もう本分から逃げない

2022年12月9日

去年の8月中旬のある日、指導者から教会でいくつかの働きの責任者になってほしいが、やる気はあるかと聞かれました。それを聞いて、胸がドキドキしました。教会の働きの責任者になることは、兄弟姉妹のいのちの入りに関する問題を解決するだけでなく、それぞれの仕事の指導やサポートをする必要がある。責任重大だわ。本分がうまく尽くせなくて働きが遅れたり邪魔をして教会の働きを損ねたりすれば、取り扱いを受けるだけじゃなく、解任や淘汰される可能性もある。そうなれば前途や終着点を失ってしまう。そして前任者2人が解任されたことを思い出しました。私は働きのことを知らないし、彼らほどの素質もない。そんな私が責任者になるのは大変なことだと思った。そんな大きな責任を負わず、1つの本分を担う方が気が楽だった。断りたかったけど、これは神からの引き上げで、従うべきだと分かっていたので、仕方なく引き受けました。その夜、布団に入ってもなかなか眠れず、大きなストレスを感じました。何度も考えました。教会の働きの責任者になれば、導きや助けを多く得られて、よりたくさんの真理を学び、いのちの入りを進められる。でもその本分は責任重大だから、失敗すればその分暴かれ淘汰されるのも早い。引き受けない方が無難だと思った。次の日、勇気を出して指導者に電話して言ったんです。「背丈の小さい私では力不足です。働きに遅れが出てしまうので、別の人を探してください」と。指導者にはもう少し探究をして、本分を避ける理由を振り返るよう言われました。電話を切った後、膝をついて祈りました。「神よ、教会の働きをいくつも担うのが怖いです。失敗すれば淘汰されてしまうので、守りに入りあなたを誤解しています。神よ、あなたの旨を理解できるよう導いてください」。その後、御言葉を読みました。「本分を尽くしているとき、消極的で受け身の状態、あるいは抵抗や誤解の状態にたびたび陥る人がいます。このような人は、自分が暴かれて追放されることを絶えず恐れており、自分の前途と運命に縛られています。これは子どもじみた霊的背丈の表われではありませんか。(そうです。)本分をしっかり尽くせないのではないかと不安だ、といつも言う人がいます。このことを詳細に分析しなければ、この人はとても忠実だと思えるかもしれません。この人が心の中で本当に心配していることは何ですか。本分をしっかり尽くさなければ、追放されて最後の終着点を得られないのではないかということです。効力者になるのが怖いと言う人がいます。それを聞くと、他の人は、その人は効力者になりたくなく、ただ神の民の一人として立派に本分を尽くしたいのだと考えます。その人には決意があると考えるのです。実際のところ、効力者になることを恐れている人は、心の中でこう考えています。『効力者になれば、最終的に滅びてしまい、最後の終着点を得られず、天国の分け前にあずかれない』。これが、そのような人の言葉が暗に意味していることです。結局、自分の結末と最後の終着点の心配をしているのです。神がこのような人を効力者だと言えば、その人は本分の遂行に捧げる努力を幾分減らします。神がその人のことを選民の一人だと言い、讃えれば、その人は本分の遂行に注ぎ込む努力を増やします。ここでの問題は何ですか。神の家で本分を尽くしながら、真理の原則に沿って行動しないという問題です。自分の前途や運命を常に考え、『効力者』という呼び名に絶えず縛られています。その結果、しっかり本分を尽くすことができず、真理を実践する力がありません」『終わりの日のキリスト講話集』。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません」(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉の一つ一つが私の状態を正確に表していて、心に響きました。本分を前にして、自分の背丈が小さいので成果があげられずに働きを遅らせるのが怖いと言ったけど、ほんとは自分の利益を考えていました。他の人がこの本分を解任され淘汰されたのを見てこの本分には大きなリスクがあると思った。失敗して教会の働きを乱し、遅らせれば、それは過ちになるだけでなく、解任されたり、ひどい時は淘汰されて、行く末や終着点を失うかも。だから自分の前途や終着点を守るために本分を辞退したんです。教会の働きを遅らせたくないという言い訳を使って。もっと責任が小さい本分の方がよかったんです。本分を尽くせるし、いい終着点が得られるから。サタンの毒にすっかり犯されていました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「出過ぎたことをせず失敗を回避せよ」のような考えで生きていました。すべてにおいて自分の利益や自分自身が基準になっていました。自分のためになる本分しか担当したくなくて、わずかな代償だけで神の祝福を得ようとした。神と取引しようとするなんて、自分勝手で卑しいことです。

