福音伝道の困難にどう向き合うべきか

2022年12月9日

僕はペルーの小さな町に住んでた。家族は全員カトリック。村人の大半もそうだった。でも村の教会には管理する神父がいなくて、誰も聖書を学びに来なかった。2020年5月22日、僕はオンラインで全能神の御言葉を読んだ。御言葉を読んで、主イエスが戻られ、それが終わりの日のキリスト、全能神だと確信し、終わりの日の全能神の働きを喜んで受け入れた。その後、こんな全能神の御言葉を読んだ。「神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は『子羊が行く所はどこへでもついて行く』べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻))。信者である僕らは、神の働きを知って神の足跡に従わなきゃならない。村にはたくさん信者がいるけど、神の御声を聞いて主イエスの再臨を迎えた人はいない。だから主の再臨というすごい知らせを、みんなに伝えたかった。だけど心配もあった。まだ若いから、福音の伝え方を知らないし、誰も聞いてくれるはずがない。それに、みんな長年主を信じてる。主イエスの再臨の証しを聞いてくれるだろうか? みんなの観念や困惑を交わりでどう解決できる? 全能神への信仰と福音伝道に反対されたらどうしよう? 僕にどんな態度をとる? 見下されないか?「まだ若いのに、学びも働きもせず、説教なんてどういうつもりだ?」って。ずいぶん悩んだけど、福音伝道は神の御旨。福音を説いて神の証しをしないと。

そこで神に祈り、全能神の御言葉を読んで決意を固めた。この御言葉を読んだんだ。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。あなたは次の時代の良き主人として、どう十分に奉仕するのか。あなたには主人としての強い意識があるのか。万物の主人についてどう説明するのか。それはまことに世界のすべての生き物とすべての物体の主人なのか。次なる段階の働きを進展させるために、あなたはどのような計画を持っているのか。何名の人たちがあなたに羊飼いになってもらいたいと待っているのか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか。結局、人間は毒された犠牲者たちである。人間は今日まで生きながらえたけれども、悪しき者によって人類が長い間毒されてきたことを、いったい誰が知っていただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神に対するあなたの愛のゆえに、これら生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか。つまるところ、神に用いられて並外れた人生を送ることを、あなたはどのように解釈するだろうか。神に仕える敬虔な人という意義深い人生を送る決意と自信を、あなたは本当に持っているのか」(『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」(『言葉』第1巻))。これでわかった。福音伝道は僕らの本分。大勢の人がまだ神の御声を聞いておらず、主が戻られ、裁きの働きで人を清めてることを知らずにいる。今もサタンの堕落に苦しんでるんだ。僕らがみな神の御旨を想い、立ち上がって神と協力することを、神は望まれてる。どんな問題や困難に遭おうと、神に祈ってすがり、全力で神の国の福音を広めないと。でも僕は神の御旨を理解せず、若いから伝道は無理だと思った。村人に無視され、見下されるのを恐れ、想像の中の困難に悩み、不安でいっぱいになった。神の御旨じゃなく、自分の困難ばかり考え、こうした難所で神に祈ってすがり、本分と責任を果たすなんて考えなかった。主の再臨と、闇からの救済を待ちわびる人が大勢いることを思うと、焦りを感じた。終わりの日の神の福音を全力で広めて証しし、時間と精力を伝道につぎ込むと決意した。

