傲慢な自分をどう変えたか

2022年4月12日

米国 敬畏

全能神は言われます。「厳しい言葉であれ、裁きであれ、あるいは刑罰であれ、神の働きの各段階は人を完全にするものであり、絶対的に適切なものである。どの時代においても、神がこのような働きを行なったことはない。今日、あなたがたが神の知恵を理解するよう、神はあなたがたの中で働きを行なっている。あなたがたは内面においていくばくかの苦痛を味わってきたが、心は安定していて平安である。神の働きのこの段階を享受できるのは、あなたがたの祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、あなたがたが今日、自分における神の働きの中で見られるものは愛である。神の裁きと精錬を経験しなければ、その人の行ないや情熱は表面的なものにとどまり、性質はいつまでも変わらない。それで神に得られたと言えるのか。今日、人の中には傲慢やうぬぼれがいまだ数多くあるものの、その性質は以前に比べてずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際に苦痛を感じることがあっても、あなたの性質に変化が起こる日はいずれやって来る。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明かを知る。またその時、あなたは神の旨を真に理解できる(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。以前の私は、熱心に本分を尽くそうという意欲さえあれば、神に承認されると思ってた。御言葉の裁きと刑罰を受け入れたり、性質を変えようとしたりしていなかった。ただ傲慢で偉そうな態度で、本分を尽くしていたわ。兄弟姉妹に意見を押しつけて、教会の仕事を妨げていた。やがて気づいたわ。神の裁きと刑罰なしには、私の堕落した性質を清めて変えることはできないし、神に満足してもらえるように本分を尽くせない。神の裁きと刑罰が私たちにとっての救いだということを、まさに経験したの。

2016年に、私は舞台装置のデザインを任されたの。とても嬉しくて、こう思ったわ。「私はインテリアデザインを学んだし、4年以上の実務経験がある。自分の専門知識を存分に生かして、神に満足してもらうわ」。それから、兄弟姉妹と一緒に、技術を身につけて、原則を交わったわ。しばらくしたら、自分の成果が見えてきた。誰かに「この舞台セットはすごいね。とてもリアルだ」と言われると、私は、神のお導きだと答えながら、心の中では、「当然よ」と思った。「誰がデザインしたと思ってるの? 私はプロよ!」ってね。私はだんだん態度が大きくなってきて、話す時まで大声になった。他の人が本分でミスをしているのを見れば、その人を見下したし、舞台装置について、皆の意見を聞かなくなった。私はデザインを勉強したんだから、人の意見なんか必要ない、どうせ私のやり方でやるんだから、聞くだけ無駄でしょ? と思った。頭の中でレイアウトを考えてから、直接、監督と話し合ったわ。

チームリーダーに選ばれてからは、いよいよ兄弟姉妹を見下すようになった。ある時、レストランの舞台設定をしていたら、チームメンバーの、チャン兄弟が言ったの。「入口のドアがちょっと低すぎて変だね」って。私は聞く耳を持たず、こう思った。「レストランの舞台装置は何度もデザインしたわ。ドアの高さくらい知ってるに決まってるでしょ? あなたは舞台装置の経験も少ないし、デザインも勉強していないし、実務経験もあまりないのに、プロに指図するのね」。私はイライラして彼の提案をはねつけて、皆に私のやり方を押しつけたわ。そしたら、カメラマンが、ドアが低すぎて視界をさえぎるから、撮影できないって言ったの。ドアをまた作り直すしかなかったわ。その後、食器棚が必要になったので、チェン兄弟に、私の設計図通りに作るように言ったの。そしたら彼が言ったの。「真ん中の部分が広すぎて、変だな。もう少し狭くしたら?」って。私は思ったわ。「ネットで資料をさんざん調べたし、これが正しいサイズのはずよ。私の言うとおりにすれば間違いないわ」。それで我を張って、言ったの。「一体何を言ってるの? いいから私の設計通りにして!」でも出来上がった食器棚は、真ん中が広すぎて、皆に不評だった。チェン兄弟が作り直すのに時間がかかって、おかげで撮影も遅れたわ。それでも私は反省しなかった。何とも思わなかったの。「誰だって間違えることはあるでしょ? ちょっとの時間と材料で作り直せるんだから、いいのよ」ってね。