その後さらに御言葉を読みました。「わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰をわたしは決して認めない。真の信仰がないあなたには、真の愛はなおさらない。そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らせがちなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感がなく、邪悪な策略に溺れ、不誠実でずるく、悪事や闇を喜ぶ、といった具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。このような信仰は罪以外の何物でもない。中には、わたしを喜ばせるのはまさに媚びへつらいごまをする者たちであり、そのような技量のない者は神の家では歓迎されずに居場所を失う、と信じている者すらいる。長年かけてあなたがたが得た認識はこれだけなのか。これがあなたがたの手に入れたものなのか。わたしに関するあなたがたの認識はこのような誤解にとどまらない。さらに悪しきは、あなたがたによる神の霊への冒涜と、天に対する悪口である。あなたがたのような信仰のせいで、あなたがたはますますわたしから逸れていき、わたしとさらにひどく敵対するだけだとわたしが言うのは、それゆえである」(『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻))。御言葉の意味を考え、自分を振り返って、自分の本性がずる賢く邪悪だとわかりました。責任のある重要な本分はリスクも高く、失敗すれば暴かれ淘汰され、追放されると思った。神の家と俗世、そして神と俗世の王を同一視していました。本分は薄い氷の上を歩くのと同じで、少しの失敗で足元をすくわれると思い、神がいたずらに人をもてあそび、翻弄し、私を暴いて淘汰し、炎が燃える穴に放り込むために重要な本分を与えたと考え、神の義を信じず、自分を守り神を誤解していました。それは神に対する冒とくです! 神の家は原則に基づいて人を扱います。私が知っている教会指導者の程姉妹は、何年も神を信仰し、素質に欠けるところはありますが、本分で責任を負い、刈り込みや取り扱いを受け入れ、従い、変化を望むので、教会から重要な働きを任されました。ある時、程姉妹がある人を班長に選んだのですが、その人はとてもずる賢く、実際の働きをせず、教会の働きを大きく乱しました。程姉妹は、原則によらずその人物を選んだうえに適切に監督をしなかったとして厳しい取り扱いを受けました。それは偽の指導者のすることです。でも指導者は程姉妹を解任せず、辛抱強く真理の原則を交わり、彼女に自分の失敗や欠点を認識させました。そして新たに指導者となった王姉妹は、経験は浅くても、素質が高く理解も純粋で、本分で成果を上げていました。でも指導者として原則を知らなかったので、人を見る目がなく、非常に傲慢だった人物を反キリストとして破門しそうになりました。でも王姉妹の指導者は彼女を解任する代わりに、彼女を暴き、取り扱い、問題の重要性を認識させ、関連する真理の原則を交わり、王姉妹が人を見る目を養えるようにしました。教会の指導者は、堕落を表したり働きで間違いを犯しても解任されたり淘汰されず、真理を理解し原則を学べるように、助けや交わり、取り扱いを受けています。素質があり、真理を受け入れ、本分の責任を負う限り、失敗や過ちを犯しても、教会は悔い改める機会を与えます。一歩間違えれば終わりではなく、本分を尽くせるように訓練されていくのです。素質がなくて仕事をこなせない人もいますが、教会はそのような人を淘汰せず、素質や背丈に合った本分に異動させます。一方本分を適当にこなし、真理を求めない人は、重要な本分についていなくても、暴かれ淘汰されます。解任されてもまったく悔い改めることなく、不満を言い、人を批判し、観念を広めて教会を乱す人は、神の家から追放されます。神の性質は義であり、神の家は原則に則って人を扱います。そのすべてに神の愛と救いがあるのです。私は神を信じていながら神を知らず、誤解し、私を暴き淘汰するために監督者にしたと考えました。私の理解は荒唐無稽で神の旨を完全にゆがめていて、神を誤解し、神の義を否定していたんです。御言葉の裁きが無ければ、問題の深刻さを理解せず、神に抵抗する状態を続けていたでしょう。

