進み、神から断罪され、呪われました。私の場合、本分を少し達成すると、神の導きに感謝するとは口で言っても、心の中では、自分の功労にしていました。厚かましくも神の栄光を奪い、いたるところで自分を見せつけ、どれだけ駆け回って苦しみ、問題を解決したかを自慢しました。他者に崇拝してもらうためです。劉姉妹が消極的で弱くなると、表面上は助け、支えましたが、心の中では彼女を批判し、鼻であしらっていました。集会では彼女を侮辱し、自分を高めることで、兄弟姉妹に尊敬され、話を聞いてもらおうとしました。ある姉妹が私の問題に気付き、愛をもって警告してくれましたが、頑なに受け入れようとしませんでした。彼女に見くびられた、彼女は私が羨ましいのだとさえ思いました。自分がどれだけ理不尽になったかを知りました。私は本分において真理の交わりで神をたたえ、証しをすることに専念せずに、尊敬されようとしていつでも自分をひけらかし、地位を守ろうとしていました。自分の本性のせいで、どれだけ傲慢でうぬぼれていたかを知りました。完全にサタン的本性を生き、パウロのように、神に抵抗する反キリストの道を歩んでいたのです。悔い改めなければ神に断罪され、排除されることは分かっていました。それを考えると恐ろしく、急いで神の御前で祈り、真理を求めて神に悔い改める気持ちになりました。その後、神の御言葉をさらに飲み食いし、自分を振り返り、自己認識を深めました。自分の行動の動機と意図をよく考えました。問題があると神の御言葉を実践することに集中し、自分の状況も徐々に改善しました。

1カ月後、指導者から接待の本分を任せられました。最初はうれしくありませんでした。自分が指導者だったときは、他の人が私を接待したのですから。でも今度は自分が接待する側です。この差は何でしょう? でも思いました。「まだ名声と地位にこだわるのか。兄弟姉妹の接待は一見特別な仕事ではないが、私の本分であり、責任と義務なのだ」「自分で選んだり求めたりせず、神の支配と采配に従うべきだ」と。そして引き受けました。2日後、指導者が2人の姉妹をうちに連れてきました。すぐに一緒に本分を尽くした2人だと分かりました。私は赤面し、とても居心地が悪く、自分が低い身分であるかのように感じました。少し言葉を交わし、食事を作りに台所に行きました。料理をしながら、2人と本分を尽くしたときのことを思い出しました。自分は集会を主導し、交わりを与えていました。この2人が指導者になり、私が家で接待をするとは考えたこともありませんでした。動揺しました。そして再び名声と地位にこだわる自分に気づきました。急いで神に祈り、求め、神の御言葉を考えました。「人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉をよく考えると分かりました。神は高尚で偉大な人ではなく、誠実な被造物を求めているのだと。地位があってもなくても、神の支配と采配に従えて、正直な人であり、本分を守れる。それが神の御旨に沿うことなのです。神は私に小さな草としての運命を定めました。私は、大木になろうとせずに従い、小さな草としての仕事と本分を十分に尽くさなければなりません。指導者時代を振り返ると、栄光があるかのようです。でも私は真理を求めることに集中せず、名声と地位を追求しました。自己満足で気取り、どんどん傲慢になりました。サタン的性質を生き、神を不快にさせました。その後は接待を務めるようになり、大した本分に見えませんでしたが、自分の責任を果たし、本分を尽くせることでさらに平安と安心を感じました。接待で身分が低くなると感じることはなくなりました。心の底から従えるようになったのです。

昼食後、3人で集会をしました。私は心を開いて、当時の本分における自分の学びについて交わりました。2人も自分の経験について交わりました。とても自由になった気分でした。もう名声や地位に縛られることはありません。以上が私が指導者になって、その後交代させられた体験でした。神に感謝します!

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