そしたらある時、集会の後で、チャン兄弟に言われたの。「どうも君はこの頃、皆との共同作業の際に、我を張りすぎじゃないかな。僕らが何か提案しても聞く耳をもたないし、筋の通った意見も却下してしまう。上から目線で周りを威圧して、いつも自分の意見を通そうとしている。そういう態度は、傲慢な性質のあらわれだよ」。私はその言葉を受け入れたけど、心の中では「傲慢だから何だっていうの?」と思っていた。数日後に、今度はリュウ兄弟が、私の傲慢な態度を取り上げて、私が他人の言うことを聞かないし、威圧的だと言ったの。私はリュウ兄弟の言葉を最後まで聞こうともしなかった。「みんな私の足元にも及ばないくせに。私に意見する気?」って思ったわ。考えれば考えるほど、自分が悪いとは思えなくて。神に祈る時ですら言い訳していたの。でもそうするうちに、だんだん心が暗く沈んできたわ。デザインもずさんになったけど、それでもまだ反省しなかった。そしたらある日、鉄の椅子のワクに脚をぶつけて、脚がぱっくりと切れて、病院で7針も縫ったのよ。これは偶然なんかじゃなくて、間違いなく神の御心だと確信したわ。私はようやく心を落ち着けて、よく反省してみたの。兄弟姉妹が、提案をしてくれたり、役に立つアドバイスをくれているのに、聞く耳を持たず、反抗的で、素直に受け入れる従順さがなかったわ。本当に頑固だった。だから、私の堕落した性質を知らしめてくださるように神に祈ったわ。

そして朝のデボーションで、こんな神の御言葉を読んだの。「他の人々が自分より劣っていると考えるなら、あなたは独善的で慢心しており、誰のためにもならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十二章」〔『言葉』第1巻〕)。「自分は生まれながらの天才で、天より少し低いものの、地よりは無限に高いなどと考えないことだ。あなたは他の人ほど賢くないどころか、理知ある地上の誰にも増して、ほれぼれするほど愚かだとさえ言えるだろう。なぜなら、あなたは自分を過大評価しており、わたしの行動の些細な点まで見抜けるとでもいうように、いまだかつて劣等感をもったことなどないからだ。しかし実際には、あなたは根本的に理知を欠いた人である。なぜなら、わたしが何を行なうつもりなのかをまったく知らず、ましてやわたしが現在していることに気づいていないからだ。だからこそわたしは言う。あなたは懸命に働く年老いた農夫にも匹敵しない。人生というものを一切自覚していないにもかかわらず、天の祝福に頼り切って土地を耕している、そのような農夫にも匹敵しないのだ。自分自身の人生について再考することがなく、誉れとは何であるか一切知らず、ましてや自己認識など持ち合わせていない。あなたはあまりに『立派』である(『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、ひどく落ち込んだわ。ひと言ひと言が本当の私を暴いているようだった。舞台装置を任されてからずっと、自分は絶対に必要な人材だと思い込んでいた。業界の知識も、経験もあったからよ。兄弟姉妹に対して横柄だったわ。自分はプロだから、素人には構ってられないと思ってた。いつも自分が決定を下して、他の皆と話しあおうとしなかった。デザインの知識のない人と話しても、時間の無駄だと思ってた。仕方なく話すことがあっても、私のほうが知識があるから、私の意見が正しいに決まってると思ってたの。周りの提案を検討しようともせず、きっぱりとはねつけた。周りに対して最低限の敬意さえなかったのね。兄弟姉妹に、傲慢さを反省するよう言われても、聞き入れずに、強情を張っていたの。それこそまさに傲慢のあらわれだったのね。傲慢な性質で生きていた私は、他人を見下し、兄弟姉妹を威圧して困らせていただけ。お勤めでも傲慢で横暴な態度で、周りに指図して、何度もやり直しをさせて、教会の仕事を妨げていた。ひどい話だわ! 全部わかってみると、何だか怖くなった。神に祈って悔い改めたわ。金輪際、傲慢な態度はとりたくなかった。