ある日、この御言葉の一節を読みました。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である」(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻))。神の御言葉からわかったのは、祝福や災害と人の本分は無関係であること。本分は神の委託なので、それを尽くすのは義であり自然であること。人が解任され、淘汰されるのは、信仰において真理を求めず、神に従わず、本分を適当にこなし、悪を行い神に抵抗するからです。私の前に解任された2人もまさにそうでした。1人が解任されたのは、人間性がよくないことと真理を受け入れなかったこと、さらに対立を招き、派閥をつくり、人に迷惑をかけ、教会の働きを大きく損ねたことが理由です。教会はその人の本性と本質、そして悪行の事実を基にこの件を処理しました。もう1人は、非常に傲慢な性質をもち、常に自分を持ち上げ、能力を見せつけ、権力を乱用し、実際の働きをしなかったことで、教会の働きを大きく遅らせたために解任されました。2人の身に起こったことは、担当していた本分のせいではなく、実際の働きをせず、誤った道を歩んでいたからです。解任の理由や背景を考えたり、事実を理解せずに、本分が難しかったから暴かれ淘汰されたと思い込んだ。さらに私の素質は2人に及ばないので、重要な本分を引き受けたら瞬く間に淘汰されると思った。なんて馬鹿げた考えでしょう!

その後、さらに御言葉を読みました。「あなたがたは開かれた正直な心でもってできる限り自分の本分を尽くし、必要な代償であれば何でも払う覚悟をしなければならない。あなたがたが述べた通り、その日が来た時、神のために苦難を受けて代償を払った者を神がいい加減に扱うようなことは決してない。このような信念は保つ価値のあるものであり、決して忘れないことは正しい。このような方法でなければ、あなたがたに関してわたしの気が安まることはない。さもなければ、あなたがたは永遠にわたしの気が安まることのない人たちとなり、あなたがたは永遠にわたしの嫌悪の対象となる。あなたがた全員が自らの良心に従い、わたしのために自己のすべてを与え、わたしの働きのために努力をいとわず、わたしの福音の働きに一生涯分の精力を捧げるならば、わたしの心はあなたがたのためにいつも歓喜して飛び跳ねるのではないのか。そのように、あなたがたに関してわたしは心をすっかり安らげることができるのではないのか。あなたがたにできるのは、わたしが期待する事のうちごくごく僅かでしかないことは残念である。それならば、あなたがたはどうして厚かましくも自分が望むことをわたしに求めることができるのか」(『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻))。御言葉から学んだのは、神は本分を通して人を完全にすること、本分が重要かどうか、大きな責任やリスクを伴うかどうかに関わらず、神に従い全力で本分を尽くす必要があるということです。本分で問題が明らかになればなるほど、自分を反省し堕落や欠点を認識する機会が増えます。それを使って真理や原則を求めることで、次第に真理の現実に入れる。これが本分により達成できることです。本分を尽くさなかったり、責任を恐れて本分を辞退すれば、堕落した性質や欠点が表面化しないので、自分の誤った考えやサタン的本性を認識できず、真理を求めてそれを解決することができないので、最後まで神を信じても真理を得られず性質を変えられず、救いを得て完全になることもありません。教会の働きをいくつも担当する大切な本分を得ることは、訓練の機会を得ることを同じです。本分で失敗しても、刈り込みや取り扱いを受けても、それはすべて自分を認識して真理の現実に入るチャンスなのです。そのことがわかって、安心した私は、本分を受け入れますと指導者に伝えました。本分では、指導者が私の働きを細かく確認してくれて、その指導とサポートを得て、少しずつ原則と真理を理解するようになり、自分の欠点がはっきりわかるようになりました。一度、ある計画を実行したのですが、私の交わりと監督が不十分だったために、働きで問題が生じ、損失が出てしまいました。指導者に話せば取り扱いを受け、責任を取らされると思いましたが、事実を隠すことはできないとはっきりわかっていました。誠実な心で問題を正確に報告し、教会の処理に身をゆだねようと思いました。私の話を聞いた指導者は私を取り扱う代わりに、いくつかの真理の原則を交わり、私が自分の問題点を認識し、本分を尽くすための原則と詳細を理解できるようにしてくれました。その後も、本分で失敗や問題を招いたり、指導者からの厳しい刈り込みや取り扱いはありましたが、それらの問題により解任されたり淘汰されることはなく、本分を通して自分の欠点を補うという実際の体験ができたのは、神の愛でした!