その後、福音伝道の計画を立て始めた。まずは文具店で説教の招待状を印刷し、10軒に配った。みんな驚き、僕の行動を褒めてくれたよ。嬉しくなって、その後思った。当日の夜に大勢来たら、僕の小さい携帯電話じゃ、みんなが説教を聞きながら聖書を読めない。そこで友達にノートパソコンを借りた。当日は説教を聞きに13人来てくれて、集会ではみんな喜んで御言葉を読んだ。読みたければ志願するというのがよかったんだ。集会後はみんな幸せそうで、御言葉は糧になって素晴らしい、集まって御言葉を読むのはいいことだと言ってたよ。次の日は家族も連れて来たんだ。みんなが御言葉を待ちわびてるのを見て、本当に嬉しかった。でもノートパソコンをいつも借りるわけにはいかないから、自分のを買おうと思った。だけど僕の所持金を集めても、まだ足りない。困ったよ。あちこち訊き回って、プロジェクターのほうが安いとわかったから、ローンを組んで買うことにした。これで他の村人も御言葉を読める。街に出かけてローンを組み、プロジェクターを買ったよ。次の集会前に準備を済ませると、すぐに村人がやって来た。参加者は19人。部屋が一杯になった。その瞬間、神が全部采配なさったとわかり、興奮した。みんなが御言葉を聞けるよう、急いでスピーカーを見つけ、主の再臨の預言がどう成就したか、主をどうお迎えすべきか、そして主イエスが戻られ、各種の人を暴くため神が来られた真理を証しした。参加者は神の御言葉を熱心に読み、それを読んで興奮した子どももいた。神の言葉に飢え渇いているのを見て、すべて神の働きだとわかった。集会後も帰らず、本当に素晴らしいと言う人もいた。村長たちも感動して、村人全員に御言葉を聞かせようと言ったんだ。嬉しい喜びだった。この結果に自分の観念と想像が打ち砕かれ、恥ずかしくなった。神の働きと導きを目撃し、福音伝道の信念が強まったよ。その後は毎晩、村人を説教に招待し、さらに大勢来るようになった。みんな喜び、こう言った。「こんなのを読んだのは初めてだ。神は肉となって戻られ、我らは面と向き合える。主をお迎えできて幸運だ」。また周辺の町からもっと人を集めようとイベントを企画し、僕にこう言った。「君は若いが、村人に神の御言葉を聞かせている。実に立派だ。こんなことをした人はいない。君のような若者がこうしたことをするなんて、素晴らしいよ」。ひとえに神の御業だとわかって興奮し、信仰も強まった。

でも新しい信者を潤す中で、ありとあらゆる困難に直面した。インターネットがつながらなくて、戸別に集会を開くことも。それにそこは雨の多い地域で、雨が降ると道がぬかるみ、歩くのも難しい。潤すときは家から家へと走り回り、雨が降る前にと思って新信者の家へ急ぐと、まだ戻ってなくて待たされることもあった。そして交わりが終わると、道はひどいことになってる。すっかりくたびれ弱ったから、祈り、御言葉を読んだよ。この全能神の御言葉を読んだんだ。「落胆してはならない。弱ってはならない。そうすればわたしが物事を明らかにしよう。神の国への道は平坦ではない。何事もそう簡単ではないのだ。あなたはたやすく祝福を得たいと思っているのではないか。現在は誰もが苦しい試練に直面しなければならない。そうでなければ、わたしに対する愛の心が強まることはなく、わたしへの真の愛を抱くこともないだろう。試練は単なる些細な状況だとしても、誰もが必ず通らねばならない。ただそれぞれ試練の度合いが違うというだけのことだ。試練はわたしからの祝福なのだ。頻繁にわたしの前に来て跪き、わたしの祝福を求める者がどれだけいるだろうか。愚かな子らよ。あなたがたはいつも、ちょっとした幸先の良い言葉がわたしからの祝福だと思っているが、苦しみもわたしからの祝福の一つだとは感じない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第四十一章」(『言葉』第1巻))「苦難に直面したときは肉への不安を脇にのけ、神に不満をぶつけずにいられる必要がある。……あなたの実際の霊的背丈がどの程度であろうと、まずは苦難を受ける意志と真の信仰をともに備え、肉を捨てる意志も備えていなければならない。神の旨を満足させるべく、自ら進んで自分の苦難に耐え、個人の利益を失うことを惜しんではならない。また、自分に後悔することもできなければならない。過去、あなたは神を満足させることができなかったが、今では悔いることができる。これらのどの点においても欠けがあってはならない。神はこれらのことを通じてあなたを完全にするのである。これらの基準を満たせなければ、あなたが完全にされることはない(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻))。心を失ったり弱ったりしないよう、御言葉は励まし、慰めている。神はきっと導き、助けてくださる。福音伝道で肉体的に苦しみ、多少代価を払ったけど、それは有意義で価値がある、何にもまさる正義で、神の承認と祝福を一番得られる。ペテロやマタイなど、主イエスの弟子たちは、福音を伝えるためたくさん苦しみ、伝道のため殉教した人もいる。でも福音伝道をやり抜き、決して引き下がらなかった。それに比べれば、僕の苦しみなんて触れる価値もない。幸運にも終わりの日の神の働きを受け入れ、神の国の福音を広める本分を尽くせるのは、神の称揚と恵みだ。自分の肉体を考え、多少の困難を恐れてはいけない。進んで苦しまないと。困難にくじけるわけにはいかないんだ。肉体的に苦しんでも、福音を伝えて神の働きを証しし、本分を尽くして神に満足いただく。