それからは、自分を二の次にするよう意識して、もっと周りの提案を聞き入れて、悪いところを直すようにしたの。時には私のデザインに、兄弟姉妹が、私とは違う案をたくさん提案してくることもあった。それを拒もうとして、また傲慢になっている自分に気づいたわ。だから心の中で神に祈って、我を捨てて堕落した性質を正せるようお導きくださいと願ったの。誰の提案であれ、神の家にとって最善のものを受け入れよう。そう思い、周りの意見を聞き始めたら、小道具もうまくいくようになって、もっと機能的で実用的なものが、前より早く作れるようになったの。神の御言葉を実践する喜びがわかったわ。でも私は、自分の傲慢な本性を心から理解せず、自覚が足りなかったの。数か月後、私達の舞台装置が皆からとても好評だったこと、本分でも成果を挙げていたことで、気づいたら、傲慢な性質がまた戻って来ていたわ。

ある時、裕福な家の舞台装置を制作していて、こう思ったの。「こんなお金持ちなら、身分にふさわしい高級な内装にするはずよ」。兄弟姉妹にそう言って、舞台装置を私の思い通りにアレンジさせたの。そしたらチャン兄弟がこう言ったわ。舞台装置が現代的すぎて、主人公の時代に合わないって。それを聞いてムッとしたわ。そして思ったの。「わかってないわね。これが柔軟性よ。時代にとらわれず、主人公のステイタスに合ったデザインをすべきなのよ。私が思うに、あなたはこういう家にふさわしいスタイルが全然わかってない。考え方が古臭いわ」。そして彼に言ったの。「時代感覚はあるつもりよ。私を信用してちょうだい」。じきにチェン兄弟からも、窓が現代的すぎると言われたの。私はかなりイライラしたわ。なんて時代遅れで頭が固い人達だろうと思った。怒りをこらえながら、自分の意見を押し通すと、チェン兄弟は、それ以上何も言わなかった。でも完成したものを見た監督に、デザインが現実的じゃないし、派手すぎて、主人公の時代と合わないって言われて、やり直しになったの。私はまだ納得できなくて、彼らの目が節穴だと思ってたけど、これじゃ駄目だって皆に言われて、しぶしぶ作り直しに同意したわ。

その後、舞台装置に80年代風のかまどが必要になったのよ。これは予算がかさむだろうと思ってたら、チャン兄弟が、自分で作ればかなり費用を節約できると言って、細かい計画も立ててくれたの。でも私は、その考えを見下しただけだった。費用は安くあがっても、壊れやすいだろうし、やるだけ無駄じゃないかしら? 監督にも、チャン兄弟のアイディアはうまくいかないと言ったわ。そしたら監督は、私の予算が高すぎると言って、かまどのシーンをなくしてしまったの。チャン兄弟は、後で他にも意見を出したけど、私は彼にお説教をしたの。わかってないし頑固だったから。別の姉妹に、私が彼を抑えつけている、傲慢だと言われたけど、受け入れようとしなかった。舞台装置について監督と話し合う時でさえ、私は傲慢で頑固な態度をとおしたの。その結果、舞台装置が必要なものと違ったり、やり直しになることもあって、撮影が遅れてしまった。