その後、新たな試練が待っていました。ある日、指導者にある仕事を任されました。それは供祭の支出に関する仕事でした。それを聞いて大きなストレスを感じました。私が失敗して神の供祭に大きな損失が出たら、それは地獄の門を開けるようなもの。一巻の終わりだわ! だから指導者に話して仕事を断ろうとしました。でも私が一番の適任者なので、私がやらなければ教会の働きに遅れが出る。どうしよう? 大きなジレンマを感じました。本分を逃れる言い訳を探したけど、罪悪感もあり、また自分の前途や命運のことを考えてると気づいたので、急いで神に祈りました。「神よ、また責任を負うのが怖くて本分から逃げたくなっています。神よ、自分の利益だけを考える自分勝手な人間になりたくありません。あなたに従えるよう導いてください」と。そして御言葉を読みました。「現在、あなたがたが達成するよう求められていることは、追加の要求ではなく、人間の本分であり、すべての人が行なうべきことである。あなたがたが自分の本分を尽くすことさえできないのなら、あるいは本分をきちんと尽くすことができないのなら、それは自分自身に問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。どうしてあなたがたに、未来や前途があることを期待できようか。神の働きは人類のためになされるのであり、人間の協力は神の経営のためになされる。神がなすべき働きをすべて行なった後、人間は惜しむことなく実践し、神と協力するよう要求されている。神の働きにおいて、人間は努力を惜しまずに、自分の忠誠を残らず捧げるべきであり、数多くの観念にふけったり、座して死を待っていてはならない。神は人間のために自らを犠牲にできる。それではなぜ、人間は自分の忠誠を神に捧げられないのか。神は人間に対して心と思いを一つにしているのに、なぜ人間は少しばかり協力できないのか。神が人類のために働きを行なっているのに、なぜ人間は神の経営のために、いくばくかの本分を尽くせないのか。神の働きがここまで至ったのに、あなたがたは依然として見ているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。このような人は滅びの対象ではなかろうか。神はすでに自身のすべてを人間に捧げたのに、なぜ人間は今日、熱心に自分の本分を尽くすことができないのか。神にとっては自身の働きが最優先であり、神による経営の働きはこの上なく重要なことである。人間にとっては、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことが最優先である。あなたがたはみな、それを理解すべきである」(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻))。これを読んでわかったのは、この本分は神の求めで、私が負うべき責任だということ。私が完成させなければならず、もし自分の前途や終着点のために投げ出したり拒んだりすれば、被創造物としてのいのちの価値を失うことになる。そしてこのような信仰は神に認められない。教会で本分を尽くせるのは神の引き上げなのに、私は神の旨を考えず、良心に背いて本分を拒もうとした。良心のない、神の前に生きる価値のない人間でした。そう思うと、大きな罪悪感がわき上がり、自分の利益を無視して、本分を受け入れる気になりました。仕事を始めた頃は、とても大変でした。誰も正しいやり方を知らず、働きはかなり遅れていました。解決策がわからず、気持ちは焦るばかりでした。そこで神に祈り、兄弟姉妹と交わり、真理を求めました。みんなで力を合わせた結果、神の導きのおかげで、すぐに取るべき方法がわかり、仕事を進めることができました。それを見て、何度も神に感謝しました。

この経験により、神への信仰が一層強まり、どんな本分を尽くそうと、それは自分の責任と義務なので、責任をとることを恐れて断るなんてできません。それは人間性を欠く行為です。本分を尽くせるのは神の祝福であり、正しい心をもち、本分の重荷を背負い、懸命に真理を求め原則に従う限り、聖霊の働きをもっと得ることができ、本分をよりよく尽くせるようになります。

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