その後風邪をひいて、数日苦しんだ。夜になると熱が出て、頭痛や胃痛に襲われる。話もできない。僕の病状を見た姉妹がこう言った。「今夜は集会を休みなさい」って。そのときはうなずいた。でも後で、新信者だけで集会を開くのかと不安になった。この病気は僕を試す試験。本分をしっかり尽くさないと。前は病気になったり足を怪我したりしても、サッカーをしてたじゃないか。どうして今本分を尽くせない? そう考えてバイクに乗り、集会に出かけた。すると着いたときには、気分がよくなったんだ。嬉しかったよ。たった数日で回復したんだ。

その後、一ヵ月以上努力し、町の外で働いてる人以外の大半の村人が、終わりの日の全能神の福音を受け入れた。その後、こう思った。村人全員に福音を伝えたけど、神の御旨はまだ満たせてない。もっと大勢に神の声を聞かせよう。主イエスが戻られ、多くの真理を表わし、人類を清めて救う働きをなさってることを知らない人がまだ大勢いるんだから。そこで、他の村にも伝道することにした。心の中で祈ったよ。「全能神よ、どうかお導きを。信仰を失わず、前進し続けられるように。僕がどんな困難に遭おうと、きっと助けてくださると信じてます」それから、近くの村に福音を説きに行った。ぬかるみの下り坂を三十分歩き、そこで福音を説いたけど、最初の3軒には時間がないと言われ、遠回しに断わられた。がっかりしてくじけそうになったよ。帰宅したのは夜遅く。アニー姉妹が福音伝道はどうだったと訊いた上で、御言葉について交わり、励まし助けてくれた。この全能神の御言葉を読んだんだ。「わたしが望むのは、あなたの今の忠誠と服従、あなたの今の愛と証しである。たとえ証しとは何か、愛とは何かをこの瞬間知らなくても、あなたは自分のすべてをわたしに差し出し、あなたが持っている唯一の宝物、つまりあなたの忠誠と服従をわたしに引き渡すべきである。わたしがサタンを打ち負かした証しは、人の忠誠と従順に見ることができ、わたしが人を完全に征服した証しもそうであることを、あなたは知るべきである。あなたの信仰における本分は、わたしにのみ忠実であること、最後まで従順であることである。わたしが働きの次なる段階を始める前に、あなたはわたしのためにどう証しをするのか。いかにしてわたしに忠誠を捧げ、服従するのか。あなたは自分の役割のためにすべての忠誠心を捧げるのか、それとも単にあきらめるのか。または、わたしのすべての采配(たとえそれが死であっても、あるいは滅びであっても)に服従するのか、それともわたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すのか。わたしがあなたを罰するのは、あなたがわたしのために証しを行い、忠誠を尽くしてわたしに服従するためである。さらに、現在の刑罰は、わたしの働きの次なる段階を明らかにし、働きを何の妨害もなく進展させるためのものである。よって、あなたが賢くなり、自分のいのちや存在意義を価値のない砂のように扱わないよう、わたしはあなたに勧告する。今後のわたしの働きがいったいどのようなものになるか、あなたは知っているのか。わたしが今後どのように働き、わたしの働きがどのように展開していくのか、あなたは知っているのか。わたしの働きに関する自分の経験の意義、さらにわたしに対する信仰の意義を、あなたは知らなければならない。わたしは多くのことを行ってきた。あなたが想像するように、どうして途中で諦めることができようか。わたしはかくも幅広い働きをなしてきた。どうしてそれを台無しにすることができようか。確かに、わたしはこの時代を終わらせるために来た。