まもなく私は担当を外されてしまったわ。指導者が私に言ったの。「兄弟姉妹が君を傲慢だと言っているよ。君は自分のやり方を通して、常に決定権を持ちたがるし、上から目線で人に説教をする。まるで自分がボスで、皆が部下のような態度だ。皆が君をけむたがっているよ」。そう言われて、本当に驚いたわ。自分が皆にそこまで傲慢で理不尽と思われていたなんて、想像もしなかった。私はすっかり気が動転して、そこからは指導者の言葉が耳に入らなかった。数日間、惨めな気分だったわ。食欲もなく、夜も眠れず、反省していた時に、御言葉の一文を思い出したの。「あなたがたはみな、自分が生涯を通じてどのように神を信じてきたかを吟味し直す必要があります(『神を知ることについて』「序文」〔『言葉』第2巻〕)。この言葉を噛みしめて、思った。「信仰してもう5年になるけど、本当に自分を省みたり知ろうとしたことが一度もない。私は無意識に何度となく傲慢さをあらわにしてきた。本当に心から反省しなければ」と。そして神にこう祈ったの。「神よ、どうか導きと啓きを与えてください。自分の堕落した性質に気づき、己を憎み、捨て去ることができますように。私は悔い改めます」。ある日、用事で撮影現場に行ってみたら、チャン兄弟の提案で作った80年代風のかまどがあったの。費用は、私の当初の予算の半分以下だった。チャン兄弟と他の皆は、段ボールでたくさんの小道具も作っていた。どれもうまくできて、時間と労力と、材料まで節約できたの。それを見て、本当に恥ずかしかった。自分がどれほど傲慢だったか、そのせいでどんなに撮影を遅らせていたかわかったの。私は自分に問いかけたわ。「なぜ私はあれほど傲慢で、常に周りを従わせていたの? 何が根源なの?」

そしたら翌朝のデボーションで、こんな神の御言葉を読んだの。「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、傲慢で自惚れた性質が自分にあれば、神に反抗しないように言われても意味はなく、どうしてもそうせずにはいられず、自制することができません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」)。これを読んで、ひどい気分だったわ。自分の傲慢な性質はわかっていたけど、傲慢さが招く事態を全然わかっていなかった。神の御言葉の啓示と、自分の言動を反省することで、傲慢さが、悪事と神への反抗につながるとようやくわかったの。傲慢な本性によって、すっかり思い上がった私は、ちょっと能力があるからって、他人を見下していたのよ。私の物の見方は常に正しいし、誰も私とは比較にならないから、みんな私に従うべきだと思ってた。私が「左」と言えば、誰も右には行けないし、反論もすべきじゃないって。従わない人は誰でも叱りつけて、強情で、独断的で、人を支配したがる反キリストの道を歩んでいたの。神はこう言っています。「自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります」、この言葉で、本分における自己顕示欲を反省したわ。神の御心や真理の原則を探し求めることもせず、周りからの提案が、神からのお導きかもしれないなんて、考えもしなかった。自分と違う考えには耳も貸さなかった。神を敬い畏れる気持ちを持つこともなく、その傲慢さで人を見下して、心の中に神の居場所がなかった。信仰においては、真理と聖霊の働きに服従すべきだわ。兄弟姉妹の提案は、私自身の考えに合うかどうかは関係なく、聖霊の導きかもしれないのよね。それを受け入れて、神を畏れ従う気持ちで検討すべきなのよ。真理にそっていて、神の家の仕事に役立つ提案なら、従って実行すべきよね。聖霊の啓きと導きがもたらすものを拒むことは、聖霊の働きを妨げて、神に逆らう行為で、神の性質に背くことだわ。私は傲慢で横暴な態度で、本分を尽くした。周りを押さえつけ、申し分ないアイデアを埋もれさせ、教会の仕事を妨げたわ。担当を外されたのは、神の義なる性質によるものだった。どんなに兄弟姉妹に迷惑をかけて、教会の仕事に損失を与えたかと思うと、後悔と罪の意識を感じて、堕落した自分を憎んだと同時に、神への感謝でいっぱいになったの。だって、もし自分の傲慢さと頑固さを裁いて罰されなかったとしたら、自分自身を知ることなく、神にさからい続けていたでしょう。