それは事実だが、それ以上に、わたしは新しい時代を始め、新たな働きに取りかかり、そして何より、神の国の福音を広めようとしていることを、あなたは知らなければならない。ゆえに、現在の働きは時代を始め、来たるべき時に福音を広め、将来のどこかで時代を終わらせるための基盤を築くことだけであると、あなたは知らなければならない。わたしの働きはあなたが思うほど単純ではないし、あなたが信じているほど価値がなく意味のないものでもない。だから、わたしは依然としてあなたに言わなければならない。あなたはわたしの働きのためにいのちを捧げ、それ以上に、わたしの栄光のために自分自身を捧げるべきである。あなたがわたしのために証しをすることを、わたしは長いこと待ち望み、またそれ以上に長く、あなたがわたしの福音を宣べ伝えるのを待ち望んできた。あなたはわたしの心にあるものを理解すべきである(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻))。この御言葉を読んで力が湧いた。神に言われた気がしたんだ。神を信じ、どんな困難に遭っても、弱って消極的になったり、くじけたり、落胆したりしてはいけない。神が導いてるから。神の御旨を想い、神の国の福音を広める限り、きっと道を開いてくださる。御言葉から、福音伝道の道は平坦じゃなく、苦しみと代価が必要だとわかった。ノアは120年にわたって福音を説き、馬鹿にされ、中傷され、罵られた。たくさん苦しみ、誰も改宗させられなかったけど、諦めたり弱ったりせず、福音を説き続けた。神への忠誠と服従を守り抜いたんだ。ノアは被造物として本分を尽くし、神の承認と祝福を得た。神が洪水を起こして世界を滅ぼすと、ノアの家族8人は神に救われ、生き残った。僕はと言えば、たった3軒に福音を説いただけで、受け入れないとくじけてしまった。神への真の信仰がない。実際、神は僕の信仰と忠誠を完全にするため、この状況と困難が僕に臨むのを許されたんだ。だから彼らが受け入れようと受け入れまいと、福音を説かなきゃ。それが僕の本分なんだ。

御言葉から力をもらった。翌日は別の村に出かけ、福音を説いた。同時に祈り、福音対象者を啓いて真理を理解させてくださいと、全能神に求めた。その夜、福音に興味を持つ人が見つかった。そのうえ、福音対象者がさらに見つかって、一晩で6人に伝えた。驚いたよ。中には観念を多く抱えるカトリック教徒がいたのに、僕が御言葉を交わると理解し、終わりの日の全能神の福音を受け入れたんだから。その後は別の場所に行って、福音を説くたびに祈り、神の啓きと導きを求めた。伝道して御言葉を証しする方法がわかるように。さらに大勢が神の福音を受け入れ、僕の信仰は膨らんだ。他の村に行って知らない人に伝道するとき、恥ずかしかったり怖かったりしても、御言葉の導きが自身と勇気を与えてくれた。何としても彼らと交わる。これが僕の本分だし、伝道しないと実践する機会を得られず、学んでさらに多くの真理を得られない。その後は絶えず伝道を実践することで、不安や恐怖が消え、ビジョンの真理をますますはっきり理解するようになった。実に穏やかで自由な気分だ。

この伝道の過程で多くの収穫を得た。これを経験してなかったら、神の全能なる支配を理解できず、本分を尽くす重要性や、困難の中で神を求める方法もわからなかっただろう。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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