後になって、また別の御言葉を読んだわ。「才能や天分に恵まれた人たちの考え、行動、気質というものは、多くの場合真理と食い違っていますが、その人たちは自分ではそれに気付いていません。彼らはこんな風に思っています。『どうだ、わたしはこんなに頭がいい。こんなに利口な選択をし、こんなに賢い決断をしている。あなたがたの誰もわたしにはかなわない』。こうした人たちは永遠に自己愛と自己賛美の状態に生きており、心を静めて神が自分に何を求めているのか、真理とは何か、真理原則とは何かを熟考することは難しいのです。そして真理と神の言葉に入ることも難しく、真理の実践の原則を把握することも、真理現実に入ることも困難なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「人が生きるために頼ってきたのはいったい何か」)。神の御言葉が示しているのは、もし人が人生で、己の才能や技能に頼れば、傲慢と自己満足に陥って、それが正しいと思って、真理の原則を追求しなくなるということね。私は、ちょっとスキルがあるからって、舞台装置も小道具も私抜きじゃできないと思ってたけど、プロとしての経験なしでも、立派に本分を尽くせる人もいた。私より上手に小道具を作る人すらいたわ。自分には洞察力も技術もアイデアもあると思っていたのに、実際は失敗ばかりだった。私の作ったものは役立たずで、やり直しも多く、時間と労力とお金を無駄にした。真理の原則を追求せず、自分の才能と技能に頼っていたから、聖霊の働きがなく、十分に本分を尽くせなかったのね。心が正しい場所にあれば、神の啓きと導きが与えられるものよ。神は、人間には想像もつかない知恵を与えてくれるの。私は気づいたの。自分が自慢していた才能や技能は無意味だって。それを利用しようとしたのは、傲慢で理不尽だった。そう思うと恥ずかしかったわ。そこで神に祈ったの。「もう傲慢な性質はこりごりです。どこまでも真理を追求して実践し、立派に本分を尽くします」。

その後、私は新しい信者に水を与える係となって、周りの皆と一緒に働く時は謙虚につとめたの。何かあった時は意識して神の御心を探し求め、もっと周りの意見を聞くようにしたわ。ある日、チームの兄弟がこう言ったの。「あなたが兄弟姉妹を教えて支えるやり方は、少し柔軟性に欠けますね。あまり効果的じゃありません。一人一人の短所に的を絞って水を与えるようにしたほうがいいですよ」。私はあまり納得しなかった。自分の経験を全て生かしていたのに、間違うなんてあり得るかしら? 彼に反論しようとして、また自分の傲慢さが頭をもたげたことに気づいたわ。私は神に黙とうした。そしたらこの御言葉を思い出したの。「他の人が反対意見を述べたときです。何を実践すれば自分勝手で向こう見ずになるのを防げますか。まずは謙虚な態度をとり、自分が正しいと信じていることを脇にのけ、みんなが交われるようにしなさい。たとえ自分が正しいと信じていても、それを主張し続けてはいけません。まず何より、それは一種の前進であり、真理を求めて自分を否定し、神の旨を満たす態度を示しています。いったんこの態度をもったなら、自分の意見に固執せず、それと同時に祈りなさい。あなたは正誤の区別ができないので、何をするのが最善で最もふさわしいかを、神が明らかにしてあなたに伝えられるようにしなさい。みんなが交わりに加われば聖霊があなたにすべての啓きをもたらします(神の交わり)。以前の私はあまりに傲慢で頑固で、兄弟姉妹を威圧して、神の家の仕事を妨げていた。他人をおさえつけて、神にさからったりせず、周りの意見を聞くべきだとわかった。まずはそれを認め、従い、神の意志を探し求める。それこそが神のお導きを受ける方法だもの。それで私は兄弟の意見を辛抱強く聞いて、確かに自分のやり方には改善の余地があると気づいたわ。彼の提案した方法は、もっと柔軟で順応性があった。実践してみたら、とても効果的だったわ。それ以降は、兄弟姉妹がアドバイスをくれた時には、逆らわず、受け入れて検討したわ。皆と話し合って、実践できる良い方法を探ったの。そういうふうに水を与えたことで、多くのものを得られたと、後で皆に言われたわ。私は心から安らぎを感じた。これは神のお導きだとわかったから、ただ神に感謝を捧げて称えたの。そして、傲慢な態度で本分を尽くすかわりに、真理の原則を実践することで、神の祝福も経験したわ。

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